第4章
この翌日、ジムの呼び出しに応じて、ルイ・コーは部下をひとりだけ連れ、三角州のほぼ中ほどにある、バロック建築風の三階建ての豪邸までやって来た。
ルイは中国人とユトレイシア人のハーフで、中華人街に住む一族はその全員が、下層中産階級だった。言うなれば、そこそこ真面目に働きさえすれば、不安定ながらもまあまあの暮らしが約束されている……といった、そのような身の上だったといっていい。
彼自身も生来が真面目にコツコツ働くといったタイプで、自分が伯父の犯罪組織の金庫番にいずれなるなどとは、想像してみたこともなかった。だが、大学卒業後――中国系であったことから、欲しかった専門職の席を得られず、失意の日々を送っていた時のことだった。アルバイト先で盗みの嫌疑をかけられ、彼は真面目に働いているのが馬鹿らしくなった。親に苦労をさせて大学を卒業しても、その後は中華人街の友人の店を手伝うしか能がないという現実……そんな時、友人が経営する小売業の店が潰されそうになる危機を、チャン・イェン伯父が救ってくれたのである。
このことを機に、それまでは倦厭していた伯父の犯罪稼業をルイは手伝うようになった。自ら麻薬に手を染めたり、それを直接誰かに売ったり、あるいは殺人や暴行等に加わるということはなかったが、弁護士や会計士らと帳簿に目を通し(この場合の帳簿というのは、もちろん<裏の>ということだが)、どうすればもっとも効果的に犯罪組織として金を稼ぐことが出来るかを研究した。
伯父のチャン・イェンは、表向きは土木建設業の社長の職にあったわけだが、ルイは従業員の手当てを厚くし、住環境なども整えてやり、最初の数年で会社の収入を三倍以上にも増やした。血が繋がっていることに加え、こうした功績からチャンは甥のことをますます信用するようになったわけだが――裏の帳簿にあたるカジノや麻薬の売上のことに関しては、ルイはあまり伯父にうるさく口出ししたりしなかった。ただ、何度か大きな取引のあった時に伯父に同行したことがあり、その時、シックスフィンガーデビルこと、ジム・クロウと初めて会い、『逆らわないほうが得策』な相手であることは、勘のいい彼はすぐに理解していた。
だが、欲に目のくらんでいる伯父は、どうもそのことがわかっていないらしいとルイは思ったものだ。というのも、その後も「いくら上物でも、六本指の麻薬は高すぎる」だの、「おまえもどうにか売上をごまかすいい方法を考えておくれ」とよく言われていたからだが……ルイは電話だけで、「これからはおまえが中華人街を取り仕切れ」と言われた時には驚いたものだ。何故といって、チャン・イェンには正妻・愛人含め、十人以上もの子があり、そのうちの息子七人を差し置いて自分がボスの地位を継ぐなど、ありえないことだとしか彼には思えなかった。
そのことに対し、シックスフィンガーデビルは言ったものだ。「おまえが自分の手を汚す必要はない。邪魔者はすべてこちらで消す。ルイ、おまえはただ、俺と正直なビジネスさえしてくれたら、それでいいのさ」と……。
そのようなわけで、ルイは「自分が伯父の跡を継ぐなどありえない」と、あらためて断りに来たわけだが、まさか自分とジム・クロウの携帯電話による会話をUSISが盗聴していようとは想像してもみなかった。だが、本来ルイが大学に欲しかった分子生物学の研究職――その椅子と引き換えに、自分と取引しないかと相手は持ちかけてきたのである。
もとより、伯父チャン・イェンの跡を継ぐなど、ルイには自分の手に余ることだとわかっていた。その上、秘密情報庁の上級エージェントだという男は、場合によっては自分をユト共和国国内、あるいはアメリカかイギリスに逃れさせ、身の安全を保証した上で大学の研究職を世話しようと約束してくれたのだ。
どのみち、伯父のチャン・イェン亡き今、中華人街のボスの座を争って、兄弟間で血で血を洗う抗争の火蓋が切って落とされるかもしれず、ルイはそのような身内の揉め事に巻き込まれるのが嫌だった。かといってシックスフィンガーデビルなどという通称の、悪魔の傀儡として命を賭けて一族のボスとなるのも避けたい道であり……このUSISの上級エージェントの申し出は、ルイにとって渡りに舟、願ってもないものだったといえる。
――こうして、ルイは一族を召集すると、ジム・クロウの申し出のことと、さらには秘密情報庁のエージェントの話をみなにし(この場合のみなというのは、チャン・イェンの息子七人と彼らの腹心の部下ということである)、「申し訳ないが、一度俺をボスとして担ぎ上げてくれ」と頭を下げて頼むことにしたのである。チャン・イェンの七人の息子たちからは色々な意見が出たが、最終的に彼らのもっとも心配しているのは、国の秘密情報庁の人間がどの程度信頼できるのか、ということだったに違いない。
「だって、そうだろう?USISイコール警察の人間と同義だ。奴らがジム・クロウの一味と同時に我々を逮捕しないだなどと、何故断言できる?」
そう言ったのは、チャン・イェンの二番目の愛人との間に出来た、リュウ・イェンだった。七人の男兄弟の中では一番の切れ者で商売の才覚もあるが、性格が冷酷で信頼が置けないというのがルイの彼に対する評価である。年齢は三十五歳で、女のように白い肌の美形だったが、女性よりも男性を――特にある年齢の若い少年を好んでいるため、今も結婚はしていない。
「それはつまり……今回のミッションにおいて、彼らのターゲットは我々ではないってことさ。もちろんUSISはユトレイシア警察庁と深い繋がりがあって、我々を一網打尽にしようと思えばそう出来る力があるだろう。だが今回、USISの目的はシックスフィンガーデビルを確保することらしい。彼の持っている情報のことで確かめたいことがあるってことでね。つまり、それが今回の彼らのミッションで、他のことには興味がないっていうことだった」
リュウ・イェンだけでなく、長兄のコン・イェン、次兄のハオ・イェン、四男のジョス・ラン、五男のミン・イェン、六男のヨン・イェン、七男のジャン・イェンは、ともに「そんなことは信じがたい」という、不信に満ちた顔の表情をしていた。
「もちろん、みんなの言いたいことはわかってるよ。そんな取引を持ちかけたこと自体がUSISの陰謀だって言いたいんだろ?だけど、これからは俺が伯父貴の跡を継いでみんなの上に立つだなんて、そんな話馬鹿げてるよ。それより俺はUSISの上級エージェントだとかいう男の言葉を信じて、大学の研究職でも世話してもらいたい。犯罪稼業からは出来れば早く足を洗いたいんだよ」
「いや、それも悪くはないかもな」
チャン・イェンの正妻との間に出来た第一子、コン・イェンは口許を歪めて酷薄に笑った。年齢のほうは四十三歳で、父親の生き方を真似たように、正妻だけでなく愛人との間にも十人以上の子供がいる。性格のほうはよくいえば平等で、物や金の貸し借りだけでなく、人間関係の貸し借りに関しても、簿記の帳簿のようにうるさい男だった。つまり、自分が貸しのある相手、あるいは借りのある相手のことは決して忘れないということだ。
「ルイ、おまえがこれまで我々一族に忠実に仕えてくれたことは、ここのみなが知るところだ。一応、血は水よりも濃いという我々の鉄則に照らしてみた場合、父上の跡を継ぐのは私なのだろうがな……率直に言って、みなの意見はどうだ。あの六本指の悪魔の目的は、我々一族を分裂させることらしいぞ。伯父の金庫番だったルイのことを担ぎあげて中華人街を治めさせ、そのことに不満を募らせた我々兄弟が内輪揉めすればいいと思ってるんだろう。何しろあいつの家では兄弟仲が悪くて、ジム・クロウの奴はみんなからいじめられて育ったのを恨みに思い、邪魔な兄や弟を抹殺した……だが、あいつは中国人というものを理解していない。我々の間では何よりも目上の人間を敬う。もしここで、私に対して何か言いたいことがあるなら、率直にそう言ってくれ。もしその意見が正しいものなら、私は喜んでその言葉に耳を傾けよう」
中華風のクラシックな椅子にそれぞれ腰掛け、テーブルを囲っていたチャン・イェンの七人の息子たちは、正妻の嫡子である長兄コンの言ったことに対し、「異議なし」というように、ただ頷いたり、目礼したりした。彼がいずれ父の跡を継ぐだろうことはチャン自身の遺言などなくても、自然な流れとしてそうなるだろうとみなの意見はもともと一致していた。
それでも、彼が長兄として何かと問題のある人物であったとすれば、そのことに不満を持った弟の誰かに暗殺されていたかもしれないが、その点コンは誰に対しても「平等」だった。また、父から潤沢な資金を与えられた次兄以降の兄弟たちも、自分で起業するなどして、十分すぎるほど儲けてもいたため……危険な裏の稼業に直接携わるよりも、時々「手伝う」程度に留めておいて、たまに甘い汁をすすれればそれで良いといった考えであったのである。
「それで、我々が一時的にルイのことをボスとして担ぎあげるとして……」
コンが立ち上がり、窓辺のほうへ立つと、そのあとの進行役を引き受けるように、次兄のハオ・イェンが上座の椅子に腰掛ける。兄のコンとは同腹で、盲目的といってもいいくらい兄のことを信奉しており、他の兄弟たちの彼に与える地位もまた「凡夫」といったところだったと言えよう。
「USISの上級エージェントやらは、具体的にどんなことをルイに指示してきたんだ?」
兄弟順に並んだ長方形の椅子の末席についていたルイは、ここで立ち上がると、脇のほうにあった小部屋から、ひとりの男を通した。背のすらりと高い白人で、鳶色の髪をしており、モデルような美男子だった。
「彼は、俺に連絡してきた上級エージェントの部下で、名前をミッシェル・レギーニさんとおっしゃるらしい」
(本名かどうかは知らないが)という意味をこめた眼差しを向け、ルイは男のことを紹介した。
「みんなが俺を一時的にせよボスとして担ぎあげてくれるなら……俺はこれからジム・クロウの三角州の豪邸まで出向いていって、彼のことを忠誠のしるしとして置いてこようと思うんだ」
どうやら、その場にいる誰にも、ルイの言っている言葉の意味がわからなかったらしい。そこでルイは、もう少し噛み砕いて説明することにした。
「つまり……あの六本指の悪魔の奴は、中国文化になぞまるきり通じちゃいない。そこで、だな。中国人は昔から、自分が忠誠を誓う相手に、人質を与える習慣があると言って、もし俺や中華人街の身内の誰かがジム・クロウに対し裏切りを働いたとしたら――まあ、彼をサンドバッグにでもなんでもしてくれという、そういう申し出をするということだな」
一瞬の間があったのち、話の流れがどういうことなのかがわかると、椅子に座った中国服の男たちはその全員がどっと笑いだした(彼らは兄弟の全員が集まるといった席の場合、礼儀としてそのように正装するのが慣わしだった)。そして、口々に「気の毒に」とか「あの悪魔にどんな目にあわされるか」、「USISの仕事ってのもろくでもないな」と言って、腹を抱えて笑い続けた。
「確かにそれならば……」
長兄のコンが、どうにか笑いを堪えようとして、口許を押えたまま言った。
「我々にも損害がなくて済むというものだな。だが、ユトランド共和国の秘密情報庁っていうのは、噂じゃIQ120以上の人間しか入れないと言われているのに――一体何を考えているんだろうな。それで、差し支えがなければレギーニ君の命を賭した国の使命のほうを、我々はお聞かせ願えるのかね?」
笑い上戸の五男のミンが、いつまでもくっくっと笑っているため、隣に座っていた六男のヨンが腹違いの兄の脇をつつき、注意を促す。「そんなに笑っちゃ失礼だろ」とでも言うように。
「まあ、ここにいるみなさま方に御協力いただくわけですから、差し障りのない範囲内で御説明すると致しますと……」
長方形のテーブルの下座のほうに立ったまま、白い麻の背広を着た男は、どこか慇懃な調子で口を開いた。顔の表情のほうは不機嫌そのものといった感じだったが、彼自身も自分の今回の任務に対しまったく乗り気でないのだろう。そのことが誰にもわかるため、レギーニのこの見方によっては無礼とも映る態度を、彼らのほうでも喜んで許容したのである。
「今回の私のミッションは、シックスフィンガーズデビルの捕獲ということです。もちろん、奴を逮捕しようと思えばユトレイシア警察庁のほうでやって出来ないこともない……が、この六本指の悪魔めは、長く警察庁と癒着関係にあって、そのことを当局としてはバラされたくない=逮捕できないといった事情があるようで。ですが我々秘密情報庁としては、そうしたシックスフィンガーデビルが握っているかもしれない情報の中で、どうしても聞きたいことがあるわけです。確かに六本指の悪魔は犯罪者として有能でした。ですが、犯罪の裏舞台からそろそろ消えてもらったほうがいいというのが、USISとユトレイシア警察庁との一致した見解でして……なんといっても敵のことを知るにはその内側に潜りこむのが一番ということで、今回の私の派遣と相成ったわけです」
またもう一度、「気の毒に」とか「ひでえ仕事だ」、「シックスフィンガーデビルに何をされるやら」といった言葉が半ば嘲笑まじりに続いたあとで、長兄のコンがみなの意見を代表するように再び質問する。今度は彼は笑っていなかった。
「つまり、この取引において我々に損なところはひとつもないということですな。いずれ、父の仇をとるために、私には一族の長として奴の首を取るという責任がある。だがそれをあなたが代わりになしてくださるというのなら……我々としてはまったくもって協力を惜しまないといったところですよ。それであれば六本指の悪魔を捕獲後、我々の治めるカジノあたりに当局が踏み込むといった心配もないでしょうしな」
「Yes,Sir」と、ここでもレギーニはわざと慇懃無礼な態度を取った。「我々の今回のミッションの目的は、あくまで六本指の悪魔めを捕えるということです。よって、何か中華人街の秩序に余計な口を挟めたりといった行為は一切致しません。みなさんはみなさんで、平和に裏の世界を治めていってください。拜托您了(バイ トゥォ ニン ラ。よろしくお願いします)」
レギーニが最後に少しばかり中国語を使ったため、彼らもまた「也请您多关照(こちらこそよろしくお願いします)」と何故か声を合わせて挨拶した。そしてこのあと、哀れな生贄の羊のような立場の下級工作員ミシェル・レギーニはルイとともにメルセデスに乗り、三角州にある悪魔の宮殿まで出かけることになったわけだが――チャン・イェンの息子たちはその誰もが、彼に対して実に好意的だったと言える。五男のヨン・イェンなどは、笑わせてもらった礼なのかどうか、最後にこうミシェルに声をかけていたものだ。「もし生きて帰ってきたら、中華人街のカジノへ是非遊びにこいよ。ただでいくらでも遊ばせてやるから」と……。
* * * * * * *
「俺も、直接顔を見たことがあるのはほんの二度ほどでしかないが……奴の性格からいって、今回のことをあいつは面白がるんじゃないかと思う。もちろん、そうした性格分析的なこともお宅らはわかってて、こうした無謀な計画を立てたってことなんだろうけど……」
このメルセデスのほうは、チャン・イェンがルイの事業功績の褒美にとただでプレゼントしてくれたものだった。そして彼はこの時も運転手は使わず、自分で車のハンドルを握っていたのだが、出会った時から終始一貫してミシェルが不機嫌なことには当然気づいていた。
また、これがまったく気の乗らない任務であることは無理からぬことなので、そのことであえて何か言おうとも思わない。USISが彼とした最初の約束を破ることはないだろうと、その点も信頼している(また、最悪、分子生物学の研究員として大学で働けなくても、それはそれで構わないとルイは思っていた)。ただ、ルイとしてはこうなると、他のイェン一族の兄弟同様、ミシェルの身の上のことが心配なのだった。
もしこれでまだしも彼が、自分と同じように東洋系の血が混ざっているとわかる容貌であったとしたならいい。だが、ジム・クロウ自身が黒人で、彼の側近もその多くが黒人であるという場所に、場違いにも白人がひとりぽつんと置いていかれるというのは……明日もし、ユト河にミシェルの死体が浮かんでいたとしても、ルイはまったく不思議に思わないことだろう。
「俺は中華人街に捨てられてた孤児で、イェン家の愛人のひとりに拾われて育てられた。で、まあ、ケチなチンピラとしてお宅らの配下のひとりとして働いていたわけだが、これまで随分世話になったことに対し、一族には恩義を感じている。そこで、中国人の文化として忠誠を誓う時には人質を渡すシキタリがあると聞き、その役を買って出た……ルイ、この設定、ちゃんとあんたの頭に入ってるだろうな?」
「ああ、まあ……そこんところは問題ないが、だが、本当に大丈夫なのか?むしろイェン一家が寝首をかくために送りこんだ刺客と思われるんじゃないかってことが、俺は一番心配なんだが……」
ミシェルはサングラスを外すと、白の背広の胸ポケットにそれを収め、隣の運転席のルイを振り返った。
「あんた、優しいね。ま、もし俺がジム・クロウに数日のうちに殺されるんだとしても――実際それはあんたのせいでもなんでもないわけでさ。俺がもし死ぬとしたらそれは、指図した上司たちの読みが甘かったっていうのが原因なわけで……ま、俺は命根性の汚い奴だから、何をどうしてでも生き残ってやろうって意志が強いもんでね。そういう部分で俺が今回の任務もうまくこなすに違いないって上司さん方は思ってるんだろうよ」
「それにしても……どうせ聞いても本当のことなんか話しちゃくれないだろうけど、ミシェル、お宅にだって家族はいるだろ?秘密情報庁の職員が給料としていくらもらってるのか知らないけど、こんなの割に合わないなとは思わないのかい?」
ユト河左岸から三角州にかかる、長く巨大な橋を渡っている途中で、ルイはそんなふうに聞いた。ミシェルは紺碧の川面に見とれるように窓の外を暫く見続けたあと――ぽつりと、こんなことを言った。
「これはもちろん全部嘘なんだけど……好きな女がちょっと目を離した隙に億万長者の男と結婚しちまったんだよ。で、こんな危ない橋を仮に何本渡ったところで、経済的カーストとしては奴のほうが上なわけだ。けどまあ、もうちょっとかな……もう暫くこんな無茶なことを続けてまとまった金を儲けることが出来れば――高級車のマセラティにでも乗って、お姫さまを迎えにいけるかと思ってさ。向こうは結婚したなんて言っても、相手の男とじゃなく、金と結婚したみたいなもんなんだから」
「へえ……」
容姿的にも、男として醸しだされる雰囲気としても、ミシェルがもともと相当もてる体質なのだろうということは、ルイにもわかる。その彼が心底惚れている女がいて、その女のために金を貯めているだなんて……ルイはなんだか意外な気がした。というより、その億万長者のハートも射止めたという相手の女性がどれほどの女なのかと、そんなことが少しばかり気にかかる。
長い橋を渡り、一度三角州に辿り着くと、六本指の悪魔所有の宮殿までは、十分とかからず辿り着いた。塗り替えたばかりのように見える白い壁のぐるりを回り、正門と思しき場所まで辿り着くと、ルイは窓を下げてインターホンを押した。監視カメラが目に見える場所に設置されており、おそらくはそちらでこちらの姿を確認したのだろう。なんの返事もなく、自動で白い錬鉄製のドアが左右に開かれていく。
椰子の樹やオリーブ、ココナッツパームなどが庭には広がっており、ミシェルは少しばかり驚いた。というのも、ここユトレイシアの気候では、こうした亜熱帯や温帯気候に育つ植物というのは植物園くらいでしか見ることはないからだ。ドライブウェイをゆるやかに移動していくと、庭の片隅にはぶどう園のような場所まであるとわかり……ミシェルもルイも自分たちがマフィアの根城へやって来たことを一瞬忘れそうになったほどだった。
「そいつは誰だね?」
入口の監視カメラで、ルイの隣に白人の男が乗っているのを見ていたサディンがそう聞いた。何分、こんな敵の本拠地で伯父の仇を取るだのいうことはないだろうが、それでも用心するにこしたことはないと思っていた。
「ジム・クロウ様への献上物ですよ……といっても、こいつは同性愛者じゃないし、そういう変な意味ではないですがね」
凶暴なまでの腕っぷしの強さはあるが、頭のほうはあまり回らないサディンは、首を傾げつつ、まずはルイとミシェルの身体検査をし――銃が一丁も見つからなかったことに驚いた。べつに、銃を携帯していても、彼らにとってはそれがあまりに当たり前のことだったので、そのことを不審には思わない。ただ、一時的に預からせてもらえればサディンには十分だという、これはそうした話だった。
「あんたら、随分命知らずだな。俺たちのボスはカッと頭に血がのぼったら、それが仮に自分の情婦でもあっさり殺しちまうお人だ。だからそう思って、命が惜しけりゃ口には気をつけろ。わかったな?」
先に立って豪邸の中を案内するサディンの後ろにルイとミシェルはついていったが、この二メートル以上ある禿げの大男であれば、ちょっと首を締めただけでアマゾン川のアナコンダでも秒殺してしまうだろうと感じ――お互い(ゾッとする)といったジェスチャーをして会話を終えていた。
季節のほうは六月だったが、真夏並みに暑かったこともあり、部屋はどこも窓やドアが開け放してあった。これがもし右岸あたりの高級住宅街にある、同じような豪邸であったとすれば、おそらくすべての窓を閉め、エアコンを効かせるところだったろう。だが、このような小さな孤島であれば、川から吹いてくる風が涼しく、窓を開け放しているだけでも十分涼しいということなのかもしれない。
三階建ての豪邸は、外から見た場合そうは感じなかったが、一歩中へ足を踏み入れると、かなり複雑な作りをしていることがわかる。これはミシェルがあとになってから知ることではあるが、変なところで廊下が行き止まりになっていたり、隠し通路が奥のほうに通じていたりと……この建物を注文した施主の性格、特にその猜疑心の強さを表したような構造をしていることがよくわかる。
実際のところ、ジム・クロウは三階の一帯を自分の居室としているわけだが、そこへは普通の階段を上ってでは辿り着けないようになっている。ルイとミシェルは、食堂の奥の厨房から通じているエレベーターに乗り、三階へと通されたわけだが――その時はただ、わけもわからずサディンの言うとおりにしたというそれだけだった。
「さてと、そっちの廊下をずっと行った突きあたりが、ボスのいる部屋だ。俺の見たところ、今日のボスは機嫌がいい。とりあえず、さっき昼食を運んだ時まではそうだった。だから自分たちはとてもラッキーだったと思って、粗相のないようにしてくれれば……ま、ここから死体で出ていかなくていいことになるだろうよ」
ミシェルは直感で、サディンから殺人者の匂いを感じ、(あまり後ろには立って欲しくない奴だな)とあらためて思っていた。ボスがいるという部屋には実際にはまだ誰もいなかったが、「ルイ=コーと白人の男をお連れしました」と彼が声をかけると、開け放しになっていた窓からジム・クロウが姿を現す。
「白人の男だって?」
<最強の男>と日本語で書かれたTシャツにジーンズという、実にラフな格好をしてジム・クロウはバルコニーから室内のほうへ戻ってきた。部屋のほうは高価なアンティークの家具によってまとめられていたが、ミシェルはといえば――(だがこの六本指野郎には、これがアールヌーボーなのかアールデコなのかもわかっちゃいまいな)などと推測していたものである。
だが、なんにしても部屋のほうはしつらえもよく、とても好感の持てる空間だった。ここへ通された敵のマフィアの血が大量に流されたことがあるなどとは……おそらく誰も信じられないほどに。
「よお、ルイ。久しぶりだな。それで、イェン一族の連中は、俺に対してなんて言ってる?」
人物資料のほうに、身長165センチ、体重約50キロとあったのをミシェルは覚えていたが、実際に会ったジム・クロウは、それよりも小柄であるように見えた。また、同資料のほうには、彼が三番目だったか四番目の兄を、性器が小さいと遠まわしにほのめかされたことが原因で殺したとあったが、もしかしたらそれは事実なのかもしれないとミシェルは思った。こののち、彼と生活をともにする過程において、ミシェルの中でそれはほぼ確信に変わっていったかもしれない。というのも、ジムは女性関係のほうが派手でなく、時々娼館のような場所へ出かけては、自分の気に入った女性を何度も指名するという程度だったからだ(ちなみに彼は結婚もしていなければ、愛人に生ませた子供がいるというわけでもない)。
「イェン一族の結束は確かなものです、ミスター・クロウ。コン兄以下、イェン家の七人の兄弟と話しあった結果……みな、俺をボスとして認めてくれました。それで、ですね……」
ヒュミント工作に慣れているミシェルはともかく、ルイは自分の演技が白々しいものにならないようにと、随分気を遣ったものだ。初夏の湿気を含んだ空気のせいではない汗が、にわかにじっとりとわいてくる。
「ふうん。その過程で兄弟のうちの誰かが命を落とすとか、手の指が一本なくなるとか、そういう惨劇は一切起きなかったのかい?」
信じがたい、というようにジム・クロウはテーブルの上に足を投げだすと、シグ・ザウエルを腰から引っ張りだし、それもテーブルの上へ置いた。これで俺も丸腰だ、というように。
「正直、いくら伯父に可愛がられていたとはいえ、ただの金庫番の俺がボスだなんて、みんな心の中で思うところはあったでしょう。それとも、表面上は一旦賛成ということにしておいて、あとから機を見て俺を始末しようという腹なのか……なんにしても、こちらは我々一族の下部構成員のミシェル・レギーニ。我々中華民族の間では、自分が忠誠を誓った相手に人質を渡すという慣わしがありまして。そこで、この男を献上させていただきたく……」
「おいおい、マジかよっ!?」
ジム・クロウは「聞いたかよ、サディン」というように、自分の部下のほうを振り返りつつ、大笑いした。
「いやいや、こんな色男の白人をとはねえ。もしお宅らチャイニーズにそうしたシキタリとやらがあるのだとしても、俺なら役に立ちそうもないクズを寄越すだろうね。それか、こちらの動静を窺う間者として送りこむかのどっちかだ」
品定めするような眼差しで見つめられても、ミシェルは平気だった。むしろこうしたシチュエーションにまったく慣れていないルイのほうが狼狽の色を隠すのに苦労したといっていい。
「彼は……中華人街に捨てられていたところを、チャン伯父の愛人のひとりが可哀想にと思って拾ったんですよ。そして、大きくなるにつれて天使のように可愛く育っていったもので、血の繋がりなどなくても我が子のように可愛いといったように思うようになったんです」
「ヨンアさまには、実際とてもよくしていただきました」と、ミシェルが後を引き取る。「実際、わたしもチャン伯父にはよくしていただいたんです。組織の下っ端として、毎月それなりの手当てをいただいていましたし……」
「ふうん。チャン・イェンの何番目の愛人かだの、そんな詳しいことは突っ込むだけ無意味だろうな。俺は正直、この白人が自分の寝首をかくために送りこまれてきたとは思えんし、何かちょっとした粗相でもやらかして俺の機嫌を損なえば……拳銃で脳天を吹っ飛ばされて終わりってことも承知の上でここへ来たんだろうからな。おい、おまえら。よく覚えておけよ。この白人がこっちの内情を探るために送りこまれたブタだとわかった時には……五十口径の銃でこいつの綺麗な顔を吹っ飛ばす。言ってる意味わかるか?五十口径の銃を至近距離からぶっ放された場合――文字通り、脳ミソも顔のパーツも吹き飛ぶことになるからな。その覚悟があるなら、俺もこの白人を奴隷としてこき使うことに同意してやろう」
ここで、ルイとミシェルは互いに顔を見合わせた。そして、物問いたげなルイに対し、ミシェルは力強く頷いてみせたのだった。
「コン兄曰く」ごくり、とルイは喉を鳴らして言った。「ミシェルは我々イェン一族の忠誠の証しです。忠誠として捧げた人質である以上、こちらに何か不穏な動きがあった場合には、彼のことをいかように処罰しようとも、クロウさまのご自由にしていただいて結構です」
「そうかい」
(どうにも解せねえな)というように、ジム・クロウは何度も首をひねっていた。もちろん、相手を怪しんで「そんな白人野郎、一体なんの役に立つ」と憤慨し、身柄の受け取りをこの場で拒否してもいい。だが、ジムはミシェルに個人的に興味を持った。もちろん、彼には男色といった趣味はない。だが、部下の黒人の誰かに「こいつのことは好きにしていい」とでも言ったとしたら、一体どうするつもりだったのか?また、もしチャン伯父に世話になったのだとしたら、自分は憎い仇なはずである。だがその割に、ジムはミシェルから殺意のようなものを一切感じなかった。それに、この屋敷内での携帯、あるいはパソコンの使用等は、履歴をすぐ調べられる可能性のあることから――こちらの情報をイェン一族に流すというのも、容易ではないはずなのだ。
(あれはなんだったかな。中国人の出てくる昔のドラマで……いや、韓国人だったか?十年だか二十年くらいかけて、仇の男を探しだして復讐するとかいう……もしやこいつも、俺の信頼をすっかり得た頃になった十年後にでもチャン伯父の仇を討つだのいう、そんな遠大な計画を描いてるってことなのか?)
そして、ジムはここまで考えて、思わず笑みを洩らした。
(このミシェル・レギーニとかいう男は、そんな粘り強いようにはまるで見えんな。どう見ても移り気で飽きっぽく、三日後にでも、ここでの暮らしに飽きたから、そろそろ出ていきたいとでも俺に言って来そうだ)
「まあ、いいだろう。見てのとおり、ここは有刺鉄線こそないものの、まるで刑務所のように人と物の出入りが制限される環境だ。だから、この屋敷内で何かまずいことになって庭のあたりでも逃げまわろうものなら……サディンの愛犬のドーベルマンたちに追っかけまわされて、生きた餌にされることになるぞ。それと、運良くこの屋敷からどうにか出られたとしても、俺の一存で橋の封鎖が可能になるからな。俺の許可なくしてここからは出ていけないと思っておいたほうがいい。ま、そんな環境に是非ともいたいって言うんなら、好きなだけここにいな。部下たちにも、おまえに手出しはさせない。そのかわり、おまえがここの情報を盗んだだのなんだの、何かトラブルが起きた時には――当然、落とし前はつけてもらうぜ」
「それでは、固めの杯を……」
渋茶色のテーブルの上に、ルイはナップザックの中に入れてきた徳利をひとつと杯をいくつか取りだした。そして最後に「鬼ごろし」と書かれた日本酒を一本。
「一体なんだそりゃ?」
ずっと口を聞かずにこちらを見守っていたサディンが、とうとう好奇心を抑えられなくなって近づいてくる。徳利と杯の下のほうを見ると、<Made in China>と金のラベルが貼ってあり――おそらくこのことが、確かにこれは彼らの「シキタリ」なのだろうと、ジム・クロウに信じさせる根拠になったようである。
「えーと、我々中国人の間ではですね、舎弟がボスに忠誠を誓う時には、こうして酒を酌み交わすという儀式を行う取り決めがありまして……」
こんなことはルイも初耳だったが、「そうすればそれっぽくなるだろう」というこれもUSIS本部からのお達しなのだった。『どうせジム・クロウの奴は中国人のことなど何も知りはしないのだから』と。
「ふうん。で、これをどうするんだ?」
ジムもまた興味深そうに徳利とぐい呑み、それに小さな杯がいくつかあるのを眺めやる。
「ええとですね、この大きいぐい呑みをクロウさまがお持ちになって、こっちのそれより小さめの杯で我々が酒を飲む……これでボスと舎弟の間では忠誠の契約が成り立つのです」
ルイが徳利に「鬼ごろし」をとくとくという音とともに入れ、さらにぐい呑みと四つの杯にそれを順についでいく。そして最初にルイが、次にミシェル、そして最後に促されて首を傾げているサディンが、クロウのぐいのみにカチンと杯をぶつけて一気に飲み干す。また、ジムのほうでもなんとなく、自分もこれを飲むべきなのだろうという気がして――ぐいのみに満たされた透明な日本酒をすべて飲み干した。
「さて、これで我々の固めの杯は完了です」
「へえ。これが日本酒か。これでスシを食うとうまいと聞いてはいたが、実際そうかもしれんな」
サディンが『たったのこれだけでは飲み足りない』というように、一升瓶からさらに「鬼ごろし」をついで飲んでいる。そんな部下の姿を見ていたジムは、破顔一笑した。
「わかった。いいだろう、気に入った!!」
そう言ってバンバンとルイとミシェルの背中を叩き――部屋から出ていきかけながらサディンに命じる。
「料理長のドミニクに、食事の用意をしろと連絡しろ。うまい酒を飲んだら腹が減ってきた」
「へい、わかりやした」
新しいボスのジム・クロウはどこかへ行ってしまい、サディンもまた携帯電話をかけに廊下へ出てしまった。ルイとミシェルとはその場に取り残され、どうしていいかわからなかったわけだが……可能性は低いにしても、この場に盗聴器が仕掛けられていないとも限らないと考え、無難な会話に終始した。もちろんそれも小声で、だ。
「ミシェル、おまえ、自分の身の上をしっかりわきまえて、ジムの兄貴によくお仕えしろよ」
「もちろんわかってるさ。ルイもコン兄貴たちによく伝えてくれよ。そっちで何か不穏な動きがあった場合には――ここにいる俺が体格のいい黒人たちのサンドバッグにされるってこと、ゆめゆめ忘れないようにしてくれってさ」
そしてこののち、夕食の席に呼ばれたミシェルとルイは、そこで上機嫌のジムに他の部下たちを紹介され……この<中国人のシキタリ>については、一人残らず誰もが大笑いした。「クロウの兄貴がもしゲイか、男も女もどっちもイケる口だったらどうするつもりだったんだ?」とか、「中国人が白人を黒人のサンドバッグとして差し出すなんて、聞いたこともねえぜ」といったように。
この時点で、ミシェルは食卓を囲むジム・クロウの腹心の部下たちの顔と名前のすべてを完全に記憶した。この時、その場にいたのはサディンを含めた十六名ほどの黒人だったが、食卓のほうは終始笑いに満たされていた。その中には「ミシェルが男じゃなくて、白人の女だったらなあ」、「兄貴が飽きたあと、俺たちにもそんな機会があったろうに」、「いやいや、そんなことになったら今ごろ死人が出てるぜ。誰が一番最初にミシェルって女とやるかってことでさ」、「違いねえ」……といったことにはじまる下品な話もかなり含まれていたが、ミシェルはまったく気にしなかった。
そして、実際のところミシェルは容姿だけは高貴な貴族の白人然としていたにも関わらず――彼が本物の孤児であり、孤児院で虐待されたことから逃げだし、その後はリロイという同じ孤児院出の黒人の少年と盗みや置き引きを繰り返して生きてきたということが……もしかしたら彼らの環境に馴染むのに速かった、一番の要因であったのかもしれない。
>>続く。