少年、母に立ち向かう
時間だ。
苦悩することにも疲れ果てた少年は、ゆっくりと顔を上げた。
彼の家では、定刻になると家族で集まり、食事をはじめるという暗黙の了解がある。
食器の配膳は、少年の担当だ。そうしなければならないという決まりはないが、父と男二人ぼんやりと眺めて待つのが嫌で、気付いたら自然とそうした運びになっていた。時間と都合さえ許せば、家事を手伝うこともそう珍しいことではない。
少年の表情は暗い。
どうしても悪い方向に考えが転ぶ。少なくとも階下で自分を待ち受けているものが、美しい未来であるとはとうてい思えなかった。
悲壮たる眼差しで、壁に立て掛けてある木刀を見やる。修学旅行先の土産物屋で買い求めた防犯グッズであるが、ついぞ手に取ることはなかった。
連想が不法侵入者におよび、このときはじめて家出少女(暫定)の食事に関して何も手を打っていないことに気が付く。まさか、宇宙人さん地球の食べ物は口に合いませんよね、という訳には行くまい。母は聡明な人だから、おそらく取り越し苦労に終わるだろうが、それでも一言断る程度のことはしておくべきだった。
不備を詫びておくべきだろうと振り返ってみれば、ベッドの枕元に打ち捨てられた漫画本が目に優しい。やつがいない。
全ては夢の中の出来事だったと割り切れれば、どんなに素敵なことだろう。
ふらりと席を立ち、ためしに布団をめくってみる。ここで、ついうっかり寝入ってしまった少女を発見したなら、寝顔は可愛いんだけどな、などと世迷い事を呟く新しい自分を発見できたのだろうか。それはないと断言できる。
確かに言えることは、どうやら自分の与り知らぬ間に事態は進行しているということであった。
「母さん、僕のエビフライを知りませんか」
食事時になってふらふらと姿を現したみっちゃんは、促されるままに席に着き、ひとしきりわたしの箸さばきを観察したあと、おかずの不在について言及した。
少年の母は上機嫌である。
「海に泳ぎに行っちゃいました」
「もしかして、あなたの夫も同行してませんでしたか」
「あなたのパパは、亀に連れられて竜宮城に」
みっちゃん父は、町内会で帰りが遅くなるらしい。
わたしは、味噌汁をすすりながら母と子の遣り取りを黙って見守る。
父親の帰宅が遅れると聞いて、みっちゃんは悩ましげに箸を置いた。
「父さんには、おれから話すよ」
いつの時代も、少年は父を乗り越えていくものだ。みっちゃんの声には、確固たる響きがあった。事情も知らない他人のわたしが口出しすべき問題ではないのだろう。
「まだ早いんじゃないかしら」
時期尚早である、とみっちゃん母。急がば回れという言葉もある。父は偉大だ、どうするみっちゃん。
「早ければ早い方がいいと思う」
母は賛同してくれると思っていたらしい、少年は意外そうである。なにぶん、半生を共に過ごした妻としての言葉だ。無視できるものではない。目に見えて勢いが衰えた、その間隙を母親は突く。
「時期を見て、わたしから話します。いいですね?」
「……いつまでも隠し通せるとは思えない。隠そうとも、思わない」
みっちゃん、戦闘モードに移行。事前の聞き込み調査によれば、今どき珍しい孝行息子ともっぱらの評判だが、ここで驚異の粘りを見せる。
「あら、言うわね」
聞き分けのない息子に、みっちゃん母が苛立ちを露にする。口調こそ穏やかだが、その目はまったくと言っていいほど笑っていない。そして、とうとう箸を置いた!
「みっちゃん?」
もはやどちらが正しいという話ではない、母と子の力関係を問う完全なる詰み手だ。
みっちゃんは? これに対し、みっちゃんはどう応じる? 彼の挙動に注目が集まる。
「マルマルさん、僕のベッドを使って頂いて結構ですので」
おまえには失望した。