第6章
その後、ジム・クロウの元にジェネラルから連絡の入ることはなかなかなかった。もちろん、ジェネラル、あるいは彼の部下からクロウに連絡は入っているものの、セスが気づいていないという可能性もあるにはある。だが、クロウ自身、ボディガードもつけずにどこかへ出かけていくということは一度もなかったし、セスはさらに二か月の時が過ぎ、十月になる頃には――自分はもうここ首府ユトレイシアでは暮らしていけないだろうと確信していたものである。
というのも、セスはその後もクロウ自身にもサディンや他の彼の側近たちにも、何ひとつ疑われるでもなく、共同生活を続けていた。朝はほぼ全員が早起きするといったことはなく、昼も過ぎた頃にぽつぽつと食堂に何かを食べにやって来る。ジムは週五日、まるでウォール街に証券マンが出社でもするかの如く規則正しく、夕方から自分の縄張りをまわって歩く。そして、その右にはいつもサディンが、そして左にはセスがいるもので……もはやここ一帯の裏の世界では、ミシェル・レギーニはシックスフィンガーデビルの片腕として見なされるまでになっていたからだ。
唯一、セスはみなから「ドク」と呼ばれる闇医者のことだけは用心していたが、というのも彼からは他の側近たちとは違い、唯一敵意に近い感情を向けられている気がしたからだった。
そして実際、セスはジム・クロウ率いる犯罪組織に長く身を置くうちに――ミイラ捕りがミイラ捕りになるではないが、何が善で何が悪なのかがわからなくなることがあった。セスの調べたところ、ジム・クロウの主な収入源は麻薬とマネーロンダリングであると見ている。麻薬のほうは他でもないこの三角州内にあるプラントで製造しており、指揮のほうを執っているのはドクその人である(セスはドクターに用心されているため、ここに入らせてもらったことはない)。
ドクターとは違い、クロウのほうはすっかりセスに気を許しているため、彼は裏の帳簿のほうも見放題だったわけだが、セスが確認しなくてはいけないポイントとしては、そうした麻薬による売上とジェネラルとの間に関係性があるかどうかということだった。ノーチラス・クロノグラフの腕時計に内臓された超小型カメラで写真のほうも撮っておいたが、とりあえずジェネラルとの関連性は今のところ見受けられない。
「セス、おまえさ。『アンクル・トムの小屋』なんて読んだことあるか?」
ジム・クロウが私室としている三階の部屋の書斎のほうには、実は表面の本に隠して、本棚の奥のほうに<世界名作全集>なるものが収納されている。しかも、大人向けの文学全集ではなく、それらはすべて子供向けの、平易な文章で書かれた文字の大きなものだった。
『宝島』、『ピーターパン』、『ロビンソン漂流記』、『トム・ソーヤーの冒険』、『飛ぶ教室』、『クリスマス・キャロル』などなど……そこに置いてある本の半数以上を読んだことのあるセスは、「そういえば、小さい頃に読んだことがあるよ」と答えていた。
「やっぱりな。おまえは他のチンピラ一般と違って、いかにも学がありそうだものな。いわゆる頭がいいほうの犯罪者というやつさ。それで、そいつはおまえが孤児院にいた頃に読んだものなのかい?」
セスは自分が孤児院育ちで、そこでの自分にとっての一番の親友が黒人のリロイという少年だったということを――かなり前にジムに話したことがある。つまり、この孤児院をおん出て彷徨っていたところをチャン伯父の愛人であるヨンアさまに拾われたのだといったような設定だった。
「ああ。カトリック系の堅苦しい孤児院だったからな。俺と同年代のガキどもは、ポテトトップスやピザを食べた油ぎった手でゲームをしたり漫画を読んだりってのが普通だったろうが……俺たちにある楽しみといえば、青少年向けの優良図書でも読むくらいしかなかったのさ」
「へえ。俺はな、一応小学校のほうで多少は読み書きのほうは勉強しちゃいたが、勉強のほうにはまるで身が入らなかった。というのも、指が六本あるせいで、他のクラスメイトはたったのそれだけのことを不気味がってた。そのせいかどうか、教師のほうも俺のことを煙たがってたし……ま、俺のようなクズに何を教えたところで時間の無駄だといったような態度さ。ところがな、一度医療少年院のほうで初めてまともな授業ってのを受けたんだ。俺のレベルは十三歳にして小学三年生レベルだったんだが、何分、まわりにいる奴もそんな奴らばかりだったんでな、先生のほうでも懇切丁寧に親身になって教えてくれるいい人ばかりだった。で、俺の好きだった白人の女の先生がさ……こういう児童文学系の本について、いかに面白いかっていうのを毎日熱心に話してくれたんだよ。俺はこういう種類の本についてはまるで興味なんて湧かなかった。でもその人がさ、俺のことをしょうもないチンピラのガキっていうんじゃなく――実に素晴らしい将来性のある少年にものを教えるみたいな態度で、俺の指が五本だろうと六本だろうと関係ないって態度で色々教えてくれたから……俺のほうでも、ちょっとくらいこの人が望んでいるらしいことをしてあげてもいいかなって思えたんだ」
「じゃあ、その人がこの『アンクルトムの小屋』を薦めてくれたのかい?」
セスは『アンクルトムの小屋』ではなく、『ロビン=フッドの冒険』を手に取り、ぱらぱらとめくりながらそう聞いた。書斎には今ふたりきりだった。
「ああ。一番最初に薦めてくれたのは、シャーロック・ホームズだったんだがな。犯人やトリックのことなんかが気になって、随分夢中になって読んだよ。今にして思えばな、『まだらのひも』とかさ、ヘビがミルクなんか飲むわけがないとか、そうした穴があることもわかってる。だが、そんなことはまるきり問題じゃなく……俺は自分がこんなに熱心に本なんてものを読めるようになるとは思ってなかったもんで、言ってみりゃ一種の奇蹟が俺の人生には起きたも同然だったんだ。それで、『アンクルトム』のほうはさ、表紙に黒人のおっさんと、あとは天使みたいな金髪のお嬢ちゃんが並んでて――そのことが気になったんだよ。黒人と白人、それに性別と年齢を入れかえれば、俺に本を読む楽しさを教えてくれたエマ先生と俺を入れかえたようなもんじゃないかという気がしてな」
『アンクルトムの小屋』の内容のほうは、アメリカがまだ奴隷制の時代にあった頃、主人公のトムがやむをえぬ事情により奴隷として売られるところからはじまる。トムが最初に奴隷として仕えていた主人のシェルビーは、とても紳士的な人物で、彼の子供たちもトムによく懐き、トムと別れねばならぬという時には「必ずおまえのことを買い戻すからね!」と涙とともに誓ってくれたほどだった。その後、トムは二度目に売られた先の冷酷な主人からひどい仕打ちを受けて死ぬことになるのだが……トムはクリスチャンとして最後までイエス・キリストへの信仰を守り抜き、すべてのことを赦しつつ、天国に魂を明け渡すのだった。
「アメリカで南北戦争が起きるきっかけを作ったとも言われる名著なのかもしれねえが、ま、今読み返してみるとなんともお説教くさくて道徳的なつまらん話かもしれん。だがな、俺は確かにあの時、エマ先生のゆえにすべてのことを赦そうと思った。自分に押しつけられたひどい境遇も、母親が麻薬と男なしじゃ生きられないどうしようもない女だってことも、他の兄弟がみんな、俺のことだけ虐待するってことも……けど、医療少年院を出たあと、俺の生活はやっぱり逆戻りさ。それがなんでだったかわかるか?」
「…………………」
セスは黙りこんだ。これに類する話なら、サウスルイスのダウンタウンではお馴染みのものだった。だが、ジム・クロウの生い立ちはそれに輪をかけてひどいものだったと言えただろう。
「今さらもうカタギとして生きるだのなんだの、そんなのは不可能だってのは俺にもわかってた。けど、弟のノエルがさ、海兵隊に入ってそのあと大学に進学しようと思うって言うのを聞いて……最初は、俺も自分の努力次第で何かできんじゃねえかなって思ったり。だけど、俺が少年院行きになったあとは、ノエルが兄弟たちのいじめの吐け口みたいにされてたってことがわかって――ノエルにまともな人生を歩ませるためには俺が犠牲になるしかないって腹を決めたんだ」
「今、その弟さんは?」
「大学を卒業したあとは、高校で教師をしてるよ。今はもう結婚して三人の子持ちだ。俺がこの世に生まれてきて唯一まともにしたいいことってのが、弟に不自由ないように金を送ってやったってことだけだな。しかも、自分で汗水流したってわけでもない、他人の血で汚れた金だが……それでも金は金だ。俺はアンクルトムみたいにはなれなかった。他人にどんなに虐げられようとも我慢し、どんなひどい奴のことも赦してやったりだなんて……とても出来やしねえよ。セス、おまえだったらどうだ?」
「そうだな。俺なら……」
少しの間考えて、『ロビン=フッドの冒険』を書棚に戻し、セスは代わりに『ニルスのふしぎな旅』を取り出した。小さな頃、大好きだった本だ。
「俺なら、誰のことをも許さない。俺のことを捨てて孤児にした親のことも、いたいけなガキどもを虐待した神父のことも、もっと言うならそんな境遇を俺に押しつけた神の奴のことも――誰のことをも絶対許さない。そして、実際のところそれでいいのさ。あいつのこともこいつのことも許してやったところで、一体俺にどんな得なことがある?無理をすると精神によくないし、ただイライラしてまわりのものをかわりにブッ壊したりするっていう、せいぜいがそんなのが関の山だからな」
ジムは、少しの間ミシェルのことを見つめたあとで――ブッと吹きだし、それから「ハッハハハハ!!」と大爆笑していた。
「ミシェル、おまえやっぱりサイコーだよ!神のことをも許さないだなんて、ちょっとなかなか並の奴には言えないぜ。俺はさ、神だけじゃなく、人間ってやつにも絶望してる。世の中には確かに、おまえのような見るべきところのある面白い奴や、エマ先生みたいな本当に善良で心の清らかな人もいる。そこには白人だの黒人だの、民族の違いだの、そんなことは一切関係ないんだ。でも他の多くの連中はさ、指が一本多いとか、目が斜視だとか、口唇口蓋裂だとか……そんな本人が悪いわけでもないことで、平気で宇宙人でも見るような目つきでこっちを見てくるんだぜ。笑っちゃうよな。黒人と白人が平等なのは、せいぜいが同じ社会的地位の金持ち連中の間でだけだし、ある特定の民族を自分たちよりも劣っているとして簡単に迫害したり――それでいて、そんな奴に限って言うだろ?「人類はきっとみんなわかりあえる」だの、「神の名において人間はみな平等だ」だの、「地球人は宇宙人とも仲良くやれるに違いない」とかさ。馬鹿みてえだよな。俺なんか、指が一本多いってだけで、これまでどのくらい嫌な目にあってきたと思う?たったのこれだけの違いさえ認められない奴が多いってのに――宇宙人のことなんか受け容れられるわけねえだろうがって話だ。俺に言わせりゃあな」
「ははっ。そりゃ確かにな」と、ミシェルも一緒に笑った。ジム・クロウは実は意外に笑い上戸なのだ。「ほら、アメリカでさ、イラク戦争がどん詰まった頃、宇宙のどっかから敵がやって来てアメリカのヒーローがぶっ倒すみたい映画があっただろ?あれはさ、地球で倒すべき敵が実は間違ってたみたいな、世界の警察として正義の鉄拳を振り下ろすべき相手が誰なんだかわかんなくなったっていうようなことで、宇宙人にその敵になってもらうことにしたんだろうな。実際のところ、地球の外からそんな変な生命体がやってきたりしたら、そりゃ確かに地球の全員も、肌の色やら民族がどーたらいうことを越えて、一時的にせよひとつになるだろうよって話だ」
「おまえはやっぱり面白い奴だなあ、ミシェル」
隣のミシェルの肩をばんばん叩きながら、ジムはなおも笑い続ける。
「おまえも知ってるだろうが、うちの居候たちはみんな、気のいい奴ばっかりだ。だが、こういうちょっとばかし知能のある話ってのを出来る相手っていうのが、俺にはドクター以外いないもんでな」
「…………………」
(あのドクターっていう人は、どういう人なんだい?)とは、セスは前に一度聞いたことがある。『なんとなく嫌われてる気がするんだが、俺の気のせいだろうか?』とも。対するジムの答えというのは、『ドクは誰に対しても基本的にああなんだ』というものだった。『人間嫌いなのさ』と。
ミシェルはこれまでに、ドクターが顔色ひとつ変えるでもなく、裏切り者のことを薬剤による拷問にかけるところを何度か見た。彼はジム・クロウの命令には絶対的に忠実であり、部分麻酔をかけた状態のまま、敵対組織のボスの健康な内臓を覚醒下にある本人にモニターで取り出すところを見せたりと、随分恐ろしいことをしている。時々、彼がこんなにもジム・クロウに忠実なのは、実は生きた人間の体を人体実験よろしく好きなようにかっさばけるからではないかと、そんな疑心が湧いてしまうほどだ。
(俺も、あんな目にだけは絶対あいたくないからな……だから、ドクの動静については俺のほうでもよくよく注意して見てなきゃならない)
これはあくまで、ミシェルのエージェントとしての勘だが、もし自分の正体のようなものを暴かれるとすれば、ドクターによってではないかという気がしていた。何分、彼はプラントで麻薬作りに毎日勤しんでいるわけだが、ミシェルはそこに出入りを禁じられているだけに――屋敷内にいる部下たちの中で、唯一ドクターのことだけは動向が把握しにくいのだった。
実際、ミシェルは早くこの三角州の豪邸から出ていきたいあまり、ジェネラルからなるべく速く連絡があればいいと願っていた。長居すればしただけ、見たくもない場面を見る機会も増えるし(たとえば、ドクの残酷な手術場面や、サディンが特殊な剪定鋏で麻薬の競合相手の指を切り落とすところなど)、それでいてボスのジム・クロウに対しては、(恐ろしい奴)というよりも、ミシェルは奇妙な親しみ……いや、もっというなら友情に近いものさえ感じている自分に、やはり戸惑っていたのだ。
ジム・クロウもサディンも、他の屋敷の部下たちもみな、映画のDVDを見るのが好きで、地下の専用のシアターでは毎日誰か彼かがハリウッド映画を見ている。一度など、『大草原の小さな家』のある場面を見て、全員が大号泣していたということさえあった。にも関わらず、その翌日には敵対組織の構成員を容赦なく拷問にかけたり出来るのだ。ミシェルはそうした拷問行為に手を貸すよう迫られたことはなかったが、それは見ているだけで自分が内側から汚れてくるように感じる醜悪な場面だった。
ところがさらにこの翌日になると、前日に人を殺したことなど忘れ、『ジョニー・ハンサム』といった映画を見ては、「ああ、切ねえなあ」などと、ジムもサディンも溜息を着いたりしているのだ。ミシェルはこうした悪人どもの<精神構造>が最初はよくわからなかった。だが、彼らと長く一緒にいるうちに、ミシェルにもだんだんにわかってきたことがある。
『ミシェル、おまえもきっと、いくら相手が敵の犯罪組織の野郎でも、あんな残虐なことがよく出来るなと思ってるだろうな。だがまあ、すべては慣れさ。俺は小さい頃からずっと麻薬をやってきた。それも、快楽が目的っていうんじゃない。母親が十人以上もいるガキどもにまともなメシってのを作ってくれた試しがないもんで、麻薬でもやって空腹を紛らわすしかなかったのさ。麻薬ってのは、効いてる間だけは絶対に裏切らない。人は裏切るが、麻薬の効いてる限られた時間の間だけは絶対的な幸福感が得られるんだ……俺はそんなふうにしてどうにか自分の惨めさといったものに耐えてきたっていう、可哀想な人間なんだ。だから、ああした拷問みたいなこともな、すぐに慣れた。最初は忘れるのに麻薬の力が必要だったが、今じゃ全然だな。人間ってのは、絶望するとその先で感情が麻痺して何も感じないようになる。俺は小さい頃からそうした経験が多かったから、今じゃすっかりわかってるのさ。ああいうことをしてる間は、一時的に感情を麻痺させて、何も感じないようにするんだ。そして次の日にはいい映画でも見て、『自分の人生ももしこんなだったらどんなに良かったか』とでも思い、きのうの嫌なことは忘れてしまうのさ』
――ミシェルは、上級ケースオフィサーであるトミー・レガードへの報告書にもそう書き記したが、ジム・クロウという犯罪組織の長をひとりの人間としてとても高く買っていた。このまま彼にユト河左岸のダウンタウン一帯を治めさせておいたほうが、パワー・バランスとしてはまだ統制が取れていていいのではないかとも進言しておいた。
だが無論、彼が<悪のエリート>というふざけた名前の犯罪組織と関わりがあるのかどうかというのが今回のミッションのもっとも肝要な点であり、ユトレイシア警視庁はそろそろジム・クロウのことは逮捕するか亡き者にしたいという腹積もりだという。ミシェルはジムの死ぬところも、彼が逮捕されて刑務所行きになるところも、どちらも見たくはなかった。「俺はきっと、ろくな死に方をしねえだろうな」とジムは口癖のようによく呟くが、ミシェルとしては彼のその言葉を聞くたびに複雑な心境にならざるをえなかったものである。
その後もミシェルは、月に一度程度の頻度で、ルイ・コーと口裏を合わせた上で秘密情報庁のほうへ報告と打ち合わせに行っていたが、そのたびにトミーもディランも彼に諜報の歴史について講釈を垂れたものだ。諜報の世界で名を馳せたものほど二枚舌がいかにうまかったかということにはじまり、ダブル・エージェントとして祖国イギリスとロシアのKGBの両方を裏切っていたキム・フィルビーのような諜報員の名前を具体的に挙げては、「だからおまえもそのくらいのことには耐えろ」と、最後にはそうした有難い結びの言葉によって話を終えるわけだった。
実際、ミシェルが今感じている感情は、罪悪感ではなかった。ただ、シックスフィンガーデビルなどと呼ばれる凶悪犯の元に送りこまれてくる以前は、よもや自分が今のような気持ちになるとは思ってもみなかったのだ。今、ミシェルは出来ればジム・クロウのことを助けたいと思っている。他に、サディン以下の彼の部下たちにも――出来れば警察に逮捕などされてムショ行きになどなって欲しくなかったのである。
そして、縄張りの見回り、麻薬取引、DVD鑑賞、縄張りの見回り、銃撃戦を伴う乱闘、DVD鑑賞、縄張りの見回り、裏切り者の処刑、DVD鑑賞、縄張りの見回り、敵組織構成員への拷問、DVD鑑賞……といった日々をその後も半月ほどミシェルが送っていた、十月も末のことだった。
ミシェルはその時、前と違ってジム・クロウが「ジェネラル」と呟くのを聞いたわけではない。だが、彼がボディガードのひとりもつけずに出かけるらしいと見てとり、「この時をこそ待っていた!」とばかり、すぐトミー・レガードに電話した。まわりに人は誰もいなかったが、ミシェルは用心のため、あらかじめ決めておいたとおり、友人との会話を装いつつ、「そうだな。一度俺もキィウエストへ行ってみたいよ」という言葉を発したのである。
トミーがすぐに電話を切っても、ミシェルはその後も少しの間、ひとりで適当にしゃべり続けていたが、一方トミーは、「おい、ディラン。キィウエストだ!」と叫び、車のキィを手にして築四十年にもなるオンボロ一軒家をあとにしたのだった。実をいうと、今三角州から川を越えた向こうの岸で待機していたのはトミーとディランのふたりだった。最初、ギルバートが自分も待機すると言ったのだが、何分彼には本部長として秘密情報庁にいてもらわねばならない必要があった。ギルバートはセスが送ってきたジム・クロウやサディン以下の彼の部下の携帯の電話番号、またパソコンのIPアドレスから、過去に遡って彼らの通話記録や通信記録などを調べていたのである。
当然、ジム・クロウが以前<ジェネラル>と話していた日時はわかっている。そしてその通話内容も、ユトレイシア情報庁が独自に蓄積している国内の通話・通信記録の履歴から――検索が十分可能であった。実をいうと、ユトランド共和国の国民は誰も、秘密情報庁のほうで国民のメールの送受信や会話の内容を必要に応じて見たり聞いたり出来るということを知らない。もっともこの情報にアクセスすることが出来るのは、秘密情報庁の中でもレベル5以上の情報を閲覧できる高官だけである。そこで、ギルバートが情報庁本部に残ってこの任に当たることになったわけだった。
だが、調べてみたところ、<ジェネラル>とジム・クロウとの会話はまるで逆探知されることを恐れてでもいるように極手短なものだった。『いつもの場所へ来い。わかったな?』、(ジムのほうでは少し驚いたように息をのんてから)『ジェネラル……はい。手順はいつものとおりです。それでは』――たったのこれだけでは、何もわからない。しかも、ジェネラルが使っていた携帯はプリペイド式のものであり、<彼>はジム・クロウと連絡を取り合う時には、いつでもそのような形でしか接触することはないのだろうと思われた(というのも、過去に遡って電話の通話記録、メールの送受信の内容を調べたが、他にクロウとジェネラルの繋がりを示すようなものは何ひとつとして出てこなかったからだ)。
シボレーの運転席にはトミーが座り、助手席では携帯でディランがギルバートに「GO!キィウエスト!!」と興奮して叫んでいたものだった。ちなみに、何故キィウエストという語が暗号として使われたかというと、その理由はジム・クロウの可愛がっている六本指の猫にあった。ヘミングウェイはキィウエストがお気に入りで、そこで六本指のある猫を飼っていたという。セスがそのことを「部下のひとりがチェルシーのことを気まぐれにでも殴ろうものなら、そいつは即刻射殺されるな。そのくらい可愛がってるんだ」と言ったことによる。「じゃあ、ジム・クロウにジェネラルのことを吐かせたかったら、そのチェルシーちゃんをさらってくるのが一番いいんじゃないか?吐かなきゃおまえの愛猫を殺すって脅せばいいのさ」……と、こう返したのはトミーである。
なんにせよ、ディランから連絡を受けたギルバートは、ユトレイシア警視庁のコンラッド警視正に電話した。今回のミッションは特殊なもので――ジム・クロウを包囲するために、前もって特別なチームを組んでもらっていた。ユトレイシア警視庁は大きく分けて外務部と内務部とに分かれており、この内務部はさらに大きく分けて刑事管理部と警備管理部と二つある。ギルバートが電話したのは、警備管理部の情報・密航捜査担当官だった。
というのも、同じ内務部の殺人・重大犯罪司令部や、銃器専門司令部、麻薬取締司令部などには、ジム・クロウと懇意にしている警察官が存在するからであり、今回のミッションの機密性から考えて、ギルバートはコンラッド警視正に情報漏洩の心配のない生え抜きのスタッフを準備してもらっていた。とはいえ、ジム・クロウがジェネラルといつ連絡を取り合うかわからないという中で、彼らは同時に通常業務もこなさなくてはならないわけで――だが、そこはやはりコンラッド警視正の選んだエリート中のエリートである。彼ら三十名は携帯、あるいは無線等によって連絡を受けるなり(コード、キィウエスト)すぐに現場へ急行した。
もちろん、物々しく警察車両にそれぞれ乗りこんで、ということではない。それぞれが異なる車種のセダンに乗り込み、橋を渡って左岸のダウンタウンからどこかへ行くであろうジム・クロウを包囲すべく動く。こうして、ギルバートとルークもトヨタのプリウスに乗り、発信機の取りつけられているジム・クロウの銀のトランザムを追った。このセスの取り付けた発信機の情報は、衛星通信を介して他の特務捜査員たちも追えている。
この時点で、車の無線からは「コード=キィウエスト、チームA班現場へ急行中。指示があればどうぞ」、「チームC班も現場へ急行中」、「チームG班、ターゲットとワンブロック離れたところを走行中!」といったように、ギルバートの元へは次から次へと報告が入った。
「コードキィウエスト、こちらコナー捜査官。引き続き、ターゲットに気づかれぬよう追ってくれ。シミュレーションはプランA。相手に気づかれ逃亡された際にはプランB。打ち合わせた以外の緊急事態が起きた場合にはまた連絡する!」
すべてのチームからすぐに「了解!」との連絡が入る。ギルバートが無線を受ける間、助手席のランドンは携帯でディランと連絡を取り合っていた。今、トミーとディランのふたりはジム・クロウのトランザムと車を一台挟んだ後ろの位置につけているらしい。意外なことにジムはこのあと南ユト大橋を渡って右岸へ渡っていた。しかも、ユトレイシア市内でも屈指の高級住宅街へ入っていったため、当然トミーとディランを含めた十六台ものセダン車の群れは戸惑った。
「いや、むしろ好都合だ。その中の一軒にジム・クロウが入っていくようだったら、まずは気づかれないように屋敷を囲め。あのあたり一帯は地形が独特だから、逃げることはまず難しい。もっとも、ジム・クロウがそこでジェネラルと会っているとは限らないから――もし女と会ってるとか、用件はそんなことでもいい。奴が出てきたらその後を追って捕獲する。その線でよろしく頼む!」
もうこれ以上長く特務捜査班のチームを待機させておくことも出来ないことから、ギルバートはそのように命を下した。アストレイシア地区と呼ばれるその高級住宅街は、小高い丘の上にあり、そこからはユトレイシア市内を見晴るかすことが出来る。だが、眺望のほうはとても良いのだが、当然坂道が多いだけでなく一方通行や行き止まりなどが多く……以前、結婚していた頃にここへ住んでいたギルバートは思わず指が鳴った。ここはもはや彼にとって自分の庭にも等しいような場所である。これでジム・クロウのことは捕えたも同然だと思っていた。
唯一の難点はといえば、道幅の狭い道路が多いため車の駐車が困難なことだった。そこで、ギルバートは特務捜査班のチームのうち車十台を丘のふもとへ待機させることにした。そして最終的に急な丘の斜面を車輌で上がっていった先、ジム・クロウが銀のトランザムを駐車したのは――意外なことに<アストレイシア墓地>だった。
そこは位置的にギルバートが離婚後売却した屋敷からは離れていたが、一般にこのあたりの住居に住む金持ち連中の先祖らが眠っていると言われている。豪邸ばかりが居並ぶだけあって、その一軒あたりの所有する土地も広いため、周囲は驚くほど静かだった。
ジムは墓地に付属している専用の駐車場に車を停めていた。トミーとディランのふたりはギルバートの指示で、ジムが車を停めたあと、いかにも自然な様子でトランザムのすぐ近くにシボレーを駐車した。そしてジムの後を尾行してきたというような気振りなど微塵も見せることなく、ジムが歩いていったそばの墓参りに来たといった振りをしたのである。
<アストレイシア墓地>はそれほど広くはなく、また塀などに囲まれているわけでもなかったため、隅から隅までを一目で見渡せた。墓地のところどころは適度に緑や花が配置されており、休憩するための東屋もあったが、ジムはその中で中央にある御影石の噴水の前で立ち止まっていた。そしてフランク・ミューラーの腕時計を見ては、周囲を見回していたわけだが――こうなると、トミーとディランは一度引き上げざるをえなかったといえる。というのも、その墓のどこに用があったのだとしても、ある一定の時間以上そこにい続けるというのは、明らかに不自然だったからである。
そこで、ジムの姿を視界に収めたまま、一度駐車場のほうへ引き上げた。ディランが携帯で連絡しようとしたところ、まるで見計らったかのようにランドンから電話が入る。
『チーム=キィウエストは、アルファ班とベータ班に分かれて待機中』と、ルークは現状報告をした。見ると、どこかに車を待機させているのだろう特務班の生え抜きのエリートたちが坂道を上ってくるのがわかった。彼らは時間を置いて、自然な通行人を装いながら――ジム・クロウの死角に入る位置にそれぞれ分かれて配置につく。ただひとり、ギルバートだけは墓地の樹木に車を隠す形で待機し、そこから全体を見渡して指示をだした。
だが、それから約一時間ほどが過ぎても、ジム・クロウの待ち人は来なかった。誰か死んだ人間を懐かしみに来たとか、丘の上からユトレイシア市内を見下ろしたかったといった、クロウの様子はそのようにはまるで見えない。というのも、ほぼ五分置きに時間を気にしており、明らかに彼はそわそわした様子をしていたからだった。その姿は誰かと待ち合わせをしていて、その相手がいつやって来るのかと待ち続けているようにしか思われなかった。
『もしこのまま誰もやって来ず、ジムが帰りかけたとしたら、このままターゲットを捕縛をする。ベータ班には坂の下を封鎖する準備をするようすでに命じてある。気を緩めずにそのまま待て』
ジム・クロウを捕えることが出来るのは、このままいけばほぼ確実と思われた。ただし、ジェネラル――いや、仮に待ち合わせをしているのがジェネラルではなかったとしても、相手がやって来た場合、異変を察知される可能性があるため、その点は重々注意が必要だった。
そして、ジム・クロウの携帯に一本の電話が入ってから、突然事態が変わった。おそらく、通話相手からの言葉は極短いものだったと思われる。たとえば、『逃げろ!』といったような。
ブゥゥゥ……ンという、ヘリコプターのローター音をその場にいた全員が感じ取ったのと、機銃掃射がはじまったのとは、ほぼ同時だった。そしてその隙をついてジム・クロウが走りだす。トランザムはそこに捨てていく覚悟らしく、彼は駐車場のある方向とは逆の、丘の急斜面に向かって逃げていった。
『全員、その場から退避しろ!!』
それがギルバートの命令だった。だが、外から見えない形のインカムをしていた男たちは、その命には従わず、どうにかジム・クロウを追おうとした。墓を盾にしながら機銃掃射を避けて進み、ダウンベストにジーンズといった格好のジム・クロウの後ろ姿を素早く追っていく。こんな場所で墜落されても困るため、ギルバートは車の外へ出てヘリコプターに向かい数発撃ったが、あくまでもそれは威嚇射撃だった。
おそらく、ジム・クロウを逃がすことが目的だったのだろう。ヘリコプターの操縦者はすぐに引き上げていったのだが――その場のうち、誰にも怪我のなかったことだけが、ギルバートには不幸中の幸いだったといえる。
そしてさらにこのあと、草むした丘の中腹から数発の発砲音が響いてきた。ギルバートとルークとはすぐに援護へ向かったが、丘の上から急斜面を駆け下りようとする直前、事態はすでに決していたことがわかった。肩を撃ち抜かれたジム・クロウの両手には手錠がかけられており、彼は今やすっかり観念した様子で両脇をディランとトミーに押えられていたからである。
「あんたら、普通の警察の者じゃねえな。一体どこの手のもんだ?」
すでに目隠しまでされていたジム・クロウは、不審気にそう聞いた。ぺっとすぐそばの草の上に唾を吐くと、口の中を噛んだのかどうか、そこには血が混じっている。
「まあ、いずれわかるさ。それよりもしっかり歩け」
ジムが不審に感じたのも無理はない。通常の逮捕であれば、手錠をかける際に自分がなんの容疑で逮捕されるのか、その理由くらいは当然教えてもらえる。だが、この場合は問答無用だった。かといって、ジムの後を追ってきたのは普段彼が相手にしているような犯罪の匂いのするいかつい連中ではない。結論として、全員が私服の警察官なのだろうというのが、ジムの導きだした答えだった。
ジム・クロウの捕獲が成功した今、コード=キィウエストチームは一旦解散するということに決まり、ギルバートは彼らの全員に礼を述べるだけでなく、堅く握手して協力を感謝した。無論、彼らのほうでもこんな昼日中からヘリコプターの機銃掃射を受けるとは想像してもおらず――「あれは一体何者だったのか」とは、チームリーダーであるテッド・ミラーに一言聞かれていた。だが、ギルバートは「誰なのかはわからない」と答えるしかなかった。「これから、映像に収めたヘリコプターの画像から分析するが、誰なのかわかる可能性は低いだろう」とも。ちなみに、携帯でこの時の動画を撮影していたのはルーク・ランドンである。
肩の銃弾は貫通していることがわかったため、秘密情報庁の医療部で手当てを受けさせると、ジム・クロウはそのまま地下の尋問室へと連れこまれた。後ろ手に手錠をかけられた状態で椅子に座らされ、取調べのほうはディランとトミーの二人が当たった。その様子をギルバートとルークとは、ワンサイドミラーの向こう側で眺めていたわけだが、二時間ほどしてもジム・クロウが軽口を叩き続けていると、ルークは一旦席を外すことにしたようだ。
「例の動画の分析をしてきます。サングラスをしていて顔の三分の一は隠れているものの……AIスキャナーにかけて、犯罪者のデータベースと照合してみようと思います。何か取り調べのほうに大きな変化でもあれば、お知らせください」
「ああ。よろしく頼む」
民間で登録されているヘリコプターに機銃装置付きのものはない。あのヘリコプターは明らかに軍用のものだった。ということは、<ジェネラル>というのは軍兵器にまで手を出している悪の犯罪組織ということなのだろうか?
セスから上がってきた報告書によると、ジム・クロウは武器の売買にも多少は携わっているが、主な収入源は麻薬とマネーロンダリングであり、そのあたりのことは帳簿のほうを見ればよくわかることだった。第一、ジェネラルというのがそんなに大きなバックを持つ犯罪組織であるのなら、ジム・クロウと接点を持つことが<彼>にとってどんな利点があるというのだろう?
(あの帳簿を見る限り……ジェネラルに対して、麻薬の売上金の一部を渡しているといった形跡はなかった。可能性としては、医療少年院で知り合った誰かがその後<ジェネラル>になったというような、友人や知り合いということだろうか?……)
待ち合わせていた場所が墓だったことから、お互いに共通の友人がそこに眠っているといった事情でもあったのかどうか、ギルバートにはわからない。だが、これから一体何日――いや、何十日かかるにせよ、ジム・クロウを詰問していけば、いずれは必ずわかることがあるはずだった。
「あんたら、俺が墓地の噴水の前にいる間、その斜め後ろあたりの墓にいた二人組だろ?俺もすっかり油断したぜ。何しろ、ただの墓参りに来た一般人としか思ってなかったからな。あるいは美男同士のゲイのカップルといったところだ」
ここでトミーとディランが一度黙りこんだため、「おや。もしかして本当にそうだったのかい?」と、ジム・クロウは笑った。「俺はこう見えて、そういうことに関しちゃ偏見がねえんだ。そりゃまあ、部下たちとはよく、『てめえのキンタマ撃ち抜くぞ、このホモ野郎!』みたいな冗談を言ったりはするさ。だがそれは、本当の意味の差別ってわけじゃ……」
ドン、とテーブルをディランが叩くと、ジムは黙りこんだ。もちろん、「俺たちはホモなんかじゃねえ!」などと激昂したりはしない。彼らは単にジム・クロウにどう質問するのが効果的かと、無言で話しあっていたというそれだけだ。
「もう一度同じことを聞くぞ、ジム・クロウ。最初に言ったとおり、おまえの返答いかんによっては――おまえには山のように逮捕状を発行してムショ行きにだって出来るのにだ、おまえは掠り傷ひとつ受けるでもなくここから出ていくことも出来る。ジェネラルというのは一体誰だ?七月三十一日、午後三時三十七分五秒、このあとおまえはほんの三十秒ほどジェネラルとやらと会話して携帯を切っている。このジェネラルという人物は一体何者なんだ?」
「さあて、知らねえなあ。しかし、後学のために先に教えておいてくれねえか?今は技術が発達してるから、お宅ら警察連中……いや、あんたらたぶんUNOSだろ?なんでも今じゃ、遠隔操作によってどの携帯会社の携帯もほぼ盗聴が可能らしいって話だ。あんたらみたいな国の捜査機関にかかったとしたらな。俺は自分の部下たちの間に裏切り者がいるとは思っちゃいない。うちの屋敷はああした地形だから、一度警察の上層部の誰かが俺を絶対挙げたいとなれば、粘り強く橋のたもとを見張ってりゃいいってだけの話だからな」
UNOSというのは、ユトランド共和国におけるアメリカ・FBIに当たるような捜査機関のことである。どうやら、ジム・クロウはまだ自分がUSISという国の情報機関の手に落ちたのだとは想像だにしていないらしい。
「おまえも、シックスフィンガーデビルなんて呼ばれてる割には、随分考え方が甘っちょろいようだな。人間は金が絡めば誰だってユダのように裏切る可能性があるものなのさ。貴様が麻薬で荒稼ぎしてようと、こっちはその点には興味がないと言ったろう?ただ、ジェネラルというのが一体どこの何者かってことだけを吐きさえすれば……無傷でここから出ていくことが出来るんだぞ」
「無傷でだって?ま、この肩の銃創についちゃ俺も問わないさ。こう見えて心の広い男だからな。だが、甘っちょろいのは一体どっちだよ?俺は自分を裏切った奴に対しちゃ随分冷酷なことをしてきたが、あんたらの尋問はどうにも生ぬるいな。もっとも、俺の目玉を生きたままくり抜こうとどうしようと……ジェネラルがどこの誰かなんて俺は知らねえよ。人間、自分が知らないことについては答えようがない。だろ?」
――手を変え品を変え、あらゆる方角からディランとトミーはジム・クロウを攻め立てたが、彼は終始一貫して「ジェネラルなぞ知らねえ。将軍と聞いて俺がパッと思い浮かぶのは、フランスのナポレオンとかイギリスのネルソン提督とか、何かそんなところだな」といったようにしか答えはしない。
「じゃあ、もう一度最初から聞くぞ。だったらおまえは、アストレイシア墓地で誰と待ち合わせてた?また、その際に一度だけ電話に出たな?その相手は一体誰なんだ?」
通話相手は、例によってプリペイド式の携帯から電話してきたことがわかっている。また、ジム・クロウの尋問時間がトータルで五時間を越えようとする頃……ランドンが再び地下の尋問室まで下りてきて報告した。
「AIで、可能性の高い顔パターンを想定して検索しましたが、犯罪者のデータベースにヒットするものはありませんでした。何分、頭にはヘルメットも被ってましたしね……仮にヒットしてもその人物はこの件とは無関係だったかもしれません。あと、ヘリコプターのほうはブラックバイパー社のアストラホークⅡであることがわかりました。塗装のほうが白塗りだったので、てっきり民間用のヘリを改造したのかとさえ思いましたが……国土交通省に問いあわせたところ、そのような飛行記録の申請はなかったそうです」
「そうだろうな。これから機銃掃射を開始するって時に、わざわざ自己申告するような馬鹿はいない。ありがとう、ランドン。その件についてはあとで俺が直接調べようと思ってたことなんだ」
「いえ、どういたしまして」
気のつく部下は、さらにその手に食事をのせたトレイを携えていた。先ほどと変わらぬ殺風景な尋問室を見渡すと、ランドンもまたギルバート同様溜息を着いた。というのも、「ジェネラルなんか知らねえっての!」、「こっちにはな、時間はたっぷりあるんだ。五十日後にようやく吐くというよりも、なるべく早くゲロっちまったほうがおまえのためだぞ!!」だのいうお粗末な会話を聞き及び、事態は三時間前と大して変化ないようだと見てとったからだった。
「本部長が食事をされましたら、彼らと我々とで交代することにしますか?あの男は一日くらい食事などさせなくてもいいでしょうが、ディランとトミーにはそろそろ休憩が必要な頃合かもしれませんから」
「そうだな。あと、あの正体のわからないヘリコプターについては航空法違反で引っ張れないかどうか、届出をしておこうと思う。誰も死人が出なかったから良かったようなものの……一人でも死んでいたら、コンラッド警視正に顔向けが出来ないところだった」
もちろん、こちらも捜査などしたところで、犯人が発見される可能性は低いかもしれない。だが今は、誰が・いつ・どこから偶然にもスマートフォンなどで撮影しており、思わぬところから目撃情報が出てくるかもわからない時代なのだ。
「そうですな。もはやジム・クロウを捕えるのは時間の問題……という意味で、それ以外のところから援護射撃されるなどとはまったく想定外でしたから。それはあの場にいた全員がそう感じたことでしょう。それで、すでにコンラッド警視正にはご連絡されたので?」
「無論だ」と、溜息を着きながらギルバートはコーヒーを飲んだ。ルークがトレイに乗せてきてくれたのはハンバーガーとポテトだった。「向こうの尋問になんの進展もないのを聞きながら、『裏切り者』の調査を依頼しておいた。警視正も驚いていたよ。昼日中から犯罪者の汚いネズミ一匹のために機銃掃射するなど……正気の沙汰じゃないってな。まあ、あくまでも可能性の高低の問題だが、丘の上のアストレイシア墓地にいた十二人は裏切り者である可能性は低い。おそらくは丘のふもとで待機していた内の誰かだな。じゃなかったら、情報が洩れるはずはないんだ」
丘のふもとで待機中、あるいはそれ以前に、ジェネラル、あるいは<彼>の部下と連絡を取る……それはまったく不可能ではないはずの行動だった。そしてこうなって来てみると、ギルバートはだんだんに最初はいるのかいないのかわからぬ、架空の悪の組織が――その重みと実在感を増してきたように感じていた。ベテランの刑事が言うところのいわゆる「デカい山だ」と直感するあの感覚である。
「そして俺が不思議なのはな……このジム・クロウという男に、一体何故<ジェネラル>とやらはここまでのことをする必要があったのかということなんだ。何かよほどの親密な結びつきでもなければ、ここまでのことはしないだろう。しかも、飛んできたのが軍用ヘリ、さらには情報漏洩の可能性は極めてゼロに近かろうと思われるメンバーを選んだというのに――その中にまで密告者がいたんだ。この根の深さ……いや、ジェネラルとやらは一体どこまで網を広げているのか、そしてそう考えた場合、長官が言っていたとおり……このUSIS内にも<悪のエリート>とやらに情報を流している裏切り者がいるということになるぞ」
なんにせよ、まずは目の前のせっかく仕留めた獲物から情報を得るのが第一である。そこで、ギルバートとルークとは、ディランとトミーと尋問を交替した。ギルバートとランドンとは、ジェネラルのことをすぐに聞いたりはしない。彼の家庭環境や生育環境のことなど、あるいは彼が興味を持っていそうな全然関係のないことに言及しては、談笑することさえあるといった関係を築く。まあ、昔からある古い手だが、きつく締め上げるタイプのディラン&トミー、そして優しく教え諭すようなギルバート&ルークと、彼らの取調べのほうはあくまで人道的だった。映画にあるような電気ショックや自白剤を使用したりということは――ここユトランド国内においては「基本的に」使用は許されていない(正確には自白剤ではなく、相手が自白したくなるような薬剤があるという意味だが)。
ジム・クロウは三食それなりに食事も与えられ、拷問の一貫として眠ることすら許されない……ということもなく、彼は夜遅くには刑務所の一室のような場所で監視付きで就寝が許された。そして彼を捕縛したその日のうちにセスが三角州の麻薬王の居城からUSISに引き上げてきた。彼はジム・クロウが出かけたあと、外へ出る機会を窺って逃げてきたのだった。その後、ルイ・コーに連絡して彼にも最低でもユトレイシア市内から出ていくよう勧めた。また、イェン一族には、近いうちにジム・クロウの残党が攻めてくるかもしれないと想定し、警戒を緩めないようにと警告しておいた。
というのも、ジム・クロウがあのまま三角州の自分の居城へ戻らなかった場合、<裏切り者探し>が当然はじまり、セスもまた時を同じくして姿を消したとなれば……一番あやしいのはルイ・コーが連れてきたミシェル・レギーニだということになるだろう。そして「イェン一族を血祭りにあげろ!」ということになるまでは、そう時間はかからぬのではないかとセスは予想していたのである。
>>続く。