最終章
サラ・ハリントンこと、アニス・レインは、アメリアに代わってギルバート・コナーというUSISの職員と接触しろと言われた時……正直なところを言って困惑した。だが、<秘密結社リヴァイアサン>という組織において、上の命令は絶対である。仮にそれがかなりのところ理不尽に感じられるものであったとしても。
アニスはアメリアこと、エリカ・ラングーシとは最初、顔見知りといった程度の関係だった。アニスがイラク戦争の時に敵軍の捕虜とされた時、命を救ってくれたのがレディ・オーシャンと呼ばれる人物だったのだが、彼女は<悪のエリート養成所>を出たアニスにいくつかのミッションをこなさせると、<ジェネラル>という地位に着けた。「ユトランド共和国はそんなに任務が難しい国じゃない」というのがその理由だったが、これは言うなれば一種の贔屓による抜擢といって良かっただろう。
というのも、レディ・オーシャンと呼ばれる人物はレディと呼び名がつくとおり女性なのだが、男性の中に「女性として生まれてくるべきだった」という人物がいるように、レディ・オーシャンは言うなれば「男性に生まれてくるべきだった女性」というのに近い。そんな彼女に気に入られたアニスは、レディ・オーシャンと一時期愛人関係にあった。そしてアニスの前にエリカもまた彼女の愛人だったことがあり――そのようなわけで、エリカからギルバート・コナーに関する報告書を受け取った時、エリカの態度はかなりのところ芳しくないものだったといえる。
そのことの内には、レディ・オーシャンの関心が自分からアニスに移っていったことと、さらにまた、ギルバートの恋人役を彼女に譲らなければならないという二重の嫉妬と屈辱があった。通常なら、そうした報告書は何も手渡しでなくても、暗号化したファイルで送信するのでも十分なはずだった。けれど、エリカがあくまでもアニスと「直接会う」ことに拘ったため、アニスはユトレイシア市内の<秘密結社リヴァイアサン>が所有するビルのひとつで会うということになったのだ。
「あんたが<ジェネラル>にならなかったら、わたしがそうなるはずだったのにって、今日は文句を一くさり言ってやろうかなって思ってたのよ。だけど、直接会って良かったわ。あんた、整形したのね。胸もそれ、豊胸したんでしょ?」
エリカことアメリアにそう言われて、アニスは少しばかり恥かしくなった。サラ・ハリントンがIカップの巨乳美女だったため、元はDカップだったアニスは、これもレディ・オーシャンの指示で――Gカップほどに胸を大きくしなくてはいけなかったのだ。アニスの意見としては、パッドを何枚か重ねて入れれば十分ではないかという気がしたのだが、「入れ替わる際には細部まで完璧に拘るのが正体を隠す秘訣だ」とレディ・オーシャンに諭され、<秘密結社リヴァイアサン>お抱えの腕がいい整形外科医から豊胸手術を受けたというわけだった。
「アニス……じゃなくて、今はサラ・ハリントンなんだっけ?サラ、これであんたにもわかったでしょ?レディ・オーシャンは移り気だし、もともと飽きっぽい方だからね。あんたもあたしもあの方の退屈しのぎにおもちゃとして遊ばれてるっていうそれだけよ。で、確かにあたしじゃギルバート・コナーっていうUSISの諜報員と結婚するってところまでには時間がかかりすぎかもしれない。それであんたのその悩殺ボディでどうにかするっていうんなら、なんかむしろスッキリした。あともう少し時間をもらえればってレディ・オーシャンにも頼んでみたけど、まあ、あの方にはあの方の計画があるんでしょうし、それならビジネスライクにわたしも割り切ることにするわ」
――エリカ・ラングーシのことを作戦から外すのは、彼女が個人的にターゲットに執着しすぎていることが原因だとレディ・オーシャンからアニスは聞かされていた。だが、そのことを彼女に話すべきかどうかと迷っているうちに、エリカのほうが報告書を広げて説明を開始する。
「まあ、プロフィールなんかは全部ここに載ってるし、そういう部分の説明はいらないでしょうね。写真でも見てわかるとおり、なかなかいい男よ。頭は切れるし、それでいて性格のほうは温厚で優しいしね。あんたはきっとつまらない女の嫉妬って思うでしょうけど……これはわたしにとってとても<オイシイ仕事>だったのよ。こういういい男の奥さんの地位に納まって、あとは彼の子供でも生んで、少し仕事のほうからは離れたかったの。こういう気持ち、あんたにわかる?」
「…………………」
その時、アニスの頭の中には<結婚>という言葉はなかった。レディ・オーシャンから救われた命を、<秘密結社リヴァイアサン>という組織を通して、最大限に活かしたいと思っていた。秘密結社リヴァイアサンという組織は、善悪、両方の面を持っており、高い地位に着いた者の思想など、考え方次第によって世の中を良くも悪くもしていけるのである。そしてアニス自身は「誰かが犠牲になってやらなければならない」、悪を善の側に変えるような、そうした仕事をこれから自分はなしていくのだと心に誓っていたのである。
「今は自分に与えられた職務に燃えてるってわけ?まあ、わたしにも昔、そういう時期があったからわかんなくもないわ。今のわたしに言えるのは、とにかく「せいぜい頑張って」っていうくらいのことだけど、レディ・オーシャンはたぶん、あんたのそうした理想が崩れるところが見たいんでしょうね。ご愁傷さまだわ」
このあと、アメリアはギルバートとは恋人同士としてどういう関係だったかの説明をはじめ、その話はセックスプレイのことにまで及んだ。
「彼、サディスティックなプレイが好みなのよ。そういう意味では、レディ・オーシャンと似てるかもね。わたしももう普通の男相手で満足できるかしらって思ってたけど、そういう意味では彼、結構イイわよ。自分のことばっかりじゃなくて、女がどう感じるかとか、そういうこともよくわかってるしね。こんないい物件をあんたに譲らなきゃならないだなんてって最初は思ったけど――整形したり豊胸したり、あんたも大変だったろうなって思ったら、なんか文句言う気も失せちゃった。まあ、そんなことはないでしょうけど、彼に関することで話したいことがあったら連絡して。なんでも相談にのるわ」
秘密情報庁の秘書の職を辞してからは、エリカは再びレディ・オーシャンの手足となって働いていたようである。そして、<大統領暗殺計画>について上司であるレディ・オーシャンと相談する過程で、アニスはエリカとも数度会った。
「彼、かなりいいでしょ?あんた、あいつに情を移すあまり、向こうにこっちの情報を流したりしてないでしょうね?」
――アニスは最後まで、ギルバート・コナーと寝るのは仕事の一貫だとの態度を崩さなかったし、<大統領暗殺計画>についても、淡々と準備を進めていった。まず、自分は彼に情など一切移していないということの証明に、アニスはギルバートの妻子を誘拐した。こうすれば、彼との間には間違いなく距離が出来、アニスもまた<大統領暗殺計画>について集中することが出来るというものだった。
だが、アニスは当初より、このユトランド共和国のテイラー・オズモンド大統領を殺害する計画にはまったく乗り気ではなかった。レディ・オーシャンに理由を聞いてみても「あいつには政治家として旨味がないという、ただそれだけの理由さ」としか教えてもらえなかった。世間からミスター・クリーンとの評判を得ているだけあって、オズモンドの弱味を何か握ろうと思っても、唯一でてきたのが高校教師時代の、教え子が自殺したという事件くらいなものだった。
けれどもレディ・オーシャンは「その点は是非押さえる必要があるな」と言い、自らエルヴァシア号のシェフであるダン・アレキサンダーに会いにいったのである。この時レディ・オーシャンは自分のことを<ジェネラル>と名乗ったため、ダンは今も彼女のことを<ジェネラル>であるといったように認識しているはずである。
この頃くらいからアニスは、レディ・オーシャンに対して不信感を持つようになっていたかもしれない。<秘密結社リヴァイアサン>という組織が、善と悪の両面を持つ組織だということは理解していた。ゆえに、時には意に染まぬ任務で自分の手を汚すことになっても、そうしたことを越えて善の力を世に送りこむべく努力する必要があるとアニスは信じていたのだ。
けれど、この場合は自分に正義はなく、人間として善良なテイラー・オズモンドを守るギルバート・コナーにこそそれがあったと、アニスにはわかっていた。つまり、作戦遂行中、常に迷いがあったということだ。また、自分にはギルバートを殺せないということも、アニスには最初からわかっていた。
とはいえ、もはやアニスに引き返すことは許されない。<秘密結社リヴァイアサン>は、一度入ったら抜けられない組織だ。また、抜けようと思う者は死を覚悟しなくてはならない。ゆえに、ギルバートがどこまでのことを準備し用意したか、もしそれがアニスの計画を上回るものであったとしたら――自分は潔く死を選びとろう……そう覚悟を決め、アニスは部隊を率いてエルヴァッハ山岳地帯へと向かったのである。
当初から想定していたとおり、ユトランド共和国の陸軍がエルヴァッハには展開していた。アニスは少数精鋭を率い、この軍隊の一角を切り崩すと、自軍に一人も死傷者を出すでもなく、計画していた通りの時刻にエルヴァシア号へと乗り込んでいた。レディ・オーシャンより復讐に燃えるエリカのことを押し付けられていたアニスは、最初彼女のことを重荷に感じていたが、次第にエリカがいることで、自分のこの手でギルバートを殺さなくてすむかもしれないと思うようになっていった。
だが、エリカ・ラングーシはしくじった。彼女の場合、ギルバートに対する愛が胸の奥底に眠っていて、結局のところ彼のことを仕損じたのかどうか……アニスにはわからない。けれど、そんな中で彼女にも、ひとつだけわかっていることがあった。それはつまり、もし自分がギルバートの側にいる人間でさえあったとしたら――間違いなく自分が今していることは正しいのだとの信念、大義というものさえあったなら――苦渋の果ての決断として、アニスはおそらくギルバートのことを撃つことが出来ただろう。
けれど、そもそもアニスは「大義のない」戦争に州兵として登録していたことから派兵され、嫌々ながらも任務へ就いていたのだ。そこで敵の襲撃にあい、もしあのままだったら、イスラム兵たちに暴力を振るわれ、レイプされていたに違いない。アニスと一緒に捕虜とされた女性医師は、医師という職業に敬意を払われるでもなく、民兵のボス的地位にある男に気に入られ、何度となくレイプの対象とされていた。アニスが同じ目に遭うのに時間が置かれたのは、一重に彼女――キャサリン・ノアクロス――が、あの娘にだけは手を出さないでくれとボスに頼んでくれていたからだ。だが、もしレディ・オーシャンの部隊が「気まぐれに」自分たちを助けなかったとしたら……自分も同じ目に遭っていたろうとアニスにはわかっている。
だからアニスは、(自分はあの時死んだのだ)と思い、レディ・オーシャンに忠誠を誓って生きることを決意したのだ。けれど今となっては、エリカが何を言いたかったのかが彼女にもわかる。アニスはギルバートに、「彼を愛していたことはない」という意味のことを口にした。もちろん、それは嘘だった。初めてセレスティアホテルで彼のことを見た時から……彼女自身、何か運命めいたものをギルバート・コナーに感じていたのだから。
だが結局のところ、彼の愛したのはアニス・レインではなくあくまでサラ・ハリントンなのだ。もともとアニスは整形する必要などないほど美しい娘であり、胸もDカップあった。けれど、サラ・ハリントンほど人がハッとするようなセクシーさはなかったと言っていい。ゆえにアニスは、彼が愛しているのはサラ・ハリントンであって自分ではないのだとずっと思ってきた。
(でも、わたしは彼を愛していた。今まで、こんなふうに誰かを……こんなにも誰かを愛したことも愛せたこともなかった。そのくらい、ギルバートのことが好き……)
アニスは母ひとり子ひとりの環境で育ったため、母の言うことはいつでも尊重し、聞き分けのいい子供であろうとし続けてきた。けれど、唯一母の言うことで反発心を覚えたのは、『人間は普通が一番よ。アニスは大きくなったら、ママと違ってちゃんと結婚してちょうだいね。結局のところそれが一番の女の幸せなんだから』とよく言っていたことだった。それに対するアニスの本音というのは、『今の時代、結婚するばかりが女の幸せじゃないわ』というものだったが、苦労して働いている母の姿を見ていたため、口に出してまでそう言ったことはない。
けれど今では、母のケイトの言っていたことが、アニスにも痛いほどよくわかる。それに、エリカが何故あれほどギルバート・コナーという男に対し執着していたのかも……だから、アニスにとって死を覚悟することはそれほど恐ろしいことではなかった。もし自分がイラク戦争で複数の男にレイプされていたとすれば――自分を待ち受けていた将来はまったく別の違うものだっただろう。けれどこの時アニスはそうした運命といったものすべてに感謝することさえ出来ていた。
ギルバート・コナーという男と知り合い、束の間とはいえ心から彼という一人の男を愛せたことで……彼女の中でそれまであったことすべてが肯定されたのだ。それゆえにこそ、アニスはギルバートにすべてを委ねることが出来た。自分自身の命でさえも……。
無論、何故もっと違う出会い方が出来なかったのかとはアニスにしても思わぬでもない。だが、アメリアほどの女性が相手であってさえ、すぐには結婚へ踏みださなかったということは、元の自分でもおそらくは同じだったことだろう。アニスはそう思うと、自分が元の姿ではなく、サラ・ハリントンであって良かったのだと思った。
そして、こうしたすべてを胸に抱いて、アニスはエルヴァシア号へと乗りこんでいった。計画のほうは当初、うまくいくものと思われたが、まさか、エルヴァート岬を前にして向こうが仕掛けてくるとはアニスも思わなかった。こちらにいる兵士たちは全員、刑務所のような場所で血反吐を吐く訓練を受けてきた猛者ばかりであるがゆえに――こうして実戦に駆り出される機会があることは、彼らには極めて喜ばしいことなのだ。ゆえに誰もみな死など恐れていない。
だが、まさかギルバートのほうでも「ここで攻めなければ殺られる」と考えるとはアニスも思わなかった。けれどこの時、彼の考えていることが自分とまったく同じであることがわかるなり……彼女の全身にはぞくぞくするような甘い痺れが走った。そして、エルヴァシア号がエルヴァート鉄橋を半ばにして停止し、レストラン・カーやサロン・カーの天井から洩れる以外光のない暗闇で対峙した時、アニスは(もう十分だ)と思った。
アメリアがもしギルバートのことを仕留めるなら、それはそれで仕方がない。彼女は彼女で彼のことを心から愛し、そしてとても深く傷ついたのだ。また、アメリアがギルバートのことを殺してくれるなら、自分が彼を殺すのか生かすのかという選択をしなくて済むという部分もあり――アニスの心は最後の最後まで揺れた。
けれど、アメリアが底の知れない闇の中へと吸い込まれていった時……アニスは心の中で覚悟を決めた。彼は、アメリアのことでさえも本気で攻撃したりは出来なかった。アニスはギルバートが自分を見捨てることが出来るよう、わざと彼の右腕を掠める形で銃を撃った。にも関わらず、ギルバートは彼女を愛しているといい――アニスはここでもまた(もう十分よ)と思った。そして、アニスが心臓のすぐ真横を撃たれた時……彼女にはまだ息があった。アニスの意識が周囲の闇と同化し、前後左右の感覚を失い、何もかもすべてがわからなくなったのは、エルキューレ岬の海へと墜落する途中のことだ。そのほんの短い数瞬、アニスが見たのは、驚愕と後悔の入り混じった顔の表情をギルバートがしていたこと(その瞬間、彼は撃つ気はなかったのに、ある種の条件反射によって引き金を引いたのだろうと彼女にははっきりわかった)、そして次にアニスが思ったのは――(どうかこのことで彼が苦しまないように)と、神、あるいは神に近い存在に祈ったという、ただそれだけかもしれない。
* * * * * * *
エルヴァシア号で大統領暗殺未遂事件の起きたちょうど四か月後、フランスのリヨンへ旅立つ前に、ギルバートはこの列車のシングルルーム客車に身を横たえていた。もちろん、大統領御宿泊のスイートキャビンに比べれば、室内は狭く、設備のほうもスイートキャビンよりも遥かに劣ってはいる。けれど、ギルバートはこれはこれでとても快適だと感じていた。
白い陶器の洗面台に鏡、その上や下にはマホガニー製の戸棚があり、少しばかり物を入れることが出来るようになっている。また、ギルバートは喫煙車を取ったので、洗面台の脇のほうに固定された状態で灰皿が置かれてもいる。他に、備え付けの倒して使えるテーブルや(ここにも小さな灰皿のくぼみがある)、ちょっと腰かけるのに使うビロード張りの椅子やビロード張りのソファ、荷物を置くのに使える上部のトランク……その他、エアコンやテレビ、ジュースホルダーなどが備品としてあり、狭いながらも室内のほうは概ね快適に過ごせるような造りとなっている(ちなみに、ベッドのほうはソファを倒してセットする)。
ギルバート自身はレストラン・カーへ行って軽食を取る気には到底なれなかったが、軽食メニューであれば大体部屋まで運んでくれるというので、ギルバートは毎回ほとんど自分の室内でコーヒーやパンケーキ、スパゲッティなど、ちょっとしたものを食べていたかもしれない。
食事のほうは大体、夕食と朝食に関してはホテルで食べることになるし、昼食のほうもその日の観光地にあるレストランで食事し、再び列車へ戻ってくるということになる。それでも、小腹がちょっと空いたように感じた時には、そのような形で何か注文したりしていたのである。
ギルバートは、エルヴァシア号に乗車している間は、ほとんど室内に閉じこもってぼんやり窓外の景色を眺めて過ごしていたかもしれない。それか、本を読んでいるか煙草を吸っているか……他の乗客たちはバー・カーあたりで酒を飲んだりダンスを楽しんだりしていたが、ギルバートは毎日ホテルへ行けばそこでもずっと室内に閉じこもり、観光地のほうへ出かけていって楽しむといったことも一切なかった。
サラ……いや、アニスだろうか。ギルバートはアニスのことを自分のこの手で撃って以来、妙に現実感といったものが希薄になっており、それは彼女と同じように死にたいと思う気持ちが強いせいで、肉体はどうにかこちら側に留まっているが、精神のほうは向こうの世界へ限りなく近づいているというそのせいかもしれなかった。
もっとも、ギルバート自身にアニスのあとを追って死ぬような気持ちはなく、これから自分はフランスのリヨンへ赴き、<正義のアベル>とやらの忠実な犬として働くつもりでいた。唯一、仕事だけが一時的であるにせよ彼女のことを忘れていられる手段であり、今のギルバートには仕事に没頭する以外、他に何をする気にもなれなかった。
今こうしてエルヴァシア号に乗っているのも……ただ、気持ちに区切りをつけるというそのためだった。花束のほうは、五日目、テリスにある花市場ででも買えばいいだろう。ギルバートはビロードの箱に入った指輪を眺め、これをエルヴァシア号がエルキューレ岬を通る時に、海へ投げ入れようと思っていた。そのどこか儀式めいた行動は、アニスのことを忘れるためのものではない。むしろ逆に、彼女と永遠に結婚しているために、アニスにそのティファニーの指輪を渡そうと思っていたのだ。
これからギルバートは、<秘密結社リヴァイアサン>がどのような組織なのか、さらにもっと詳しく知ることが出来る……そうすればおそらく、今自分が抱えている多くの疑問も解けるかもしれない。実をいうとギルバートには、<ジェネラル>が「大統領暗殺計画」を立て、そのプランを自分に提出せよと言った時から、あるひとつのことが疑問だったのである。
というのは、ケビン・キングリッチにはクローン人間、あるいは整形するなどした瓜二つの人間と入れ替わった疑惑があるわけだが、そう考えた場合、<大統領暗殺計画>を立てるとしたら、一番簡単なのがテイラー・オズモンドの身近な人間を入れ替えて殺すというもののはずである。
実をいうとシークレットサービスというシステムには、昔からある矛盾のあることが指摘されている。つまり、いくら経歴や思想などについて調べ、クリーンな人物だけを警護に当たらせたとしても……何分、彼らというのは大統領やその家族についてのプライヴェートをすべてそば近くで目撃するということになる。それがシークレットサービスが、別名<人間監視カメラ>と言われるゆえんなわけだが、つまり、大統領やその側近らなどの表と裏の顔を使い分けている姿を知るにつけ――自分が守るべき対象を軽蔑し、警護に力が入らなくなっていくというのはありうることだ。
また、ユトランド共和国に限っていえば、シークレットサービス警護官というのは、命を張り、場合によっては精神を極限まで削る経験もする仕事である割に、ベテランクラスになれるまでは給料のほうは馬鹿のように高いということもない。すべては、最初にした契約、すなわち、職務についての厳しく細かい規定、またそれを破った場合には訴追される可能性もあるという条項を彼らがいつでも思い出しながら、いかに仕事が出来るかにかかっているといってもいい。
だが、恐ろしいような大金を積まれた場合、このシークレットサービス警護官のうち誰かが裏切るということは当然ありうるのではないだろうか。ましてや、警護官のうちの誰か――あるいはジェニファー・ライムズといった秘書や、大統領補佐官の内の誰かなど――をクローン人間などと入れ替えるというのは、不可能ではないように思われる。
確かに、ケビン・キングリッチのことを思ってみても、クローン人間及び瓜二つの人間との入れ替えというのは容易なことではない。だが、<大統領を殺す>という一事にのみ集中したとするなら、それがもっとも手っとり早いというのも事実ではないだろうか?しかしながら何故彼らがそうした手段を取らなかったのかといえば……ギルバートが想像するに、それはもしかしたらこういうことなのかもしれなかった。
つまり、テイラー・オズモンド大統領をさらい、彼を別の人間と入れ替える……この場合、ルークも言っていたとおり、脳の移植手術は必須となるのではないかと思われる。だが、そのように大統領を操って、<秘密結社リヴァイアサン>は何をしたかったのだろうか?また、そんなまだるっこしいことをしなくても、少し時間を待ち、次の大統領選挙の時に自分たちの息のかかった者をユトランド共和国の大統領とすることも――彼らには決してそう難しいことではないはずなのだ。
<秘密結社リヴァイアサン>の全貌について、果たして<正義のアベル>とやらはどこまで掴んでいるものなのか……いずれ、フランスへ行けばわかることであるかもしれないにせよ、ギルバートは何度もこうしたことについて考えずにはいられなかった。
そして、そうすることで何度も何度も繰り返しアニス・レインのことを考えた。そして、彼女のことを考えるのは苦しみを伴うことでもあるのに、ギルバートは次第次第にその苦しみの中に甘美な混ぜ物が多少混ざっていることに気づいていたかもしれない。それが本当に<愛>なのか、そんなものを<愛>と呼んでいいものなのかどうか、ギルバート自身にもわからない。
ただ、過去の愛による喜びと悦楽、そしてその反対側にある苦しみと絶望……そのふたつの感情が竜巻のようにギルバートの心を襲い、麻痺させることさえあったわけだが、ギルバートは今、アニスとの間にあった楽しかった色々な思い出、彼女との会話などを思いだしては、束の間幸せな気持ちを味わうことも出来ている。もちろん、それらすべてが最後には、闇の中にまるで小さな記憶の露のように消えゆくのだとしても――それでも、彼女と出会えなかったよりは、出会えた自分の運命のほうをこそ、ギルバートは肯定することが出来るまでになっていた。
そして、翌日にはエルヴァシア号がエルキューレ岬を通るという日の夜……驚いたことには、ギルバートが泊まるホテルの部屋の前に、ひとりの女性の姿があった。ギルバートのほうには彼女の顔に記憶はなかったが、おそらくは同じくこのエルヴァシア号周遊旅行をしているお仲間の内の誰かではないかと思われた。
「あの、わたし……ホテルで食事をする時なんかに、時々あなたのことをお見かけしていて。すごく素敵な方だなあって、ずっとそう思っていたんです」
おそらく、二十代後半くらいの、みっちりとお化粧をした美人な子だった(もっとも、すっぴんになったらどうなのかはわからない)。けれどもちろん、ギルバートは今そうした気分ではまったくなかった。それなのに……。
髪の色がブロンドで、瞳が澄んだような碧さを湛えていたためだろうか、その娘が「わたし、キャロル・ベイカーです」と言って自己紹介した時――正確には彼女が下からギルバートのことを見上げてきた時――ギルバートはドキリとしたのだ。一瞬、彼女がサラ・ハリントンに見えたような気がして。
ギルバートは丁重に、「自分は今色々あってそうした気分にはなれない」ということや、「恋人を亡くしたばかりで……」といったように言い訳し、どうにか彼女に失礼のないようにやりすごそうとしたわけだが――キャロルのことを帰し、自分の部屋にひとりきりになった時、彼は思わず大声で笑ってしまった。
(俺は……馬鹿だ。一体何を考えてる。アニスが実は生きていて、また整形して自分の前に姿を現すだなんて……そんなこと、絶対ありえるはずもないのに)
サラ・ハリントンこと、アニス・レインのことは、ギルバートが自分のこの手で殺したのだ。にも関わらず、そんな突拍子もない話を考えだすだなんて――けれど、ギルバートはこの日を境に、少しだけ魂のほうが活気づき、死の国に傾いていた精神が、だんだんに生の世界……つまりは現実というものに戻って来るのを感じていた。
次の日、エルヴァシア号がエルキューレ岬を通り過ぎるという少し前、ギルバートは心の中でこんなふうに彼女に対し話しかけていたかもしれない。
(まさか、きのうのあの女性は、君が寄越したのか?離れ離れになって間もないのに、俺が結婚の前日でも、浮気する男だと思って試したのか?流石に俺もそこまで不実な男じゃない……何より、今日は俺と君との結婚式なのに、そんなことするわけがないじゃないか)
今朝方、市場にある花屋へ行った時に買った花束ふたつを、ギルバートはソファの座席の傍らに置いていた。そしてその暖色系でまとめた花と、寒色系の花とでまとめた花束ふたつのそばには、ビロードのケースに入った指輪がある。
実をいうと、このふたつの花束の内、ひとつはアメリアのものだった。といっても、ピンクやオレンジや赤といった花束と、ブルーやグリーン系でまとめられた花束のうちどちらが、というのは彼自身わからない。ただ、アニスが庭をそのような形で分けていたのを思いだし、そのようなふたつの花束を用意したというそれだけだった。
ギルバートはアメリアのことも愛していなかったわけではない。もしサラ・ハリントンという女性が現れなかったとしたら、彼はアメリアと結婚することを間違いなく考えていたに違いないのだ。アメリアに対して物足りないとか、結婚するには決め手にかけるとか、そんなふうに思ったことも一度もない。ただ、従順で優しい女というのが演技であるとわかった今は……そうした違和感があったのかもしれないと、思わぬでもない。
そして彼自身、アメリアの重い蹴りを受けとめ、激しいパンチを食らったあとに思うのは、彼女のそうした面も含めて愛してみたかったということかもしれない。本気で殺されかけたのだとしても、一度は愛した女性として、ギルバートは彼女に対して恨む気持ちなど一切なかった。自分がロシア・ヨーロッパ部門の情報次官であった頃から、ずっと<秘密結社リヴァイアサン>にこちらの情報を流していたのだとわかっても――何分、諜報というのはそもそもが騙し騙されの世界なのだ。ギルバートは彼女の本質を見抜けなかった自分にも落ち度があったと、そう思っていた。
12月のあの日……エルヴァシア号がエルキューレ岬へ差しかかろうという時、すでにあたりは日暮れ時を迎えていた。けれど今は四月であり、16時の今、あたりはまだ明るかった。その春の香気と潮の香りが空気に混ざる中をエルヴァシア号はゆっくりと走ってゆき――ギルバートが窓を開けると、強い潮の香りが鼻孔をついた。大河ユトが海に流れこむ美しい光景を暫く眺めてのち、ギルバートはアメリアとアニスのことを思って、ふたつの花束を紺碧の海の中へと遥か高く放った。そして最後に……あれから、指輪の内側に「Forever,Anis」と彫ってもらった指輪を、同じようにして投げたのだ。
(愛している、愛している、愛している………!!)
この時、ギルバートは再び、自分がこの手でアニスの命を奪った瞬間のことを思いだし、ソファに蹲って泣いた。出来ることなら、彼女のかわりに自分のほうこそが死にたかった。けれど、これほどまでに誰か女性を愛せたことは、ギルバートには一度もなかったことだった。
そしてこの、(自分は正しくない。間違った選択をしたのだ)という、一生つきまとうであろう懺悔の気持ちと後悔……これは一生涯の間、ギルバート自身が背負っていかなくてはならないものだった。こうして彼は最愛の女性と結婚し、アニス・レインという女性の存在を永遠に忘れえぬ者として、一生愛し続けるということを誓ったのだ。
果たして、<秘密結社リヴァイアサン>に対抗する組織に身を置くことが、せめてもアニスの仇を取るということに繋がるのかどうか、ギルバートにはわからない。ただ、彼女とそうしたことについて直接語ったことはなかったにせよ、ギルバートにはアニスの気持ちがわかる気がしていた。
「戦争のない世界」――そんなものを人間に実現できるとは到底思えないが、それでもアニスは自分の手を汚してでも、世界がそのような方向へ導かれていくようにと望んだのだ。ギルバートはそのことを肝に命じ、これから<正義のアベル>という機関で、ただ仕事のことだけを考え、その一事に繋がるような何かを成し遂げたいと願っていた。
このあと、激情に駆られ、激しく泣いたギルバートは頭が重くなり、少しの間ソファに身を横たえて眠った。ギルバートが眠っている間、外ではよく晴れていた空が突然曇りはじめ、やがて雨になった。けれど、それはただの天気雨であり、再び空はからりと晴れ上がると、そこには天に微笑むように虹がかかっていた。
だが、ギルバートはそうしたことを一切知ることなく、あたりが真っ暗な闇に包まれた夜になってから――ようやくのことで目を覚ましていた。あたりは漆黒の闇に包まれており、ギルバートは起きた瞬間、思わず短い叫び声を上げた。一瞬、ここがどこなのかがわからなかったのだ。
それでも、照明のある場所を手探りでどうにか探りだし、それを点けてみると……エミール・ガレのランプシェードの下、暗い闇を映す窓には、幽霊のように疲れきった男の顔が映っていた。ギルバートは何か夢を見ていた気がするのに、もう何も思いだせなかった。窓に映る自分の顔でさえも、何か他人のもののような気さえする。そして気づいた。自分の左半身は呪われていると言った時、サラがそれを取り除いてくれた時のことを……と同時に、もしかしたら自分は最初から呪われてなどいなかったのかもしれない。ただ、右の目と左の目の色が違うように――魂が引き裂かれる思いを味わうためだけに、きっとこの世に生を受けたのだ。そしてそれが自分の運命なのだと、ギルバートは窓の外、深い夜の闇を見つめながら思っていた。
終わり




