第19章
(こんなことになったのも、そもそも俺が悪かったからじゃないか?キャシーにもキャリーにも、何も悪いところなどありはしなかったのに……離婚することになったのも、そもそもは俺の浮気が原因だ。そんなことさえなかったら、キャシーの家庭での態度もあんなふうに冷たくなったりすることはなかっただろう)
自分のオフィスのソファで気が済むまで涙を流すと、ギルバートはどうにか体を起こして今後のことを考えた。
(ルークが言っていたように、確かに自分が<ジェネラル>の側に寝返るというのが一番いい策だろう。それで、<ジェネラル>がこちらを信用して大統領暗殺についての計画をこちらに明かしてくれ、俺がその計画の重要な部分を担う……だが、そんなにうまくいくだろうか?第一、こちらが向こうに忠誠を誓う証拠のようなものを見せろと言われたら……)
だがやはり、ギルバートはキャシーとキャリーのことが気にかかるあまり、いつものようにはまるで思考がまとまらなかった。そこで、どうにも体が重くて仕方なかったが、一度自分の自宅へ戻って休むということにしたのである。
翌日になってもギルバートは頭と体が重く、気分のほうも絶望的で、出勤前のコンディションとしては最悪だった。
(ここまで最悪の気分で目が覚めたのは、イラクで捕虜になった時以来だな。あの時も本当に、毎日朝が来るのがつらかったものだ。まあ、時間の感覚のほうはすぐに麻痺していたとはいえ……)
ギルバートは、2001年にアフガニスタンで戦争が起きた時、そちらのほうへUSIS職員として派遣された。ギルバートはまずパキスタン入りすると、現地のガイド、それに彼より先にパキスタン・アフガニスタン・イラクなどで諜報活動を行っていたベテラン諜報員とともに、タリバンらが牙城を築いている山岳地帯へと向かった。
ここへはパキスタン北西部から入ることが出来るが、目的はイスラム過激派組織タリバンの幹部らと話をするということだった。ユトランド共和国は、アフガニスタンとソ連が戦っていた時からすでにアフガニスタンと深い繋がりを持っていた。この、ソ連にとってのベトナム戦争とも呼ばれた戦争時、ユトランド共和国もアメリカと一緒になってアフガニスタンを支援したのである。その後、1979年から十年に渡って続いた戦争が終わって以降も、ユトランド共和国は首都カブールに諜報員の事務所を(もちろんそれとはわからない形で)置き、国としても支援を続けたのである。
そうした長きに渡る、経済支援等による国同士の深い繋がりや、タリバンといったイスラム過激派組織とも太いパイプを築いていたことから――この時ギルバートはただ、戦争時における諜報ということについて、先輩のベテラン諜報員らにただ教わるというだけで良かった。とはいえ、もちろん死と隣合わせの危険というのは常にあったし、タリバンの指導者らと羊の丸焼きというご馳走に与りながらも――ギルバートはとにかくひたすら、この砂漠の国を一刻も速く出て、故郷のユトレイシアへ帰りたいとしか思えなかったものだ。
ギルバートがアフガニスタンにいたのは、二年ほどの間に過ぎなかったが、またすぐ2003年にイラク戦争がはじまり、今度は従軍しての諜報活動ということになった。まずは陸軍へ入隊し、そちらで特殊部隊にも入隊できるというくらいの厳しい訓練を受けた。その後、陸軍では彼がUSIS諜報員であることを知る上官から手厚く遇され、派遣された部隊で揉め事に会うでもなく、仲間とも連携して作戦のほうは無事上手くいった。
だがその後、ユトレイシア・ジャーナルの記者がイスラム原理主義一派の捕虜となる事件が起き、ギルバートはアフガニスタンで会ったタリバンと繋がっているアルカイダ系の組織を通じ、交渉を行うということになった。だが、この交渉のほうが難航し、同じくネゴシエーター役を務めていたビル・タウンゼントとともに彼らもまた拘束されるということになったのである。
ギルバートとビルが捕虜となっている間に、イラク戦争はさらに混迷の度合いを深めていたが、ギルバートはこの時帰国して以降、イラクへ足を踏み入れようとしたことはなかった。もちろん理由はあんな場所にいたら命がいくつあっても足りないと思ったからだが、イラクの戦後の国の建て直しに協力したいという気持ちがなかったわけではない。ただ、USIS内の精神科医との面談でPTSDを宣告されて、ギルバートは新しく用意されたロシア・ヨーロッパ部門の情報次官の椅子に座るということになったのである。
(俺はイラクから帰ってきたあと、拷問で顔の半分が目茶苦茶だったから、まずは整形手術を受けることになって……)
当時の記憶をまざまざと思いだすことは、ギルバートにとってもつらいことだった。だが、今はキャシーとキャリーの誘拐のことがあるため、そのつらさが紛れて良かったかもしれない。イスラム教では左手が不浄とされるのは知っていたが、彼らが何故あんなにも自分の左側ばかりを責めたのか、ギルバートとしては解せなかったものだ。
『こいつ、オッドアイか!?』
何度も殴られているうちにコンタクトが落ち、ギルバートはイラク人たちの嘲笑の的となった。
『うわ、気持ちワリィ!!』
『呪われてるぞ、呪われてるんだ、やっぱりおまえたち異教徒は俺たちイスラム教徒とは違ってな!!』
『この悪魔を、俺たちのこの手で締め上げてやろうぜ!!』
――今にして思うと、あるひとりの人間を拷問にかけようという場合……その相手をまずは「人間」とは思わない何かというのが必要になってくるのかもしれない。このことを契機にビル・タウンゼントは<悪魔の仲間>という汚名が着せられ、そんな悪魔の仲間になど何をしようと構わないといった種類の理不尽な暴力が長時間かけて振るわれるようになっていた。
実をいうと、「ビルと自分のうちのどちらかを解放してもいい」と言われた時、ギルバートが何故ビルにすぐその役を譲ったかといえば、その部分もとても大きい。もちろん、ギルバート自身は気楽な独り身で、ビルには美人の妻と生まれて間もない息子がいたというのが一番の大きな理由ではあったのだが……。
ギルバートは顔の左側を厚いガーゼで覆われ、松葉杖をついて帰国したわけだが、腕のいい整形外科医に数度に分けて手術してもらい、顔の左半分が元に戻った時――ギルバートが一番最初に思ったのが、女遊びはもうやめて、結婚して落ち着きたいということだったかもしれない。
その後、大学時代の友人にキャシーのことを紹介してもらい、すぐに熱烈な恋に落ち、ギルバートは彼女と出会って半年後に結婚することになった。
『でもあなたはもてるから……そういうことでもなかったら、わたしとは結婚しなかったかもしれないわよね。タイミングっていう意味ではわたし、ラッキーだったのかも』
『そんなことはないよ』
ハネムーン先で、甘い時間を過ごしている時に、キャシーがそんなふうに言っていたのをギルバートは覚えている。
『そうかしら?あなたは戦争で傷ついていたから、結婚っていう癒しが欲しかったんじゃない?もしそうじゃなかったら……わたしもあなたがこれまで遊んできた多くの女性のひとりに過ぎなかったかもね』
このあと、ギルバートはキャシーの憎らしい口を塞ぐと、もう一度ウォーターベッドの中へ沈んでいった。彼らのハネムーン先はタヒチだった。帰国後、キャシーは赤ん坊を授かったことがわかり――ギルバートは結婚して半年もしないうちに、娼婦クラブ通いをはじめた。彼はこの浮気は浮気ではないし、絶対にバレないという自信があったにも関わらず……二人は結局結婚二年で離婚へ至るということになってしまった。
(喉元過ぎればなんとやらというのは、まさにこのことだな……)
一度平和な国へ戻って来てしまうと、ギルバートはアフガニスタンやイラクといった砂漠の国のことはあまり考えないようになっていったかもしれない。帰国後、暫くの間はただなんということもないこと――コンビニで自由に色々物を買えるということや、バスや地下鉄といった公共の乗り物へ乗るたびになんの危険も感じなくていいことや、とにかく自分の足の裏が祖国の地を踏んでいるというそのこと自体が、意味もなく妙に嬉しく、有難かったものだ。
そして、無目的に街中を歩きながら、二人の子供たちが自分の脇を通りすがり際に、「殺してやる!」、「おまえなんか死んじゃえ!」と喧嘩しながら歩いてくるのを見た時……ギルバートは思ったものだ。平和とはまさにこのことだと。誰かを殺すつもりも、本当には死んでほしいとも思っていないからこそ、軽々しく「殺してやる!」と言ったり「死ね!」などと言うことが出来るのだ。
だがギルバート自身は今、再び大統領暗殺という血なまぐさい戦時にも似た過酷な状況の中に置かれていた。ユトレイシア・ジャーナルの記者ふたりは、その後無事過激派組織から解放されていたものの――ギルバートは今、ある意味その時以上に苦しかった。
もちろん、ユトレイシア・ジャーナルの記者ふたりのことも、出来得る限り尽力して助けたいという気持ちは強くあった。だがやはり、自分の妻、自分の子が誘拐されるというのはさらに次元をまったく超えたことだった。
ギルバートはこの日、出勤する意欲がまるで湧かず、午前中は<ジェネラル>宛ての手紙を書いて過ごした。また、その旨についてはルークに携帯で伝え、手紙を書き終えてから、もう一度USIS庁内にいるトミーたちに電話した。
「これから、ケビン・キングリッチとコンタクトを取ろうと思っているんだが、どう思う?」
ブリーフィングルームの電話に出たのはディランだった。
『その<ジェネラル>宛ての手紙を読ませてもらわないことには、なんとも言えないな』
「そうだよな。じゃあ、やっぱり一度そちらへ行くよ」
『あ、それとUNOSの特殊事件捜査課のほうが話を聞きたいって、警部とその部下の人が来てたよ。例の<ジェネラル>とケビン・キングリッチの会話の記録を聞いてもらおうかなとも思ったけど……ギルバートが直接そうしたほうがいいかと思って』
「そうか。それで、彼らは?」
ギルバートはすぐに出勤する仕度をしながらディランにそう聞いた。
『午前十一時頃来たんだけど、普通に考えたら出勤しているだろうと思って直接訪ねてきたんだって。彼らにはまたあとで連絡させるって言っておいた。ギルバートは<ジェネラル>宛てに計画書を練ってると思ったから、集中力を乱してしまうかなと思ったんだ』
「ああ、わかってる。それじゃ、今からそっちへ行くよ」
ギルバートはディランとの電話を切ると、きのうメモしておいたUNOSの特殊事件捜査課の電話番号に携帯で電話をかけた。「特殊事件捜査課のマケイン警部をお願いしたい」と言うと、受付の女性に名前を聞かれたため、「秘密情報庁のコナーと言ってもらえばわかる」と答えておいた。
三分ほど待たされたのち、『すみません、お待たせしました』と、若い男の声が応じた。若い、といっても声が若いということで、警部ということはおそらく三十台前半くらいだろうかとギルバートは見当をつける。
『昨日、UNOS長官より前の奥様と娘さんの誘拐事件を担当するよう依頼を受けまして……』
「ええ。もちろんわかっています。午前中にお訪ねいただいた時は不在にしており申し訳ありませんでした。いつ頃でしたら都合がいいかと思いまして」
『そうですね。今日の午後、ミスター・コナー、あなたの都合のいいお時間に再度お窺いしたいと思うのですが』
「そうですか。では、午後の三時ごろではいかがですか?」
『かしこまりました。何分、事は一刻を争うものですから……よろしくお願い致します』
携帯電話を切ると、ギルバートは重い溜息を着き、<ジェネラル>宛ての手紙の入ったA5サイズのクラフト封筒を片手に外へ出た。いつも通り愛車のジャガーに乗り、ギルバートは一度そこで絶望的な思いに駆られ、ハンドルに上半身をもたれかけさせた。
苦い後悔とふたりとはもう二度と会えないのではないかとの、暗い絶望で目の前が真っ暗になりそうだった。ハンドルを握り、アクセルを踏むといったいつもの動作が奇妙に体に力が入らないせいで、うまく出来ない。
秘密情報庁まで歩いていこうかとも思ったが、ギルバートはケビン・キングリッチと会うためには車が必要だとの思いから、自分の顔を二発ほどはたいて気合を入れてから――エンジンをかけた。
そして、ディランたちに見せたギルバートの<ジェネラル>宛ての手紙というのは、次のような文面だったのである。
>>貴殿から妻と娘を誘拐したと知らされてから……私自身随分葛藤したが、妻と娘の命が助かるのなら、今私は貴殿の靴の先でもなめる覚悟だ。
実をいうと、貴殿から大統領暗殺計画を立ててミスター・キングリッチに渡せと言われた時、『警察やUSIS職員には知らせるな』と言われなかったことから、同僚の極身近な人物にだけ妻と娘が誘拐されたことを伝えてしまった。だが、賢い貴殿のこと、私も混乱と絶望の極みにあって冷静に行動できなかったということを、何卒御考慮願いたい。
そして、肝心の大統領暗殺計画についてだが――もう来月の半ばともなれば、オズモンド大統領はクリスマス休暇に入る。その時に私自身の今のUSIS諜報員の立場を利用して、何かの危険が大統領に迫っていると信じこませ、大統領の近くに身を置くことが出来た時に私が直接手を下す……いや、こんな程度の計画しか立てられないのかと貴殿には叱責されそうだが、今の私の精神状態のことも考えてみて欲しい。そのかわり、もし貴殿のほうでもっと良い大統領を暗殺するための計画を持っているなら、私は貴殿の手足となっていくらでも汗を流して働こう。つまり、簡単にいえば貴殿の部下となりこちらのUSIS庁内の情報については、私に知ることの出来る限りのものを渡す用意と覚悟がある。
そのかわり、間違いなく絶対に私の妻と娘を無事解放すると約束し、またその証拠も見せて欲しい。また、そのように貴殿が確約さえしてくれるのであれば、私は貴殿のために命を投げ出す覚悟があるということも、最後に書き添えておきたい。
ギルバート・コナー
「どう思う、ルーク?もう少しどこか添削したほうがいいかな?」
ディランはギルバートから品のいい便箋を受けとると、その端正な文字の羅列の並んだ紙をルークに手渡す。
「うむ……そうですな。奇妙な言い方ですが、なかなか誠実ないい文面だと思います。<ジェネラル>にどの程度人間の情というものが残っているのかわかりませんが、妻と娘の命が助かるためなら、この男は確かになんでもするだろうという気持ちが文面に滲んでいると思います。まあ、これで<ジェネラル>が信じないようなら、他にどんな技巧を凝らした大統領暗殺計画について並べ立てようとも、むしろ白々しいとしか思われないでしょうな」
「文才のまるでない俺が言うのもなんだけど、一応俺も見せてもらっていい?」
トミーが最後にそう言い、ギルバートの手紙を読むと、彼は「いい手紙だ」と短く言った。「それで、ケビン・キングリッチにはどうやって会う?」
「そうだな。これから、UNOSの特殊事件捜査課の警部と会う約束があるんだ。それで彼らと話しあってからだから……夕方以降だな。向こうだって都合があるだろうが、何分<ジェネラル>が関係しているとなれば、夜中の三時にだって俺と会うだろうよ」
「俺、その時ギルバートについていきたいな。一緒に行ってもいい?」
そうトミーに聞かれ、ギルバートはただ静かに頷いてみせた。彼がうっすらと瞳に涙を滲ませていたというそのせいだった。
「え、ずるいよ。僕だって護衛としてギルバートについていこうと思ってたのに」
「ということは、私は残念なことに留守番役ということですな。リグビー長官に頼んで特殊部隊を護衛につけてもらいたいところですが、そうした奇妙な動きを見せるとむしろジェネラルに不審な動きを察知される可能性がある……では、ここはやはりトミーとディランにボディガードとなってもらったほうがいいですね」
「いや、本当は俺ひとりで行こうと思ってたんだ。だから、ふたりには駐車場で待機していてもらうということになると思う」
「ええ~っ!?」
トミーとディランがそう不満を洩らしたが、いつものようには会話する気力すらギルバートにはないらしいと見てとって、二人もまた黙りこむより他なかった。
「そういえば本部長。おそらく今日はまだ新聞を読む気持ちにもなれなかったでしょうから……一応、こちらの新聞の一面のほうをご覧ください」
ルークから<ユトレイシア・クロニクル>紙を手渡されると、そこには大きく『独占禁止法違反により、五大軍需企業訴追』とあった。そして、ギルバートが記事の詳細に目を通している間にルークが言う。
「まあ、彼らはみな超のつく金持ちですからな。逮捕などされても多額の保釈金を支払ってすぐに出てくるでしょう。罰金のほうは、ユトランド共和国の歴史上かつてなかったほど高額なものになるでしょうな。最低でも軽く五百万ドルは超えるのではないかと思われますが……それも、軍需企業の一社につきそれぞれが、です」
「彼らはそれだけの罰金や保釈金を支払っても、今までそれ以上に兵器メーカーとして儲けまくってきてるんだ。ちょっと下痢になったが、治ったあとはまた肉を食べまくるといった具合でな、今度のスキャンダルは彼らにとってはそれほど痛手ではない。暫くの間は世論の批判にさらされるだろうが、それもそんなに長いことではないだろう。というのも、善良な一般市民というのは軍需企業がいくら国の金を誤魔化したかということより……有名俳優が妻子がいながら某女優と浮気しただの、そんなゴシップのほうが遥かに大好物なんだからな」
ギルバートはそのままなんとなく惰性で、新聞のページをめくっていった。そこに、本来ならどこかに書き記されてあるべき、<美人モデル、キャサリン・ガードナーとその娘誘拐される>との衝撃的事件のことは一行も書かれていない。
「確かにまあ、一般市民の感覚というのはそんなものだろうな」と、トミー。
「でも、今回は流石に善良なユト市民も大激怒してるらしいよ。そりゃ、自分たちの血税が長年に渡って湯水のように浪費されていたんだからね。それも、一億ドル単位で……でもまあこれでオンブズマンによる健全な監視システムが構築されて、そういった軍事問題が解決されていくといいんじゃないかな」
「そうですな。国防費というのは「本当にそれが必要なのか」というバランスを取るのが難しいのですよ。簡単にいうと、軍需企業側からは「最低でもこのくらい必要だ」という費用のほうを水増しして要求してきても、彼らに誤魔化す術などいくらでもある。たとえば、戦闘機一機につき、二千億ドルかかるとして、この戦闘機を三十台製造することに決まったとした場合……それを二千百五十億ドルとして議会に承認を取りつけたとしましょう。これだけで一機につき百五十億ドルの余分な儲けが軍需企業には出来、総額で四千五百億ドルの旨みが出るという取引です。やはり問題はこれらすべてが国民の血税から賄われているということで、これら軍需企業は叩けば埃が成層圏まで舞い上がるという結構なご身分ですからな。突けばいくらでも都合の悪い事実が出てくるでしょうが、それを彼らから長年に渡って政治献金として受け取ってきた政治家たちがどこまで守る気があるかといったところですよ」
ここで<ジェネラル>は今度の失態をどうするつもりなのだろうと、ギルバートは初めて思い至った。また、このことに今ごろになって思い至るだなんて、自分は思考能力のほうが普段の三分の一以下に落ちているのではないだろうかという気がする。
もちろん、すべては自分やルークやディラン、この場にいる全員の推測の域を出ないことではあるのだが――<秘密結社リヴァイアサン>というのが世界的な裏の闇結社で、アメリカ支部、イギリス支部、ユトランド支部、日本支部、中国支部、ロシア支部、ヨーロッパ支部、アフリカ支部……といったように各国に支部があった場合、一国につき<ジェネラル>と呼ばれる位階の者が何人いるのかは未だ不明ではある。だが、今ギルバートたちが追っている、一部正体のわかりかかっているこの敵は、おそらく彼より上の位階の者より、今回の失態を責められているはずなのだ。
(もちろん、そのことの腹いせにキャシーやキャリーのことを誘拐したというわけでもないのだろうが……邪魔な自分たち組織を追う人間の動きを封じるために、もしそんなことをしたのだとしたら、間違いなく向こうは何かを焦っているに違いない。おそらく<ジェネラル>には<ジェネラル>の都合といったことがあるのだろう。それとも、次の大統領暗殺だけは何がなんでも成功させたいと思っており、俺たちがその邪魔になるかもしれないと考えて……いや、その可能性は低いか。それとも、五大軍需企業のカルテルが発覚したという今回の失態を受けて、オズモンド大統領を暗殺することで、自分の失地を回復させたいということなのだとしたら――俺は本当に、自分の命に代えても大統領の命を守らなければならない)
そしてここでギルバートはあることに思い当たり、さらに絶望的な思いに苛まれた。そもそも、リグビー長官の要請を受けて、<悪のエリート対策本部>などという特別任務など引き受けなければ良かったのだ。<秘密結社リヴァイアサン>などという組織の名前も、<ジェネラル>のことも知らなければ……キャシーもキャリーも誘拐されることなどなかったのにと思うと、ギルバートは胸が締めつけられるように苦しかった。
(だが、起きてしまったことは起きてしまったことだ。今はとにかく、ふたりの命が助かるために、俺は最善を尽くさないと……)
ギルバートは自分の頭と心を整えるのに、特殊事件査課の警部がやって来る三時まで、自分のオフィスのほうで休むということにした。そして自分が<ジェネラル>になった立場で相手の今の考えや感情を読みとろうとしているうちに――三時となり、UNOSの特殊事件捜査課の警部であるカール・マケインと彼の部下がひとりやって来た。
USISは一般の来客には、一階のロビーやそこの一般来客用の応接室以上の先へ進むことを許していない。そこで、ギルバートはこの時一階のロビーまで下りていくと、応接室のドアをノックしてカールと握手したというわけであった。
「それで、捜査のほうはどのくらい進んでいるんですか?」
何分、きのうの今日のことである。大して捜査など進んではいないだろうとわかっていながら、ギルバートはそう聞かずにはいられなかった。
「いえ、今はまだご家族の方に聞き込みを行い、キャサリンさんとキャリントンさんの足取りを追っているといった段階です。ふたりは<ハリー・ホワイト小児医院>のほうへ出かける途中で誘拐されたものと思われますが……ガードナー邸からハリー・ホワイト小児医院までは、車で三十分程度ですか。ですが、どの道もある程度人目のほうがありますし、大体このルートでハリー・ホワイト小児医院へ向かったのではないかと思われるルートを捜査しているのですが、今のところ目撃情報などは得られていません。携帯のほうも、おそらくこれから病院へ行くという目的があったためでしょう。電波の発信のあった最後の場所がご自宅だったのですよ。つまり、携帯を切ってから娘さんと車に乗り、病院のほうへ出かけられたということですな」
カール・マケインに同行して来た捜査員のことは、ギルバートはあまり気にならなかった。大体二十七~二十九歳のアジア系の顔立ちをした若者で、いかにも真面目そうな雰囲気だった。一方、特殊事件捜査課の警部であるカール・マケインに対してはギルバートは直感的に警戒心を抱いた。何故なのかはわからない。しゃべり口調も丁寧で、冷静な切れ者といった容貌の金髪碧眼の男だったが――ギルバートはカールの中にロシアの諜報員によく見られるような感情的冷たさを感じたのだ。
「そうですね。俺も<ハリー・ホワイト小児医院>へは午後三時頃行きました。受付の女性の話によると、キャシーとキャリーは午後二時に予約が入っていたはずなのに、まだ来てないということでしたから……おそらくキャシーは、二時に間に合うよう一時半頃家のほうを出たのではないでしょうか。そして予約の時間に姿を見せなかったということは、二時前には何者かに攫われたという公算が高いのでは?何故といって、キャシーとキャリーを誘拐した相手は、おそらくその日、ふたりがハリー・ホワイト医院に二時に予約を入れているとなんらかの方法で知っていたんでしょうからね」
「なるほど。では、ハリー・ホワイト小児医院のパソコンをハッキングした者がいないかどうか探る必要がありそうですね」
アジア系の捜査員のほうはギルバートに話しかけることはなかったが、そのかわり、会話の中で重要と思われることをしきりとメモしている様子だった。
この時、ギルバートは<ジェネラル>、あるいは彼の配下の者が軍情報戦略センターのPCシステムに侵入し、しかも証拠を残さなかったことから――彼らがそんな間抜けなことをしているとは思えなかったが、ただ黙って頷いていた。
「それで、リグビー長官のお話によりますと、キャサリンさんと娘のキャリントンさんを誘拐した相手から、ふたりを誘拐したという連絡が来たとか……?」
「ええ。相手の名前はわかりません」
ギルバートはとりあえず<ジェネラル>の名前は出さなかった。それに、<秘密結社リヴァイアサン>だの<ジェネラル>だの言ったところで、彼らの実在に対しての証拠というのは極めて少ないのだから、まだ相手の名前を出す段階にはないと思っていた。それに、このことが<ジェネラル>に裏切りと見えてもいけないと思ったというのがある(UNOS内には<ジェネラル>に情報を送っている間者が間違いなく複数人いるとギルバートは確信していた)。
「ただ、<ハリー・ホワイト小児医院>を出たすぐあとですから……携帯には三時十分頃に着信になっていると思います。もし必要でしたら、わたし個人の携帯のほうをお渡しします。非通知着信でしたが、向こうは発信元がわかるような間抜けなことはしてないでしょうしね」
「誰か、犯人にお心あたりがおありになるので?」
「ええ。何分こうした職業ですので、今仕事で追っている組織が妻と娘を誘拐したのではないかと思っています」
「そのあたりの御事情について教えていただけますか?」
「申し訳ありません。実は色々と事情が込み入ってまして……そちらのほうはUSISの極秘情報に関わることですので」
話すにしても、どこまで話せばいいのかと、ギルバートも迷っていた。
「そうですか。ですが、リグビー長官のお話によりますと、近頃メディアを騒がせている軍需企業のことに関連しているそうですね。それで、カンバーバッチ社とブラックバイパー社のやりとりのことで、何か相手の証拠となるものがあるとか……?」
(リグビー長官は一体どこまで話したのだろう)とギルバートは訝りつつ、そこまで知っているのならと、例のエシュロンから抽出した音声をふたりに聞いてもらおうかと思った。
だが――この時、カール・マケインの薄いブルーグレイの瞳の奥が光った気がして、ギルバートは咄嗟に(いや、絶対に駄目だ)と直感した。そこで、言葉運びのほうも自然、慎重なものとなる。
「いえ、やはりそのことに関しては、もう一度あらためてリグビー長官と話しあい、外部の人間にも洩らしていいものかどうか、確認を取りたいと思います」
「それは、今この場でお願いいただくことは出来ないでしょうか?あるいは話しあいに多少時間がかかる場合でも、我々はこちらのほうで待たせていただいて構いませんが……何分、捜査を先に進めるためにも、犯人にお心あたりがあるのなら、情報のほうは出来るだけ多く、一分でも速くこちらのほうでも欲しいのです」
普通に考えたらそれが当たり前なのだが、この時ギルバートは彼が諜報の世界で言うところのスリーパーなのではないかと疑った(この場合は、<掃除人>というのとはまた別の諜報用語である)。つまり、いつもは必要が来る時まで与えられた部署で通常の仕事をしているのだが、組織のために行動する必要が出た場合、その部署で築いた人間関係における信頼等を利用し、情報を流すといった裏切りを行うということである。
「すみませんが……こちらでも同時に、妻と娘が助かるために進めていることがあるもので、今の段階ではまだ明かすべきではないと思っています。ですがもちろん、今後の展開次第でそのあたりのことはそちらにもお教えします。申し訳ありませんが、そのような形でよろしくお願いします」
「そうですか。では、そちらで御事情のほうが変わり次第、すぐにも御連絡いただければと思います。こちらのほうでも捜査の進展状況に変化があれば、必ず御連絡致しますので」
アジア系の捜査員のほうは終始一貫して表情や態度のほうに変化が見られなかったが、カール・マケインのほうは軽く溜息を着いていた。話口調が丁寧で、態度のほうも慇懃な嫌いがあるが――(俺はぶち切れたらどうなるかわからない、こういうタイプの男は自分の上司に持ちたくないな)と、ギルバートは直感的に思っていたかもしれない。
そして、実際のところマケインは、「あなた、本当に元奥さんと娘さんを助ける気があるんですか?」と、応接室を出ていき際、若干怒りを滲ませて言っていた。「キャサリンさんとキャリントンさんの命がどうなってもいいと思っているようにしか、今のあなたの態度からは感じられませんでしたが」
「そう思われても仕方ないかもしれません。ですが、あなた方が妻と娘のことを見つける可能性よりも、今わたしのほうで進めている作戦によってしか妻も娘も救われないのではないかとそう思っているものですから」
「まあ、こちらはこういう場所ですから」と、歴代USIS長官の遺影のような写真が額に飾られた部屋を見回し、マケインは言った。壁には他に、ユトランド共和国の国旗とUSISのシンボルが並んで飾られ、書棚には1919年にUSISが創設されて以来、今となっては表に出しても構わない有名な事件の裏事情等について記されたファイルがずらりと並べられている。「一応、御事情についてはある程度理解します。UNOSにも多分にそうしたところはありますから……ですが、奥さんと娘さんの命を一刻も速く助けだしたいのであれば、御存知のことはなんでもこちらに教えていただければと思ったものですから。それでは」
ギルバートはカール・マケインとアジア系の捜査員に深々と頭を下げて、ふたりのことを見送った。そして、誰もいなくなった応接室のソファに身を沈みこませると、くらくらと眩暈のようなものを覚えつつ、自問自答した。
(あの男が<ジェネラル>の手の者かもしれないというのは、俺の考えすぎかもしれない。だが、俺はああいう種類の男は信頼できない。もちろん、向こうだってこの誘拐事件を解決するために犯人に関わる情報のほうはどんなものでも当然欲しいだろう。だが、もしカール・マケインが<ジェネラル>、あるいは彼の息のかかった者であった場合……欲しいのはもしかしたらこちらがどの程度<ジェネラル>について知っているか、どうやって五大軍需企業と彼の繋がりを知ったかといった、そういうことなのだとしたら?)
――あの音声ファイルをカール・マケインに聞かせるなど、論外ということになる。
(また、<ジェネラル>が関わっている誘拐である以上、警察が考えられうるすべての手段を尽くしたところで、キャシーとキャリーは決して見つかるまい……そう考えた場合、やはりこれで良かったのだ)
ギルバートはそう結論づけると、七階にある自分の根城にまでエレベーターで上がっていった。その途中、窓の外を見ると、朝は雲ひとつなかった空が嵐の前の時のようにどんよりと鉛色になっていた。やがてぽつりぽつりと雨粒が窓を叩くようになり、さらにそれが雹へと変わり、ごつごつと窓の外に当たっているのを見て――ギルバートはこれは凶兆と見るべきなのだろうかと、胸が痛んだ。
(いや、そうとばかりも言えまい。アフリカのある部族の間では虹は不吉なものとされているからな。ユトレイシアで雹が降るのなんて、俺の知る限りここ十年以上なかったはずだ。だから、こうした珍しい自然現象というのはむしろ、吉兆と見るべきなんだ)
ギルバートはどうにかそう自分の心を励まし、少しの間窓の外の雹が降る様子を眺めてから――他の七階のフロアとは隔絶された、自分が最高責任者であるオフィスのほうへ戻っていったのである。
>>続く。




