第26章
「それで、あなたは何故俺の弟を見殺しにしたのですか?」
テイラーが二十分というタイムリミットの、ほんの二分前にレストラン・カーへ辿り着くと、ダン・アレキサンダーは「自分はダン・アレキサンダーの兄です」と自己紹介したのち、そう単刀直入に切り出していた。すでにレストラン・カーからは一般の乗客は追いやられており、オーク材のふんだんに使われた、壁に繊細な透かし彫りのあるアンティークな車内は今、それとは似つかわしくない迷彩服を着た二十名の男たちで占拠されている。
チェ・ゲバラ風の男は名前をラファエル・ロダールと言い、上司の<ジェネラル>からは大統領のシークレットサービス警護官を始末するまで時間稼ぎしろと命じられていた。そしてそれが済めば無線で<ジェネラル>から電話が入り、オズモンド大統領をとりあえずは生け捕りにすればいいという――今回彼に命じられたのは、実に簡単な任務であるように、この時ラファエルには思われていた。
医師のジェイムズはエルヴァシア号に乗りこんでいる救護班――医師ひとりと看護師が二人――の中の看護師に救急セットを借りると、顔を血まみれにした男の手当てをしてやっていた。その後、男のことを彼の部屋のほうへ運ぶよう乗務員に頼み、親友の後ろのほうにライリーとともに立つということになる。
「見殺し……か。確かに、そうなのかもしれない。私が君の立場でも、もし仮に自分の弟が同じような死に方をしたら、いじめを察知していなかった教師のことを恨みに思ったことだろう。取り返しのつかないことをしたと、私もそう思っている。あやまって済むことではないが、本当に申し訳なかった」
政治家へ転向する前、オズモンドはユトレイシア市内にある少々荒れたところのある公立校で、歴史を担当する教師だった。三十八名いる生徒の担任であり、また当時女子ソフトボール部の顧問をしていた。いじめにあっていたティム・アレキサンダーは、クラス内のガキ大将タイプのワルに目をつけられる――といったわかりやすい、いかにもないじめではなく、ネットの掲示板に悪口や噂話を書かれるといった、少々見えにくい、わかりにくいタイプのいじめにあっていたのだ。
ティム・アレキサンダーはクラスで目立たないタイプの、大人しい男の子だったのだが、いつもなんとなくうっすら笑っているといった感じの子で、オズモンドは成績が良かったこともあり、彼に好感を持っていた。クラス内や学内に親しい友達がいないようだと感じてはいたが、本人は毎日学校へ通ってきて静かに下校してゆくし、特に何か問題があるとも思えなかった。というより、彼のようなタイプは大学へ進学したら青春時代が花開くのだろうといったように思っていたのである。
ところが、ネットの掲示板が原因で、ティム・アレキサンダーはやがてクラス内だけではなく、学年のいじめの標的とされるようになっていった。彼が通った道は「ニヤケ臭がする」といったように言われ、時には「誰の許可を取ってここにいるんだよ?」と、カフェテリアへ入ることを禁じられたり、カバンの中のものを廊下にぶちまけられたり、彼自身ゴミ箱の中へ放りこまれるということが何度となく続いた。
こうしたことをオズモンドは見て見ぬ振りをしていたわけではなく、ティムが自殺するまで本当に知らなかったのである。こうしてティム・アレキサンダーは、兄のダンがパリへ留学中、「お父さん、お母さん、お兄ちゃん。いつまでもみんなのことを愛してる。僕が死ぬのは誰のせいでもなく、僕自身の問題が原因なのであって、誰も悪くありません。今まで育ててくれて本当にありがとう。僕はお父さんとお母さんの息子で良かったです。お兄ちゃんのことも大好きだよ。これからは空からみんなのことを見守っています。そして、これから僕のすることをどうか許してください」という短い遺書を残して亡くなった。首吊り自殺だった。
「あのあと、俺の家族はすっかり目茶苦茶になりましたよ。俺は両親に面倒をかけるタイプの、成績の悪い不真面目な兄貴でしたが、ティムは両親の言うことをよく聞く、母にとっては特に、天使のように可愛い子でした。家の中に一歩入ったら死臭のする家庭というのがどんな感じか、あなたにわかりますか?父にとっても母にとっても、もしかしたら、ティムではなく俺が何かの不慮の事故で死んでいたほうが――二人にとってはショックが少なかったか、あるいは時間が経つごとにいずれは立ち直ったんじゃないかというくらい、ひどいことだったんです。母はそれまで、酒なんて一滴も飲むような人じゃなかったのに、酒が手放せなくなって、施設を出たり入ったりしてますし、父はそんな母に嫌気がさして離婚しました。今は別の女性と再婚していますが、あなたはそんなこと、考えてみたこともなかったでしょうね」
こう恨み言を並べながらも、ダンは学歴的なこととは別に、非常に賢い、聡明な男だったので、自分がオズモンドに対して逆恨みに近いことを述べているということも、同時によくわかっていた。だが、それでもずっと言わずにはおれなかった、鬱屈とした思いを吐き出せたことで……彼は今、暗い満足を覚えてもいたのである。
「私の教師生活の中で、君の弟の死以上につらいことは、他になかったといっていい。ティムはいつもなんとなくニコニコしていたし、それで……友達がどうもいないようだとなんとなく気づいていながらも、それ以上何か踏み込んで接するということまでは私もしなかった。今も、それが一番良くないことだったのだろうと思っている。君もおそらく知っているだろうが、私はその後、その公立校を辞めた。つらかったよ。そして、その時の校長や他の学校の教員たちのいじめに対応する時の態度を見て、私はもっと別の方法で教育を変えたいと初めて思った。もちろん、こんな話を聞かされても、君は私が自分の命惜しさに適当な話をしているとしか思わないかもしれない。だが――結局のところ私が一国の大統領なんてものになれたのは、ティムのお陰なんだ。私は彼と彼の死を忘れたことは、一度としてない」
そう言ってテイラーは、スーツの胸元からパスケースを取りだすと、そこに挟めてある写真を見せた。それはティム・アレキサンダーの、いつものなんとなく微笑んでいるという、彼の性格の優しさがよく感じ取れる……とてもいい写真だった。
この瞬間、ダン・アレキサンダーは言葉を失った。彼の今言った言葉の通りなのだろうということがわかったからだ。でなければ、スーツのポケットから即座に弟の写真が出てくることなど、まずもってありえなかったろう。
「だが、一度政治家……あるいは大統領なんていうものになってしまうと、教育を変えるという他にも並行してたくさんのやらなければいけないことがある。そのような事情もあって、私が大統領として今いじめ防止として一番効果があることとしてやれているのは……時折小学校や中学校、高校へ赴いて、ティムの話をするということくらいかもしれない。だがね、みんなこの話を本当に真剣に聞いてくれるし、「いじめはいけない」ということをわかってもくれるんだ。もちろん、こんなことをしたからといってもうティムは返ってこない。けれど、私が心から後悔しているというこの気持ちのことだけは――少しでいいから、お兄さんの君にもわかってもらいたい」
ダンはこの時、テイラー・オズモンドが涙を流す姿を見ながら、文字通り絶句した。自分は先ほど、弟の無念を晴らすためという自分の<正義>のために、なんの罪もない運転士を殺した。その彼にももちろん家族というものがあるだろうとわかったその上で……だが、こんなことをダンはまったく想像していなかった。この十年もの間、テイラー・オズモンドこそがすべての不幸の元凶なのだと、信じ続けて生きてきたのだ。あるいはもしかしたら、彼を憎むというそのことこそが、いや、そのことによって自分は今という今まで生きることが出来てさえいたのかもしれない。
ダンにとって、年の離れた可愛い弟の死は確かにショックなものだった。だが、もし両親が――特に母が、ティムの死にあれほど打ちのめされたのでなかったら――彼もまた今ごろは結婚し、母に孫の顔を見せ、その子が息子であったなら、ティムと名づけて喜ばせることが出来ていたかもしれない……この時、ダンは自分が道を間違えたのだということをはっきり悟ったのである。
母の酒に絡むトラブルにより、心身ともに疲れきっていた彼は、ある日、これまで精魂こめて作ってきたはずの料理にさえ、なんの情熱も感じていないことに気づいた。そして、ある時料理の味がわからなくなった。だが、客たちは「美味しい」、「うまい」と言って褒めそやしてくれるし、店のほうも繁盛していた。だが、精神的に限界を感じた彼は自分の店を閉め、このエルヴァシア号のコックになるという道を選んだのだ。
そして一コックからシェフへと昇格した一年後、エルヴァシア号のスイートキャビンに、あるひとりの客が乗車した。スイートキャビンの客は、希望すればレストラン・カーではなく、スイートキャビンのほうで食事をすることが出来るのだが、その人物は七日間、ホテルで夕食や朝食を取る以外は、ダンの料理を所望した。
アラカルトでメニューを頼まれると、その人物が相当の食通であることがダンにもわかったが、列車に乗って六日目、「――様が、シェフを呼んで欲しいと言っています」と、パーサーより伝えられ、ダンはコック帽を取ると、スイートキャビンまで挨拶をしにいった。
そして、その人物こそが<ジェネラル>だったのである。ジェネラルは「以前、君の店で食事をしたことがある」と言った。「とてもいい店だったのに、何故閉めてしまったのかね?しかも、こんなところ……という言い方は失礼だがね。君はこうした場所でくすぶって終わる人間ではないだろう?」
ジェネラルは、ダンのことをその生い立ちから性格、あるいはつきあってきた女性の数に至るまで、すべて調べ上げていたようだった。だが、不思議とそのことに対して不信感や不快感のようなものを彼は覚えなかった。もしかしたらそれ以上に、<ジェネラル>という人物の発するカリスマ性に打たれていたそのせいかもしれない。
「弟のティム君のこと、残念だったね。余計なことかもしれないが、お母さまのために、アルコール治療を専門にした良い病院か施設を紹介しようか?」
「……何故、わたしなどのために、そこまでのことを?」
――そのかわり、頼みたいことがある、と<ジェネラル>は言った。いつか、君の力が必要になった時、協力して欲しい、と。
それは今からもう一年も前の話だ。ゆえに、その時から大統領がクリスマス休暇にエルヴァシア号を利用するということは、<ジェネラル>にもわかっていなかったはずだ。だが、確かにこのエルヴァシア号を、ロックスターや俳優といった有名人、あるいは政治家などが利用することがあるというのは本当のことであった。
最初、ダンが<ジェネラル>に協力したのは、政治家同士の密談の盗聴だった。ユトランド共和国の議会が、アフガニスタンやイラクへ派兵することを決めたのは、前政権の自由党政権下においてだったわけだが――この軍需企業と密接に結びついている政治家らは、オズモンドの保守党に政権を奪われてからも、さらなる政治献金の甘い汁を啜るべく、その後も色々と画策していたようなのである。
ダンは個人的に、アフガニスタンやイラクへの派兵には最初から反対だった。陸軍に二人、それと海軍に一人、親しい友人がいたのだが、三人とも、「あんなクソ暑いだけの砂漠になんか行きたくもねえ」と吐き捨てるように言っていた。「だが、これも上の命令だから仕方がない」と。そして、その三人のうち二人が帰らぬ人となった。葬式へ参列した時……ダンは弟のティムのことを思いだしていた。それが戦争でも交通事故でも自殺でも――人がひとり死ぬというのは、これほどまでに多くの人々に影響を与えるものなのだという現実を、あらためてまざまざと知る思いだった。
その後、自分が盗聴を行った政治家ふたりが失脚したことを知り、ダンは妙に満足だった。ひとりは愛人が提訴したスキャンダルで、もうひとりはインサイダー取引が原因だった。そしてその時に得た「自分は正しいことをしたのだ」というある種の満足感……今回もおそらく自分は最後には、同じ思いになるものとダンは信じ切っていたのである。
(だが……これは違う。間違っていたのは彼――テイラー・オズモンドではない。間違っていのはこの俺のほうなのだ)
そう気づいた途端、ダンは今のこの自分の姿を見て、どれほど弟が悲しむかということに思い至った。テイラーが涙を滲ませていたのは、ほんの三分ほどのことだっただろうか。彼は事態が事態なだけに、これ以上泣いてばかりもいられないと思ったのだろう。ハンカチで涙を拭くと、「本当に申し訳なかった」と、もう一度テーブルに頭をつけんばかりにして、ダンに対し、謝罪した。
「クソッ。くだらん茶番を演じおって」
<ジェネラル>からまだ連絡はない。だが、ラファエル・ロダールは今回の作戦において、ジェネラルの副官という立ち位置にいたため、この時は独自に判断して行動することにしたのである。部下ふたりに命じ、オズモンドの両手に拘束具をつけると、人のいないギャレー(調理室)のほうへ彼を連れていき、四人の部下に見張らせた。
「アレキサンダーのことはどうしますか?」
「あんな腑抜けは放っておけ!<ジェネラル>から殺すなと言われているから生かしておくが、そうでなければ頭を銃で撃ち抜いているところだぞ。俺は一度操縦室のほうへ戻ってジェネラルの指示を仰ぐ。大統領の御友人と警護官殿にはお引き取り願え」
ロダールがそう言うと、身長が二メートル強あるジョシュアは、ぬっと巨体を揺らめかせて、前へと進みでた。
「そうはいかん。大統領の御友人のドクターには、このままスイートキャビンのほうへ戻っていただこう。だが、私は大統領を警護するのが仕事なのでね。このまま、彼のそば近くにいさせてもらいたい」
ロダールは「チッ」と舌打ちすると、部下の一人に命じて、オズモンドと同じようにプラスチックの拘束具で彼のことを縛るよう命じた。プラスチック製ではあるが、相手が仮にどれほどの怪力を持っていようと、これならば絶対に外すことは出来ないという構造をしている。
だが、相手は警護に関するプロ中のプロだ。おそらく、<ジェネラル>は彼については「始末しろ」と命じるだろう。自分が彼らから目を離すのはほんの十分程度だ。ロダールは部下たちに「油断するなよ」と鋭く命じてから、その場を一時離れることにした。
この時、トミーはこうした会話の一部始終を聞き、それをそのままギルバートたちのいるスイートキャビンのほうへ流していた。一方、デニスは時速七十キロほどもの速度の中、列車の屋根部分に這いつくばり、下の様子をなんとか眺めようと必死だった。最初に車輌と車輌の連結部を飛ぶ時には勇気がいったが、それも何度か繰り返すうちに慣れた。そして今彼は、レストラン・カーのところまで到達していた。バー・カーとサロン・カー、それにレストラン・カーとは、上部の屋根の六割ほどが窓状になっているのだ。ちょうど屋根の真ん中のところは通常の鋼鉄製であるため、その部分に姿を隠しつつ、デニスは少しずつ体を先へ先へと進めていった。
レストラン・カーでは今、黒服を着たガタイのいい男――デニスの上司のジョシュア・ライリー――が、迷彩服の男たちに両手を拘束され、どこかへ連行されていくところだった。その場に大統領の姿はなく、医師のジェイムズ・ガーナーは、これもまた迷彩服の男たちに体を突き飛ばされ、シングル・カーのほうへと追いやられている。
(良かった。とりあえず、ガーナー先生は無事に解放されたようだ。それに、大統領の死体が床に転がっていないところを見ると、おそらくオズモンド大統領も無事なんじゃないだろうか……)
そんな楽観的な予測とともに、さらにレストラン・カーの先へと進むごとに、デニスは寒いにも関わらず、若干冷や汗が出るようにすら感じたほどである。
まず、レストラン・カーには十一名の軍服を着た男がおり、サロン・カーにはそれ以上に多い二十名ほどの迷彩服の男、バー・カーには十二名の敵がいるとわかった。これだけでも四十三名……だが、デニスにわかったのはここまでだった。ここから先は、天井部分のすべてが鋼鉄製で窓状にはなっていない。
オズモンド大統領はこのうち、レストラン・カー前部の調理室で監禁されることになったわけだが、その部分については四方に囲みがしっかりついているため、中のほうは一切窺い知るということが出来ない。それでも、ジョシュアがレストラン・カーを移動していく姿を追い、彼の姿がいつまでたってもサロン・カーには出て来なかったことから……同じ場所に大統領もいるのではないかとデニスは見当をつけたのである。
(ここらで一旦ずらかるか。なんにせよ、この先にはさらに乗務員室と操縦室があることを思えば、敵の数はもっと多いってことだ。さっきあいつらが列車の屋根に上がってきた時……銃でもっと殺せてたら良かったのにな。なんにしても、大統領がまだ生きているなら、救出することは全然不可能じゃない。よし、速く戻ってまずは報告だ)
この時、デニスは進行方向を変えようとして、風に煽られ体勢を崩しそうになった。それで一瞬ひやりとしたが、なんとか屋根にしがみつき、再び元来た道を引き返していく。
(やれやれ。俺が屋根に張りついてるのが下の連中にバレたら……あっという間に蜂の巣にされるところだぜ)
走行中の列車から落ちる恐怖と、銃で蜂の巣にされる恐怖の両方を感じつつ、(くわばら、くわばら)と思いながら四つん這いになって再び少しずつ前進していく。そして、シングル・カーのトミーのいる部屋まで到達すると、二階の窓をコツコツ叩いたのだった。
「おう、ご苦労さん」
「うっわ、さっぶー。外さっぶー。そんで中超あったけえ。あったかいのサイコー!!もう俺、マジで死ぬかと思ったもんね。あーもー、俺、シークレットサービスなんかやめちまおうかなあ」
二人は軽口を叩きあうのもそこそこに、互いに情報交換しあい、すぐに急いでスイートキャビンのほうへ引き上げていった。シングル・カーのほうは二輌とも妙にしんとしていたが、それもそのはずで、シングル・ルーム客車の客のほとんどは、旅をはじめて知り合いになったツイン・ルーム客車の部屋のほうへと大半が身を寄せていたのである。
トミーとデニスが戻ってくると、彼らがもたらしてくれた情報を元に、ギルバートとルークは新たに作戦を立て直した。おそらく、オズモンド大統領がいるのはレストラン・カー前部の調理室だろう。あるいは操縦室や乗務員室という可能性もあるが、なんにせよ、人数的なことを考えてみても、こちらから奇襲をかけないことにはまずもって勝ち目はない――ということで、みなの意見は一致していた。
「あいつらは、今のところこちらまで攻めこんで来るつもりはないらしい。だが、もし列車の速度が落ちてきたら……いや、今の速度のままでも、先ほどと同じようにまた屋根からこちらへやって来ようとするに違いない。何分、列車の通路は狭い。仮に向こうがいくら人数で勝っていようとも、横に広がって展開できない以上、無駄に死者と負傷者が出るだけだ。だが、後ろのスイートキャビンの窓から手榴弾を投げこむことさえ出来れば、こちらに大きな打撃を与えることが出来る――ようするに、向こうも考えていることはこちらと同じだということだ。ただし、状況としてはこちらのほうが不利だということは先に言っておこう。人数的に向こうが勝っているというだけでなく、向こうは賢いことに、先に操縦室を押さえた。我々はそこだけは手榴弾によって吹っ飛ばすということは出来ないから、どうしてもこちらが先に動いて奇襲を仕掛ける必要がある」
ギルバートは、エルヴァシア号の車内見取り図をテーブルの上に広げ、それを眺めながらそう言った。今、スイートキャビンには、ギルバートを中心にして、ルークとディランにトミー、それに秘書のジェニー、大統領補佐官のローランドとラムズ、三十六名のシークレットサービス警護官がいた。そして、少し離れたところでこの話を聞くジェイムズ・ガーナーの姿がある。
「幸いというべきかどうか……これからエルヴァシア号はエルヴァート鉄橋に入る。全長は約三キロ。おそらく、向こうも少し列車の速度を落とすはずだ。そこで、俺にしても危険、とは思うが――この任は俺が引き受けるとして聞いて欲しい。乗客らには、ツイン・ルーム客車のほうに今のまま避難するような形でいてもらい、まずシングル・カーのほうへ向こうが攻めてきたら、こちらも当然応戦する。自動小銃で奴らを順に蜂の巣にしてやれ。おそらく、向こうが屋根のほうからこちらへやって来るとしたら、このエルヴァート鉄橋を抜けてからだ。もし盲点になるとしたらここだ。もちろん、下は大河ユトから繋がる海だからな。下まではおそらく二百メートル以上はある。もし落下したら間違いなく死ぬ距離だ。だが、俺が先にレストラン・カーへと屋根づたいに行ってガラスを割り、こいつを使おうと思ってる」
ギルバートはテーブルの上に乗った黒い筒状の催涙弾を指で示した。少々皮肉な気もするが、その催涙弾はブラックバイパー社製のものだった。
「調理室とレストラン・カーの間には扉があって分かれているから、おそらくオズモンド大統領たちに被害はないか、あるいはあってもそう大したことはないだろうと思う。それで、この間に君たちには、シングル・カーのほうから先へ進んで、あちらの敵を蹴散らしてもらいたい」
こんなこともあろうかと、ギルバートは前もってある特注品をUSISの技術開発部に作らせておいた。シークレットサービス警護官たちは防弾チョッキを着ているが、それでも頭や首など、他の急所を完璧に守れるというわけではない。そこで、列車内で起きたテロ対策用に、まったく同じ場所に連続して三十発以上銃弾を撃ちこみでもしない限りは――決して貫くことの出来ない特殊な<盾>を造らせたのだ。
これを使いながらシークレットサービス警護官には迷彩服の男たちを攻撃してもらい、と同時にギルバートが上からレストラン・カーに催涙弾を打ち込む……もちろん、向こうもおそらくは陸軍の特殊部隊か、あるいはそこまでいかなかったとしても、一般の兵士以上には鍛え抜かれている猛者と見たほうがいいだろう。この方法でもエルヴァシア号を制圧できるかどうかは未知数だとギルバートは見ていた。
「デニス、レストラン・カーまで行くのに何分かかった?」
(ストップウォッチを使って時間を計っておいてくれと言ったのは、こういうことだったのか)と、初めて気づき、デニスは驚きとともに答えた。
「そうですね。もしもう一度同じことをしたら……あるいは、列車の速度が落ちていたら、もう少し時間は短くてすんだかもしれませんが、列車の連結部を飛び越えるのにビビッたりなんだりしていたもんで、十五分以上かかっちまいました」
「レストラン・カーにまで到達した時点の、正確な時間は?」と、ディランが鋭い目つきで訊ねる。
「ええと……16分37秒です」
「そうか」と、ギルバートはデニスの英雄行為を褒め称える表情をして笑った。「俺もそのくらいか、あるいはそれ以上かかりそうだな。もしかしたら、足が竦んで動けなくなったりなんだり、あるいは小便を漏らしちまった時間も入れて、最低二十分はかかるだろう」
ここで、みなの間から、束の間笑い声が洩れる。
「突入は、俺が屋根の上に上ってから二十分後ということにしよう。もし二十分以内に間に合わなかったら、必ず連絡する」
そう言ってギルバートは、腕時計を見た。現在、16:50だった。そこで、これから厚着をしたりなんだりといった時間を計算に入れ、作戦の実行は17:05ということにギルバートは設定した。
「ま、待ってくれ。まさかあんた、一人でそんな無茶なことしようってのか」
デニスが驚いて言った。
「俺も一緒に行くよ。さっきも一度経験してるし、あんたがレストラン・カーに催涙弾を打ち込むのと同時に、俺がバー・カーに同じように催涙弾を撃ち込む……そのほうが作戦が成功する確率が絶対に上がる。だから俺のことも連れていけよ」
「だが……もし強風に煽られて足を踏み外しでもしたら、エルヴァート海峡目がけて真っ逆様だぞ。そんな死に方、とても俺には推奨できん」
「だ、だけどさっ」
デニスは準備をはじめるギルバートに追い縋るようにして言った。
「もしこの作戦が失敗したら、俺はあいつらに蜂の巣にされて死んじまうんだ。それとエルキューレ海峡に真っ逆様に落ちるのとどっちがいいかって言ったら、五十歩百歩ですよ。なら、俺はより勝率が上がるほうに賭けたい。あんた……えっと、コナーさんだっけ。俺は足手まといにはならねえ。もし仮に、俺が列車から落ちそうになってたら、あんたは俺を見捨てていいし、なんなら足蹴にして落として助けてくれなくたっていいからさ、俺にも屋根の上から催涙弾作戦に加わらせてくれよ」
「そうだね。僕もギルバートと一緒に行くよ。それで、レストラン・カーとバー・カー、サロン・カーに同時に催涙弾を撃ち込むことにしたほうが、より作戦の成功する確率が上がる。止めないでくれ、ギルバート。あいつらは三十八名もの乗客ごとこの列車を爆破してもなんとも思わないような連中なのは間違いない。つまり、その爆発に巻き込まれて死ぬのも、エルキューレ岬に落ちて海の藻屑と消えるのも……同じくらい嫌な死に方だっていうことさ」
ディランの身体能力の高さについては、ギルバートもよく知っている。だが、彼ほどの諜報員が育つまでに、USISにとってどれほど時間と資金が必要となるか……そのことを思うと、ギルバートは二の足を踏んだ。もちろん、一番の理由は同僚である以上に友である彼のことを自分の責任で失いたくないということではあったのだが。
「ずるいぜ、ディラン。そういうことなら、俺も一緒に行きたいけど――流石にちょっと俺にはそこまでの勇気はないな。気をつけろよ、三人とも。俺は照明弾でも打って、奴らを霍乱する役にでも徹することにするわ」
トミーとルークとディランとは、互いに今後の作戦を話しあっていたため、手筈のほうもすでによくわかっていたのである。
つまり、作戦がスタートして二十分後、まずはトミーが照明弾を第一車輌に当たる操縦室に向けて打つ。当然、彼らは何が起きたかと思い、窓の外を覗こうとするなりなんなりするだろう。そこへギルバート、デニス、ディランがレストラン・カー、バー・カー、サロン・カーに向けて同時に催涙弾を撃ち込む。と、さらにここへシークレットサービス警護官が特殊防弾シールドを掲げて進軍する……だが、この作戦がうまくいくかどうか、死傷者がどの程度で済むか、オズモンド大統領を無事救出できるかどうかなど、すべては未知数だとギルバートは説明した。「どんな不測の事態が起きるかは誰にもわからない。だからほんの小さなミスも影響すると考えて、各自慎重に行動するように。くれぐれも、この作戦なら必ずうまくいくなどと過信しないでくれ」と重々しい口調でギルバートは最後にみなに語った。
ギルバートとディランとデニスは、顔の目が見えるようにした以外の体全体を、すべて風が入って来ないように覆い、17:05ちょうどにスイートキャビンの二階の窓から外へ出ようとした。
ところが――。
ギルバートが先頭に立ち、窓を持ち上げて外へ出ようとした時のことだった。外はもうすっかり闇に覆われていたが、それでもレストラン・カーやサロン・カーの天井から煌々と光が洩れているため、車輌のずっと先に迷彩服の男が、四つん這いになってこちらへやって来るのが見えたのである。
「トミー!照明弾を貸してくれ!!」
ギルバートはそう叫び、トミーから照明弾を受け取ると、先の車輌目がけて撃った。途端、光が闇夜を引き裂き、その衝撃と驚きによって、迷彩服の男が二人ほど叫び声とともに落下していく。
(なんて奴らだ……!!)
遥か二百メートル下の、エルキューレ海峡へ消えた男たちのことを思い、敵ながら相手が一瞬気の毒になるほどだった。つまり、向こうも……<ジェネラル>も、ギルバートとまったく同じことを考えていたということなのだ。ここから先、三キロはエルヴァート鉄橋が続く。そしてそこだけは、敵も攻めて来まいと考え――むしろ向こうが先に動いたという、これはそういうことなのだ。
「おい、グレネードランチャーを寄越せ!!」
スイートキャビンの一階を走り、シークレットサービスの一人が急いでギルバートの命じたものを持ってくる。その間も、ギルバートは暗視スコープを装着したライフルで、敵の数人を撃ち落とした。何分、よく目を凝らして見なければ先を見通せない闇の中でのことだ。ギルバートにも何人仕留めることが出来たのか、正確な数のほうはわからない。
(だが、気配から察するに、七~八人は下へ落ちたはずだ。あとは……)
デニスとルークの報告を聞き、ギルバートは敵の総数を約八十人と見積もっていた。実際は七十人ほどだったわけだが、ギルバートはこの時、最初に列車から落下した六人とこの七人をそこから差し引き、敵の勢力を残り六十七人と見積もった。つまり、もっと相手の人数をこの機会に削ぎ落としておかなくてはならない。
ギルバートはグレネードランチャーを受け取ると、敵のいる方角へ向けて容赦なく打ち込んだ。もちろん、列車のどこをも掠りさえしないよう、計算してのことだ。ゆえに、どちらかというと威嚇射撃的意味合いの強い攻撃であったものの――遥か前方で叫び声が上がり、再び数人が落下したらしき気配を感じる。
(これでもまだ、数としては向こうのほうが多いままだな)
実際にはこの時、<ジェネラル>側の七十人いた兵力は、四十六名にまで減っていた。また、ミサイルが一発飛んできてからは、人の気配といったものがまったくしなくなり、列車の屋根の上は風の音しか再び聞こえなくなった。と、同時に少しずつエルヴァシア号が速度を落としていくのがわかる。
ギルバートは一旦スイートキャビンのほうへ下りると、シークレットサービス警護官になる前は、海兵隊に六年いたというグレン・ダニエルという男にナイトビジョンゴーグルを渡して見張りを任せた。何か怪しい動きが見えたように感じたら、再び照明弾を撃てとも命じておく。
(おそらく向こうも、赤外線スコープか何かでこちらの様子を窺っているはずだ。<ジェネラル>は一体どうでる……?もし、俺があいつなら――あいつだったらどうする?……)
ギルバートは今起きたことの顛末を手短にルークやディラン、他の周りにいた者たちに伝えると、シングル・カーの二輌目で準備をはじめていたシークレットサービス警護官たちの様子を見にいった。
照明弾の明かりや銃を撃つ音などで、どうやら作戦を阻害する予想外の何かが起きたらしいことは、彼らにもよくわかっていた。ギルバートは彼らにこちらの人的被害は一切なく、向こうは十名以上が列車から落ちたことを教えた。途端、警護官たちの顔が明るく輝き渡ったものの、ギルバートは「気を引き締めてかかれ」と、あえて厳しい口調で注意した。
「この防弾シールドのことも過信するな。あいつらは二百メートル下の海に消えることも恐れないような連中だ。死ぬ気でかかってきたら、こちらに百名いて向こうが二十名でも負ける可能性すらあると思え」
「は、はいっ……!!」
ここにいるシークレットサービス警護官たちは、警察官か軍人出身の者がほとんどだったが、残念ながら独自に動いて奇抜な作戦を思いつくといった独創性や才能に欠けている者が多かった。ギルバートよりも年上のシークレットサービスの者までもが、軍隊式にこの場は彼が目上の者であると認め、ただ忠実に動こうとしているだけだ。
「俺はここから再び屋根に上がって、レストラン・カーに催涙弾を撃ちこむ。騒ぎを感じとったらすぐに突っ込め。いいな!?」
「了解です、上官……!!」
他の者たちも、軍隊時代を思いだしたのかどうか、「イエス、サー!!」と敬礼して口々にそう言っていた。その様子を眺め、ギルバートは「よし!」と頷き、ガスマスクを装着すると、窓の外へ出ようとする。
「グレン・ダニエルに照明弾をもう一発撃つよう、伝えてくれ。それで向こうになんの異変も見られないようなら、先ほどと同じ作戦でいく」
ダニエルが照明弾を打ち、向こうから間違いなく人の上がってくる気配がないのを確かめると、自動小銃を肩にかけたまま、ギルバートは列車の上へ上がった。間違いなく先ほどよりかなり速度が落ちている。そのことは助かるのだが、ギルバートには何故今<ジェネラル>がエルヴァシア号の速度を落としたのかがまるでわからなかった。
しかもその上――ギルバートに続いてデニス、ディランの順に屋根の上へ上がった時、何故か突然列車が止まったのだ。だが、ギルバートはもう引き返すことは出来ないと思い、作戦をそのまま決行することに決める。
レストラン・カーの天井の窓を割り、そこから胸にかけていた催涙弾を外して撃ち込む。すぐにレストラン・カー、バー・カー、サロン・カーともに白い煙で満たされ、アンティークなテーブルや椅子に座りこんでいた迷彩服の男たちは大混乱に陥った。と、同時にガスマスクをしたシークレットサービス警護官たちが特殊シールドを片手に突っ込んでいく。
容赦のない銃弾の雨が降り注ぎ、敵からの応戦も激しかったが、やがて十分とかからずその場の勝敗のほうは決した。催涙弾の効果はまだあたりに漂っていたが、迷彩服の男たちの中で、立っている者は誰もいなかった。その中で催涙弾が効いて倒れているが、生きている者には順に銃でとどめを刺していく。
「そこまでだ!!」
チェ・ゲバラ――ではなく、ラファエル・ロダールが、オズモンド大統領を連れて、部下たちの死体の折り重なる中、姿を現した。大統領は軽くせきこんでいたが、ロダールのほうは何も感じていない様子を見ると、催涙弾の効果は消えつつあったに違いない。
「大統領の命が惜しければ、武器を捨てろ!」
言うまでもなく、シークレットサービスは大統領の命を守るために存在している。彼らは一様に顔色を変えると、手にしていた拳銃や自動小銃を次々と捨てていった。途端、ロダールの後ろにいた残りの兵士たちがライフルを撃ち放し、三十五名いた警護官たちの命は儚く散っていった。
「ハハハッ!!可哀想に……こいつら全員、防弾チョッキ着てたんですよ。致命傷にならないってだけで、こんな痛いものを。むしろ苦しみが増えて最後には死んだって感じですかね」
放射状にライフルを連射していた若い部下の一人が、拳銃でシークレットサービスたちの頭や喉を撃ち抜きながらそう言っていた。万事休すとは、まさにこのことだった。
「コナーさん、どうしますか?」
列車の屋根からレストラン・カーの阿鼻叫喚の惨状を眺め、ギルバートもデニスもディランも青ざめていたわけだが、デニスに隣からそう聞かれ、ようやくギルバートも我に返っていた。
このまま、先の乗務員用の客車、操縦室のほうまで行っても屋根から下が見えるわけではない以上、ここでなんとかしなくてはならない。彼らも上部の窓に穴が開いていることには気づいている。ということは、下の事態が収束次第、上にネズミのいることもすぐわかってしまうだろう。
(どうすればいい?一体どうすれば……)
ギルバートが今後の新たな作戦について思いつけずにいると、銃声が聞こえた。「うわっ!」と叫び、デニスがレストラン・カーの窓側に体をぶら下げる形となる。すかさず、窓から見えた彼のことを、中にいた兵士たちが容赦なく銃を乱射して海へと撃ち落とす。
『ロダール、撃つのをやめろ』
<ジェネラル>がそう命じると、銃声がやんだ。幸い、ギルバートもディランも流れ弾に当たるということはなかったが、もはや形勢が逆転したことは明白だった。
(だが、この声は……)
「ギルバート、もしかして<ジェネラル>っていうのは……」
ディランが列車の屋根に上がってきた人影のことをギルバートに向かって囁こうとした途端――彼の足許を銃弾が掠めた。
「余計なおしゃべりはよすんだな。今のはわざと外した。次は本当に撃つ」
いくら列車が静止しているとはいえ、今、エルヴァシア号は闇夜の中、二百メートルはある鉄橋の上にあるのだ。その中を、車輌と車輌の連結部を軽々と飛び越えながら歩いてくるとは……大した度胸だと、ギルバートは思わず感心せずにはいられない。
「ディラン、逃げろ」
余計なおしゃべりはよせと言われたばかりなのに、ギルバートは小声で話し続けた。
「まずはおまえが逃げないと、俺も退路がない。だから、俺があいつを惹きつける間、急いでシングル・カーの二階の窓へ飛びこむんだ。いいなっ!?」
いずれすぐにも、シングル・カーもツイン・カーもまったく安全ではなくなると思い、ギルバートはそう言った。確かに、これでは逃げ場がなかった。せめてそこがどこでも、陸続きの場所を列車が走っているのだったら……時速何十キロでエルヴァシア号が走っているのだとしても、生き残る道は残されていたかもしれない。だが、もはや全員銃で撃ち殺されるか、二百メートル下の海へ落下して死ぬかの二択しかないのだ。
列車の冷たい鋼鉄の屋根に膝をついていたギルバートは、向こうからやって来る人影と同じように、その場に立ち上がった。向こうから撃ってくるような気配はない。おそらく、自分を殺す前に少し話がしたいのだろうと思われた。
(だが、武器を捨てろとは言わなかった。もしこちらから撃てば、あいつもここから落ちて死ぬかもしれないのに……もちろん、大統領を人質に取っているから撃たないだろうという目算なのだとしても――この死の恐怖を前にして、俺が錯乱するとは思わないのか)
しかも、このおそらくは<ジェネラル>と思われる人物は、ディランがこの場からいなくなるなり、ぽいと手に持っていた銃を捨てた。もちろん、携帯している銃はそれ一丁だけではないだろう。だが、それにしても、とギルバートは思う。幼い頃からサーカスででも鍛えていたのでもない限り、この状況でよく冷静でいられるものだと感心してしまう。
「君はもしかして……<ジェネラル>になる前は、シルク・ド・ソレイユの団員か何かだったのかな?」
「ふふっ……この状況でよく冗談など言う気になれるな。それで、これから君はどうするのかね?大統領の命は我が手中にある。残りの者の命を救うために、私に命乞いでもするつもりか?」
二輌挟んだ向こうに<ジェネラル>はおり、バー・カーの天井から放たれる光は、そこまでは届かない。ギルバートは距離を詰めるべきかどうかと迷いつつ、その場に立ち尽くす。
「もし俺が這いつくばって君の靴をなめれば、他の者の命は助けてくれるというのなら――確かに喜んでなんでもしよう。なんにしても礼を言う。大切な部下を一人、逃がしてくれたことを……」
一方、デニスのことを思うとギルバートは胸が痛んだ。彼が銃の衝撃によって列車から手を離し、奈落の底のような闇の中へ吸い込まれていった時の、最後の顔の表情が……脳裏に焼きついて離れない。それに、自分の作戦によって死なせてしまったシークレットサービスたちに対しても、自身の命ひとつでは到底贖えない重い責任を感じてもいた。
「礼には及ばんよ。何分、エルヴァシア号はここで爆破される予定だからな。もう暫くすれば、仲間がヘリによって迎えに来る……君も、大統領も君の仲間も、全員ここで死ぬ。ただそれが速いか遅いかの違いだけさ」
ギルバートは一歩、<ジェネラル>に近づいた。すると、不思議なことにジェネラルのほうでもこちらへ一歩あゆみ寄ってきた。そしてギルバートが車輌連結部を越えて、サロン・カーの上へ上がると、ジェネラルもまったく同じようにした。
向こうからはおそらく、サロン・カーの天井部からの光で、自分の姿は相当はっきり見えていることだろう。だが、ギルバートの側からは<ジェネラル>の姿は半分闇に解けたままで、まだあまりよくは見えなかった。
ユトランド共和国陸軍の軍帽を被り、同じく陸軍の制服、軍靴を履いていることはわかる。ギルバートの目算では、身長は170センチほどで、長い髪を束ねていることがわかる……だが、ギルバートが相手の顔をはっきり見たいと思い、視線が合うか合わないかというところで――向こうがダッと走りだし、こちらに攻撃を仕掛けてきたのだ!
シュッ、と手刀が空を切る音がするのと同時、ギルバートは反射的にかわした。だが、今度は足払いをくわされ、無様に転倒する。鋼鉄製の列車の屋根に腰を打ちつけるが、向こうが後ろに引くのに合わせ、ギルバートもまたすぐに立ち上がる。
「<ジェネラル>……おまえは、やはり――」
ギルバートはごくりと唾を飲んだ。最初に声を聞いた時から、(まさか)とは、一瞬思った。だが、声から相手が女であることは明白であり、彼はその時点ですでに自分の負けを認めていた。何故なら、もしこれで<ジェネラル>が男であってくれさえすれば……ギルバートも死力を尽くして戦うことが出来ただろう。だが、この敗色の濃い中で、相手と相打ちに持ち込むなどということは、敵の首領が女性である以上、ギルバートには到底出来ないことであった。
「そうよ!気づかないあんたが馬鹿なのよっ。まあ、安心するのね。あんたの前の奥さんと可愛い娘は生きてるわ。それで、あんたはここで死ぬにしても、彼女たちのことは解放してあげる。この冥土の土産を、せいぜい喜ぶことね!」
アメリアは、次は手加減しなかった。ギルバートは反射的に首に打ち込まれた手刀を受け流し、蹴りをかわした。そしてギルバートがアメリアの攻撃に対し、防戦一方に追い込まれたままでいると、もう一人、バー・カーの向こうに軍服を着た誰かが姿を現す。
ギルバートは幾度か顔を殴られ、胸に重い蹴りを食らったが、バランスを崩すでもなくどうにか堪えた。すると、アメリアのほうから檄が飛ぶ。
「どうしたのよ!このサド野郎っ。つきあってた頃のあんたは、もう少し骨があるかと思ってたけどねっ!!」
次から次へとアメリアから攻撃が繰り出されるため――ギルバートに迷っている暇はなかった。どうにか彼女の懐に飛び込むと、鳩尾に一撃を食らわせる。アメリアは「うっ!」と短く呻くと、不覚とばかり、その場に倒れこんでいた。
そしてこの時になってようやく、ギルバートはもう一人の人物のほうへ視線を向けたのである。
その瞬間、アメリアの裏切り以上のショックをギルバートは受けた。何故なら――車輌の上を悠々とこちら側へ向かって歩いてきたのは、ギルバートが心から愛したもう一人の女性であったからだ。
「………サラっ!!」
「あら、随分驚いてくれるのね。本当はアメリアは今回の作戦に加わる予定じゃなかったのよ。だけど、どうしてもあなたのことは自分のこの手で殺したいって言ってね。だから仕方なかったのよ」
ギルバートは呆然としていたが、サラのほうではまったく冷静そのものだった。
「あなたのこと、任務ということを越えて本当に愛していたのね。本来なら、アメリアがあなたの妻の座に収まり、あなたのことを監視するという予定だったの。まあ、昔からロシアがやってる古い手法よ。ヨーロッパの要職にある男と結婚するよう仕向けて、相手を監視するっていうね。また、必要が生じた時には密命を実行することもあるし、夫を始末するということもある……だけど、彼女ほどのいい女を相手にしても、あなたはなかなか結婚へ踏み切るということまではしなかった。実際、わたしにしてもその点が実に不思議よ。わたしが男なら、アメリアとすぐにも結婚しようとしたでしょうね。そこで、本来ならわたしの出る幕はなかったはずなのに、今度はわたしがあなたを誘惑するっていうことになったというわけ」
混乱の極致にあるあまり、ギルバートは思考が本当にまったく働かなかった。アメリアが裏切り者であったという事実については、受け止めることが出来る。何故なら、今にして思えばUSIS内における彼女の行動については不審に思われる点がいくつかあるからだ。だが、サラのことに関してはギルバートはまったく無防備な心のままに、深く傷ついていたといっていい。
「じゃあ、もしかして<ジェネラル>というのは……」
「そうよ。わたしがあなたの言う、その<ジェネラル>よ!!」
サラは腰から銃を引き抜くと、一発撃った。銃弾はギルバートの右上腕部を掠め、そこから血が流れる。ギルバートは燃えるような痛みを感じながらも、今大切なのはそうしたことではまったくなかった。
「一体いつ、いつから……」
愕然とするあまり、ギルバートは自分でも随分間抜けな質問をしているとはわかっていた。だが、もはやこの絶望的な状況を目の前にしては、どうしようもない。
「わたしのことに関して言うなら、最初から最後までよ。でも、アメリアは少し違うわね。USISに潜伏し、こちらへ内部情報を流すというのが彼女の仕事だった。それでいて、上司としてのあなたのことは本当に好きだったみたいよ?でもあなたは、彼女の気持ちに十分には応えられなかったみたいね。わたしも、あなたとつきあうことには不賛成だったけど、これも上からの命令でね。まあ、お互いそれなりに恋人ごっこを楽しんだといったところかしら?」
「君にとってはそうでも、俺にとっては違う」
ギルバートは呻くようにそう声を洩らした。このまま自分がどうなろうと、最早構わないといったようにすら感じる。
「本当に愛していた。結婚するということも……本気で考えていたんだ」
「あら、そうかしら?あなたはあんなものを本当に愛だとでも思うの?あなたは自分のことしか愛してない、愛せない人間なんじゃないかしらね。もしそうじゃないなら、アメリアとのことをもっと真剣に考えて結婚していたはずよ。むしろわたしのほうこそ聞きたいわ。彼女とわたしとで一体何が違ったっていうの?知性もそれなりにあるし、男に気に入られるように従順な性格であなたに接した。それに、体技に関しても色々教えこまれているから、彼女の体だって男にとっては最高だったはずよ。わたしはただ、短い期間、あなたの気に入るような女を演じていたっていう、ただそれだけ」
「…………………」
こうとまで言われてしまっては、ギルバートにしても言葉がなかった。それに、今は公私については分けて考えなければならない。愛した女性が二人とも、裏の組織の人間で目的があって自分に近づいただけだった……その滑稽さと悲しさ、痛みについては今この場でではなく、あとから考えるべきことだった。
「俺はこの場で、君に降参した、と言えばいいのかな?」
アメリアがぐったりとし、今暫くは目を覚ましそうにないのを確認すると、ギルバートは立ち上がった。今、下の車輌で起きていることから、<ジェネラル>の気を逸らせるためだった。
「あなたにもわかっているはずよ。事の問題は勝ち負けじゃない。わたしは与えられた任務をまっとうしつつあるという、ただそれだけ……」
ギルバートはサラのほうへ向けて一歩近づいた。そんな彼に対し、サラは容赦なく銃口を向け、「動くな!」と叫ぶ。それで、ギルバートはその場に立ち尽くしたままでいた。
「ただこのままあなたを銃で撃って殺したっていうんじゃ、芸がないわよね。実際、あなたには随分邪魔をされたもの。たとえば、例のユトランドの五大軍需企業の件についてのこととか……たぶん、あなたは自分は正しいことをしたと思ってるんでしょうね。でも、これからユトランド共和国は戦闘機や攻撃用ヘリコプター、戦車なんかをもっと海外に売り込んで輸出するっていう予定だったのよ。そのほうが、長い目で見た場合――ユトランド共和国にとっては良いことだった。そうは思わない?」
「一度は殺そうとした、ジョン・キーナムが今も生きているのもそのせいか?」
くっ、とギルバートは嘲笑を堪えるような顔をしてみせた。サラのほうで、こうした挑発にどの程度乗ってくるかはわからない。
「そうね。あの日の夜……実際のところわたしは、キーナムと一緒にプレジデンシャルルームへ行くつもりだったの。もっとも、彼と寝る気はなかったけど、キーナムがシャワーを浴びている間にでも、メイソンのことを手引きするつもりでいたのよ。だけど、メイソンはあなたがたに捕まった――もしそんなことでもなければ、あの夜、あのクズみたいな男は死んでいたでしょうし、メイソンも自殺することはなかったでしょう。それでもあなたは、自分が正しいことをしたと、今もそう思っているの?」
ギルバートはいつでも、自分が正しいと思っていたことはない。ジム・クロウのことにしてもそうだし、メイソンのことも、彼の死の予兆を感じとっていながら……もっとどうにかすることが出来たのではないかと後悔している。そして今も――自分の作戦により、多くの死者を出してしまった。だが、これがある意味<諜報の道>というものだった。どの国の秘密情報庁の作戦指揮官も、こうした正義と悪の混在した中、国の利益になると信じるもののために最善を尽くして戦っているのだ。
「俺は……自分のしていることが正しいと思ったことはないよ。せいぜいのところを言って、国から給料を貰っているただの犬といったところかな。上から命令があれば、それに従うというただそれだけだという意味では――サラ、君とも似たところがあるのかもしれないな。おそらく、君の意向としては、ジョン・キーナムのことは消したかったに違いない。メイソンが自殺したあとでは尚更その思いは募ったことだろう。だが、君よりも上の上層部から彼のことは生かしておくようにとストップがかかった……そんなところかな」
「ええ、そうよ。アメリカにはすでにロッキード・マーティン、ボーイング、レイセオンなど、並の企業では到底太刀打できない強大な軍事企業が存在している。でも、向こうは莫大な財政赤字を抱えているにも関わらず、軍事費がなかなか減っていかないのよね。その部分には当然カラクリがある……頭のいいあなたには説明する必要もないでしょうけど、そこにはつきいるための大きな隙があるのよ。そしてそのためには、政界の人脈やコネクションといったものが当然必要になってくる。そのためにキーナムのことは生かしておくことに上が決めたってわけ」
9.11以降、テロとの戦いは今も続いている。アフガニスタンやイラクだけではない。その後もソマリアやイエメンやシリアなど、アメリカはテロリストたちを相手に軍を展開しているし、そうして敵を叩くことで、まるでクラスター爆弾のように、さらに新たなテロリストを実は育んでもいるのだ。こうしたことを背景にして、軍事企業のほうでは膨らむ国防費から予算をもらい、さらに新しい兵器を開発するわけだが、そこに本来以上の儲けを組み込み、甘い汁をすするという循環が軍需企業の間では確立されているといっていい。
「サラ、君は<ジェネラル>でいる間、いつもは中年の男の声に音声を変えて連絡を取るのかい?」
ギルバートはこの時、そんな素朴な疑問を口にした。なるべく時間稼ぎをするためだった。
「そうね。わたしたちは、いずれ死ぬ予定の人間以外に、<ジェネラル>として顔を見せることはほとんどない。まあ、裏の世界の中堅幹部といったら、大体いい年をした中年の男を人は連想するものでしょう?誰もまさか<ジェネラル>が女だとは想像してみたこともないはずよ」
「そうだろうな。俺も<ジェネラル>はずっと男だとばかり思ってきた。中年の男に見せかけておきながら、実際は二十代後半といったことはあるかもしれないが、それでも相手は間違いなく男だろうと想像していたんだ」
サラは銃を構えたままで、肩を竦めてみせる。「でしょうね」と。
「あとは他に、知りたいことはない?冥土の土産と言ってはなんだけど、どうせあなたは死ぬ運命なのだから、迎えのヘリがやって来るまでに時間もあるし、知りたいことがあるなら答えられる範囲内で答えてあげてもいいわよ」
ここでギルバートは、ごくりと喉を鳴らした。本当は、何よりもただひとつのことだけを最初から彼女には聞きたかった。
「俺は君を愛していたし、今も愛している。サラ、君が<ジェネラル>とわかった今でも、その気持ちに変わりはない。だが、君は本当はどうだったんだ?俺のことを一度も、ほんの一瞬でも愛していると思ったことはないのか?」
「…………………」
サラは黙りこんだ。そこでギルバートは、さらに彼女に一歩近寄っていく。もし撃たれたとしてももう構わないとさえ思っていた。むしろ、この時ギルバートは彼女の手で殺されたいとすら……本気でそう思っていたのだから。
だがこの時、後ろのほうで人の動く気配がし、ギルバートが振り返った時のことだった。アメリアがよろめきながら体を起こし、胸元からサバイバルナイフを抜きとると、その場から走ってかつて愛した男の背中を刺そうとする。
と、同時に銃声が闇の中を引き裂き、アメリアの腹部に命中した。撃ったのはディランだった。彼は赤外線スコープによってずっと後部車輌のほうからこちらの様子を窺っていたのだ。アメリアは体勢を崩し、底の見えない漆黒の海の中へと消えていった。
「……アメリアっ!!」
サラはギルバートではなく、先にディランを始末しようと考えたようだった。そちらに向けて銃を発砲しようとした彼女を、ギルバートが止める。だが、銃口が自分のほうへ向いた瞬間――ギルバートは反射的に胸元からもうひとつの銃を抜いて、サラのことを撃っていた。
USISへ入庁した時に受けた最初の訓練で、ギルバートは常に敵の胴を狙うようにと教官から繰り返し指導を受けていた。指導教官曰く、「よく刑事ドラマなどで、犯人が手に持つ銃を弾いて逮捕する場面があるが、あんなものはフィクションだ」とのことだった。「頭や喉などの急所は命中率が下がるし、手や足を撃つのも、相手に反撃する機会を残す可能性がある。そんなことのために他の仲間の命を危険にはさらせない。だから、よほどの事情でもない限り、狙う時はターゲットの胴を狙え」――もしこの時、ギルバートに理性で考える余裕があったなら、サラの体の腕や足を狙ったかもしれない。
だがこの時、ずっとそのように訓練を受けてきた本能によってギルバートは行動していた。すべてはほんの一瞬の出来事であり、「何かを判断する」というよりも、ただある種の条件反射によってギルバートはサラを撃ってしまったのだ。
サラが心臓を撃たれ、バー・カーの屋根から落下していく様子が、ギルバートにはスローモーションのように見えた。走って彼女の体を掴もうと空中に手を伸ばすも、すでにサラの姿は闇の遥か下のほうへと消えてしまったあとだった。だが、その残像は遅れてやってきた何かの画像のように、ギルバートの脳裏に焼きついている。
「サラーーーーっ!!」
闇の海の中へ絶叫しても、もはや後の祭りだった。ギルバートは最愛の女性の心臓を撃ち、生まれて初めて自分以上に愛したかもしれない女性を……自分のその手で殺してしまったのだ。
「ギルバート、気持ちはわかるけど……」
ディランが車輌の上を慎重に歩きながらこちらへ向かってやって来る。そしてギルバートもすぐに、優秀な部下にして友の言いたいことを十分理解していたのである。
「……わかってる。それより、援護射撃、ありがとうな」
「本当は、生け捕りに出来るのが一番良かったとは思う。だけど、この状況じゃね……今、下の列車は大変なことになってるよ。ギルバートも見たかもしれないけど、ジョシュア・ライリーが一体どうやったのか、向こうの残っていた兵士をほぼ全員のしてしまったんだ」
呆れたように言うディランの肩を叩いて、ギルバートは微かに笑った。こんな時だというのに、微笑みの浮かぶ自分が彼自身不思議だった。
実をいうと、事の顛末はこういうことであった。大統領とともに調理室に閉じ込められ、見張られていたジョシュア・ライリーは、袖に隠した特殊鋼ワイヤーで、隙を見て自分の腕の拘束具を切っていた。そして、まずは自分の見張りの兵員をやっつけて武器を奪い……いなくなった大統領のことを慎重に探した。
オズモンド大統領は操縦室にいたのだが、自分のせいで多くのシークレットサービス警護官を失うところを目の当たりにし、ぐったりと項垂れていた。その時、ラファエル・ロダールは「あとのことは頼んだぞ」と、誰かに言われており――驚いたことにそれは女性の声だった――「ははっ。お任せを」などと、妙に慇懃な口調で答えていた。
乗務員室にいた六名もの兵士たちのことをジョシュアは奇襲によってひとりずつ倒していき(腕っぷしで彼に敵う者はひとりもいなかった)、囚われていた二名のスチュワーデスのことをまずは救った。
「ここから向こうまではもう、敵はいないはずだ。まあ一応、こいつらの武器を持っていけ」
スチュワーデスの内ひとりが、射撃が趣味であったためジョシュアは助かった。でなければ、安全装置を外すところからレクチャーしなくてはならなかっただろう。
チェ・ゲバラ気取りのように見えるロダールに対しては、ジョシュアは決して油断できないと思っていた。何より、大統領を盾にとられてしまえば元も子もない。声の数から察するに、今操縦室にいるのは残り五名ほどだ。そして声色がそれぞれ違う女性の声がふたつ消えたところを見ると――窓から外へ出るか何かしたのかもしれない。
ジョシュアはじりじりする思いで、向こうから人が出てくるのを待った。先ほど、乗務員室にいた六人の敵を全員倒したように、そのやり方が一番確実でリスクも低い。やがて、「随分向こうが静かだな」とロダールが言い、部下のひとりが様子を見に出てくる。
黒い髪に黒い瞳の、アジア系の男が通路を歩いていく脇からジョシュアが飛び出し、彼の口許を塞ぐとゴキリと一撃で首の骨を腕で折る。そして死体を乗務員仮眠室のほうへ隠し、再び操縦室の様子を窺った。
「まさか、これほどまでの損害がこちらに出るとは思わなかった」
そう言ったのは、声色から察するにロダールだった。また、その声に答えている男はおそらく、今この列車を操縦している男であろう。やはり、女性の声はしないが、それでもいつ戻ってくるかはわからないと想定しておいたほうがいいに違いない。
「ですが、兵員に何人被害が出ようとも、最終的に計画のほうが成功さえすれば、レディ・オーシャンからのお咎めはないのではないでしょうか」
「まあな。むしろあの方は事の顛末をお知りになったとすれば、面白がって哄笑することだろう。自分のお気に入りのネコふたり……そのうち一人は敵方のボスに本気で惚れてると来てる。本当ならアメリアは今回の計画には参加しない予定だったんだ。ところが、自分があいつを殺すといって聞かなかったもんで、あの方は面白がってジェネラルと一緒に派遣することにしたのだろう」
「……ふたりとも、レディ・オーシャンの愛人か何かじゃないんですか?」
操縦士は、思わず少しばかり小声でそう聞いていた。ジョシュアにはレディ・オーシャンと呼ばれる者が何者なのかはわからない。だが、もし生きて帰れたとすれば、USISの職員たちにとっては重要な情報であるかもしれない。そう思いながら、ジョシュアは耳をそばだてていた。
「さて、どうなんだかねえ」
もちろんジョシュアには見えなかったが、この時ロダールはにやりと笑っていた。
「あのふたりがあの方の今のお気に入りであることは間違いないが、何分あの方も気まぐれな方だからな。無能な者は用なしと判断して見切るのも速い。もちろん、それは我々もまったく同じということさ」
「その……私は<悪の養成所>のほうであの方とお会いした時――正直、こう言ってはなんですが、金玉が縮み上がりました」
「ははは。そんなのはみな同じさ。美しい方ではあるが、その心はどこまでも残忍にして冷酷だ。まあ、それでいて女性には多少手ごころを加えるところがあるとはいえ……男に対してはまったく容赦がないからな。知ってるか?あの方が指揮した作戦の数々で、すでに二十万人――噂では、二百万人とも言われているが、そのくらい敵味方含め人が死んでいるらしいぞ」
このあともふたりの他愛のない話は続いたが、ジョシュアは唯一、<悪の養成所>という言葉のところで首を捻っていた。そんな名前の養成所――おそらくは、彼らの訓練機関なのだろうが――が本当にあるものなのだろうかと、訝った。もしかして、自分の聞き違いかもしれないと思ったほどだ。
なんにせよ、時の経過とともに、やはりロダールも不審に感じはじめたようだ。偵察に行った部下がいつまで経っても戻って来ない。すでに爆発物はセットしてあり、味方のヘリが迎えに来るまであと十五分ほど……ロダールはライフルを構えると、車輌の連結部を越えて、自ら向こうの様子を見に行こうとした。
「大統領。あんたの身柄はとりあえずこの場所からは助かるぜ。もっとも、ヘリコプターの輸送先じゃ、むしろ列車の爆発に巻きこまれて死んだほうが良かったという思いをすることになるだろうがな」
そう言い残し、ロダールはくっくっと喉を鳴らして笑った。
「ついたニックネームがミスター・クリーンか。そりゃ、あの方が嫌うわけだよな」
ロダールがそんな独り言を呟き、乗務員室へ足を踏み入れたその瞬間――彼はすぐに異変を察知した。あまりにも静かすぎる。ほぼ間違いなく、何かが起きたのだ。
「そこだ!!」
シュッという空を切る音とともに、ハンティングナイフが椅子のひとつに突き刺さると、反射的にジョシュアはそこから飛び出、ロダールに襲いかかった。ジョシュアは二メートル強の大男であり、ロダールの身長は百八十センチほどだった。だが、彼は突如としてヌッと大きな岩のような……あるいは、アメフトのオフェンシヴガードのような大男が姿を見せても、冷静そのものだった。ライフルを腹部に向けてぶっ放すが、防弾チョッキを着ているジョシュアは痛みを堪え、「うおおおおっ!!」とばかり、ロダールに覆い被さっていった。
床に倒れこむのと同時、ジョシュアは肩に鋭い痛みを覚えたが、そこにサバイバルナイフが刺さっていても気にしなかった。ロダールの顔が変形するまで容赦なく殴り、今度は床ではなく壁へ叩きつける。だが、ジョシュアがロダールの首の骨を折りにかかろうとすると、ロダールは際どいところで逃れていた。
そして足許に差したべレッタを素早く抜きとりと、それでジョシュアの足の太腿を打ち抜く。「うがあっ!!」という、なんともいえない叫び声が、乗務員室に響き渡る。だが、ジョシュアは自分が倒した敵のライフルに手を伸ばすと、最後にそれをロダールに向けて乱射した。彼のほうでももう一発、銃弾を放ってはいたが、それはジョシュアの防弾チョッキに阻まれて終わっていた。
運転士役の男が加勢しようとやって来たが、その場のあまりの凄惨さ、またジョシュアの恐ろしいばかりの形相、それに足を銃で撃たれ、肩にもナイフが刺さったままだというのに……まるで動じていない様子に彼はすっかり気圧されたのだった。
おそらくは手にライフル、胸と足にそれぞれ銃を一丁ずつ、それにナイフも携帯していた彼のほうが形勢としては優位なはずだった。だが、彼は咄嗟に大統領を盾にとることも忘れ、ただ後退したのだ。
ジョシュアは容赦なくこの三十代くらいに見える金髪碧眼の男を追いかけ、彼を殴った一発目で鼻の骨を折り、次に持ち上げた体を床に叩きつけて足の骨を折ってやった。男はなんとも言えない呻き声とともに失神していたが、まだ命だけはある。
「大統領、お待たせして申し訳ありませんでした」
拘束されている手足の拘束具を外すと、ジョシュアはその大怪我にも関わらず、まずは大統領に恭しく礼さえしてみせていた。彼は先ほど、他の迷彩服の男たちと揉みあった時――自分の部下たちのほとんどが死んだらしいと見てとっていたが、大統領さえ無事であれば、その犠牲も尊い意味のあるものとなるはずだと信じていたのだ。
「すまなかった、ジョシュア。まさか私も、ここまでのことになるとは……」
「わかっています。気に病まないでください。これが私たちの仕事なんですから」
テイラーはジョシュアに肩を貸すと、スイートキャビンのほうへ向けて歩きだした。乗務員室もサロン・カーもすべて死体で溢れており、オズモンドは自分が最初に止められた通りに、このエルヴァシア号での旅を取り止めているべきだったのだと、激しい悔恨に駆られていた。
「大統領、何も言わなくてもあなたのお気持ちは痛いほどよくわかります」と、大怪我を負っているにも関わらず、ジョシュアはなおも言った。「あなたが列車での旅でなく、船旅を選ぼうと移動手段に飛行機を選ぼうと、結局は同じことですよ。彼らはあなたを殺すとなったらどのような手段を用いてでも殺そうとしたことでしょう。これは、そういう話です。あなたが悪いわけじゃない」
テイラーが涙を堪えていると、レストラン・カーまで進んだところで、彼はダン・アレクサンダーが迷彩服の男たちに混ざって倒れているのに気づいた。催涙弾をまともに食らい、彼もまた気を失っていたのだ。
「う、うう……」と彼が呻く声を聞いて、ジョシュアはビロードの椅子に一度ジョシュアのことを休ませると、ダンのことを抱き起こしていた。
「おい君、大丈夫かね!?」
とりあえず、テイラーはティムの兄が生きているらしいと知ってほっとした。そして、この場に友人の医師に来てもらったほうがいいと思い、自らライフルを手にしてスイートキャビンへ向かうことにしたのである。
「ジョシュア、つらいだろうが、ここで待っていてくれ。すぐジェイムズのことをここに連れてくるから」
「はい……申し訳ありません、大統領」
そしてこの時、オズモンドはツイン・ルーム客車のところで、こちらへやって来るギルバート、ディラン、トミー、それにルークらと再会したのだった。
「オズモンド大統領、御無事で……!!」
お互い、ほっとするのも束の間、事態はまだ収束したわけではない。というのも、操縦室、乗務員室、バー・カーとサロン・カーにも爆発物が仕掛けられており――それが爆発するまでにもう十五分もなかったからだ。
オズモンドがそのことをギルバートたちに伝えると、彼らはまず唯一の敵方の生き残りである、運転士のことを締め上げることにした。それまで気を失っていた彼は、体に激痛が走るのを感じつつ、この時最後の決断を下したのだった。つまりは、奥歯の義歯に仕込んだ毒を服むと、その場に昏倒し、息絶えたのである。
「クソッ。なんにしてもまずは、この列車を動かそう。それで、エルヴァート海峡を越えたところで乗客や生き残った乗務員たちを避難させるんだっ!!」
トミーがそう叫び、計器類などを一渡り見回すが、何をどうすればいいのかがわからない。トミーは隣のディランを振り返ったが、彼もまた青ざめた顔のまま首を振っている。
「ええと、確かこれが速度計で、これが逆転ハンドルです。確かこれで前身と後進を切り替えるんですよ。それからこれが……」
ルークが慎重にひとつひとつ、操縦席のものを指で指し示して説明していく。そしてそこへギルバートが補足した。
「それが運転ハンドルだ。電車を動かすアクセルみたいなものだな。とにかくこれを押してみよう。御丁寧に横に数字がついているところを見ると、40のところまで押せば、40キロ出るといった具合なんだろう。それで、こっちがブレーキハンドルだな。このくらいわかっていれば、おそらくなんとかなる」
こんなこともあろうかと、ギルバートもルークも電車の運転の仕方について、よく調べておいたのである。また、爆発物を解除するのに、シークレットサービスの内、詳しい人間を三人用意してもおいたのだが――彼らはみな死んでしまった。
かくなる上は、無事このエルヴァシア号をエルヴァート海峡の向こう側へと到着させ、乗客や乗務員たちを脱出させる以外にはない。列車の操縦のほうはルークに任せ、ギルバートたちは爆発物のほうを捜しにかかった。シングル・カーやツイン・ルーム客車のほうまで彼らはやっては来なかった。ということは、探すべきなのは、レストラン・カーまでだろう。一体いくつ爆発物が仕掛けられているのかはわからない。だが、割とあっさり四つほどの爆発物が見つかり、それらはすべて同型だった。そして示す時間は1~3分ほどの違いはあるものの、一番速いもので今から九分後に爆発するということがわかる。
こう話している間にも列車は進み、三分とかからずしてエルヴァート海峡を無事に越えた。ディランもトミーも乗客たちをうまく誘導し、爆発物のことについては何も言わず、列車から落ち着いて降りてもらった。そして、全員が無事列車から降りた三十秒後――エルヴァシア号は大爆発し、乗客たちは森林の入口のところで、呆然としてその大炎上を眺めていた。
そしてその三分後くらいだっただろうか、乗客の中から列車に残してきた荷物をどうしてくれるのかという非難が乗務員たちに集中しはじめた。
「あ、あの中にはなあっ、大事なものが色々詰まっていたんだっ!!」
「お金だって、バッグの中に入ってたのよっ!!」
「クレジットカードや、母さんの形身や、最新のゲーム機とか……おいっ、おまえらの会社で弁償してくれるんだろうな、ええっ!?」
命からがらようやくテロの脅威から逃れた乗務員たちは、そうした乗客のクレームを受け止めるほどの気力はすでに残ってなく――代わってオズモンド大統領が、パニックになっている人々に向かってこう言った。
「すみません、みなさん。おそらくこの度のことに関しては、旅行会社の入っている保険のほうからある程度弁償してもらえるでしょう。今回、このようなテロの被害にみなさんを巻き込んでしまったのは、一重に私の責任です。政府のほうからも何がしかの賠償金をお支払いできるかもしれませんが、今わたしの一存ではお約束しかねます。ただ、今この乗務員のみなさんは死ぬほどの思いをしていたところをようやく助かったのですから、どうぞ、その心中を慮って、言いたいことがあるなら、この人たちにではなく私に言ってください」
途端、その場にいた四十名以上もの人々はしーんとなった。ギルバートは救急車や警察や消防など、連絡を取りあわねばならない各方面に電話をした。また、エルヴァシア号の大炎上を見て、三台ほどの輸送用ヘリコプターがその時引き返していく姿を見てもいた。もし敵方の生存者がひとりでもいれば――今回のテロ事件に関して知っていることを吐かせることも出来ただろう。だが、この<大統領暗殺未遂事件>に関しては、おそらくレベル7の機密文書の中へ真実は秘匿されて終わることになるに違いない。
こののち、UNOSによって詳細な現場の検分がなされたが、マスコミがどんなに総力を上げて調べても、テロ犯たちの所属する組織についてはわからずじまいだった。その中でもっとも近い推理は、例の軍需企業のカルテル絡みの件で大統領は彼らの怒りを買い、彼らが裏の組織に頼み、今回のテロを仕組んだのだろうというものだったかもしれない。
大統領はさんざんなクリスマス休暇を過ごしたことを世間から同情されたが、マスコミの真実を知りたいという欲求による攻撃は連日苛烈を極めた。これはUSISの長官であるリグビーの元へも同種の執拗なマスコミの追跡がついて回った。もし真実をすべて明かせば、まず大統領が世間の激しいバッシングにさらされることとなり、さらには<最悪の状況>を想定してあらゆる手を打とうとしていたシークレットサービス及び秘密情報庁もその失態について世の批判を免れえない……こうした事情により、すべては闇の中へ封印されるということになったのである。
幸い、という表現はこの場合あまり適切でないか、乗客たちはほぼその全員がツインルーム客車に閉じこもりきりで、ほとんど何も見ていなかった。乗務員たちも迷彩服の男たちのことを見てはいたが、彼らについて何か有益な情報を洩れ聞いて知っていたということもなかったのである。
唯一、今回のテロ事件によって大統領に良かったことといえば――新しく雇った大統領府付きのシェフが、いい仕事をしてくれることだっただろうか。本来ならば彼はなんの罪もない運転士のことを肉切り包丁で刺し殺した罪で起訴されねばならないのが本当だったろう。だが、彼はその罪を不問とされるかわりに、各種宣誓書にサインをしたのち、大統領府専属のシェフとなることになったのである。
ダン・アレキサンダーは、今度の事件のことを深く悔恨しており、大統領に対しても泣いて謝罪していた。また、オズモンドが施設に入所している母親の元を訪問したことで……彼女もまた自分のこれまでの生き方を変える決心をしたようであった。
また、ギルバートが妻子を誘拐されていたという話はその後も公にされるということはなく――キャサリン・ガードナーと娘のキャリントンとは、無事帰ってきた。ユトレイシア郊外にある、自然豊かな公園でふたりは釈放されると、睡眠薬が切れてのち、キャシーは近くの公衆電話から警察へ連絡していた。キャサリンとキャリントンとは今の今まで、外の見えない地下室に監禁されてはいたが、それ以外では特にそれほど不自由なく過ごしていたのである。
まるでインテリアのショールームのように綺麗な部屋で過ごし、食事のほうは刑務所の独房におけるそれのように、毎日ドアの入口のところに差し込んであった。子供の物、あるいは自分に必要なものがあれば、メモに書いて食事のトレイと一緒に置いておけば、凶器となるもの以外であれば必ず与えられたといっていい。
けれど、一体いつまでこんな生活が続くのかと思うとキャサリンは気が狂いそうだったし、二歳の子供を一切外に出さずにおくというのも可哀想だった。色々なおもちゃ類などは、最初から部屋にたくさん準備されていたとはいえ……。
そして、一月ほどもそのような暮らしが続く間、彼女はずっと思っていた。結局のところ今のところ危害は何も加えられてはいないにせよ、最後には自分もキャリントンも死ぬことになるのではないかと。だが、無事釈放されたあとも、やはりキャサリンには訳がわからなかった。警察の人間がやって来て初めてほっとしたが、奇妙に現実感がなく、もしや自分は夢を見ているのではないかとさえ思ったほどだ。
けれど、自分と娘の命の助かったのが間違いなく現実なのだとキャサリンが認識したのは、まず泣きながら家族と再会した時、次にその翌日にギルバートと会って抱きあった瞬間だった。キャリーも父親に会った途端、「パーパ、パーパ!!」と叫んで喜んだ。キャリントンは監禁されている間中、それを監禁とは思わず、とにかく何かの理由で外へ行けないのだと理解していたらしい。とはいえ、自分の母親に何度となく「マーマ、なんで、なんで?」とか「おしょと行きたいな」といったようには聞いていたが、キャサリンがあんまり悲しそうな顔をしたり、時には泣いたことさえあったため、母親を困らせないようそのことは聞かないようになっていった。
「すまなかった、キャシー。俺のせいでひどい目に遭わせて……」
ギルバートが心底自分を心配していたらしいと知り、キャサリンはそのことが嬉しかった。束の間、結婚初期の頃と結婚前の恋愛時代の愛が戻ってきたようにすら感じ、彼女はそのことを純粋に喜んだ。
「ひどい目になんて遭ってないわ。特に何か苦しい目に遭わされたりしたってわけでもないし……インテリア雑誌にでも出てきそうな綺麗な部屋に監禁されて、とにかくそこから出ていけなかったっていうそれだけよ。わたしが心配していたのはただキャリーのことだけ。こんな生活を半年とか一年とか続けさせられたら――もしあとから無事釈放されたとしても、これからの成長に何か影響したりしたらどうしようって」
「そうか。実は、俺が少しばかりダメージを与えた裏の組織があって……その報復としておまえとキャリーは誘拐されたんだ。詳しいことは話せないが、とにかく俺は気が狂いそうになりながら、向こうの要求に半ば従いつつ、国家を裏切るということだけはしなかった。それで、おまえたちが戻ってきてくれて、本当に……」
ここ一月ほどの間にあったことを思うと、ギルバートも思わずぐっと涙がこみ上げてきた。とにかく、二人が無事戻ってきて良かった。ギルバートはキャシーとキャリーの元気な顔を見た瞬間、本当にほっとした。もうこれ以上、他には何もいらないというくらいに。
ギルバートはキャサリンの実家の庭で彼女を抱きしめ、そのまわりを娘のキャリーが「パーパ、マーマ、アイラビュー!!」、「パーパ、マーマ、アイラビュー!!」と言いながら、くるくると踊って歩きまわる。
その日は12月28日で、ガードナー家では遅れてクリスマスを祝っていた。キャサリンの姉夫婦や弟夫婦も勢ぞろいしており、いつもはギルバートはこうした場が苦手だったが、今年だけは家族が大勢いる幸せを噛みしめるように味わっていたのである。
(もしや自分に気があるのではあるまいか)というくらいべタべタしてくる義母も、何かと自慢たらしい義姉夫婦とその子供たちも、嫁の尻に敷かれている気弱な義弟とその愚鈍な子供三人も……すべてが喜びであり、神から祝福された何ものかだった。
「ねえあなた、プロポーズしようと思ってる女性がいるとか言ってた気がするけど……その後、どうなったの?」
「ああ、そのことか……結局駄目になったよ」
酔い覚ましというのはただの言い訳で、何かとアクの強いガードナー家の面々に疲れ、ギルバートはバルコニーで煙草を吸っていた。だが、隣にストールを羽織ったキャサリンがやって来ると、急いで煙草の火を消す。
「なんで?まさかとは思うけど、わたしのせいじゃないでしょうね」
内心ではそのことを嬉しく感じながらも、そのことを毛ほども感じさせずに、キャサリンは神妙な顔をして聞く。
「いや、関係ないさ。彼女曰く、俺は自分のことしか愛せない人間なんだそうだ。キャシー、おまえもそう思うか?」
「わたしはそれはないと思うけどね」
家に戻ってきてから、ニュースでは連日大統領暗殺未遂事件のことばかり報道している。キャサリンは直接聞いたわけではないが、自分が誘拐されたこととこのことの内には何か関係があるらしいとは知っていた。そして、その女性のことも含めてかどうか、彼が今とても傷ついているらしいということも……。
「あなたはいい人だし、いい男よ、ギル。まあ、そりゃあね、妻の妊娠中に浮気するなんてサイテーとか、当時はわたしもそう思ったけど……問題はそういうことじゃないのよ。あなたは本質的な意味でいい夫だった。人間としても優しい人だし、あなたがまた他の女性と結婚すると思っただけで、嫉妬しちゃうわ。でも、わたしとキャリーが誘拐されたことで、あなたも随分苦しんだでしょ?だから過去にあったことはもう全部許してあげる。それで、少し悔しいけど、あなたが再婚して幸せになることも、祝福してあげるわ」
「ありがとう、キャシー。だけど、きっと俺が再婚したりなんだりするよりも、キャシーのほうが結婚して幸せになることのほうが絶対先だな。俺はたぶんもう、誰かと結婚するとかなんとか……そういうことは一切考えられない」
前までのキャシーならば、(そうそう。そのまま弱ったままでいなさい)とでも思っていたかもしれない。けれど、今はもう前まではあまりに当たり前で感謝さえしてなかったことも、すべて当たり前ではなかったことに気づけた。それだけで、もう十分なのだということがわかったのだ。
「そんなことないわよ。あなたは黙っていても女のほうが寄って来るって感じの人だもの。わたしが今思うのはね、ギルバート。わたしとあなたはまた結婚しても、一緒に暮らした途端うまくいかなくなるってわかってる。でも、わたしとギル、あなたとは同時に同じ絆で結ばれているってこと、心から感謝してるわ。キャリーがわたしたちの間にいる以上、これからも連絡を取りあったり、場合によっては三人で食事したり学校の行事に参加したり……そういうずっと変わらない関係でい続けることが出来るんですもの。そうね。わたしはあんまり男と女の友情とかって信じてないけど、でも、今わたしとあなたの間にある感情って、友情っていう以外、名づけようがない気がするのよ」
「そうだな。キャシーとキャリーが誘拐されていない間、俺も随分色んなことを考えたよ。もっと家庭を大切にしていればとか、おまえのことも大事にしていたら良かったとか、色んなことを……それで、俺はキャシー、おまえには本当に幸せになってもらいたいと思ってる。それに、キャリーのことでは本当になんでもするよ。学校の行事で父親が参加する必要のあることがあるって時には必ず駆けつける。そのことは絶対約束するよ」
ここでキャシーは、シャンパングラスを片手にくすりと笑っていた。
「あなたの仕事は本当に特殊ですものね。そんなこと言っても、大統領の命を守らなきゃならないだとか、誘拐された人質を助けるだとか……そんな作戦の最中に子供のことで煩わせたりは出来ないわよ。だけど、安心して。そんなことを理由にギル、あなたのことを「父親じゃない」とか「本当の父親ならもっとこうするはずよ!」みたいなことを言って責めるつもりはないから。そうね。わたしも今は全然再婚したりとか、そんなことは考えられないけど……でも、もしそんなことがあったとしても、あなたとキャリーの間の関係を裂いたりとか、会わないようにさせたりとか、そんなことはしないって誓うわ。前まではね、時々何かの発作みたいにあなたのことが憎らしくなることがあったもんだから――そういう時にはそういう手段であなたを苦しめてやることも出来るって思ったりしたこともあったけど」
「そうか。おまえにそこまでのことを思わせるってことは、やっぱり俺はいい男とは言えないな。今、そういうこととか色々、本当に心から反省してる」
この時、ギルバートが考えていたのはアメリアのことだった。自分の部下としてつきあった期間は約二年、また交際していた期間は半年ほど……けれど、あの物分かりのいい別れ話の時の態度とは裏腹に、エルヴァシア号での彼女の態度のほうが、実は本音だったということなのだ。
「いつもは、自分に自信のあるように見えるところがあなたの魅力なのに……なんだか今弱ってるのね。ギルバート、これは元妻としてじゃなくて、純粋に友達として言うんだけど、何かわたしに出来ることってある?」
「ああ、あるよ」と、ギルバートはキャシーの飲みかけのシャンパンを飲みながら微笑った。「ただ、生きて存在してくれてるだけでいい。キャシーも、キャリーも……それ以上のことを俺は何も望まない。そして、それだけで今はもう十分に幸せだ」
「そうね」キャシーも降りはじめてきた雪に向かって微笑んだ。「わたしも……あなたがこれからも健康で、仕事であまり危ない橋を渡らないようにって願うわ。だってそしたら、キャリーは大事な大事な父親という存在を失うってことになるんですもの」
このあとふたりは、明るい夜の中を雪が降る光景を暫く眺めて――どちらからともなく室内のほうへ戻ろうとした。ギルバートはキャサリンの肩を抱き、彼女も彼の腰に手を回した。昔、何かの映画かドラマで、主人公の刑事が妻から離婚を切り出され、子供を連れて家を出ていく、といったはじまりの物語があった。その後、この妻子はテロリストに誘拐され、主人公の刑事の奮闘で無事助かり、結局そのことがきっかけで元の鞘へ戻るのだが……残念ながらギルバートとキャサリンの場合、そうなることは出来なかった。
けれど、(でも)と、キャサリンは思う。(この人と結婚して、この人の子供を生めて本当に良かった)と。そして、これからも娘のキャリーがいる限り、二人のこの絆は決して絶たれることはないのだ。キャサリンはこの日の夜、家族みんなで楽しいクリスマスのひとときを過ごしながら、そのことを心から神に感謝した。こんなことでももしなかったら……きっと自分は永遠に気づかなかったかもしれない幸せに、今は気づけているということにも。
>>続く。




