第3章
ユトレイシア市内のほぼ真ん中には、ユト河という大きな河が流れているのだが、この川を挟んだ右岸側は主に富裕層が住み、左岸側には中産階級、あるいはそれよりも所得の低い層が住んでいると一般に認識されている。
また、ユト河の中ほどに三角形の中洲のある場所があり、その両岸には倉庫街が広がっているのだが、ここでは右岸側の人間が左岸に渡ったが最後、戻っては来れないか、あるいは戻ってきてもそれは死体によってだろう……と噂されるほど、治安の悪い場所がある。そして、ジム・クロウはその倉庫街の一帯を取り仕切っている犯罪組織のボスだった。
彼はそこで、「貧乏人は決してこの河を越えて右岸へは行けない。そういう運命なんだよ」と言われて育った。そして、「それでももし、お金持ちになって向こうへ行けたらどうなるの?」と大人たちに聞くたび――彼らはただ溜息を着いて首を振るばかりだった。まだ子供だったジムは純粋すぎてわからなかったのだ。だから「自分だって努力すればきっと河の向こう側へだって行けるさ」と無邪気に夢見た。
小さい頃……というより、物心ついた時から、ジムはお腹をすかせていた。彼の兄弟姉妹、全員がそうだったが、母親は子供のことには無頓着で、いつでも麻薬を求めて外で男と寝ていた。こうなると、上の兄なり姉なりが弟や妹の面倒をみるといった図式が自然と出来上がる。だが、ジムはこのほんの僅かな食べ物の分配ではいつでも貧乏くじを引かされた。彼は兄弟としては上から数えて四番目、他に姉が上に二人いるという、六番目の子供だったのだが、何故か兄も姉も他の弟や妹たちのことを優先して可愛がり、ジムのことは無視したり、明らかに食べ物なども少なく与えた。
ジムは今も、兄弟たちの中で自分の背が一番低いのは、彼らの間で一番食べ物を少なく与えられ続けたせいだろうと信じて疑わない。やがて、彼の弟や妹たちも、ジムが兄や姉から軽んじられている姿を見て、ジムのことは同じように馬鹿にしたり物を奪ったりしてもいいのだと勘違いするようになり……こうした幼少期の頃に起きた出来事が、回りまわって結局は彼ら自身の寿命を縮めたのだといえよう。
『おねえちゃん、なんでだよう。なんで俺だけいつも、ごはんが少ないんだよう』
そう言って泣きながら姉の後ろ姿に追いすがると、長女のデボラは言ったものだった。
『それはね、あんたの手が六本指だからよ、この化け物ちゃん。他のみんなは五本しか指がないのに、なんであんだだけ六本も指があるのよ、気持ち悪いったら。きっとあんたのせいでうちは貧乏なのよ。ジムにかけられた呪いがうちをこんなにも苦しめてるんだわ』
――やがて、大体これに類することを他の兄弟姉妹も言うようになり、家で起きる悪いことは大抵がジムのせいだということにされた。口答えをすると、体の大きい兄たちに殴られたり、姉たちは何かのストレス解消でもするみたいに六本指の弟のことを狭い場所へ閉じ込め監禁した。
そしてそんな中で唯一、すぐ下の弟のノエルだけが、いつでもジムの味方だった。他の兄弟姉妹と違って、彼とだけは両親ともに血が繋がっていたからというより……ノエルはもともとそうした優しい気性の持ち主だったのだ。
『なんで俺、他のみんなと違って六本も指があるんだろ』
そう言ってジムが泣きじゃくると(意外かもしれないが、小さい頃、彼は本当に泣き虫だった)、弟はこんな話をして兄のことを慰めてくれたものだ。
『何も六本指なのは、兄貴だけじゃないぜ。有名人にもそういう人はたくさんいるらしいよ。作家のサリンジャーとか、メジャーリーグのピッチャーのアントニオ・アルフォンセカとか……だからきっと、ジムは将来大物になるよ。みんなユト河の向こうには行けないって言うけど、きっとジムなら行けるよ。僕はそんな気がするな』
ジムの味方をすると、自分にも損な役回りがまわってきたり、食事の量を減らされたりするにも関わらず、ノエルはいつでも兄のことを守ってくれたり、庇ってくれたりした。当時は、まるでノエルのほうが兄で、ジムのほうが弟でもあるかのような関係性だった。
家にいても居心地が悪いだけなので、やがてジムは近所の友達の家などを転々とするようになったが、唯一弟のノエルとだけは連絡を取り続けていた。ノエルは兄弟たちの中で一番頭がよく、ユト河を越えたところにある右岸の高校に進学したノエルは、その後カークランド大学に奨学金を得て進むということになるが――ジムはこの弟に犯罪で得たお金を送ることを厭わなかった。
無論、弟のノエルのほうでもその金が合法的な手段で得たものでないとは知っていたろう。だが、彼は兄と会うたびにいつでも感謝の言葉を述べたものだった。『兄貴、本当にありがとう』と。『あの地獄のような生活から抜けだせたのは、全部兄貴のお陰だ』と……。
十二歳の時に母親が寝ていた男を何人も殺した容疑で、ジムは初等少年院送りになるはずだったのだが、彼がずっと家庭でどんな扱いを受けてきたかを知った司法は、彼には更生の余地があるとして医療少年院へ送致するという結論を下していた。
この医療少年院にいる間、彼はとても幸せだった。生まれてはじめてといってもいいくらいお腹いっぱい食べ、少年院の職員たちからも人間らしい扱いを受け……確かに、少年院の外へ出ていくことは禁じられていたかもしれないが、ジムはここに一生いてもいいと思うくらい満たされ、充実した毎日を送っていたといっていい。
また、何より一番大きかったのは、医療少年院で一からきちんとした教育を受けたことだっただろうか。ジムは小学校ですらまともに通っていなかったが、そんなのは彼だけではなかった。少年院の教員たちは辛抱強く生徒のひとりひとりのレベルにあった教育を施し、その更生に務めていたといっていい。
だから、ジムがただひとつだけ後悔していることはといえば――その時、母親にも近い感情を抱いていた女性教師との約束を破ってしまったことかもしれない。『もう悪いことはしないって、神さまと約束してね』……そう言って彼女は、ずっと自分が首にかけていた十字架のネックレスをくれた。実際のところ、キリスト教の神学の授業では、彼はシスターたちを困らせてばかりいたものだ。
『なんで俺は貧乏な家に生まれたの?母ちゃんは他の家のママみたいじゃなく、麻薬のために他の男と寝てばかりいたよ。俺だって自分の生まれた家があんなじゃなかったら……六本指の化け物だとかなんとか言われたりしなかったら、きっと誰も殺さずにすんだよ。それなのになんで?なんで神さまは最初からそういうひどい環境に俺のことを放りこんだの?』
――このジムの疑問に対する年配のシスターの答えは次のようなものだった。
『神さまはすべての人に試練をお与えになるのよ。でも耐えられないような試練には会わせたりはなさらないの。聖書に『試練にあっても、脱出の道も同時に備えていてくださる』とあるようにね』
ジムは年配のシスターのこの答えに納得したわけではなかった。ただ、普段から優しい彼女のことをそれ以上困らせたくなくて、黙りこむことにしたというそれだけだった。
実際、生まれてからこの方、ジムの人生は耐えられない試練の連続だった。最初に母親が寝ていた麻薬のディーラーを殺したのは九歳の時のことだった。偶然、母が男としている現場を見つけてしまい……その汚らしい男が家から出ていくのを尾けていってナイフで滅多刺しにした。そのあたり一帯は、黒人の麻薬の売人がひとり死んだくらいでは、まともな捜査など入らないほど荒れた地域だった。そのようなわけで、ジムの連続殺人はほんの三年の間に、三十四人にものぼり――逮捕された時、ジムは腕に手錠をかけられても、実にきょとんとした顔をしていたものだった。むしろ、刑事ドラマの一場面を見ているみたいで格好いいとすら思っていたくらいだった。
この時、劇的事件の主人公に自分がなったらしいと感じ、ジムは警察の取調室で自分が誰をどんなふうにして殺したのかを喜々としてしゃべりまくった。ジムの話を聞いていた刑事たちは青ざめた顔をして驚いていたが、ジムはまるで気にも留めなかった。
『だって兄ちゃんたち、いつも言ってるよ?母さんの今の男は本物のクズだとかカスだとかって。だからね、オレ、そのクズやカスを始末してやったんだよ。むしろ、世の中のためになる、いいことをさ』
ジムの様子があまりにも無邪気だったため、刑事たちは首を振りながら両手を天に向けていたものだった。まるで、『こいつはお手上げだぜ』とでもいうように。何故なら、『こんなにたくさん人を殺して、今まで一度も良心が痛んだことはないのかい?』という刑事の質問に対する答えがそれだったからだ。
そしてあれから、十年以上の歳月が流れ、ユトレイシアの裏社会のボスとなったジム・クロウは、九歳の時に初めて人を殺した時と同じく、邪魔者を排除するのにいささかのためらいも覚えることはなかったといえる。たとえば、この時も彼はわかっているだけで8トンの麻薬をちょろまかした中華人街のボス、チャン・イェンのことを呼びだし、上物の麻薬を売った金をどこに隠したか、尋問しているところだったからだ。
「そ、そんなもの、わしには身に覚えのないことだっ!!仮にもし麻薬が行方不明になったのだとしても、わしの部下の誰かがやったことで、わしの一切知らぬことだ!!」
というのが、長くつきあいのあるユトレイシアの中華人街一帯を取り仕切るチャン・イェンの答えだったが、ジムはパチンパチンと爪切りで指の爪を切りながら、そちらのほうは見もせずに淡々と質問を続けた。
場所は倉庫街の一角で、昔は鉄工所だったのがそのままの状態で放置されているという場所だった。持ち主が借金で首が回らなくなり蒸発したのだが、残された家族が首吊り心中したとかで、なかなか買い手のほうがつかないという。
「そいつは不思議だなあ、チャンさんよお。おまえら中国人っていうのは実に金に細かくてずる賢い連中だ。どうせどっかの隠し金庫や何かに隠してんだろ?俺はあんたの目から見て小柄に見えるか知らないが、これでも器のほうは大きいほうだと思うぜ?何しろ、1キロ、2キロ程度の麻薬の誤魔化し程度には、大抵の場合目を瞑ってきたからなあ。だが、あんたはいつの間にかちょっと調子に乗っちまったらしいな。しかも、8キロだって麻薬としちゃ結構な量だ。それを8トンだって?俺は最初、その密告を受けた時、自分の聞き間違いじゃねえかと思ったくらいだ。確かに、俺は今まであんたのシマである中華人街のことに口出ししたことはねえよ。だがな、金をちょろまかしたりすれば、どうなるかくらいはあんただってわかっていたろうにな。あんたとのつきあいはもう四年以上にもなる……だったらわかってるはずだよなあ?あんたとおんなじようなことをした奴らが、生きたままコンクリート詰めにされてユト河に沈められたってのは、誇張でもなんでもなく、そのままの事実だってことをさ」
頭髪の薄い、やや小太り気味のチャン・イェンは、六十五歳だった。今から約二十年以上も昔に、ジムが行ったほどのものではないが、一族に血の粛清を行い、首都ユトレイシアの中華人街一帯の首領の座についた。また、裏の犯罪世界では世渡り上手であり、ジムに胡麻をするのもうまかったため、これまでも多少のごまかしには彼も目を瞑ってきた。だが、ジムにしてもつくづく嫌になるのは、麻薬取引をする連中というのは、どいつもこいつも同じ自滅の道を辿るということだったかもしれない。こちらが「適正価格」で渡したものさらに2~5倍かそれ以上の価格で売り、その売上金の半分を戻せと言っているだけなのに――その20~30%の金が懐に入ってくるというのでは我慢ができなくなり、必ずどこかの地点で正直な売上金を支払わなくなってくるのだ。
「こっちは善意で、あんたにあんな上物の麻薬を売らせてやってたっていうのになあ。六本指の悪魔が怒ったらどうなるのかをあんたが知らなかったってのは、まったく不幸なことだぜ」
六本の指、すべての爪を切り終わり、やすりもかけ終わると、これも六本指の愛猫、チェルシーのことを抱いて、ジムは拷問を受けているチャンの元までいった。
チャンの顔は鼻が曲がり、前歯が数本抜けている状態だったが、まだ白状するつもりはないらしい。両目とも眼瞼下垂患者のように腫れあがり、ライターで焼かれた頬からも血がしたたっていたが、(東洋人っていうのはまったく我慢強い人種だな)と、ジムは妙に感心したかもしれない。
「さて、と……これが本当に最後のチャンスだぞ、ミスター・イェン」
やれ、というように部下ふたりにジムが指示すると、プロレスラーのように体格のいい白人男は注射器の用意をしだした。また、もうひとりの理知的な顔立ちの背の高い中年男は、不気味に万能鋏みをチョキチョキとやりだす。それも、まるで外科医がメスを手にした時のような、冷静な顔つきのまま。
「こう見えても俺は、結構慈悲深い男なんだぜ、ミスター・イェン。麻酔も何もかけずに手や足の指を全部切断するような野蛮なことをする気はない。まあ、これからあんたの身に起きるマジックの手順について、ひとつ教えておいてやろう……」
ライダースーツを着たプロレスラーが容赦なく指や手のあたりに麻酔薬を打つと、チャン・イェンは一瞬ギクッと体を強張らせた。そして、背の高い痩せた男が鋏みを親指に入れるが、まだ実際に切ろうとはしない。
「麻酔が実際に効いてくるには、もうちょっと時間がかかるからな……その前に親切にも教えておいてやるよ。あんたがこのまましゃべらなきゃ、ミスター・イェン。あんたはこのまま両手の指をすべて失うことになる。それでもまだ白状しなけりゃ、電動ノコギリで足を失うことになるだろう。もちろん、こちらのドクターは実に慈悲深いからな。もちろんちゃんと麻酔をかけた上で手術してくださるさ。だがな、それでもあんたがしゃべらなきゃ、内臓に穴を開けさせてもらった上、あっちの……」
そう言って、親指からさらに分化している指で、壁際に並んでいる鉄の箱のひとつをジムは指差す。
「あの冷たい鉄の棺桶に入ってもらうことになる。俺の言っている意味がわかるかな?」
ここでなんの前触れもなく、ジョキン!という音をさせて、顔色ひとつ変えず、<ドクター>がチャン・イェンの親指をハサミで切り取った。
「ひっ、ヒィィィィッ!!」
「そんな情けない声だすなよ……麻酔が効いてるはずだから、痛みのほうはまったくないはずだぜ。あんたも俺と同じく六本指だったらなあ。一本指がなくなっても、ちょうど五本になって良かったんだろうにな」
ここでまた、ジョキン!というハサミの鋼鉄音が倉庫内に鳴り響き――チャン・イェンの右手の小指が床の上にポトリと落ちた。
「しゃべるなら今のうちだぜ、ミスター・イェン。あんた左利きなんだろ?今、あんたの左手はファイブ・フィンガーズ。そして右手はスリーフィンガーズ……このくらいならな、まあ腕のいい整形外科医がなんとかしてくれるかもしれないってレベルだ。そうそう。話の続きがまだだったな。あんたみたいな口の堅い態度のでかい男はな――こっちも拷問するのが大変なんだ。あんた、まさかとは思うがこんな残虐非道なこと、俺たちが好きこのんで楽しみながらやってるとは思っちゃいまい?大体、拷問ってのは大概が途中で相手が気を失うだのなんだのして、時間がかかる……そこで俺は考えた。むしろな、麻酔をかけて痛みのない状態で、体の一部を順に破壊してやったほうが――麻酔が切れた時に自分がどんな恐ろしい痛みに襲われるかを想像して、真実についてぺらぺらしゃべりだすに違いねえってな」
ジムがドクターに向かって頷いてみせると、ジョキンと、ドクターは桜の木の枝でも剪定するみたいに、なんのためらいもなくチャンの薬指を骨ごと断った。
「うっ、うぎゃああああっ!!」
「変な人だな、あんた。麻酔が効いてるから、痛みはないはずなのに……なんにしてもこれでツーフィンガーズ。今ならまだ、このあんたの指を冷凍保存しておけば、他でもないこのドクターがご親切にも繋いでくれるよ。なっ、あんた医者だった頃は腕のいい外科医だったんだもんな?」
ドクターは言葉もなく、ただ無言で首肯した。彼は確かに腕のいい外科医だったが、ある時手術の失敗の訴訟で全財産を失い――金と引き換えに悪魔に魂を売ることにしたのだ。
「しゃ、しゃしゃしゃ、しゃべるうううっ!!だからもう、勘弁してくれっ。わしの指、わしの指を今すぐ冷凍保存して、繋げてくれると約束してくれるなら、なんでも全部しゃべるし、わしの財産はすべて今からあんたのものだ、ジム・クロウッ。だから、どうか、もう、もう……っ」
だが、ジムはドクターに向かって目で合図し、もう一本、ミスター・イェンの指を切り落とさせた。これで、チャンの血まみれの左手には中指一本しか残っていないという不気味な状態となる。
「ひゃひゃ、ひゃああああっ!!しゃべるって言ったのにィィっ。なんだこれは、なんだこれはっ。血も涙もない悪魔か、あんたはッ。でで、電話してくれ、電話。部下のコーに連絡をとってくれ。隠し場所なら全部あいつが知ってるっ。ほ、本当だっ。う、嘘じゃないぞっ、信じてくれェェェッ!!」
ここで、プロレスラーのような部下のサディンが、チャンの首を後ろから絞め、失神させた。白目を剥いてガクリとチャンが気を失うと――「こいつ、どうしますか?」とわかりきったことを、あえてボスに聞く。
「その鉄の棺桶にコンクリート詰めにして始末しておけ。自分の左手を見るたびに俺に対する憎しみを燃やされても困るんでな。チャンの奴はもう用なしだ……ふふん。金庫番のルイ・コーか。あいつならばきっと、指をすべて切り落とされようとも、主人のことを裏切ることはなかったろうな。おい、サディン。コーと連絡を取れ」
――このあと、ルイ・コーに中国人街をボスとしてうまく治めていくよう交渉し、ジムは携帯を切った。チャンがちょろまかした金については、寛大にも<新しいボスへの祝い金>として渡すということにした。そして、これからもしまた同じことが繰り返されたとすれば……チャン・イェンと同じく鉄の棺桶にコンクリート詰めにされ、ユト河に沈められると脅すことも当然忘れない。
「ボス、これでよろしかったので?」
昔、医者だったというのが頷ける、理知的な顔立ちのルネ・ウールリッヒがそう問いかけた。
「よろしかったっていうのは、どういうことだ?」
ジムがチェルシーを撫でると、猫のほうでも甘えるようにごろごろと喉を鳴らしている。失神したままの中国人がプロレスラーによってぽいとゴミのように鉄の檻に入れられても、猫のほうではまるで関心がないようだった。棺桶の中で目を覚ましたチャンは、「ぴぎゃああああっ!!」と叫んでいたが――どうやら麻酔が切れたらしい――その声もやがて聞こえなくなる。
「確かに、ルイ・コーはいい男です。ですが、情に厚く非常に徹しきれないところがある……確かに、あいつは麻薬の売上をちょろまかしたりはしないでしょうが、他の連中に首を狙われる可能性が実に高い。そうなれば……」
「ふふん。ルネ、おまえも随分心配性だな。おまえも言ったとおり、コーはいい男だ。また、あいつが中華人街一帯でその名を恐れられるようになるまでは――俺のほうでも惜しみなく手を貸そうと思っているからな。つまりこれは、そういう話さ」
「それでしたら、よろしいのですが……」
この話はこれで終わりだ、というように猫を抱いたままボスが立ち去ろうとしたため、ルネのほうでもそれ以上の質問は何もしなかった。表に待たせておいた旧式のキャデラックに乗り、三角州にあるボスの邸宅へと一緒に戻る。
普通であれば、警察に囲まれた時のことなどを考え、ユト河の真ん中にある洲になど、犯罪者は誰も住みたがらないに違いない。だがそこにジム・クロウはハリウッドの俳優が建てるような豪邸を建設して住んでいる。ジムはそこに自分の六本指の愛猫と、腹心の部下数人とともに居住していたわけだが――その腹心の部下の内にはこの二人、サディン・ヴァルターとルネ・ウールリッヒも含まれていたというわけである。
>>続く。