第15章
「少し、話を聞いてくれないか」
車を近くの路肩に停めると、ギルバートはサラの別荘の塀のまわりを歩き、庭で花の水遣りをしている彼女にそう話しかけた。
「話って、あなたに指輪を返したことについてってこと?」
「それもある。だけど、それだけじゃないんだ。わかるだろ?今このまま俺のことを突き放したところで……結婚するかどうかは別として、俺たちはまた会わずにはいられない。そういう運命なんだって君にもわかっているはずだ」
「…………………」
サラは黙りこみ、プイと顔を背けて別のところへホースを向けようとしたが、犬のエドは違った。最初、彼はギルバートの姿に気づかなかったが、白黒の視界に彼のことを認めると、一目散にそちらへ駆けてゆく。
「しょうがない人ね。エドがどうしてもっていうから、少しくらいなら話を聞いてあげてもいいわ」
「ありがとう。恩に着るよ」
塀の格子の間から手を伸ばし、しきりとエドの頭や体を撫でながら、ギルバートは笑顔でそう言った。
サラはホースの根元の蛇口を閉めると、門扉を解錠するために一度室内へ入った。一方エドはといえば、塀越しにずっとギルバートの姿を追っていき――最後には「早く、早く」というように、鉄と青灰色の木製の扉が開くまで、ずっと体を回転させたり、塀に向かって両方の前脚を立てたりということを繰り返している。
「おお、よしよし。エド、おまえの御主人さまも、同じくらい自分の心に素直だといいんだがなあ」
そうしてしきりと尻尾を振るエドを抱っこしたまま、ギルバートは玄関を抜け、サラがいるであろう一階のリビングへと向かった。ただこの時、ギルバートにとって残念だったのは――廊下にあった、一度は取り外されたエドガー・ハリントンの写真が復活していたということかもしれない。
「本当に、俺との結婚は考えられない?」
サラの顔を見た瞬間、すぐにギルバートにはわかった。自分が再び最初の「ただの客」に逆戻りしたらしい、ということが。彼女はギルバートに飲みたいものを聞くでもなく、ただ最初と同じくアイスティーをどこかお義理的に出してきたからだ。
「そのことは……きのうも言ったでしょう。わたし、嘘をつく人って本当に駄目なの。言ってみればあなたは、その嘘をつくことが仕事みたいなものなのでしょ?わたし、口のうまい人よりも、心の中にはとても純粋なものを持っているのに、それをうまく言葉では表現できないみたいな、そういう人のほうが好みなのよ。前の主人みたいに」
「そうかな」と、ギルバートは少し意地悪く笑った。「君の亡くなった旦那のエドガー・ハリントンは、実業界の鋼鉄の男と言われたような男だよ。会社の利益をだすためには、いくらでもリストラをしたし、M&A方式で吸収・合併を繰り返し、その際に無駄な人材はいくらでも切って捨てた。もちろん、俺は君の愛していた御主人のことを悪く言うつもりはない。あくまでもこれは、外から見た客観的な意見というやつだ。そしてそんな彼も妻である君にだけは……心の弱味を見せもしたし、唯一愛する君のことだけは心から大切にもしたんだろう。そのことは理解できるよ」
サラはマロウブルーという、色の変化するハーブティを飲んでいた。それは最初のブルーからパープルに変わりつつある。まるで変化しやすいとよく言われる女心のように。
「わたしと主人とのことは、わたしと主人とのことで、あなたには理解できないことよ、ギルバート。とにかく、少し時間をちょうだい。わたし、このことであなたを赦すつもりはないの」
「そうか……」
(キャサリンといい、どうして女というやつはこうなんだろうな)
ギルバートは溜息を着くと、今度はまったく別の話をした。確かに、自分と彼女の間には時間が必要なのかもしれない。けれど、ギルバートには自信があった。サラがおそらくは『やっぱりあなたがいないと寂しい』とか、『あなたのいない人生なんて考えられない』とあとからでも言ってきてくれるのではないかと。
「早速とばかりでなんだか申し訳ないんだが」と、ギルバートは切り出した。こんなふうに言えば、彼女がやはり何か目的があって自分に近づいたのだろうと疑うとわかってはいたが、ギルバートにとってはやはり、『これはこれ、それはそれ』という問題だった。「サラ、アメリカとイギリスの大使館が同時に爆破されたことはニュースで見て君も知っているだろう?それで、教えて欲しいんだ。君はユトランド共和国の大手軍需企業の大株主だから……誰か、こうしたことを仕組みそうな人物を知らないか?」
「……知らないわ」
そう言ってサラはギルバートから顔を背けた。その姿が(やっぱりあなたは、目的があってわたしに近づいたのね)と言っている気がして……ギルバートはサラの座るソファのすぐ隣へと座る。
「サラ、これはとても大切なことなんだ。俺は今、このテロ事件の直轄の部署の諜報員というわけじゃない。ただ、俺がユトレイシアの一市民だったとしてもこう思うだろう。こんなテロを企てた人間のことは絶対に許せないって。だから……」
「それで、何を知りたいの?」
この時のサラの冷たく硬化した態度は――別れた妻の離婚調停中の姿に酷似していたが、ギルバートはさらに彼女に詰め寄っていた。
「君が株主総会で会う人物や、それぞれの軍事産業のCEOやCOO……会社幹部たちの顔や名前や性格を知りたい。その方向性でリストを作るのに協力してくれないか?」
「いいけど……でも、わたしの知る限り、今回のテロ事件を起こしそうな人なんて、誰もいやしないわ。第一、こんなことをして彼らに一体なんの得があるっていうの?」
「それは俺にもまだわからない」
サラの中に一筋の和解の兆候を見てとって、ギルバートは少しほっとした。
「ただ、あんなことが出来るのは、どこかの軍事企業でもバックについていなければとても無理だ。サラ、君はとても心の綺麗な女性だからわからないかもしれない。でも、この世界にはとてもややこしい仕組みがあるんだよ。つまり、軍需産業というのは、本当に世界が平和になったりしたら儲からない。いつでも世界のどこかで小さな争いや小競り合いみたいなものでもいいから――戦争があると、ミサイルや戦闘機が必要になり、株価も上がる。実際、イラク戦争が起きて以降、どこの軍需企業もそれ以前より断然景気がいい。ニュースでは今回のテロもイスラム過激派の仕業だろうと言ってるし、世間もそれで納得してる。だが、俺はもしかしたらそうじゃないかもしれないと思ってるんだ。最初から宣戦布告のメールなんていうものを送ってきたのも、大使館の人間を避難させ、負傷者を誰も出さないためだったとしたら?つまり、今回のテロ事件があったことで、ユトランドの軍需企業の株は上がり、さらに政府からも対抗手段を講じるための予算が下りるだろう。君が株主総会や社交界のパーティで顔を合わせる連中の中には、そのくらいのことを考える人間がいくらでもいるんじゃないか?たとえば、ジョン・キーナムのような」
「そうね。確かにその通りだわ」
サラは悲しそうに目を伏せてそう言った。そして、紙とペンを戸棚から取りだすと、ブラックバイパー社からはじめて、次にカンバーバッチ社、エドマンド社……と、会社役員の名前を順に挙げていった。
「でも、性格なんていっても、誰も似たりよったりね。基本的にお金儲けのことしか頭になくて、仮にどこかの慈善団体に寄付をしたりするのだとしても――それも会社の名前の好感度を上げるためっていうものの考え方の人ばかりだもの。ほら、ブラックバイパー社もカンバーバッチ社もエドマンド社も、ミサイルや戦闘機を作るばかりじゃなくて、戦闘地における平和維持活動にも貢献したりしてるでしょう?でもあれも、<死の商人>のイメージを払拭するために必要なことだと思ってやってることらしいわ。それと、これは言っていいかどうかわからないのだけれど……」
「なんだい?」
ギルバートはサラの書いた綺麗な文字の羅列を見ながら言った。
「つまり、ユトランド共和国の軍需企業は、カルテルを組んでるのよ。それで、そのことを政府のほうでも知っていながら、容認してるっていうか。戦闘機とか、入札が行われるたびごとに――前はエドマンド社が得をしたから、次はカンバーバッチに仕事を回そう、みんなそれでいいかな?みたいに、談合を開くのね」
「それは本当か?」
(だとしたら、それはとんでもないことだ)と、ギルバートは思った。倫理的にそのようなことはすべきでないとか、そんなことを言いたいわけではない。ただ、もしそれが事実なら、どこの軍事企業の工場で今回のドローンが組み立てられていてもおかしくないと思った。
「ええ。間違いないわ。でもこんな情報で、本当にあなたの役に立つの?」
「物凄く役に立ったよ」
そう言ってギルバートはサラにキスした。本当に彼女のことが愛しかった。エドがふたりの足許でじゃれつき、ついには間に無理に割りこんできたため……ギルバートの恋人に対する愛撫は首筋へのキスまでで強制的に終了させられてしまう。
「サラ、俺のことを信じてほしい。俺は諜報員として何か目的があって君に近づいたわけじゃない。セレスティアホテルで初めて出会ったあの日から、俺の頭の中には君が住んでいたんだ。だから、今こうなれて……俺は本当に幸せだ。愛してる、サラ。結婚のことはまだ保留にしてくれていてもいい。だけど、俺のことを拒まないでくれ。頼むから……」
サラは、恋人のこの懇願を聞き入れた。そして、ふたりで食事をしたあとは、大体のところギルバートとサラの関係は元の通りに戻っていたかもしれない。ギルバートはサラの作った美味しいぺペロンチーノに満足し、彼女に「愛してる」ともう一度キスしてから、ハリントン家の別荘をあとにしていた。
この時、ギルバートは意気揚々とジャガーのハンドルを握ってUSISへ戻った。そしてブリーフィングルームでトミーとディラン、それにルークと再びそれぞれが集めた情報のほうを互いに照合するということになる。
「ブラックバイパー社のロドニーのほうは、やはりもう少し時間が欲しいということだったから……他にうちから派遣されてる潜入職員に聞いてみることにしたんだ。だが、彼らの開発してる無人航空機と、テロ事件のドローンとの間に何か関連があるとは思えないということだった。まあ、そりゃそうだよな。というわけで、俺はブラックバイパー社の部品を製造している工場なんかを調べてみることにした。何分、カンバーバッチ社もエドマンド社も、それぞれ従業員を数万人も抱えてる大企業だからな。直営の工場だけじゃなく、子会社なんかも含めると、あまりにも数が多すぎる。これをすべて調べるとなると、相当な骨だぞ」
トミーはそう言うのと同時に、パソコンのスクリーン上にピンポイントで示された、ブラックバイパー社の工場の位置をギルバートとルークに見せた。その数は三十数か所に及び、ユトランド国中に点在している。
「カンバーバッチ社とエドマンド社も状況は同じだね」と、溜息を着いてディラン。「内部に潜入している職員に確認を取ってみたけど……無人航空機のほうは完全な軍用。小型のドローンに爆発物をのせてどこまで飛ばせるかなんていう実験はどこの会社でもやってないし、もし今回のテロ事件に彼らが絡んでいるとしたら、どこかに秘密の隠し工場でもあるんだろうってとこ。規模としてはカンバーバッチ社もエドマンド社もブラックバイパー社と同じくらいだからね。ユトランド共和国中にある工場をひとつひとつしらみ潰しに探すっていうのは大変なことだよ」
「わたしのほうでは特に、これといった収穫はありませんでした」と、ルーク。「今回のテロ事件における新聞やネットのニュースはすべてまとめてみましたが、どこも報道の質としては同じですね。ただ、これはある意味<いい傾向>ではありますよ。どこの報道記者も、これで軍事企業のほうに目を向けるでしょう。つまり、ああしたタイプのドローンを造るにはどういった技術が必要かなど、調査が入るでしょうからね。ユトランド共和国の国民はみな、大体のところ軍事企業には不審の目を向けたことがありません。戦闘機やミサイルに恐ろしい金額の国家予算が組まれていても、『国防のためには仕方のないことなのだろう』というくらいにしか思わないのですな。しかしながら実際は、国防予算に関しては数億単位で無駄があるというのが実情です。もっと国民がそのあたりのことに関心を向け、厳しい眼差しで見るようになることが出来ればいいのですが……」
「まあ、ユト市民はみんな、ハリボテの平和主義的羊といった国民性だものなあ」
トミーが引き続きiPadで調べものを続けながら笑う。
「それが我が国民のいいところでもあり、悪いところでもあるといったところだよね」と、ディラン。
「確かにそれはそうなんですがね。わたしは以前よりミサイル防衛システムといったものが本当に必要なのかどうかと訝っているのですよ。仮に我が国に弾道ミサイルが飛んで来ることがあったとして――あんなもので本当に迎撃できるとは思えません。というのも、一発二億ドルもするものを使ってしょっちゅう実験するわけにもいきませんし、実際に弾道ミサイルが飛んできたら、あんなものでは迎撃など出来ませんよ。ただ、「このような高性能ミサイル迎撃システムが我が国にはあるのだぞ」とアピールすることで――抑止力には一応なるでしょう。つまり、<配備するために配備する>ということですな。そうしたことについても、我が国民にはよく考えてもらいたいんですよ。国防費用として無駄に一億ドル使われた分を他の福祉予算などに回したとしたら、そのほうがどんなに有意義かといった、そうしたことをね」
溜息を着くルークの姿を見て、ギルバートは先ほどサラから聞いたばかりの話――ユトランドの大手軍事企業がカルテルを組んでいるとの――を話すべきかどうか迷った。何故かといえば、その情報源を明かすとすれば、セレスティアホテルでジョン・キーナムと一緒にいた女性とそのような関係になったと告白しなくてはならないからだ。
「その……ここから先のことは、おそらく対テロ・センターでも同じことを調べていると思うんだ。だから、一度ビルと連絡を取って、向こうでは現段階でどのくらいの情報をどういった方向性で掴んでいるのか、聞いてみようと思う」
ギルバートはこの場でビルに電話をかけず、一度自分のオフィスのほうへ戻ってから、対テロセンターのセンター長室へ電話をかけた。すると、例の秘書が出て、用件のほうを聞いてくる。
「いや、手が空いてからでいいんだが……こちらで今調べていることと、対テロセンターで調査していることとが被りそうなんだ。そのあたりの情報交換を行いたいと、タウンゼントセンター長に伝えておいてくれ」
「少々お待ちください」
暫く待たされはしたが、結局のところ電話の向こうにはビル・タウンゼントが出ていた。
「多忙を極めているところ、すまないな」
『いや、そうでもないさ。もうニュースでもやっているだろうが、イスラミックステートが我々がやったと声明文を発表した。だが、これは明らかに間違いなく奴らがやったわけではないと、こちらでは調べがついている。にも関わらず、あんなことをしでかした連中の尻尾のほうが、こちらでは一向に掴めないというかな』
ビルが疲れたような溜息を着くのを聞いて、彼が自分と同じようにオフィスの椅子に座り、額を押さえているところがギルバートには見える気がした。
「実はこちらのミッションでも今、軍需企業のことを洗っているところなんだ。ブラックバイパー社やエドマンド社やカンバーバッチ社といった大手軍事企業というのは実は、カルテルを組んでいるらしい。そのことが何故今の今までマスコミにバレていないのかは謎だが、ビル、おまえ、この情報については当然知っていただろう?」
ギルバートは椅子を回転させると、窓の外、ユトレイシア市街の光景を眺めながら、(知っていないはずがない)と思っていた。もしビルが知っていなかったとすれば、USISの情報収集能力も落ちたものだと、一職員として嘆かざるをえない。
『まあ、そりゃあな。有名な話さ。そのことをスッパ抜こうとしたジャーナリストはもちろんいたが、大抵が消されて終わりだ。たとえば、ヨークランド州の自由党の議員がいたとして……この場合、自由党だろうと保守党だろうとどっちでもいいがな。ヨークランド州にはカンバーバッチ社とエドマンド社の戦闘機の部品を組み立てるための工場がある。この工場の雇用を守るために、政治家たちは必ず軍事企業の必要性を喉が枯れるまで叫び続けることだろう。つまり、ユトランド48州のうち、確か大体33州くらいにはどこかの軍事企業の工場が存在している。こうして軍需企業と政治家とはがっちりと癒着し、お互いに便宜をはかりあうという構図が、我が国では分かち難く出来上がってしまっているわけだ』
「なるほどな。それで、その軍需企業のどこかの工場で今回のテロに使われたドローンが造られていた可能性というのはどのくらいある?」
『そうだな。こちらもまだ調査を開始したばかりなのでなんとも言えないが……何も正規の工場で隠れてこっそりそんなことを行う必要はないし、というより、そんな馬鹿はいないだろうと思っている。使われたドローンのほうは、アメリカ大使館に対するものが約七十五台、イギリス大使館に対するものが六十五台くらいだろうということだった。一応、ドローンを購入する際には登録が必要になるからな。そんな馬鹿みたいな数を普通に購入したとすれば必ず足がつく……だが、ダークウェブのことはギル、おまえも知っているだろう?』
ダークウェブにアクセスするためには、特定のソフトウェアや設定、認証が必要となるが、その点をクリア出来れば、闇市場で色々なものを購入することが可能となる。ようするにネット上のブラックマーケットということだが、その中には通常のサイトで購入すれば犯罪として捕まるものが多数含まれている。たとえば児童ポルノ、脱法ハーブ、不正な方法で得たクレジットカード番号やネットマネー、銃火器類、果てはロケットランチャーに至るまで。
『一年以上前の話になるらしいが、そちらでドローンを数十台買い占めた奴がいるらしい。だが、ダークウェブにはハッカーばかりが出入りしているからな、サイバー捜査の専門家が調べているが、相手が誰なのかはようとして知れない。まあ、こちらではまだ、そのくらいしか調べのほうば進んでいないんだ』
「いや、この短時間でそこまで調べがついただけでも大したものじゃないか」と、ギルバートはビルを励ました。「あとはそのドローンをどう改造したのか、あれだけの数をどこから飛ばしたのか……映像解析のほうはどのくらい進んでる?」
『そうだな。どこから、という発進場所のほうは特定できてないが、アメリカ大使館が大体南西方面、イギリス大使館が北西方面から飛んできている。ということは、最低でも向こうは二班に分かれて事を行ったということだよな。そういや、うちの副センター長が面白いことを言ってたよ。あのドローンの群れがなんだか、大きないなごやバッタのように見えたっていうんだ。ほら、犯行声明文のほうに、旧約聖書の言葉をもじったような文言があったろう?それで、聖書のアモス書やヨエル書には、いなごやバッタの群れを使って刑罰を下すといったようなくだりがある――だが、預言者アモスが神に「ヤコブは弱いのです。どうして生き残れましょう」と申し上げると神のほうではその刑罰を思い留まるんだな。実際、向こうが最初から警告してくれたお陰で、建物以外の人的被害は最低限度といったところだった。それともうひとつ、ちょっと面白い報告がつい先ほどあった。アメリカの大使館、イギリスの大使館双方に、その日前もって休みを取っていた職員がいるんだよ。もちろんたまたま、偶然だったという可能性もある……だが、両大使館にいるUSIS職員の話によると、彼らはもともとちょっとあやしいところがあったということでな。彼らが休んで何をしていたのか、今そのあたりのことも調査中といったところだ』
「じゃあ、もう少し時間はかかるにしても――空を打つ拳闘というわけじゃないだけでも良かったじゃないか」
『まあな。というか、俺は大したことは何もしちゃいない。ただ、職員がみんな優秀で本当に助かってるよ。それで……リグビー長官直々の命で左遷されたおまえはなんで軍需企業なんかを探りまわってるんだ?』
もちろん、ビルの言葉の言外には、自分に話せないほどの機密であれば、話さなくてもいいという含みがあった。
「アメリカの上院議員の息子、ジョン・キーナム殺害未遂の角で、ある人物を逮捕したんだ。元は医者で、イラク戦争にも従軍した医師だ。どう言ったらいいか……とにかく、彼は逮捕後、精神科医との面談を重ねてのち、反省の色も見られ、自分の人生のことも前向きに捉えているということで、釈放することになった。もちろん、何故釈放したかといえば、彼がアメリカ国籍の人間だからというのも大きい。ところが、自殺の心配はないだろうと精神科医も言っていたにも関わらず――彼はその後死亡した。自殺とも事故とも言えない死に方ではあるが、俺自身はおそらく自殺だったのだろうと見ている。それで、彼に一度<アストレイシア墓地>で戦闘用ヘリによって襲われた時……そのヘリコプターがブラックバイパー社製だったんだ。そこから軍需企業関連のことを調べはじめ、そこから我々が追っているある人物が関わりを持っているのではないかと疑ってるんだが、今のところ確証的なものは何もない。だが、その我々が追う人物こそが、実は今回のテロ事件のバックにいるのではないかという可能性もあるんじゃないかと思ってるんだ」
『なるほどな』
ここでビルは目を閉じると、ギルバートに悟られないように、心の内で溜息を着いた。実をいうとビルにはギルバートに対して大恩があった。2003年3月にはじまり、同年5月に一応の終結宣言のされたイラク戦争へは、ビルもまた諜報員として従軍していた。そしてビルもギルバートもそこで、イラクの元軍人らに捕まり、手ひどい拷問を受けた。
その後、ネゴシエーターが交渉してくれたお陰で、彼らふたりの内ひとりを解放してもいいと、元フセイン政権下における秘密警察のリーダーが決定を下し……その時、彼はこう言った。「おまえたち、二人の間でよく話しあえ」と、にやにや笑いながら。「だが、残った奴の命の保証はせんぞ」と。
その時、ギルバートはビルのほうが先に釈放されるべきだと彼に言った。何故なら、ビルには帰りを待っている妻子があるのだから、と。ビルはギルバートのその言葉に甘えることにした。実際、イラク人に嬲りものにされるのにはもううんざりだった。かといって、そのうんざりする状況の中に仲間であるギルバートを残していくことにはもちろん罪悪感があった。
『俺のことは気にするな。もしここで死ぬことになったとしても、俺はおまえを恨まない。何分、俺はまだ身軽な独り者だ。それより、家族のことを考えろよ』
(問題は、俺に生まれたばかりの息子がいたとか、実際はそういうことじゃない。俺があいつと立場が逆でも、絶対に同じことは言えなかった。あんな絶望的な中にひとり残されるだなんて、俺ならたぶん、どんな手段を使ってでも逃げだそうとしたことだろう)
そして、その時にビルは自分の中に眠るあるひとつの狂気があることに気づいてもいた。おそらくあの時自分は――お仲間をその手で殺したとしたらおまえを逃がしてやろうと言われていたら、そうしたのではないかという狂気に。
(こいつは本当に俺を今も恨んでいないのだろうか?)
もちろん、ユトランド共和国の陸軍側に身柄を引き渡されてからは……ビルのほうでもギルバートを救うために手を尽くしはした。だが、ギルバートが帰国した時のあまりにも痛々しい姿を見た時、ビルは言葉を失っていた。ふたりの人間に分散されていた拷問行為が残された一人に集中したことを彼のただれた顔、それに動かなくなった足が物語っていたからだ。
「どうした、ビル?」
『いや、なんでもない』ビルは過去の回想を振り切るように頭を振った。『何分丸一日以上眠っていないもんでな。ちょっと疲れているのかもしれん。それより、俺に協力できることがあったらなんでも言ってくれ。おまえはたぶん……そのことはもう言うなと言うだろうが、何分俺にはギル、おまえに対して恩義がある。だから、そちらの捜査とこちらの捜査とで重なるところがあるなら、こちらの情報についてはいくらでもおまえに渡そう。なに、窓際族のような連中に多少何かの功績を奪いとられたとしても、こちらでは気にせんさ』
「そうか。ありがとう。じゃあ、今回のテロ事件に関する報告書を、あとからこちらにも見せてもらえないか?こちらでも、もし対テロ・センターにとって有益と思われる情報があるように思われたら、すぐに連絡する」
『ああ。それじゃあな』
ビル・タウンゼントとの会話を終えると、ギルバートはサラの書いてくれたメモ紙を胸元から取りだしていた。そして、あるひとつのことが気になってきた。サラと話している間は、彼女のことに気を取られていて(このことで彼女が決定的に自分を突き放しはしないかといったことで)、その時にはすぐにパッと気づかなかった。
けれど、そのあとその五十名以上もの名前がリストされた名前を見ているうちに――どうしても元妻に確認を取らずにはいられなくなったのだ。ブラックバイパー社CEO、ケビン・キングリッチ。もちろん、ケビンなどよくあるありふれた名だ。それがキャサリンが結婚を考えている相手だなどという可能性は、極めて低いと思いながらも……やはりギルバートとしては自分を安心させたいがあまり、キャサリンに電話せずにはいられなかったのである。
「もしもし、キャシーか?」
『どうしたのよ。あんたからわたしに電話してくるだなんて、珍しいじゃない』
(何を言ってる。離婚が決まるまでの間――いや、決まってからも氷の女王気取りの冷たい態度だったくせして)というのがギルバートの本音だが、今そんなくだらないことを言い合っても仕方がない。
「おまえ……この間再婚するとか言ってたろ?その、ケビン・ホニャララとかいうやつと。そのホニャララの部分をちょっと教えてくれないか」
『わたしの再婚相手はホニャララなんていう間抜けな名前じゃないわよ。キングリッチっていうちゃんとした立派な名前があるんですからね。あんた、どうせあれでしょ?ケビンがキャリーの父親として相応しいかどうか、秘密情報庁の政財界人物ファイルみたいの使って調べようっていうんじゃないの?』
(ほんと、あんたのそういうとこ、サイッテーよね。別れて良かった!)という憎まれ口を聞きたい衝動を、キャシーは寸でのことろでグッと堪える。彼女は別れた元夫のことを今でも愛していた。そして、可能性としては低いものの、それでも元妻の再婚に対し、多少なりともジェラシーのようなものを感じてくれていたらと、僅かばかり期待したのだ。
「まあ、それもあるがな……だが、それよりも今は仕事のことだ。俺が今仕事で調べている連中のリストに、そのケビン・キングリッチという男の名前があった。もしその男の名前がキングリッチじゃなくてケビン・ダグラスとか、ケビン・トーマスとか、とにかくキングリッチ以外の姓ならなんでもよかった。しかし、こうなると俺にもこれが偶然の一致とはあまり思えん。キャシー、そのケビンって奴とはどこで知り合ったんだ?」
『……スポーツクラブだけど、それがどうかしたの?』
キャシーはギルバートと離婚後、実家に娘のキャリーを預けて、再びモデルの仕事に復帰していた。ゆえに、高級スポーツクラブに通うくらいの経済の余裕ならば十分にあったのだ。
「賭けてもいいが、話しかけてきたのは絶対、ケビン・キングリッチのほうだろ?」
『そうよ。わたしの自惚れっていうことじゃなくね、わたしに話しかけたいみたいな男の視線は何人か感じてたわ。でも、大抵の男は勇気がなくて話しかけるまでには至らないのよ。だけどその点ケビンは違ったの。そういう男らしくてスマートなところがいいなって思ったりしたんだけど……ギルバート、あんたのその口ぶりじゃ、ケビンがそもそも目的があってわたしに近づいてきたんじゃないかっていう、そういうことなんでしょ?』
「もちろん、ケビン・キングリッチにとってもおまえは魅力的な獲物だったろうさ。だがそういう部分があるのと同時に……俺が今探ってる組織の連中にとっては、おまえと娘のキャリーとは、格好の人質にもなるっていうことなんだ。一応確認を取っておくが、そのケビン・キングリッチという奴は、ブラックバイパー社CEOのケビン・キングリッチっていうことで間違いないんだな?」
そうした危険性が秘密情報庁の諜報員にはつきまとうということは、結婚時にギルギートから説明されていたことだった。また、彼は屋敷のセキュリティといったことについて、神経質なくらい気にしていたのが何故だったのか……今ごろになってキャシーにはよくよく了解されてもいたのである。
『そのとおりよ。軍事企業の社長夫人っていうのは、なんとなくわたしもイメージ的に嫌だなっていう部分はあったけど……ケビンがわたしを愛してくれてるなら、職業のことなんかはまあどうでもいいかと思ってね』
「こんなことは俺も聞きたくないが、それでキャシー、おまえ、そのキングリッチとはもう寝たのか?」
(あんたこそ、あの立派なおっぱいの女とは一体どうなってるのよ!?)と、キャシーは逆に聞いてやりたくて仕方なかったが、そこは一旦グッと堪える。
『……まだよ。彼とはまだ知り合って二か月にもならないからね。わたしだってそんなに尻軽じゃないわ。だけど、その上でケビンがプロポーズしてきたから――今どきこんな人もいるんだなって感心してたの。だけど、もしあんたの言ってることが本当なんだとしたら、ちょっとがっかりね』
ギルバートとキャシーとは、友人の紹介で知り合ってから半年後に結婚した。体の関係を持ったのは出会って一月にも満たない時のことだった。お互い、そんな懐かしい昔のことがちらと脳裏をよぎっていく。
「もちろん、まだそうとは限らんさ。もしケビン・キングリッチが真実おまえを愛していて結婚したいと言うのなら、その時には俺も反対はしない。だが、ケビンの奴は俺にとって今限りなく黒に近いグレイといった感じの男なんだ。そう思って、キャシー、おまえにも出来れば今暫くは用心してもらいたい」
『それって一体いつまで?』
「そうだな。ケビン・キングリッチの容疑が晴れるまでにはまだ時間がかかりそうだが……それでも、流石に出会って二か月で結婚というのは早すぎるだろう?そう思っておまえのほうではもう少しキングリッチのことを焦らしてくれ。結局、そのくらいも待てないというのであれば向こうの愛にも怪しいものがあるということだし、もし彼が待つというのなら、そのほうがキャシー、おまえがより確実に幸せな結婚ができる保証ともなることだと思う」
『そうね』と、キャシーは諦めの溜息を着いた。最初からわかっていたことではあるが、彼は元妻の自分に対して少しも未練などありはしないのだ。『ねえ、覚えてる?シェルビーとマイケルのこと。あのふたりも出会ってすぐ一目惚れして、二か月くらいで結婚しちゃったのよねえ。でも今もお互いを運命の相手と思っていてラブラブなのよ。それで、あんたのほうはどうなの、ギルバート?あの大きなお胸の女性とはうまくいってるってわけ?』
(あのデカパイのAV女優みたいな体つきの女と)と言うことだけは、キャシーのほうでもギリギリ堪える。
「いや、こっちも色々難しいよ。この間、実は警察勤務じゃなくて秘密情報庁勤務だと明かしたら……『そういう嘘つく人キライ』みたいに言われてな。今はちょっと距離を置いてるような段階だ」
『へえ、そうなの』
キャシーは胸にわきあがる爆発的な喜びを、どうにか抑えて言を継いだ。
『でも、そんなのちょっと変じゃない?本当は場末のバーテンダーなのに、空軍のパイロットだって嘘ついてたってわけでもないのに、秘密情報庁勤務だって言った途端に態度が変わるなんて。その人、もしかして調べられたら何か困ることでもあるんじゃないの?』
「さあな。だが、それで言ったらむしろ、警察の捜査機関に勤めてるって言った時点で何があっても俺には近づかないんじゃないか?ちなみに、彼女のほうの経歴も一応洗ってみたが経歴的にはシロだ。ま、おまえの時にもそうだったが、女心というやつはなかなか難しいよ」
『ふうん。あんたでも女に振られることがあるなんてね。ま、キャリーが大きくなった時、「AV女優と再婚したパパなんて嫌い!」なんて言われないようにすることよ。あんたが今言ったとおり、女心は難しいものなんだから』
――このあと、ギルバートはキャリーの様子を聞いたあと、「事態が進展したらまた電話する」と言って電話を切った。キャシーは手の中の携帯をナイトテーブルに置くと、思わず「くふふふ」という笑い声を洩らしながらベッドの上へ寝転がる。
もちろん、ギルバートと自分が復縁するような可能性はほとんどない。けれど、それでも……以前と同じように愛する男から電話のかかってくる予定があるというだけで、キャシーには十分喜ばしいことだった。そしてこの時彼女は、ヴーヴーという音を携帯が鳴らしていても、そこに<KEVIN>という表示が出ているのを見て、そのまま放ったらかしにしておいた。
キャシーが愛しているのは、間違いなく出会って二か月ばかりの軍事企業のCEOなどではなく、かつて結婚し二年ほども一緒に暮らしていた元夫のほうだったからである。
>>続く。




