マルマル、覚醒のとき
マルマル社会復帰計画第一段を無事に完遂した少年。瀬波叶とその友人の秋津萠と店内で遭遇し写メられるというハプニングはあったものの、想定内の事態である、死力を振りしぼって鳳凰の舞を披露した牛さんに死角はない。
今日は、朝から志望校の学校説明会だ。
友人と待ち合わせて一緒に公立高校へ向かう。
結論から言うと、とくに見るべきものはなかった。しいて挙げるとするなら、校舎が綺麗だ。
友人の志望動機などはまさしくそれで、彼いわく勉強はどこでもできるが、汚い環境では嫌だとのことである。
その余裕とも取れる態度が気に入らなかった少年は、公衆の面前であることを配慮して「心が汚れていては意味がない」と一般論を述べるにとどめた。
疚しいところでもあるのか過剰反応する友人を軽く言葉責めしていると、それまで他人の振りをしていた叶に無表情でたしなめられた。
「第六中学の方ですよね?」
思い過ごしならいいのだが、自分の記憶が確かなら彼女とはクラスメイトだった気がする。
叶は、続けて言う。
「二人ともココ受けるんだ。そっか」
一日と置かない再会に一瞬どきりとした少年だったが、まさかバレる筈はない、この土壇場で進路に悩んでいる様子の叶に素知らぬ顔で挨拶する。
「瀬波さんも?」
いくらクラスメイトとはいえ、普段あまり話さない女子の進路希望を知る機会というのは、意外と少ない。
まったくない訳ではない。繰り返すが、皆無ではない。
余計なことを言い出そうとする友人をひと睨みで黙らせて、少年はにこやかに叶の返答を待つ。
叶の可憐な唇から吐息が漏れた。この季節、日中でも屋外は冷える。薄手のコート一枚では心許ない。
少年にマフラーを巻かれながら、彼女は胸中を吐露した。
「いま、どうしようか悩んでる」
この時期にか、と尋ねるマキ(親友)は、首元から吹き込む北風に武者震いが隠せない。
そのとき偶然通り掛かった委員長が、快く手袋を提供してくれたおかげで、叶の防寒対策はこの上ない充実を見せた。
「ちょっ、みっちーなにすんの。なんでおれ脱がされてんの。なんなのこれ、なんの集まりなの、瀬波を愛でる会?」
叶が、マキへと向ける視線は切ない。
「素敵なお友達ですね」
と、まあ、ありふれた日常を過ごして帰宅する。
説明会の日は直帰で良いと言われているため、いつもより早く家路についた。
父は、まだ会社で働いている時間帯だ。
居間では、母が編み物をしている。
僕は、周囲の人間から手先が器用すぎて気持ち悪いと言われる程度には裁縫ができる。何か手伝えることはあるか、と尋ねると、母は穏やかに微笑んで拒絶した。
「みっちゃんは、極端なところがあるから」
そうだろうか。そうかもしれない。さして勉強が得意でもなければ、運動ができる方でもない。
家庭科あたりは良い成績が取れそうなものだが、授業では手を抜いているため、平々凡々たるものだ。
クラスメイトに家庭の味を振る舞うのも悪くはないが、それだけの理由で彼らの学習の機会を奪うというのも気が引ける。
単に、からかわれるのが嫌というのもある。
これで、実は超能力者なんだけど政府に追われているので普段は隠して生活してます、というのなら格好もつくのだろうが。あいにくと超自然的なパワーとやらを発揮できた試しはない。これでも色々と励んではみたのだけれど。
今日あたり何の前触れなく覚醒できないものかと思案しながら、二階の自室に上がる。
かつて僕に安らぎを与えてくれたベッドの上で惰眠を貪っている金髪は、まるで僕自身に秘められた未知のエネルギーを象徴しているかのようだった。
この自称美少女、いや、女性の容姿に関して揶揄するような真似は慎むべきだ、反省しよう。美しくあろうとする人は、その万人が美しいのだから。
麗しの同居人は、布団の中で身体を丸めて、健やかな寝息を立てている。
お姫さま、というのは言い過ぎにしても、お嬢さま育ちではあるのかもしれない。寝相は良いし、動作ひとつ取っても洗練されている。
ちなみに現在、午後の二時。
寝顔をまじまじ眺めるのも失礼かと思い、極力静かに着替えを済ませる。
しかし眠りが浅かったのか、衣擦れの音で目を覚ましてしまったらしい。
「んあ」
第一声が、んあ。
のろのろと身を起こし、ぼうっと虚空を眺めている。お目覚めですか、おはようございます。
母が買ってきた、若葉色のナイトウェアが可愛らしい。
そして寝間着姿を維持している時点で、ついうっかりうたた寝してしまったという好意的な解釈は無念にもこの世を去った。
齢十五にして二度寝の至福を知り尽くしている僕は、あえて声を掛けない。
「ん」
と第二声。
ほつれた金髪が華奢な肩を滑り、はらりと舞う。それは絹糸のような滑らかさで、窓から差し込む日の光を浴びてきらきらと輝いたんだろうね、きっと。
べつだん観察日記をつけている訳でもない僕は、参考書とノート、筆記用具一式たちとのきずなを深めるべく、これから居間で愛を語り合うのだ。
しばしの間、苦楽をともにするであろうドリームメンバーの選出を終えて、部屋を出ようとする。
「み、みっちゃん」
お声が掛かった。
どうやら僕はサイレントキルを生業とする暗殺者には向いていないようで、ほっとひと安心だ。
そのことに気付かせてくれた少女を振り返ってみると、彼女は人差し指を突き出した姿勢で、されど枕と布団は手離し難いらしい、指先が小刻みに震えている。
僕も心得たもので、みなまで言うなとひとつ頷き、人差し指を伸ばす。
すでにドアへ向かって歩き出していたので、彼我の隔たりは悲劇的なまでに大きい。
僕が自身の柔軟性を限界まで信じて片手を突き出すと、彼女も上半身を前のめりに振って応えようとする。
そしてやがて、幾多の障害を乗り越えて、二人の指先が軽く触れ合った。これを奇跡と言わず何と言おう。
それを見届けてから、マルマルはつぼみが花開くように微笑み、そして力尽きた。
ぱたりと倒れて、再び夢の世界へと旅立つ。
無益なひとときを過ごしてしまった。
ため息もそこそこに、僕は居間に降りて受験勉強をはじめるのであった。