マルマル、智謀を尽くす
大抵いつも教室に着くと、人は疎らで閑散としていることが多い。
(今日は一番乗りかもしれないな)
そう思いつつも、一応「おはよう」と挨拶をしながら教室に入る。
「おはよう」
どうやら無駄にはならなかったようである。
少年が通っている中学校では生徒に対して、廊下では走らないことと欠かさず挨拶することを強く推奨している。小学生じゃあるまいし、と常日頃から思っていたのだが、そう馬鹿にしたものではないらしい。
母校への認識を改めながら、少年はクラスメイトに挨拶を返した。
「おはよう、瀬波さん。早いね。いつもこの時間に?」
教室に、他に人影は見当たらない。惜しくも二等賞のようだ。
机に鞄を置きながら尋ねる少年に、クラスメイトの少女は「まあだいたい」と答えた。
言葉が足りないと思ったのか、付け加えて言う。
「黒板、汚れてると気になるから」
せっせと黒板を磨いている几帳面な少女に、少年はいたく感心した。さすがは副委員長だ。ちなみに、彼女が補佐を務める学級委員長の姿は見えない。色々な意味で残念だ。
内心で級長の格付けをひとつばかり落として、使っていない方の黒板消しをクリーナーに掛ける。
ごく当たり前のように手伝いをはじめた同級生に、瀬波叶は切なげな眼差しを向ける。
「みっちーは、本当にいい性格してるよね」
「待って? それはどういう意味で?」
べつに感謝されたくてしている訳ではないが、だからといって不当な評価を受けるいわれはない筈だ。
少年のささやかな反論を、叶は鮮やかにスルーした。
「わたしのクラスは、ときどき他のクラスの子たちからホストクラブみたいと言われます。いったい何が原因なのでしょうか……」
「よし、チョークの長さオッケー」
チョークの点検を済ませた少年は、自分の席に戻って鞄の中身を机へと移す作業に従事する。
含み笑いを漏らしつつ、叶もそれに習う。
彼女の席は、少年の斜め前だ。
着席した拍子にさらりと揺れた髪が、生来の黒色を保っていることに、少年は安らぎにも似た感覚を覚えた。
鞄の中で振動しはじめた携帯電話は、それに対する抗議なのだろうか。そうでなければいいのに、と少年は強く願った。
「もしもし?」
『みっちゃん、蛇使い座はノーカウントでいいと思わんか?』
「人違いです」
間違い電話だったらしい。即座に通話を切った少年に、叶が身をよじって言う。
「みっちー、ケータイは校内持ち込み禁止だよ?」
「見逃してくれ。授業中は電源を切るよ」
条件付きの黙認を願い出る少年に、叶は意外な、という顔をする。
彼は校則にうるさいという訳ではないが、自ら決まり事を破ることは滅多にしない。
しかし実は叶が知らないだけで、少年の携帯電話持ち込みは学校側の許しを得ている。
放課後、帰宅途中に家の買い物でスーパーに立ち寄ることが多い少年は、自ら料理の腕を振るうこともあり、母親に確認を取らなければならないことがしばしばある。
ただし、校内での使用は厳禁、管理は自己責任だ。
まあ実際のところ、無許可で携帯電話を持ってくる生徒など山ほどいるのだが。
わざわざ許可を申し出ているあたり、律儀な少年であった。
一方その頃、わたしは奥方をまじえて作戦会議中である!
居間のテーブルに市内地図を広げ、目的地を赤丸で囲う。
「目標まで徒歩二十分か」
さすがに授業中は身動きが取れまい。やろうと思えば、牽制の合間を縫って乱入することもできる。
だが、お世話になっている奥方の手前、それは最終手段に取っておきたい。
そこまではやらないだろうとみっちゃんは高をくくっているようだが、わたしはやる。いざとなったら、やる。目標のためなら手段もいとわない、それがわたしのチャーミングポイントだ。
万が一にもありえないことだが、仮に(仮にね)みっちゃんの知略がわたしを上回ったとしたら、そのときは互いにとって嬉しくない結末が待ち受けていることだろう。
まあ何事にもルールは必要だ。あくまでも最後の手段である。
(決戦は昼休みだな)
授業から解放されるひとときであり、また最高のロケーションでもある。当然、みっちゃんは最大に警戒していることだろう。
「出し抜いてみせる。奥方、如何か?」
水を差し向けると、彼女は上品に微笑んだ。
「あの子、照れ屋だから」
「うむ」
早くも作戦会議は暗礁に乗り上げたようである。
ご主人は働きに出てしまったし、ここが踏ん張りどころだ。