喪失
レモリーが目を覚ました。
その事実を理解した瞬間に、安堵のような歓喜のような様々な感情が胸の内からこみ上げてきた。
「ぁ…」
彼女に話しかけようと思って口を開いたのだが、感情が昂ぶりすぎて声が出ない。
目元が潤んできたのか、視界が少しぼやけてきた。
俺はポカンと口を開けたままレモリーへ伸ばした腕を震わせるという、なんとも格好のつかない状態で固まってしまった。
そんな俺をよそに、レモリーは目をこすりながらゆっくりと体を起こす。
「うぅん…」
目が覚めて間もないからなのか、どこか眠たそうだ。
そして彼女は首を振ってキョロキョロと辺りを見回すと、真横にいた俺と目が合った。
「…おう。」
俺はなんとかして声を絞り出す。
本当はレモリーが起きたらどんな言葉をかけてやろうか事前にいくつも考えていたのだが、今の俺にはこれが精いっぱいだった。
そんな俺の言葉を聞いた彼女は、不思議なものを見るように首をかしげていた。
きっと寝ぼけて頭が回っていないのだろう。
なんせ長い間眠っていたのだから、脳が働き始めるまで時間がかかるのは仕方ないな。
「ふむ…どうやら成功したみたいだね。」
いつの間にか近くに寄って来ていたコーニーがそんなことを呟く。
相変わらず彼は好奇心に満ちた瞳で興味深そうにレモリーの事を観察していた。
「よかった…本当によかった…!」
そんな声が聞こえて振り向くと、俺のすぐ後ろにサラとリリスが立っていた。
サラは目を潤ませながら安堵の表情を浮かべてそんな言葉を口にし、リリスは口元を手で覆いながら涙を流している。
レモリーへの思い入れが強い彼女達は、今回の儀式の成功を素直に喜んでいた。
ふと、俺の頬に柔らかくてふわふわとしたものが触れる感触があった。
俺の隣へとやって来たフィンは、行儀よく座りながらレモリーの事を見つめていた。
その頭の上ではソフィアが笑顔を浮かべており、目尻には涙の跡が見える。
ベルはというと、皆から一歩離れた場所で腕を組みながら俺達の様子を見ていた。
彼もレモリーが目覚めたことに安堵したのか、今までよりも表情が柔らかくなり、眉間の皺が減って口元が若干緩んでいた。
俺はレモリーへと視線を戻す。
彼女は相変わらず不思議そうに首を傾けながら、俺の事を見つめていた。
…何かおかしい。
何一つ言葉を発することなく目を瞬かせる彼女に、俺は違和感を感じた。
「レモリー…」
仲間たちの姿を見て少しばかり落ち着いた俺は、目の前にいるデーモンの名を呼ぶ。
名前を呼ばれたレモリーからの返事はなく、傾けていた首を反対側にかしげるばかりだった。
まだ寝ぼけているのだろうか。
もう一度彼女の名前を呼んでみることにした。
「レモリー!」
しかし、レモリーからの反応はない。
おかしい。
長い眠りの後とはいえ、いくら何でも寝覚めが悪すぎる。
あのレモリーが俺の声にここまで反応しないなんてことがあるのだろうか?
そう思って彼女の顔をよく見たら、寝起きとは思えない程にその目はしっかりと開かれていて、意識ははっきりしていそうな顔をしていた。
「あの…」
不意にレモリーが口を開く。
その声はか細く、昔よりも弱々しかった。
「ええと…ここは…?」
俺の顔を見ながら彼女はそう続けた。
「あ…ああ。お前を起こす儀式のために使った広間だ。お前はあのフィリップとかいう騎士にやられて、意識がねえまま一年くらい眠ってたんだ。」
そうだ。
レモリーからしてみれば、あの時から急に目の前の景色が変わったのだ。
きっと困惑しているだけに違いない。
俺は違和感に気づかないふりをして、自分の心にそう言い聞かせた。
「はあ…そうですか…?」
俺の返答に対するレモリーの反応は、まるで言ってることを理解できていないかのように薄かった。
何かが噛み合っていない気がする。
そんな予感めいたものを無視して俺は話を続けた。
「あれからこのダンジョンもかなり変わったんだ。お前にも見せてえものが…」
「あの…」
レモリーが俺の話を遮って口を開く。
「どうした?」
「すみません…その…」
彼女は軽くうつむいて何やら言いづらそうにしている。
嫌な汗が流れ、じっとりとした不快感を背中に感じた。
特に理由なんてないが、なんとなくこれから出て来るであろう彼女の言葉を聞きたくないような気がする。
少しして顔を上げた彼女は、小さな声でポツリと呟いた。
「あなたは…?」
その瞬間、この場が水を打ったように静まり返った。
発言主のレモリーへと皆の注目が集まる。
あなたは…あなたは?
たった四文字の言葉の意味を理解するのに、俺は十数秒の時間を要した。
俺に向かって投げかけられた「あなたは?」という言葉。
その後ろには「誰?」という言葉が省略されていることに気づいた時、鈍器で頭をぶん殴られたような衝撃が襲ってきた。
頭の中が真っ白になる。
「………」
俺は彼女の問いに答えることができなかった。
仲間たちが俺に何か声をかけている気がするが、何も入ってこない。
「あの…大丈夫ですか?顔色が優れないようですけど…」
レモリーが心配そうに声をかけてきた。
だがそれは、身内にかけるようなそれではなく、他人に気を使うような距離感を感じた。
レモリーは恐らく、魔力と共に記憶を失っていた。
どの程度かはわからないのだが、この感じは少なくとも俺達に関する記憶をなくしてしまっているのだろう。
初めて出会った時の事も、俺に魔法を教えてくれた時の事も、せわしないダンジョンでの日常も、全て忘れてしまったのだ。
突如、強烈な頭痛とめまいと吐き気が襲ってくる。
徐に立ち上がった俺は、幽霊のようにふらふらとした足取りでその場を去り、気づけば部屋の外にいた。
ここに鏡でもあったのなら、指でつつけば死んでしまいそうなほどに憔悴した少年の姿を映し出すことだろう。
俺はこの現実を受け止めることができず、泣きわめくでも落ち込むでもなくただただその場に立ち尽くしていた。
どれくらいの時間そうしていたのだろう。
いつの間にか目の前に立っていたサラが、俺の後頭部を優しくなでながら抱きしめていた。
彼女は普段から鼻息を荒くしながら俺にじゃれたり抱き着いたりすることがあり、俺はその度に彼女の事を引きはがしていた。
けれども今回、サラから伝わってくる純粋な優しさを振りほどく気にはならなかった。
「マオ君…」
彼女の小さな呼びかけに、俺は唐突に現実へと引き戻される。
頭痛もめまいも吐き気も止まらないし、この胸の内に現れた喪失感はどうしようもない。
もう何もしたくないし、何もかもどうでもいい気分だった。
だが俺は、もう一度レモリーと向き合わなければならない。
それが何があっても彼女を起こすと決めた俺の務めでもあり、魔王としての務めでもある。
何も考えられぬ頭でそのことだけは理解していた俺は、サラに体を支えられながらふらつく足でレモリーの下へと向かって行った。
広間に入ると、コーニーがレモリーと話をしているところだった。
コーニーは部屋に入ってきた俺を見つけると、歩いてこちらへ寄ってきた。
「魔王様…残念なことに彼女はこのダンジョンのことは愚か、自分の名前すら思い出せないらしい。」
「そうか…」
どうやらコーニーはレモリーがどこまで記憶があるのかを確かめていたらしい。
そんな会話をしていたら、当のレモリーがこちらへと駆け寄ってきた。
そして笑顔を見せながら俺に話しかけてくる。
「あの、詳しい話はこちらの方から伺いました。あなたが私の事を助けてくださった魔王様ですか?本当にありがとうございました!これからよろしくお願いしますね!」
レモリーが見せたまぶしい程に無垢な満面の笑みは、彼女が本当に何もかも忘れてしまったという現実を改めて突き付けてくるようで、追い打ちをかけるように傷ついた俺の心をさらに抉ってきた。




