萠、帰還す
悔やんでも悔やみきれないが、振り返っているひまがあるなら明日に向かって歩こう。
何事も前向きに。少年のモットーだ。
朝一番、寝起きでぼんやりしているマルマルをクローゼットの前まで引っ張っていき、どてらを羽織らせる。
一昨年の今頃に母が自分にと買ってきてくれたものだが、一日中を家でごろごろしている彼女ならば、より完ぺきに着こなしてくれるだろうという確信があった。
すっかり着膨れしたマルマルは、夢の世界の住人たちとの別れを惜しんでいるようで、まぶたを重く閉ざしたまま、かくかくと首を上下させている。可愛い。
よしよしと頭を撫でる。
背中を丸めてふらふらとベッドに惹かれゆく少女を目的地まで誘導してやり、布団を掛けてあげる。
今朝は、ひときわ冷えるな……。少年はコートの襟を正して、もぞもぞと布団の中に潜行していく少女を静かに見守る。
彼女を見ていると、不思議と勇気がわいてくる。
人生をマラソンに例えるとしたなら、自分は最後尾ではないと安心させてくれる何かが、マルマルという少女にはあった。
(大丈夫なのか、この子)
同居をはじめた当初は食っちゃ寝している少女に憤りを覚えたものだが、本当に……本当にびっくりするほど何もしないので、最近は少し心配になってきた。
いくらお嬢さま育ちとはいえ、この認識は少年の中で自然と根付いたものだ、こうまで人は堕落できるものなのか。
憐れみの視線で布団の膨らみを見詰める少年であった。
「なあマキ、幸せって何だろう」
始業前の余暇である。幸福とは身近にあるものだという持論に疑問を感じた僕は、親愛なる友人に尋ねてみることにした。
すると彼は、僕の正気が疑わしい可能性を指摘してきた。
母国語も満足に理解できないらしい友人に、まず僕は正しい日本語の使い方をレクチャーしなければならなかった。
「貴様は本当に仕様のないやつだな。おれが正気でないとしたら、それはおまえのせいだよ。おまえがいらんことをするから、おれの評判が悪くなるんだ」
こいつが文化祭の実行委員などという役職に就かなければ、僕が身体を張ってフォローに奔走する必要はなかったし、ひいては秋津さんのお見舞いにも行けた筈だ。
なんのことだ、と問うてくるマキを、おまえには関係ない話だ、と突き放す。
(……瀬波さんと秋津さんには口止めしておかないと)
こんなばかのために校内着ぐるみマラソンを敢行したなど、いや、あれは母校への愛ゆえに走ったのだ。僕は思い直した。第一、悩んでいる友達を斬新な切り口から心配する友人など、持った覚えがない。
理不尽だと? 難癖をつけてくるマキに、僕は薄く笑んだ。
「マキ」
びくっと肩を震わせる親友を一瞥して、すっと目を細める。
名前を呼んだだけじゃないか。何をおびえてるんだ。
さて、どうしてくれようか……。
親友とのコミュニケーション、その具体的な手法について考えをめぐらせていると、教室のドアが勢いよく開け放たれる。
「ちっ」
興をそがれた僕は舌打ちして、ドアから入ってきた人影を睨む。
女子がびっくりするだろうが。静かに入ってこいと何度言ったら、
「っと、失礼。勢いあまった」
秋津さん。秋津さんじゃないですか。
クラスメイトの注目を浴びて、照れくさそうにはにかむ隣人との再会に、僕は思わず席を立った。
そして、その佇まいに掛けるべき言葉を見失った。
頭の後ろで跳ねる黒髪は常と同じなのに、いつだって僕らを励ましてくれる笑顔がマスクに隠されてしまっていた。
いつも元気な秋津さんがマスクを……。
「くっ……!」
僕は、これほどまでに自分を不甲斐なく思ったことはない。目頭が熱くなる。
着ぐるみが何だというのか。たしかに色々と致命的だったが、それだけだ。
結局、僕は自分が可愛かったのだ。
保身のために現状を打破しようとは考えなかった。
それでは、僕自身が軽蔑している唾棄すべき人間たちと同じ所業ではないか。
そんな僕にすら、秋津さんは優しい。きみは天使だ。
「みっちー、朝から絶好調だね」
彼女の気遣いに、僕は何と言って応えればいい? 慎重に言葉を選ぶ。
「秋津さん……。風邪は……もういいのか」
「おかげさまで」
「僕は、何も……何も出来なかった」
「おかげさまで」
秋津さんは繰り返した。気持ちだけで十分ということだろう。彼女らしい。
なんだこいつら、という目で僕らを見比べているマキを押しのけて、僕はふらふらと彼女に歩み寄る。
「熱は……」
おでこに手を当てようとすると、秋津さんは俊敏なステップを踏んで回避した。とても病み上がりとは思えない敏捷性だった。
「かなうー!」
ぴょんぴょんと教壇を跳ねて、相棒の瀬波さんに駆け寄る。
友人の元気な姿に、瀬波さんは安堵の笑みを漏らした。
「おはよう、メグちゃん」
麗しい友情だ。
「ところで級長、きみは驚くほど平熱だね」
「ええ、生まれてこの方、風邪なんざひいたこともありませんわ」
そうじゃないかと思ってたよ。
目と目で頷き合う僕らであった。