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第9章

「ギルバートよ、アレクシス・ピアーズの本は読んだか?」


 トミーとディランは、暫くの間このネタで随分しつこくギルバートのことを苦しめたようである。ちなみにアレクシス・ピアーズというのはセス・グラントの作家としてのペンネームである。


 秘密情報庁を去る者は、今までのミッション等で見聞きしたことを今後も決して漏洩しないことを当然ながら確約させられる。また、そうした情報漏洩があった場合には禁固△年以上の刑を受ける場合がある……といった書類にサインしなければならない。他に、USISに関する本などを執筆して出版する際には、必ず秘密情報庁の検閲を受けなければならないといった規則があるのだった。


 こののち、退職したエージェントのひとりがギルバート・コナーをモデルにして007ばりの冒険活劇を小説にしたという話はUSIS中に質の悪いインターネットウィルスのように拡散した。その小説を読んだギルバート本人は「これ、本当に俺がモデルか?」と首を捻りたくなったものだが、ディランとトミー、それにルークまでもが「結構特徴捉えてますよ」と感想を洩らす始末だった。


「わたしも、小説のほう読みましたけど、これ書いた人、結構観察眼が鋭いなって思ったり。容貌の描写とかもそうだし、ストーリーのほうはオリジナルでも、こういう状況に置かれたらギルバートならこうするんじゃないかなとか、そういう部分でほんと、あなたのことをよく見てたんだなって感じました」


 トミーと違って、ギルバートは彼と直接ケースオフィサーとして関係を持ったことはない。だがそれでも、今回半年ほどの間チームを組む間に――(彼をエージェントにして小説を書いたら面白いかもしれない)というインスピレーションをセスは得ていたのであろう。


「今度、セスの小説が映画化されるんだろ?あいつ、誰だっけ……あの俳優……」


「コリン・ブラッドリーでしょう?あの、超イケメンの。あ、もちろんわたしはギルバートのほうが彼より百倍も格好いいと思ってるけどっ」


 ――今、ギルバートは恋人のアメリアと一緒に日本食の店にやって来ていた。個室のお座敷のほうを前もって予約してあったのだが、そこからは日本庭園の美しい景色が眺められ、ふたりは普段の疲れを束の間忘れ、穏やかな気持ちで日本食に舌鼓を打っていた。


「あいつなあ。実際のところ、俺と似ても似つかない顔をしてると思うんだが、セスの話によるとあれがまだデビュー作だから、作者として強いことは言えなかったんだと。ほら、あの主人公じゃ自分のイメージと合わないから他の俳優にしてくれとか、そんなことをさ」


 なんだかんだ言って、ギルバートは結局のところセスの書いた小説を気に入っているらしいとアメリアは知っている。この間も枕話に「このあたりはちょっとリアリティがない気もするが、他は細かい描写に至るまで完璧だ」などと、ナイトテーブルから本を取り出してまで解説してくれた。


「そうだったんですか。でも、あの作者さん格好いいから、ファンの方はみんな彼=主人公みたいに思ってるんじゃないかしら。女性ファンの方は特に。この間、グーグルでファンサイトのほうチェックしてみたんですけど、コリン・ブラッドリーはイメージじゃないみたいな意見のほうが多いみたい」


「まあ、そうだろうな」


 前菜に茶碗蒸し、次に貝のお吸い物、お寿司……とふたりは箸を進めていった。実をいうと日本人のシェフが経営している店ではないため、箸の他にフォークやスプーンも一緒に置いてあったりと、そんなに堅苦しい店ではない。


 お寿司を食べ終わると次にしゃぶしゃぶが出てくる。ギルバートとアメリアは着物を着た従業員にしゃぶしゃぶの美味しい食べ方についてレクチャーしてもらいつつ、最高級の霜降り和牛を完食した。そして次に筑前煮、いちご大福、最後に抹茶で日本食のフルコースが終わる。


 実をいうとしゃぶしゃぶが終わったあたりでちょうど、庭のほうでは人気のサムライショーがはじまっており、一人のサムライに忍者が次々倒されていき――最後はくの一の女性にそのサムライが討ち取られるところでショーは終わっていた。ギルバートもアメリアも縁側に出、抹茶の椀を手にしたままショーを観賞し、最後にはお互い、手が痛くなるほど拍手していたものだ。


 ふたりはこんな形でデートを重ね、お互いの関係のほうは概ね良好だった。ギルバートは彼個人の特殊な理由から「結婚」という言葉を口にすることをためらっていたが、それでもつきあいはじめて三か月が過ぎる頃にはそれも男として不誠実ではないかと感じるようになり……思いきって、「君との結婚ということを考えてる、アメリア」と口に出して言ってみた。「ただ、まだ離婚して二年くらいだし、実は前回の離婚をいまだに引きずってるんだ。もちろん、君は素晴らしい最高の女性だよ。前の妻は気が強かったから、そういう部分でうまくいかなかったと思ってるし、その点君は全然違う。ただ、もう少し時間が欲しいんだ」と……。


 ギルバートが自分の素直な気持ちを話すとアメリアは喜び、「わたしとのこと、そんなに真剣に考えてくださってるなんて、思ってもみなかった。それだけでも十分よ」と涙ぐんでさえいた。アメリアとしての考え方はこうだった。秘密情報庁で働いている人間は誰もが忙しい。つまり、自分以外の女性とデートしている時間などまずほとんど取れないと考えていい。今の自分の恋人としてのポジションさえこれからもキープできるなら……時間はかかるかもしれないが、ギルバートは誠実で優しい男だ。いずれ自分との関係を前に進めることを実現してくれるだろうと、そう期待して気長に待つことにしたのである。



   *   *   *   *   *   *   *


 ジム・クロウの不審死があったあと、セスが秘密情報庁を辞めたこともあり、<悪のエリート対策本部>では一時的に士気が下がっていた。そしてその後、<アストレイシア墓地>で彼らを襲った軍用ヘリコプター、アストラホークⅡ――その製造会社であるブラックバイパー社のことを調べるうち、少しばかり興味深いことがわかってきた。


 実をいうとユトレイシア国防総省と軍複合企業ミリタリー・コングロマリットとの癒着は深く、国の政治家や官僚はそこから得られる莫大な利益のために結託しているとの黒い噂は昔からあった。また、この組織的な国家的犯罪を暴こうとしたジャーナリストが不審死を遂げたことも一度や二度ではない。だが、国防総省と特に深い繋がりがある言われる五つの企業――「ブラックバイパー社」、「カンバーバッチ社」、「べレスフォード社」、「エドマンド社」「ブラットナー社」――は、世論の攻撃を避けるために裏でかなり汚いことにまで手を染めており、隠蔽工作をはかることに余念がなかったのである。


 こうした事情から、ユトランド共和国の善良な市民たちは軍需産業に自分たちの血税がどのような形で吸いこまれ、軍複合企業の幹部たちの財布を潤しているのかを知らなかったが、このあたりのことについてはギルバートがレベル7の機密情報を閲覧して驚くべき事実を掴んでいた。


 すなわち、ユトレイシア国防総省と軍複合企業の黒い繋がりに実はUSISまでものが手を貸している事実を、ということだった。とはいえ、このことは機密ファイルを見る以前からギルバートはなんとなくそうと感じていたことだったし、その様々な黒い噂の隠蔽工作のために無辜の市民までもが数多く死亡し、さらにはそのことにUSISまでもが手を貸していたと知っても――それほど大きな衝撃は受けなかったかもしれない。


 諜報活動、という言葉を聞いて、多くの人々はどんなことを連想するだろうか。おそらくは007といった映画の英雄諜報員のことを思い浮かべる人が多いに違いない。だが、ギルバートはこの仕事をはじめて割合すぐに、「諜報活動というのは汚いものだ」ということに気づいていた。つまり、USISで働いている情報分析官なりケースオフィサーなりの多くが、いつでも<善>や<正義>といったことに疑問を覚えながら仕事をしているのだ。また、こうした懐疑の念や葛藤に耐えられなくなって、優秀なケースオフィサーやアナリストでありながら辞めていくというケースも多い。


 そもそも、諜報活動というものが国で何故生まれたかといえば、それは一重に<戦争を避けるため>と言っていいだろう。ギルバートはこのことを、さらに一歩進めて「蟻が象を投げ飛ばすため」だと表現してみたいと思う。たとえば今、アメリカと中国が国の総力を挙げて唯一核だけは使用しないという条件下で戦争をした場合、どちらが勝つかは未知数ながら、それでも多くの人が「最終的にはアメリカ」と答えるのではないだろうか。また、これがもしアメリカとブラジルが戦争したとしたらどちらが勝つかと訊ねた場合、まずもってほとんどの人々が「アメリカ」と即答するに違いない。


 だが、実をいうと「やり方によってはわからない」とギルバートは考えている。つまりは、それが諜報の力ということだった。ブラジルのトップに非常に聡明な大統領や閣僚がおり、何年も何年もかけて諜報の力を用い、南米から北米へと緻密な網を張り巡らせていくなら――ブラジルがアメリカと対等な国となるどころか、経済的にも優位な立ち位置に着くというのは決して不可能なことではない。


 このことはあくまで仮のたとえ話であるため、現実にはサッカー以外の闘争でブラジルがアメリカに勝つというのは想像が難しいに違いない。だが、イスラエルの諜報特務庁モサドが、世界で一番の諜報力があると評されるように、諜報の力を尽くさねば自国が戦争によって滅びるというくらいの危機感がある時、諜報の力が最も発達するというのは本当のことだ。そして、諜報活動によって得た情報が相手に致命的なダメージを与える種類のものであるなら、蟻が象を倒す、小国がとても勝ち目のない大国に勝利するということは、実際に起こりうる。


 この点、アメリカのような大国は軍事力が世界第一位なので、諜報の力に頼る以前に敵を軍事力によりねじ伏せてしまうといった嫌いがあるため、諜報の世界では実はアメリカのCIAは世界第一位の情報収集能力があるとは見なされていない。そしてこのことはユトランド共和国のUSISにも同様のことが言えた。さらに、国の国防総省と軍複合企業との癒着という点においても実は共通の問題があり……この時ギルバートは機密ファイルに目を通しながら、重い溜息を着いていた。


『例の、<アストレイシア墓地>で我々を襲ってきたヘリコプターですが、その後、ブラックバイパー社の社員登録証とAIによって作成した顔とが一致する者が出てきました。もちろん、このサイラス・モントゴメリーという男が我々を……いえ、正確にはジム・クロウを殺そうとした男と同一人物とは断定できません。何分、AIで顔の骨格などを元にしてヒットしたとはいえ、相手の顔はサングラス、それにヘルメットで覆われていましたからね。ですが、我々には今もう<悪のエリート>、<悪魔のエリート>やその首領らしき<ジェネラル>と呼ばれる人物と繋がりそうな情報が何もないのです』


 リグビー長官は、こんなに短期間でここまでの成果をギルバート以下彼の少数精鋭のユニットが成し遂げたことを、とても高く評価していた。「流石はヒュー・コナー大将の息子だな」といったようにも。


『この件に関してはギルバート、君にすべてを一任するよ。君の好きなように、いいと思う通りにしたまえ。予算についても気にする必要はない。とはいえ、ブラックバイパー社か……』


 ここまでの会話で、ギルバートが一体何を言いたいのか、リグビー長官にもよくわかっていたらしい。


『ギルバート、君の言いたいのはこういうことだろう。ブラックバイパー社……いや、ブラックバイパー社だけではない。他に、カンバーバッチ社、べレスフォード社、エドマンド社、ブラットナー社にも我々は諜報員を多数潜りこませている。というのも、官僚との癒着によってこれらの社の幹部たちは実に私服を肥やしておるようだからな。その中でこれらの者が政財界の誰と特に親しいのか、どのくらいの金のやりとりがあるかなど、こちらのほうでもある程度掴んでおかねばならん。いつか、こいつらの上げる声のほうが大きくて、政治のほうが間違った方向に進むといったことがないためにもな』


『では、ブラックバイパー社に新たに我々のエージェントを送りこむか、あるいはすでに潜入しているエージェントと連絡を取ることをお許しいただけますか?』


 リグビー長官がギルバート自身が思っていた以上に<まともな感覚>の持ち主であって良かったと、彼は思わず嬉しくなる。


『だが、その点なんだがな……』


 リグビー長官は長官室のどっしりとしたマホガニーの高級机の前で、重い溜息を着いた。彼は今五十七歳で、最低あと三年は今の長官の職にありたいと思っていた。また、自分が何かのことでUSISの長官の任を解かれた場合、<悪のエリート対策本部>も解散せざるをえないということになる。唯一、リグビーのほうでも政治力を働かせ、次のUSIS長官に自分と同じ志の者を就かせでもしない限りは。


『デイヴィッド・ジョーンズの例を見てもわかるとおり、金の力というものは容易く善人を裏切り者に変えてしまう……ギルバート、君もこの世界にいて長いからわかるだろう?ブラックバイパー社に潜入させている我々の諜報員が必ずしも今も<シロ>であるとは限らん。ブラックバイパー社からUSISよりも高い給料をもらい、実はこちらに偽の情報を流しているという可能性すらあるんだ。つまり、うちと向こうとのダブルスパイがいるという可能性がある。もちろん、優秀な君なら、その中で誰が黒にも灰色にも染まっていないか選別してコンタクトを取ることが出来るだろう。その点を重々心によく留めておいてくれ。その条件下でなら、私もこの作戦についてもはや余計な口出しはすまい』


『それとリグビー長官、もうひとつ……』


 ローレンス・リグビーが言及しなかったもうひとつの脅威について、ギルバートはあえて口にした。


『<ジェネラル>というのが何者なのか、果たして彼が本当に実在しているのか、その顔写真すら我々はまだ手に入れてはいません。ですが、ただひとつのことだけは間違いなく言えると思うのです。ジム・クロウがこちらの手に落ちそうだとわかるなり、即座に彼を始末するために動いたり、向こうはUSIS内にすら容易く侵入して目的を成し遂げました。そう考えた場合……今度の作戦はなおのこと、命懸けのものとなるような予感がするんです。この<ジェネラル狩り>という作戦を押し進めていった場合、もしかしたら今度はこちらに死者が出るやもしれません。そして、こうした脅威をないものとして見過ごしてしまったほうが――知らなかった、目に見えなかったという振りをしたほうが、もしかしたら長官の御身にとってよろしくはないでしょうか?』


 この時、ギルバートはリグビーの緑色の瞳を、じっと見つめてそう聞いた。ギルバート自身、今度こそ部下を失う痛手を負うかもしれず、それは彼にとって自分自身の身が危険にさらされるよりも、よほどつらいことだった。つまり、そもそも最初からこの件についてどのくらいの<覚悟>がローレンス・リグビーにはあるのかを知りたかったのである。


 一方、ギルバートから少年のように純粋な眼差しを向けられたリグビーは、思わず口の端に微笑みが浮かぶだけでなく……実際に声に出して笑っていた。


『なるほどな。確かに君は、<彼>が気に入るだけのことはある……いや、ギルバート。君は何も心配する必要はない。私は自分が危地に陥りそうだからというので、突然手の平を返したように君たちのユニットを解散させたりはしない。つまり、この件を君に命じた時から、私は自分の首がいつ飛んでもおかしくないくらいの覚悟があったのだよ。作戦を指揮するのはもちろんギルバート、君だ。だが、さらにその上の責任者として、私は自分がUSISの長官を解かれるか、それだけでなくある日突然暗殺される可能性もあるという覚悟さえ持っているくらいだからな』


『そうでしたか……ならば、わたしのほうでも同様の覚悟をもって事に当たらせていただきたいと思います』


 ――ギルバートはこの時、リグビー長官が洩らした<彼>が誰なのかということは特に問わなかった。USISの上層部の誰かが今回の任にはギルバート・コナーが適任であろうと推したのだろうといったようにしか思っていなかったからである。


 こうした経緯によって、ギルバートはまずブラックバイパー社にひとり、またひとりと潜入者を送りこんだ。ひとり目はヘレナ・ロバーツ。これはもちろん偽名であり、会社に提出する書類に書き込まれた経歴等も詐称されたものである(一応、ある程度は調べられてもいいように安全策のほうは取ってある)。二十七歳の女性で、USISでエージェントになってから五年のキャリアがあった。そしてふたり目がジェイコブ・ゴードン。三十二歳の男性で、エージェントとして七年のキャリアがある。ふたりには、今回のミッションがもし成功すれば、上級オフィサーに昇格できると約束してあった。


 作戦計画が練られ、エージェントの選定と訓練がはじまったのは、ジム・クロウの死んだ半月後のことだった。そして、ふたりには正攻法的にブラックバイパー社の面接を受けてもらい、正式な手続きを踏んで入社してもらった。他に、ヘレナ(本名:カレン・コートナー)とジェイコブ(本名:ロドニー・オーウェン)には、すでに先に潜入している<クロ>、<グレイ>、<シロ>といったように色分けしたUSISのエージェントのことも教えてあった。もちろん、こちらの身分については基本的に明かさず、協力が必要な時にはなるべく<シロ>と思われる職員とコンタクトを取るようにと伝えてある。


 事は長期戦なので、USIS本庁に勤めるギルバート以下、<悪のエリート対策本部>は暇になったかもしれない。もちろん、ヘレナとジェイからは定期的に連絡が入りはするものの、事務局に務めているヘレナの仕事で知ることのできる情報は、基本的にすでに先に入りこんでいるエージェントが調査済みだった。何分、ユトランド共和国内においては、軍需産業に関わる企業は恐ろしいほどに税金を優遇されている。戦闘機やトマホークミサイルなどを製造し、その売上金が30兆ユト・ドルを越えていても――ブラックバイパー社が去年支払った税金はたったの三百万ユト・ドルである。つまり、軍複合企業はブラックパイバー社だけでなく、カンバーバッチ社でもべレスフォード社でも、エドマンド社でも考えられないほど税金面で優遇されているため、脱税といった<不正>をする必要はないのだ。


 ゆえに、ヘレナも表面で任される仕事をそつなくこなしつつ、帳簿のほうも色々調べてみたが、そうした点でブラックバイパー社はまったく<クリーン>なものだったといえる。


『まあもしブラックバイパー社を提訴することが出来るとしたら、政治家に対する不正献金とか、そのあたりの情報を掴むことでしょうね』と、入社して十日後にカレンは連絡してきた。『もしかしたらその中に、<ジェネラル>と繋がる人物がいるかもしれないし……』


 一方、ロドニー・オーウェンのエージェントとしての仕事は、カレン以上に重要だった。というのも、彼は開発部にいて、同じ部署で同僚となるはずのサイラス・モントゴメリーのことを調査する予定だったからである。そのため、彼は航空宇宙工学についてあらためて学び直してから今回の任務に当たったため、ブラックバイパー社へ入社したのはカレンの二週間後となった(彼はユトレイシア工科大の航空工学科を卒業している)。


 ところが、入社後何日しても開発部の広いフロアのどこにもサイラス・モントゴメリーの姿を見出すことは出来なかった。もちろん、出張や休暇といった可能性もあったが、調べてみたところ確かに書類上はブラックバイパー社の開発部にサイラス・モントゴメリーという人物は存在してはいるのだ。だが、入社したばかりで覚えることもたくさんあるというのに――そんな中で同僚の誰かに「サイラス・モントゴメリーって一体どこにいんの?」などと聞くのもおかしな話である。


 けれど、ロドニーからこの話を聞いたトミーとディランは、彼はおそらくそのような形で名目上ブラックバイパー社に在籍しつつ、実際には自分の勤めている会社の汚れ仕事を請け負っているのではないかと見当をつけていた。となると、<ジェネラル>はブラックバイパー社とまず間違いなく太い繋がりがあるということになるだろう。


 このあと、ディランとトミーはブラックバイパー社のCEOやCOO、その他重役のリストを見た。この中に<ジェネラル>がいるかもしれないと思うとふたりとも興奮したが、あれほど用意周到で用心深い人物がもしこの中にいるとしたら……それはあまりにも間抜けな話であるようにも思われる。


「ギルバート!……じゃなくて本部長。これから俺とディランはサイラス・モントゴメリーのブラックバイパー社の書類にある住所まで行ってこようと思う。会社に出社してないことだけは間違いないから、なら奴さんは今どうしてるのかっていう話だ。ジム・クロウの時のような緊急の汚れ仕事が入った時にだけ出動して、あとは家で筋トレしながら酒でも飲んでいるのかどうか。なんにしても俺たちには今、<ジェネラル>に通じる情報を持ちうる人間としてマークできるのがコイツしかいない。だから、慎重の上にも慎重に事を運ぶよ」


「ああ。何しろ、いくら「上」から命令があったのだとしても、あんな危険なことを昼日中から仕掛けてくるような野郎だ。くれぐれも注意してくれよ。前にも言ったが、これは長官も含めてここにいる全員の首がかかっているような大きな捜査だ。自分の自宅に帰り着いても気を抜かず……」


「ああ、わかってるさ」と、ディラン。「普段は俺たちのほうがそっちの仕掛ける側の人間なんだから。俺たちがブラックバイパー社にネズミを送りこんで調べていると知ったら、もしかしたらトラの<ジェネラル>はネコを送りこんで彼らを抹殺しようと考えるかもしれない。もっともこれはカレンとロドニーのふたりがそのくらいヤバい情報にアクセスしようとしてるって、向こうが勘づいたら、ということではあるがな」


「それだけじゃないさ」


 同僚である以前に友人であるふたりのことを心配し、ギルバートは上司として言葉を重ねた。


「カレンとロドニーだけじゃない。俺たちのことだって、ライオンのジェネラルはネコがじゃれてくるのが鬱陶しいといったような理由から抹殺しようとするかもしれない。もしリグビー長官に圧力がかかったら、敵はそのくらいの強大さを有しているということだし、俺たちのうちの誰かを殺そうとするなら――それはやはり、USIS内に誰か向こうと通じている内通者がいるということを意味している。だから、ここから一歩外へ出るという時には、そこがどこであれ注意していて欲しい」


「へいへい」と軽い調子で返事をしながら、トミーは椅子の背もたれからスーツの上着を取って出かけようとした。もちろん、彼もディランも説明などされずともよくわかっている。また、自分たちがそうした種類の事件に巻き込まれて死亡した場合、ギルバートがどれほどの悔恨の念に苛まれるかということも……。


 このようなわけで、ギルバートは作戦室にひとりきりになると、内線でルークのことを呼ぶことにした。彼はやはり別室で、<悪のエリート>、<悪魔のエリート>に関係しているかもしれない情報をオープンソースから探しだす作業を続けていたのだが、もし仮にカレンやロドニー、あるいはトミーやディランから指示を仰ぐ連絡が入った場合、流石にギルバートひとりでは対応が困難だったからだ。


 ルークは、地下にある資料室でこの時、1940年代にまで遡って各国の新聞を読み耽っていたが、本来なら閲覧室のみでしか閲覧できないこれらの資料のいくつかを、司書から許可を取って七階にまで持ちこんでいた。彼も今、ブラックバイパー社への潜入作戦がどの程度進捗しているかを当然知っており、ギルバートが自分を呼び戻した理由もよく理解していた。


 だが、ただ黙って作戦室で<待機>しているというだけではあまりに退屈である。そこでルークは司書のデボラ・ラルクと今度カフェテリアのメニューを奢るという約束をして、資料の持ち出しを許可してもらっていた。


「では、そのサイラス・モントゴメリーという男が書類にある通りの住所に住んでいたとしたら……かなり事態のほうは進展したということになりますな」


 1940年9月のロンドン・ニュースに目を通しながら、ルークは電話番をしているギルバートに話しかけた。ギルバートのほうではパソコンの画面にずっと見入っていたが、ルークのほうでは彼が仕事をしているのか、それとも単に暇潰しをしているのかといったことはあえて聞かない。


「そうだな。だがまあ、敵もそんなに馬鹿ではあるまいと思っている。もしブラックバイパー社で汚れ仕事を専門にしているというのなら、尚更そうだ。あいつはおそらく、元軍人か傭兵ではないかと思ってな、俺のほうでも国防省の軍人リストを過去に遡って調べているところなんだが……同名の人間は一応、ふたりほどヒットした。だが、ひとりは1954年生まれ、そしてもうひとりは顔のほうがまるで似ても似つかない黒人だった」


「なるほど。ですがもし、サイラス・モントゴメリーというのが偽名なら……」


 ロンドン空襲に関する記事をちらと見て、ルークは一瞬だけ顔を上げる。


「そうなんだ。もしディランとトミーがサイラス・モントゴメリーの自宅に彼がいるか、あるいはいた痕跡があることがわかれば……面白いことになるかもしれない」


「ですな」


 ギルバートとトミーは互いに顔を見合わせてニッと笑った。もちろん、サイラス・モントゴメリーがそこに住んでいると単に偽装しているだけなら、収穫のほうはゼロである可能性もある。だが、それならば今誰が住んでいるのか、そのマンションのオーナーは誰なのかなど……調べられることはいくつもあるし、そのどれかが細い糸としてどこかに繋がっていることを願うまでだった。


「ルークは仕事のほう、はかどってるか?」


 もちろんこれは上司として嫌味を言っているわけではない。ルークから詳しく話を聞いて、これは相当に骨の折れる作業だとギルバートにもよくわかっていた。彼にも、信頼できるスタッフを助手としてつけてもいいと提案したが、断られた。何故なら、砂漠の砂の中から針を見つけるような作業だし、また仮に針が見つかったところで、その情報が現実的に役立つとは限らないという、気の遠くなるような作業だからだ。


「そうですね……以前本部長にもお話したとおり、あくまでもこれは私個人の仮説に基づく推理なので――もしかしたら結局のところどこへも行き着かないかもしれません。それでも、あくまでその仮説に基づいた場合、<悪のエリート>や<悪魔のエリート>という組織、あるいはその前身となる組織は、最低でもヒトラーが生きていた時代にまで遡るのではないかという気がしています。もちろん、ヒトラーの残党の秘密警察や、彼の思想を信奉する極右勢力がその前身だというのは、流石にちょっと話が飛躍しすぎとは思いますがね……なんにしても、時代がさらに下った冷戦時代、アメリカでもソ連でもMI6でもない、またおそらくはその他どこの国の諜報機関でもない組織の影というのは、ちらちらしてはいたんです。けれど、実際に突き詰めて調べられるような諜報員は誰もいなかったでしょうね。上からストップがかかればそれまでですし、わたしもそうした壁には何度も行き当たりました。でもそんな中でも、ソ連崩壊後のロシアで、優秀な研究員をリクルートするという仕事をしたことがあったんですよ。そしてその中の多くの研究員のゆくえが今もわかっていません」


 その研究員たちがどこへ行ったのかといえば、ルークの推理によれば、どこの国の組織でもないまったく別の第三機関で、それも相当の好待遇の元で働いているのではないかということだった。ようするに、これまでUSISで働いてきた三十五年もの歴史において、ルークはそうした<点>をいくつか持っていたが、そのひとつひとつが実は結びついているのではないか?と想像してみたことは今の今までなかったのだという。


「まあ、俺たちにしてみれば、崩壊後のソ連っていうのは、平気で借金を踏み倒す赤字大国のようにしか見えなかった。実際、崩壊前はあんな大国が倒れたら一体世界経済はどうなるのかと思われていたわけだが……よく持ちこたえたもんだなと思う。だが、ルークの考えによれば、それも少し違うんだろ?」


「ええ。そもそもゴルバチョフが何故台頭してきたのか、彼がグラスノチなどということをよくやらかしたものだと今も思いますし……エリツィンやプーチンが大統領になったのも、ロシアにはラスプーチンのような怪僧がクレムリンにいて、実は裏でロシアの歴史を操っているのだとの噂は昔からありました。同僚たちがそんな話をしていても、私自身は本当の意味で信じたりはしませんでしたが――今思うと、おそらく<悪のエリート>というのはそうした種類の影の組織ではないかと思うのです」


 ゴルバチョフが何故大統領になりえたのか、また、グラスノチ(情報公開)などということをあの時代において行いえたのか、また、エリツィンはともかくとして、プーチンが大統領の座に就いたことには実は、相当にダーティな裏事情があったのではないか――というのは、陰謀論好きの間では今もよく言われることである。


「俺も、少しくらい何か手伝おうか?」


 そう言ってギルバートは、ルークが資料室から借りてきた茶色くなった新聞を手に取った。もちろん、同じ公開資料を読むのでも、ルークは「目のつけどころ」が違うからこそオシントのプロ中のプロと呼ばれたりもするわけだが――ギルバートは単に第二次世界大戦時の新聞資料が珍しくて、それらを少しばかり読んでみたかったというそれだけだった。


 そしてこの時、ギルバートがロシアのイズベスチヤ紙を読みはじめていると、不意に電話が鳴った。ギルバートの仕事用の携帯である。相手はトミーだった。


「おい、聞いて驚け!サイラス・モントゴメリーが自宅マンションから出た。表はオートロックだが、管理人はいないし、住人がドアを開けた時に自然な形で中に入ることが出来ると思う。奴の部屋の中から、社会保障番号や預金通帳やその他クレジット番号なんかがわかるものが出てくれば……モントゴメリーが何者なのかがおそらくはわかる。まあたぶん、あいつのことが色々詳しくわかっても、サイラスもとかげの尻尾切りの尻尾要員にしか過ぎないとは思うがな」


「そうか。だが、気をつけろよ。ただ煙草を買いに外へ出ただけで、すぐ戻ってくるかもしないし……何しろ相手は本物の殺し屋かもしれないからな。まあ、俺の勘では元軍人か雇われの傭兵か何かじゃないかという気がしてるんだが」


 ――何分、事は一刻を争う。トミーはこうして上司であるギルバートから許可を得、すぐに電話を切った。ギルバートが事態の推移について伝えると、ルークは上品に口笛を吹いていたものだった。


 一方、ディランは女性ふたり組がナンバーロックを解いて中へ入るのに合わせ、難なくエントランスを通過した。「色男はなんの疑問も抱かれなくて得だねえ」とトミーがからかっても、「アホか」とディランは軽くいなすのみである。


 サイラス・モントゴメリーは最上階(8階)の805号室に住んでいた。他の801~804号室の部屋とは少し離れた、奥まったほうに扉があったのは、ふたりにとって僥倖というものだった。現地に到着後間もなくモントゴメリーがマンションから出てきたのもラッキーだったし、他の同じ階に住む人間がドアの小さい丸穴から外を覗いたとしても――こちらがピッキングしている姿を見られることすらないというのは、彼らにとってラッキーが二度続いて起きたように思われる出来事だった。


 ディランは白い手袋をはめると、ポケットからピッキングの道具を取りだした。ひとつ目の道具を鍵穴に嵌め、次にふたつ目の棒状の器具を鍵穴に入れ、何度か繰り返し出し入れする……カチリ、とドアが開く音がするのに、十秒もかからなかった。


「さっすが」と、トミーが口笛を吹く。「ディラン、おまえ、諜報員なんか辞めて泥棒にでも転職すれば?」


「アホ!そんなことより手早く捜索してずらかるぞ」


 ディランとトミーの関係性というのは、漫才にたとえるならトミーがツッコミ、ディランがボケだった。もっとも、諜報員の漫才ネタというのは、一般社会でどの程度需要があるかというのは謎だが。


 このあとのふたりの動きというのも実に敏速だった。泥棒には金目の物のある場所が匂いでわかるとよく言うが、トミーとディランの場合は、広い室内をざっと見渡しただけで――人間の心理として、どのような場所にどんな物を人は置くかということが透けて見えるのだった。


 モントゴメリーはメゾネットタイプの部屋に住んでいたため、一階と二階、それぞれ三室ずつ、計六室をトミーとディランは手分けして捜索せねばならなかった。この他にリビングとキッチンがあり、トミーはチーズの匂いを感じたネズミよろしく、まずはリビングにある戸棚類やテーブルの上に置かれたものに手を伸ばした。


 一方ディランは、一階と二階の部屋をそれぞれざっと見て歩いたのちに、二階の寝室から捜索を開始したようである。モントゴメリーはどうやら神経質な性格らしく、室内には不自然なくらい塵やゴミといったものが少なかった。あるいはここは本当に仮の住まいであって、普段は別の場所で寝泊りしているということなのかどうか……なんにせよ、その綺麗に整理整頓された室内を見た途端、ふたりはなんとなく(嫌な予感)を感じていた。


 直感として、食べたものや飲んだものがそのまま出しっぱなしだったり、テーブルの上も請求書やいらないダイレクトメールなどが散乱している――といった感じのほうが、深い理由はないが、サイラス・モントゴメリーという男にあまり不気味さを感じなかったかもしれない。


 あの手の男が丸腰で買物に行くとも考えにくいことから、捜索のほうはなるべく手早く済ませる必要がある。だが、トミーは「普通ならこのあたり……」と想像しながらリビングの棚という棚を捜したが、銀行通帳や仕事関係のファイル、クレジットカード番号のわかりそうなものなどが一切出てこない。


(まあ、あんなまともじゃない職業で、部屋も綺麗に掃除してあり神経質……となれば、それに比例する形で用心深い性格をしてるっていうことだよな)


 リビングとキッチンをざっと捜索してみても、目ぼしいものは何も出てこない。毎月購読しているらしいジャズ雑誌が綺麗に並べてあったり、アマゾンに注文したジャズのレコードの領収証が綺麗にファイルしてあったりと、サイラス・モントゴメリーの趣味や好きな映画の傾向等がわかるといった、そんな程度の収穫しかない。


「おい、ディラン。そっちはどうだ?」


 一階の部屋を三室、順に見てまわるが、レコードプレイヤーとビリヤードの置かれた部屋や、映画鑑賞室らしき部屋、それにもうひとつはゲストルームと、そこに置かれた戸棚等をいくつか見てみたが、そこには衣類などが入っているだけだった。


 返事がまったくなかったため、なんとはなし焦って、トミーは急いで階段を上がっていった。一番奥の部屋のドアが微かに開いており、そこにディランがいるものと見当をつける。


 トミーの声が聞こえていないのも当然で、ディランは聴診器を耳につけ、金庫のダイヤル錠を解いているところだった。右、7.5のところで微かにカチッという音がし、次に左、3.5、右、9.0、左に2.5……そしてもうひとつある鍵のほうを、最初にドアを開けたのと同じ要領でピッキングする。


「おまえ、やっぱり泥棒にでも転職しろよ」


「いや、そうじゃない。俺たちはたまたま運が良かったのさ。この金庫は旧式の古い型のものだが、そっちは違う」


 ディランは金庫内のものを早速とばかり高性能の小型カメラで撮影しはじめた。通帳や身分証明書や何枚かのクレジットカード……その他、書類の詰まった茶封筒がいくつか出てくる。その傍らで、ワードローブに隠した驚くほど大きな金庫を見て、トミーは思わず口笛を吹いていた。


「なるほど。こっちは奴さんの指紋認証が必要になるタイプか。この部屋の中はモントゴメリーの指紋だらけだろうが、採取するための道具を俺たちは今日、持ってきていない……ぬかったな。指紋照合すれば、もしかしたら未解決の重大事件の犯人とあいつを断定できたかもしれないのに」


「なんにしろ、第一回目の侵入としては十分な収穫があった。トミー、これを見ろよ。あいつ、元空軍のパイロットだ。しかも我がユトランド共和国のじゃない。アメリカ空軍の、だ。これ、どう思う?」


 金庫のあった部屋の棚には、空母のキティホークを背景にして、おそらくは同僚と思しき、ネイビーブルーの軍服を身にまとった三人の男と、サイラス・モントゴメリーが肩を寄せあい、笑顔で映っている。


「まあ、こっちの金庫に何が入ってるのかはある程度想像がつく。この大きさからいって、おそらく銃器の類だろうな。あと残りひとつ……奴さんの指紋がべっとりついたものを何か持っていこう。CIAにはちょいと借りのある奴もいるし、それ以前にギルバートが正規のルートで通せば、向こうでサイラス・モントゴメリーの経歴なんかは一発で引き渡してくれるだろう」


「この写真からはわからないが、モントゴメリーはおそらく軍医だ。隣の部屋に驚くほどの量の医学書の詰まった書棚がある。実はこの聴診器も、その棚の上にたまたま置いてあったものなんだ」


 書類や通帳類などを元の通りに戻し、ディランは金庫を閉ざした。すべてではないが、ある程度必要な情報についてはカメラにデータとして収められたはずだ。


「おい、トミー、急げよ」


 黒い聴診器を元の位置へ戻し、書斎で医学書の棚を見上げているトミーに、ディランがそう声をかける。「あ、ああ……」とトミーはぼんやり返事をした。二階にある残りもうひとつの部屋は、サイラスの寝室で、この部屋が一番人間らしかった。何故なら、ベッドはそう几帳面に整えられているわけでもなく、脱いだ衣類がベッドの背などにかけたままになっていたからだ。とはいえ、全体としてこの部屋には女性の出入りがあるようにも思えない。


「おい、トミー!」


 玄関口のところで、声をひそめてディランはトミーを呼んだ。実はトミーは、やたら多いCD類の中から、指紋採取のために一枚だけCDを引き抜いていた。『Chet Baker in New York』。何分、ざっと見て五百枚はCDがあった。だが、マニアというものはそこから一枚なくなっただけでもわかるかもしれない。そこでトミーは少しばかり選定に迷ったのである。 


 だが、サイラス・モントゴメリーの部屋を無事出たまでは良かったものの、そこでふたりは一瞬だけ焦るということになる。何故なら――マンションに二台あるエレベーターのうち、右側の一台からモントゴメリーが買物袋を片手にやって来るところだったのだから!


 もちろん、トミーもディランも気配には滲ませないながらも内心では焦っていた。<アストレイシア墓地>で襲われた時、トミーとディランはヘリコプターを操縦している人間の顔を見る余裕などなかった。だが、向こうではどうだったのか?


 やはり思ったとおり、モントゴメリーは数歩歩いたところで、突然くるりと振り返りスーツ姿の男ふたりを射抜くようにして見た。ばっちりと互いに互いの視線が出会った瞬間、エレベーターの扉は閉じられ、下へおりていく。


「気づかれたと思うか?」と、ディラン。


「わからん」と、トミー。「802号室あたりにいるガールフレンドに会いにきた恋人とその友人……あるいはゲイのカップルにでも間違えてくれてればいいがな」


 だが、ふたりともわかっていた。サイラス・モントゴメリーのあの顔は――最初パッと見た時には思いだせず、数歩あるいたところでハッと気づいたといった人間のそれだった。でなければあんなに劇的に振り返り、なおかつこちらを凝視するはずがない。


 なんにしてもこの時ふたりは、白のBMWに戻るまでに、少し遠回りをした。何故なら、モントゴメリーの寝室には軍用の双眼鏡が置いてあったからだ。そこから、モントゴメリーが双眼鏡でこちらを見る可能性を考慮し(ちなみに、マンションの正面側は彼の住む部屋の窓からは見えない)、一ブロックほど北側に回りこんでからトラムが行きすぎるのを待ち、信号機を渡った。


 こうしてトミーとディランは無事秘密情報庁まで帰り着くことが出来たわけだが、まさかこの日のうちに夜逃げでもするようにモントゴメリーが住まいを変えるとは思ってもみなかった。得た情報も大きかったが、その一方、相応のへまもしでかしたということだ。何故なら、USISがそこまでのことをして彼の身辺を嗅ぎ回ったということは――すぐにもジェネラルその人に伝えられたに違いなかったからである。




 >>続く。








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