笑わないでくれ
いつからだろうか
…「でさぁ,〇〇が~」
…「は?まじ?やばいなそれ!くくっ」
なぜだろうか
……「先週のあれ,みた??」
……「みたみた,意外過ぎて笑う~,あははっ」
頭がガンガンと鑿で削り取られているような鈍痛が響く
………「そういえば,今日の予定って××があったよね?」
………「××っていえば,最近△△してるらしいね」
………「ほんとに??イメージと違いすぎて微笑ましいね,ふふっ」
笑い声が耳朶を打っては離れない
いつまでも残り続けて澱のように沈んでいく。
…………「あはは。あ,そういえば@@くん!」
…………「@@くん。**さんが呼んでるよ」
ああ,いつまで続くんだろう
固有名詞が聞き取れない
@@?**?
…ああ,人の名前か
……………「ねぇってば!」
自らの肩に刺激を感じる
定まっていなかった焦点が合う
今の今まで焦点があっていなかったことに気づく
目元にかかり切り揃えられた前髪から覗く吊り上がった眼は,どことなくキツい性格を想起させる
益体もない事に思考を割いていると再度,女性が口を開く
「**さんが呼んでる。」
ふいに,その場の笑い声が凪ぐ
ああ,止まってもこの反響音は残り続けるのか。
「あぁ,ごめん。寝不足でボーっとしてた。」
**さん,当の本人は心配そうに此方へと視線を投げる
「忘れて。用事は何?」
「大丈夫?あっ,それで用事はね …………」
再び重なり合って掛け合わさる笑い声が始まる
ああ,いつからどうしてだろう
人の笑い声が不快で仕方なくなったのは。
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思い返しても悲劇も喜劇もない人生だった。
中流家庭に生まれ,障害も不幸もなく成人後も不自由ない暮らしをしている。
他と比べるまでもなく安定した生活だ。一切合切の文句は聞き入れられないだろう。
だから独白だ。
ふいに零した独白ならば許して呉れよう。
メタ認知が可能になったころには人の笑声は不快で仕方なかった。
理由はわからなかった,誰かが笑ったり楽しそうにしていると胸の奥が閊えるように苦しくなる。
当初は皆そうだと思っていたが,まったくそんなことはなかった。
この感情は極めて異常なのだ。
悟った時には遅かった。
周りがいい雰囲気になると決まって不機嫌になるものなんて,金を積まれても厭な人はいる。
むろん金銭が介在する関係は私生活では持ち合わせて居なかったため,友人なんてできるはずもない。
なぜ。
自分だけ。
一時は自惚れもした。特別なのだと。周囲がはしゃいでも冷静なのは自分だけなのだと。
違った。
皆が真面目にやることすら斜に捉える,社会不適合者なだけだった。
何をするにも気分が落ち込む日々が明けることはない。
また,ある時気づいた。自分も合わせて笑えばいいんだ。
それからは,どんなに厭でも周囲に合わせて笑った。
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両親は不和だった。
どうして結婚したのか皆目分からない二人だった。
生活習慣から趣味趣向まで正反対。それでいてまるで互いを尊重しない。
互いのいない場で子供たちに相手を扱き下ろし,讒言する。そんな日常が絶えない家庭だった。
子供の前では繕っていたのは酷く滑稽だった。
無論,つかの平静は瞬きの間に綻び,誰の前でも堂々と貶しあい始めたときには何の感情もわかなかった。
両者を見て幾度,色恋には触れないと意思を固くしたかわからない。
どちらの言い分も正しく,まさしく方向性の違いなだけだった。
同調を求めてくるたびに,何かが無くなっていくような喪失感がした。
どちらにも同調した。両方の理解者であるようにふるまった。まさしく,自らを偽るところの集大成であり,浅ましくもそれが悟られていないと思っていた時分もあった。
頭は悪くない二人であった。子供がどちらにも同調しているのは互いに承知の上だった。
二枚舌が悟られていることを知っても,何も変わらなかった。
否,変えられなかった。
二人は毎度,子を巻き込んで口げんかを発展させた。
そのたびに5つ離れた下と,神経が胃を擂り潰す時間を過ごした。
下には仕送りを約し,逃げるように高校卒業とともに実家を離れた。
そこからは,事務的な連絡以外はしない。
男の方は恐らく他に女を作っている気がした。
どうでもよかった。
徴候は何度もあったが無視した。
そのまま,連絡を絶った。
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質問に対する返事は絶対に肯定だ。
自分の意思なんて表明する必要はない。
かの哲学者アリストテレスは人間は辺てポリス的動物だと評した。
私見からだが,誠に正鵠を得ている。
人間は他人とかかわらなければ,基本的に何もできないのだ。
かくして,自分をだまし続けていたら何が本当なのか分からなくなった。
人にも自分に偽ってばかりであったためだろう。
進路を決めるときも,人生の決断をするときも,すべて周りからの視線で決めた。
振り返ると,何もなかった。
喜びも,後悔もまるごと抜け落ちていた。
ただ,ずっと心中に燻りつづけていた他人の幸福に対する拒絶だけが残っていた。
二度も自覚しては自制は効かなかった。
笑い声を聞くだけでせり上がる吐き気。
笑顔を見ると立っていられないほどの眩暈。
想像するだけで居てもいられない。
何もしなくても幸福そうな場にいるだけで,苦しくて涙が零れそうになる。
疲れてしまったのだろうか。
孜々としている人と較べたら何ら行動していない自分が。
卑しくも,幸せになれないならばと同情されるほどの不幸を望む自分が。
人の幸福に後ろ暗い感情しか抱けない自分が。
苦しい
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意識が浮上する
上機嫌に上目で窺うような視線を投げてくる女性と目があう。僅かに潤んだ瞳は何を映しているのだろう。
………………「それでね,よければなんだけど。私のタスクを手助けしてくれる?」
ああ,まだか。
まだ,聞こえる。意識を削り,神経を切れない包丁の切っ先で玩ばれているような声が。
頼むよ。これまで通り人と必要上には関わらず,迷惑もかけない。
哀願する。だから。だから,
笑わないでくれ。