聖夜、男の戦い
受験勉強が功を奏したようで、二学期の成績はまずまずの結果だった。
平均よりやや上といったところだ。
担任教師のコメント欄には『何事にも真剣に取り組む姿勢は素晴らしいのですが、協調性に富み、受験まであと一ヶ月です。規則正しい生活を心掛けましょう』とある。ところどころ日本語が破綻している気がするのだが、成績表をご覧になった母はたおやかに微笑むばかりで、この件に関してノーコメントを貫いた。
仕事帰りの父に呼び出されたのは、その次の日の晩の出来事だ。
「父さん?」
「おお、来たか。まあ座りなさい」
母を経由して渡されたのだろう成績表を固い表情で見詰めている背中に声を掛けると、父は僕を一瞥してから視線を再び手元に落とした。
そして直後にぎょっとして息子を振り返るという、完成度の高い二度見を披露してくれた。
「待て、おれの息子をどこへやった」
「誠に残念ながら、あなたの目の前にいます」
白をベースに疎らに配置された黒ぶちのボディ。つぶらな瞳が物悲しい。
まさかの牛さん再び。
変わり果てた息子の姿に、事情を察した父は、胸中に迫り来る無念を押し隠せないようだった。
「クリスマス、だからか」
「ええ。本当に申し訳ありませんが、一度でも脱いでしまったら……きっとおれの心は折れる」
そう、今日はクリスマスイブだ。
シルエットが似ていることを幸いにトナカイの魂を宿した僕は、今夜サンタクロース。
べつに、サンタさんを信じていると嘯いて寝室に引っ込んだ同居人は関係ない。なんとなく、着ぐるみの気分だったのだ。
テーブルを挟んで向かい側に正座する新種の生物に、父は慎重に言葉を選ぶ。
「大きく、なったな。本当に、大きくなった……」
「そうかな。そうかもしれない」
そう言って僕は、ずっしりとした頭部を上下させた。
少なくとも去年までの自分なら、こんなわけのわからない苦境に立たされることはなかっただろう。何もかもあいまいな世の中で、それはたしかな真実のように思えた。
わかったと、父が重々しく頷く。
「おまえがそこまで本気だというのなら、私は何も言わん。自分の信じた道を行け」
できれば引き止めてほしかったのだが、理解ある父親を持って僕は幸せ者です。
でも、と思う。
正しいことと父は言う。
しかし着ぐるみの中にいるとき、決まって僕は思うのだ。
人生に正解なんてない。だったら、僕らは何を目指して歩けばいいのだろう。
厚手の布に覆われて、本当に大切なことを見失っているのではないか。
それだけが恐ろしい。
「父さん、おれは間違ってるのかな」
「そうかもしれないし、そうではないのかもしれない」
父は、いつだって正解を教えてくれない。
ただ黙って前を歩く、そういう人だ。ときどき立ち止まって空を眺める、振り返りはしない。
不器用な生き方だとは思う。
僕は父の言葉を噛み締めて、のそりと立ち上がる。
「ありがとう。おれ、行くよ」
「ああ」
居間を出て階段に足を掛ける息子の背を、父はきっと見送りはしない。
けっきょく何のために呼び出されたのかさっぱりわからなかったが、何か大切なことを学んだ気がするので、これでいいのだ。
一段一段、階段を踏みしめて登る。
二階に辿り着いたときには、肩で息をする有り様だ。緊張しているのか、まるで自分の身体とは思えない重圧を感じる。
呼吸を整えて、両前足で慎重にドアノブをひねり、
「待っていたぞ、我がトナカイよ」
静かにドアを閉ざした。
きびすを返そうとする僕に、そうはさせじと少女の魔の手が迫る。
とっさに横っ飛びで回避した僕をあざ笑うかのように、彼女はゆっくりと部屋から姿を現した。
なぜ、サンタ服を着ている。
僕はつとめて低い声で尋ねた。
「なんのつもりだ」
「知れたことよ」
間髪入れずに応じたサンタマルマルが、じりじりと間合いを詰めてくる。
クリスマスにアルバイトが着ているようなミニスカートにブーツ姿だ。白い太ももが露になっていて、目の遣り場に困る。
彼女は言った。
「わたしのためにプレゼントを用意しているのはわかっている。大人しく寄越せばよし、さもなくば……」
サンタコスチュームを身にまとっている理由にはなっていないが、ひとつだけはっきりしたことがある。
「どうやら話し合っても無駄なようだな」
楽しみすぎて眠れなかったらしい。ならば強奪してしまえという訳だ。
つくづく思う。なんてやつだ。
長い夜の幕開けだった。