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第12章

「つまりさ、<ジェネラル>っていう人物はわかってるんだよ。光があれば影が出来、悪がなければ善という存在に人が気づくことはないかもしれない……っていうようなことだけど。それで、思ったんだ。<彼>のやり方は僕たちが普段してる仕事に似てるって。ほら、ケースオフィサーがそのミッションに相応しいエージェントを選定して任務を遂行してもらうみたいに――<彼>は、ユトレイシアのユト河左岸のダウンタウンを治めるのにジム・クロウが相応しいと考え、ジョン・キーナム殺害に関してはクリス・メイソンが適任だと思った……そういうことなんじゃないか?」


「なるほどな」と、トミー。「ジム・クロウの時はたぶん、あまりに危急のことで動かせる駒がメイソンしかいなかったんじゃないか?そして、俺たちが<ジェネラル>のミッションを潰したのはこれでふたつ目ということになる。そろそろ向こうも本気で動いてくるかもしれない……だがその前にクリス・メイソンからなんとしても<ジェネラル>に繋がる情報が欲しい。奴さんは<ジェネラル>のことなんか知らないと言ってた。これ、果たして本当だと思うか?」


「俺は嘘つけって思ったぜ」


 ギルバートがジャムドーナツを手にしながら言う。


「少なくとも、メイソンはジム・クロウとは違うだろうな。キャサリン・ノアクロスを死に追いやった連中を探しだして虐殺するだなんて、並の人間に出来ることじゃない。となると、<ジェネラル>は軍の諜報部にもなんらかのコネクションがあるということだ。また、もうひとつの可能性として……メイソンが騙されているという可能性もあるだろう。それっぽいアラブ人を何人も拷問にかけて虐殺した映像をメイソンに見せ、彼に恩義を売ったという可能性もあるんじゃないか?そのあたりをどう確認したのかは、これからまたメイソン本人に聞こうと思っているが」


 ブリーフィングルームでの作戦会議はこれで終わりといったところだった。そろそろクリス・メイソンを尋問し、彼本人に真実を語ってもらわなくては、話が前に進んでいかないからだ。


 ギルバートとルークはワンサイドミラーの向こうの控え室におり、尋問にはトミーとディランが当たった。まずはふたりにメイソンのことをイライラさせてもらい、その後物わかりのいいルークとギルバートが交代するといった手筈である。


「そういえばあんたたち、俺の部屋に来て盗っ人よろしく色々嗅ぎ回っていっただろ?そうだよな?」


 ディランとトミーはメイソンの質問には答えなかった。すると、彼はさらに独り言でもつぶやくように続ける。メイソンは目隠しされており、ディランの顔もトミーの顔もわかっていないはずだが、自分を尋問しているうちの誰かが室内を探ったと推測しての質問だろう。


「俺も、もっと気をつけるべきだったと後悔したよ。一応、注意されてはいたんだ。そのために、部屋にはいくつかトラップを仕掛けておいたほうがいいってね。たとえば、大事な書類の上に白髪を三本置いておくとか、もしそれがズレていたら誰かが侵入したということだっていうトラップを仕掛けておいたほうがいいみたいに。けどまあ、俺もそこまでするのは馬鹿らしいと思ってたもんで、そのうちすっかり油断するようになった。だがやはり忠告通り、素直に従っておくべきだったよ。もしあの時、エレベーターですれ違わなかったら……俺は引っ越すでもなく、あのままあそこで暮らしていたろうからね」


『今日は君に、いくつか聞きたいことがある』


 ここで、ギルバートが口を挟んだ。メイソンはおそらく、今日から暫く緘黙を続けるだろうと予測していたが、むしろぺらぺらしゃべってくれそうな雰囲気であったためだ。


『まずひとつ目、あの部屋には、見られて困るようなものが何かあったのか?我々にわかったのは、君がジャズの愛好家だということくらいだった。もちろん、金庫の中のものも見せてはもらった――だが、何分時間がなかったものでね、すべてではない。そしてでかい金庫のほうを開けるには、それだけの装備がなかったため、日を改めるしかなかった。そしたら君はその日のうちに引っ越してしまったというわけだ。やられた、と思ったよ』


「おいおい、やられたって言いたいのはこっちのほうだよ。俺はあの時、たまたま偶然ラッキーにもエレベーターのところであんたたちの手の者とすれ違ったから気づいたのさ。<アストレイシア墓地>でジム・クロウのことを狙った時……ちょうど、彼を追いかけていたのが彼らだったから」


 それはギルバート側の手落ちではあった。通常、ターゲットの家捜しをするといったようなことは、専門のエージェントが行う。だが、ギルバート率いる<悪のエリート対策本部>は、何分今のところ動員できる人員の数が少ない。


『それで、君にジム・クロウを始末しろと命じたり、出かける際には人が侵入したかどうか確認するためのトラップを仕掛けたほうがいいと忠告してくれた人物というのは……同一人物なのかな?』


「いや、違うね。ジム・クロウを始末してくれと頼んできたのは、ドクターさ。ジム・クロウの元で麻薬を製造していた闇医者だよ。『同じ医者同士、頼まれてくれないか』なんて言われたもんで、断れなかったんだ」


 メイソンの態度は悪びれるでもなかった。(だが、これでいい)とメイソンを囲む全員が同じ意見で一致していた。このまま彼が色々なことをしゃべってくれれば、<ジェネラル>に繋がる糸がそのうち必ず出てくるに違いない。


『メイソン、君はジム・クロウの部下だったドクターと知り合いなのか?』


「いや、知り合いとも言えないくらいの知り合いだな。顔見知り……とでも言えばいいか。俺はイラク帰還後、少しの間麻薬をやっていた。その仕入れ先がドクターだったんだ。まあ、今はもうやってないがね」


(他に生き甲斐を見つけることが出来たお陰で、腐った生活から脱出できたのさ)とまでは、メイソンは言わなかった。そのような生きる目的を与えてくれたのが<ジェネラル>だったということも。


『では、そのドクターを介して<ジェネラル>と知り合いになったのか?』


「違うよ。むしろその逆さ。<ジェネラル>の紹介で俺はドクターと知り合いになったんだ。いい麻薬の製造家を紹介してあげようってね。ドク&ドクコンビで儲けてみないかなんて言われたけど……そのあと、麻薬の製造現場を見せてもらってるうちに、急に目が覚めたんだ。自分のような中毒患者を増やすような仕事をしても虚しいだけだってね。まあ、手っ取り早く金にはなるらしいが」


『君の話は少々矛盾しているようだ。メイソン、君は昨晩ジェネラルの顔は知らないと言った。それに、ジム・クロウと同じような下っ端要員だとね。だが、君の今の話しぶりだと、君は<ジェネラル>と直接会ったことがあるんじゃないか?そうじゃないと辻褄が合わない』


「俺は<ジェネラル>と直接会ったことはない。ゆえに、顔も知らない。<彼>の部下との接触の仕方は独特でね……ネットを通じてだと情報はすべて暗号化されてるし、エシュロンのことは今や、諜報部だけの秘密というわけではない。そりゃ、正体がわからないように<彼>も工夫するさ」


 アメリカのNSAが全世界の通話・通信記録を傍受し保存しているという話は今やスノーデンの告発によって有名な事件となっているが、簡単にいえば<ジェネラル>が諜報部がそのような方法で情報共有をはかっていると知っているという、これはそうした意味である。


『我々に不思議なのはね、メイソン。君が何故顔も知らない、直接会ったこともない<ジェネラル>という人物にそんなに信を置いているのかということなんだ。だって、そうだろう?もちろん、キャサリン・ノアクロスを死に追いやった者たちを彼が処刑してくれたことを恩義に感じる気持ちはわからぬでもない。だが、それだって本当なのか?というのは、この手のやり口というのは諜報世界ではよくあることだからね。<ジェネラル>は君に適当に集めたアラブ人の惨殺現場を記録して君に見せた――そういう可能性もあるんじゃないか?』


 ここでクリスは突然喉をのけぞらせて哄笑した。さもおかしくて堪らない、というように。


「俺だってそこまで馬鹿じゃないさ。ひとりひとり、どういう形で彼らがキャサリンの死に関与したのか、<ジェネラル>は一人ひとり調べた上で彼らを全員処分してくれたんだ。その送られてきた映像を見る前に……<彼>は親切にも『出来れば見ないほうがいい』と忠告までしてくれていた。だが、やはり俺は見たよ。そして復讐心のほうは十分に満たされたが、だからといってそれでケイトが帰ってくるというわけでもない。心の中には虚しい茫漠たる砂漠が今も広がっている……ただそれだけさ」


『それで君は、<ジェネラル>の命で今度は闇の世直し人にでもなるつもりなのか?まずはジョン・キーナム。そして<ジェネラル>が命じるがままに、彼にとって邪魔だと思う人物を順に消していく――君は心の砂漠の緑化のために、自分は間違った方向へ進もうとしていると考えることはないのか?』


「心の砂漠の緑化ね。いい言い方だ。気に入ったよ」


 クリスはぞんざいな態度で椅子に座ったまま、また笑った。


「むしろ、その件については俺のほうがこう聞きたい。あんたたちは、自分たちが正義を行っていると断言できるのか?ジム・クロウの件ひとつ取ってみてもそうだろう?毎日、ユト河左岸のダウンタウンからは銃声が聞こえ、血の流れない日はない。ドクターはもうユトレイシアには興味がなくなったらしいから、拠点を変えてしまうだろう。もしあのままジム・クロウがあの三角州の悪の根城にいさえすれば……むしろ警察のほうは助かったはずだ。そうした情報網だってお互い築きあってさえいたんだからな」


 ここでのクリス・メイソンの仕事は実は次のようなものだった。自分を捕えたのがUSISだということはわかっている。そしてUSISのほうではどの程度<ジェネラル>についての情報を得ているのか……彼はそれを探りたいと思っていた。だが、顔もどのような人間なのかも、ほとんどわかっていないと見て間違いないだろうとクリスは感じていた。


『何が正義なのかなんて、我々にもわかってなどいないさ。どうやら君は我々が何者なのかについてある程度予想がついているのだろう?その上で言うが、我々が普段口にする正義など、汚いものだ。そして他の「それが正義」だと一般人が信じている、あるいは信じさせられているものも……たくさんの誰かの犠牲があり、裏にある汚いものは直接見ずに「正義」と呼んでいるにしか過ぎない。だが、君は医師だ。医師ならば、我々の論じる汚れた正義などといったものとは別の道義や倫理があるだろう?何故医師として正しく生きようとしない?それが亡くなった恋人の真の望みだとは思わないのか?』


「俺はもう、この平和な世界で医師などやれない。もし出来るとしたら、いつ死ぬかもわからぬ戦闘地にでも行くしかないな。ようするに、気力がないんだ。その他、何もする気が起きない。だが、そんな中で唯一、<ジェネラル>の言うことには従ってみてもいいと思っている。洗脳されているように聞こえるかもしれないが、俺にとっては今や彼こそが「正義」そのものなんだ」


『君はきっと……PTSDなんだろうな。カウンセリングを受ける気はないのか?もし良ければいい精神科医を紹介したく思うが』


「ああ、頼むよ」


 疲れたように溜息を着いて、クリスは言った。(その言葉を待っていた)と彼は思っていた。


「今は君たちがキーナムを殺害する前に止めてくれたことを嬉しく思うよ。きのう、独房の中でもよく考えた……確かに、今すぐには医師の激務に俺は耐えられないだろう。だが、少しずつリハビリすれば――いや、医師の仕事にはもう戻れなくてもいい。とにかく俺には今、ケイトを喪った心の穴を埋めるのに、生き甲斐……生きている意味や理由が必要なんだ」


『わかった。それでは、今日からある程度の自由を君に与えよう。与える、といっても行動のほうはまだかなりのところ制限される。独房とは別の個室を与えるが、そこも二十四時間監視されているし、見張りもつく。また、当面の間は精神科医の診療室との往復以外はどこへも行けない。そのかわり、監視付きでインターネットの閲覧は許そう。他に、本や新聞など、欲しいものがあればこちらで用意して届けさせる。それでどうだ?』


「わかった。その条件で受け容れよう」


 クリス・メイソンが突然従順になったように感じられて、ギルバートも不審に思わないでもなかったが、何分こちらには彼が言ったとおりの「優秀な」精神科医がいる。彼であればおそらく、メイソンの病んだ心を正しい方向へ導いてくれるだろう。また、その過程で彼が<ジェネラル>のことに関しても話してくれるようになる……というのが理想だった。


 まだメイソンが正式に仲間になったわけではないため、トミーもディランも自分の正体を明かしたりはしなかった。ゆえに、彼のために用意された庁内の人質専用の個室のほうへメイソンのことを移したのは、二人の警備局の人間である。そこで彼はまず、「音楽が聞きたい」と言い、ジャズのCDを幾つか所望した。


 そしてそれを聞いていたギルバートたちは即座に「好都合だ」と互いに顔を見交わす。


『メイソン、君の家から好きなだけCDを持ってこさせよう。それでどうかね?』


 だが、クリスはその件については「そうしてくれ」とは言わなかった。


「なんでも買い与えてくれるんだろ?だったら、新しくCDでもなんでも買ってきてくれ。レコードプレイヤーがあるなら、レコードでもいい。チェット・ベイカーとバド・パウエルとビル・エヴァンス、キース・ジャレット……今、CDのタイトルをリストにするよ。他には本が欲しい。ウッドハウスの本全部と、ユトレイシア医療ジャーナルなんかがいいな。その他、君たちのお薦めがあれば追加してほしい」


『わかった。いいだろう』


 ――こうして、暫くの間クリス・メイソンはトミーとディランとルーク、それにギルバートの監視下にありつつも、精神科医の診療室を往復する以外では自分に与えられた快適な部屋で自由に過ごした。この間、ギルバートたちは直接には彼と接触せず、代わりに彼が現在の住まいとしている場所へ家捜しをしに行ったのだが……すでに遅かった。パソコンや例のライフルその他の銃火器類が入っていたと思われる金庫の中の物など、そうしたものはメイソンのマンション自室にはすでになかった。


 前の住居を引き払う際に処分したのか、あるいはジョン・キーナム殺害の際に逮捕される可能性もあると考え、パソコンなどの個人情報については彼本人が処分したという可能性もある。だが、部屋の中のものの配置などから見ても、若干不自然な点が拭えなかったことから――メイソンの身柄がUSISへ移されると同時、<ジェネラル>の手の者が見られてはまずいと思われるものは持ち去ったのかもしれなかった。


 その他、メイソンの携帯からも<ジェネラル>に繋がるような情報は得られず、ギルバートたちはメイソンが精神科医に洩らした情報に期待する以外になくなったわけだが……彼のほうでも精神科医に話したことは彼らにも筒抜けになると用心しているためだろう。精神科医が彼から聞き出したのは、恋人のキャサリンを喪っていかにつらいかといったことや、イラク戦争へなど行くべきではなかった、アメリカは戦争すべきでなかったといった過去の選択に対する後悔、そうしたことばかりだった。


 結果、クリス・メイソンは秘密情報庁から三か月ほどで身柄を解放されることになった。というのも、(ギルバートやルークは信じなかったが)クリス・メイソンには心の快復の兆しが見えており、そろそろ釈放して自由に生きさせたほうがいいと精神科医が助言したためである。そこで、本人にそう告げることは当然しなかったが、その後も彼の身辺を見張るということでギルバートは妥協したわけである。


「彼が今後、自殺する可能性は?」と、当然ギルバートは精神科医に聞くことを忘れなかった。秘密情報庁専属の精神科医のカルテをギルバートもルークも見たが、メイソンが核心に触れているようで当たり障りのない話をしているだけのようにしか感じられなかった。それも、こうすればいずれ自分は解放されるだろうと計算した上での言動ではないかと思われて仕方がない。


 また、メイソンが釈放されるに当たっては、航空法違反、ジム・クロウ及びジョン・キーナム殺人未遂を問わないのと引き換えに、ユトレイシア市内から出る場合には必ず専用の電話番号に連絡することなど、いくつか条件を付けた。無論、この条項の中には不当逮捕でこちらを訴えないといったことも当然含まれている。


「どう思う?」


 トミーとディランは顔を見られているため、メイソンの監視には他の部署からエージェントを五人寄越してもらい、彼らが交代で彼の行動を見張っている。そこで、ブリーフィングルームでの話しあいがメイソン解放後、四人で行われることとなった。


「まあ、精神科医に話したとおり、このまま医師として復帰する方向性で頑張ってくれればいいですが……」と、ルーク。「疑わしいものですな。本部長の言っていたとおり、メイソンを釈放したのは、泳がせておけばいずれ<ジェネラル>と接触するかもしれないと考えてのこととはいえ――メイソンが早く釈放されたいあまり、理想的な患者を演じていたようにしか私には思えませんな」


「ほんと、顔さえ見られてなけりゃ、俺とディランとで見張るんだけどなあ」


「そうだよ。彼も<ジェネラル>も非常に賢いからね。それでもじっくりやってれば、それが三か月後でも半年後でもメイソンが<ジェネラル>と接触する可能性は高い。その瞬間をみすみす逃さなきゃならないなんて、ほんと残念だよ」


「一応、スキルの高いエージェントをつけてはいるよ」と、ギルバート。「だが、これでメイソンから何も出てこなかったとすれば、我々も手詰まりということになる」


 軍需企業関連についての黒い繋がりについては、引き続きルークが調査してくれていたが、そこにどう<ジェネラル>が絡んでくるのかについては以前不透明だった。何分、絡んでくる政治家や企業の数、人数があまりに多すぎるためであった。


「ジョン・キーナムの殺害後、次に<ジェネラル>が誰を狙っていたのかがせめてわかればいいのですが……」


 そして、ここまでの経緯についてリグビー長官に報告したところ、<悪のエリート対策本部>は一旦解散するということになった。といっても、本当に解散するというのではなく、当面活動を自粛するということだった。


「安心したまえ、コナー君。何も上から圧力がかかったとか、そういうわけじゃない」


 長官室で机を挟んで互いに向かいあい、それでもギルバートはまだ眉をひそめたままでいた。


「我々は相当危険な相手を敵にしている……そのことがわかっただけでも収穫はあったといえる。ここで一旦、解散したような振りを一度しておくということだよ。そうすれば<ジェネラル>のほうでも少し気を緩めるかもしれない。むしろ、これからさらに彼の立てた計画を三度目までも潰したとしたら――交通事故に見せかけて捜査に関わっている誰かが消されるかもしれない。君は実によくやってくれた、コナー君。わたしはこの結果と経過に十分満足しているよ」


(本当にそれが長官の本心なのだろうか)と疑いつつ、ギルバートはなんだか釈然としないままだった。


「トミー・レガード、ディラン・ヒューイット、ルーク・ランドン、それにギルバート・コナー。君たちはこれから交代で休暇を取りたまえ。メイソンに付けたエージェントから連絡を受けた場合は指示が必要だろうが、暫くはそうした形で活動してみてはどうかね?」


「長官、お言葉は有難いのですが……やはりそういうわけにもいきません。まあ、トミーもディランもルークもこの半年以上もの間、よく働いてくれましたし、ディランとトミーは休暇を取るのもいいでしょう。ですが、長官もご存じのとおり、ルークは自分の諜報員人生をかけて<ジェネラル>の正体を暴こうとするでしょう。彼には休暇を取れなんて言っても無理ですよ。そう言い渡しても、明日も資料庫にこもって自分の仕事を続けるでしょうから」


 ――こういった経緯により、トミーがまず休暇に入ることになったわけだが、彼が休暇に入った三週間後のことだった。クリス・メイソンは自分を尾行していたエージェントを巻くと、ブラックバイパー社にあるヘリの離発着場からアストラホークⅡに乗り……南西にあるユト連山の人気のない岩壁に墜落して死んだ。


 遺書もなかったことから、ニュースでは自殺とも事故とも言えないといったように報道されていたが、ギルバートたちには彼が自殺したのではないかというように思えてならなかった。そして、やはりあらためてわからなくなったのだ。ジョン・キーナムなど、クリス・メイソンに殺させておけばよかったのではないかと……そうすれば、彼はまだ生きていたかもしれないのに。


 そして、メイソンの死の一週間ほど前、ギルバートに思いがけない再会があった。クリス・メイソンのことを捕獲したセレスティアホテルのパーティで出会った美女――サラ・ハリントンをアメリアとデート中のレストランで見かけたのだ。


 彼女のほうに連れはなく、サラはひとりだった。市内でも予約をとるのが難しいと言われるレストランで、夕刻のことだったが、二十席ほどある座席はすべて客で埋まっていた。アンティパスト、プリモ・ピアット、セコンド・ピアットと進んだところで……サラが入口から近い座席に腰かけるのがギルバートの目には見えた。


 長い髪をお洒落に束ね、ジバンシーのロングドレスを着ていた。ギルバートの座席から見えるのは彼女の後ろ姿だけだったが、それだけにギルバートのほうでは彼女のことをいつでも好きな時に凝視しながら食事をしていたのである。


「ねえ、ギル、聞いてる!?」


「あ、ああ。もちろん聞いてるよ。次にディランが休暇を取ったら……俺も少し休むように言われてる。その時、どこに旅行へ行くかって話だろ?」


「そうよ!一体どうしちゃったの!?なんだかぼーっとしちゃって」


 デザートの苺のティラミスを食しながら、アメリアがイライラしたように言う。アメリアの位置からはサラ・ハリントンの姿は一切見えないため、ギルバートとしてはある意味安心だった。


「申し訳ない。ちょっと仕事のことを考えてたんだ。すまない、アメリア。旅行はどこでも君の好きなところへ連れていくから……今日は食事が済んだらそのままタクシーで帰ってくれないか?この埋め合わせは必ずするから」


「まあ、いいけど……」


 旅行先は、アメリアはパリかイタリアが良かった。ギルバートの仕事の詳細については彼女は彼の口から聞いたことはない。だが最近、ミッションのほうが一区切りついたとだけは聞いていたため――アメリアとしても喜んでいたのだ。


 また、その仕事の特殊な性質上、アメリアのほうでも「どういうことなの?」といったようには聞けない。それに、聞かないほうがいいのだ。そのほうがきっとギルバートの中でも自分に対する<いい女感>がぐっと上がるに違いない。


 そのあと、アメリアとコーヒーまで飲むと、ギルバートはクレジットで支払いを済ませ、繁盛しているイタリアン・レストランを出た。そしてアメリアにはタクシーを拾ってもらい、ギルバート自身はといえば……イタリアンレストランと隣のビルの間に隠れて、サラ・ハリントンが店から出てくるのを待っていたのである。


 彼女のような女性がこうした高級レストランでひとり食事をするのは意外な気もしたが、サラは明らかに誰もいないテーブルの向こうを意識するように食事をしていた。その証拠に、という言い方はおかしかったかもしれないが、ギルバートは彼女の席の向かいにシャンパングラスが一客置いてあるのを見てもいた。


 実をいうと、クリス・メイソンのことを捕獲したあの夜――サラ・ハリントンと初めて出会った日から、ギルバートは彼女のことが気になっていた。そして仕事にかこつけて、個人的に彼女のことを調べていたのである。職権乱用の向きが多少なくもなかったかもしれないが、ギルバートはそのことを「これも仕事だ」と自分に言い聞かせていたのである。


 そして、調べれば調べるほど、サラ・ハリントンについては興味深いことがわかってきた。年の離れた資産家の夫とは二年前に死別し、その際に財産のすべてを相続している。亡くなった夫のエドガー・ハリントンは、アメリカ・ユトランド共和国双方の政財界に顔が利き、夫の所有していた軍事関連企業の株などは、彼の資産のほんの一部にしか過ぎないといっていい。


 また、エドガー・ハリントンに纏わる逸話として特に有名なものに次のようなものがあった。血も涙もない事業の辣腕家として知られた彼は、ある時出席したパーティで占い師を名乗る女に突然「人殺し!」と叫ばれたことがあるという。その際にこの女性が「おまえの家は呪われている!呪われている!呪われている!!」と気が狂ったように叫んだということだったが――実際のところ、彼はその後ガンが見つかり、何年にも渡る闘病ののちに亡くなった。そして、この占い師の言ったことはある意味その時点で当たってもいたのだ。何故なら、彼の家系は代々短命であり、六十歳以上生き延びた人間が少ないだけでなく、なかなか世継ぎが生まれにくかった(エドガーは五十六歳で亡くなったが、サラとの間に子供はない)。そこへ占い師の女が騒ぎ立てたもので、社交界では「ハリントン家はもともと、『死の商人』として銃器類を売り歩いたことが財をなしたきっかけだったから……その時から呪いがかかっているのかもしれない」などと、一時期陰口が叩かれたものである。


 サラのほうはヴォーグで表紙を飾ったこともある元モデルで、出身が貧しかったことから金目当ての結婚と当時は揶揄されたようだが――結局のところ、時の経過とともに人というのはそんなことも忘れてしまうものだ。


 ギルバートはサラが再婚相手としてジョン・キーナムのことを考えているとは思わなかったが、それでも一晩程度の相手としてなら、キーナムくらいの男でも良かったのかどうか……彼女の性格についてははかりかねていたといえる。


 また、サラ・ハリントンが待たせておいた黒塗りのタクシーに乗ると、そのあとを別のタクシーに着けさせたのも、ギルバートにとってはある種の諜報員の勘によるところが大きい。簡単にいえば、(あの女には何かある)ということだが、もちろん他にも個人的に彼女に対し興味があるという部分も彼の中にはあった。


 といっても、サラはおそらくユトレイシア郊外にある自分の別荘に帰るところなのだろうし、その住所についてはギルバートもすでに把握している。それなのに一体自分は何をしているのかと思いつつ――その日の夜、ギルバートはサラが瀟洒な別荘の中に消えたあと、屋敷の周囲をぐるりと見てから自宅へ帰ってきたのである。


(まったく、一体何をしているんだ、俺は……ストーカーじゃあるまいし)


 純粋な仕事ということからは逸脱しているのかもしれなかったが、ギルバートはその後もサラ・ハリントンのことを色々と調べていた。元はアメリカの出身なのに、何故今はユトレイシアにずっと滞在しているのか、そんなことが気になっていた。そしてメイソンの死のことがあり、アメリカ・ユトランド両方の軍事関連企業に詳しい彼女に近づくことで――そのあたりのことを探れたらという動機を正当化し、ギルバートはとうとう彼女と接触するというシチュエーションを自分に許していた。


 アメリアとは二週間ほど、パリとローマへ行く予定を立てている。だがギルバートの頭の中にはもうサラ・ハリントンのことしかなかった。自分に許された二か月ほどの休暇の間、ギルバートはサラ・ハリントンのことを調べて過ごそうと思っていたほどである。


 そして、ギルバートは彼女にユトレイシア社交界のパーティででもそれとなく近づこうと思っていたものの、サラと接触する機会というのは、意外にもまったく別の形で訪れた。諜報活動といったものはある部分、ターゲットに対するストーカー行為を繰り返すような部分があるわけだが、この頃のギルバートは彼女の家のまわりをランニングして回るまでに気持ちが高まっていたといっていい。


 無論、今ギルバートが住むマンションとサラの別荘とは遠い場所にある。そこで、彼女の家の近くの公園脇に車をとめ、そこからランニングを毎日開始するのだった。サラの住む敷地の広い別荘では、花の手入れを彼女が自ら行っており――晴れた日の午前中であれば、大抵庭のどこかにサラ・ハリントンの姿を見ることが出来た。もっとも、ブルーグレイの冷たい石塀の隙間からようやく彼女の姿を見ることが出来るという、それはその程度のものにしか過ぎなかったのだが、ギルバートがそのような行為を繰り返していた数日後……犬の散歩をしているサラとギルバートはばったり出会ったのである。


 この時、犬のパピヨンが実にいい仕事をしてくれたのだ。<エド>と亡き夫と同じ名前をつけられている犬は、走っているギルバートに近づくと、しきりと構ってほしいアピールをしてきたのである。これはギルバートにとっては願ってもない機会だった。すぐにひざまずいて犬の頭を撫で、「やあ、可愛いワンちゃんだ」などと、随分間抜けな言葉が口を突いてでたものだ。


「ごめんなさい。走っているのをお邪魔してしまって……この子、滅多に人に懐かないんですけどね。こんなこと、初めてだわ」


 その言葉にすっかり気をよくしたギルバートは、この時サングラスを外して、じっとサラのほうを見た。セレスティアホテルで一度会っているとはいえ、彼女のほうで自分を覚えているかどうかはギルバートにも自信はない。


「その、以前一度お会いしたことがありますよね……覚えておられるかどうかはわかりませんが、セレスティアホテルのブラックバイパー社が主催したパーティで」


(そうだったかしら)というように、サラのほうで記憶の中の顔照合を行ったような間があったのち――彼女はハッしたようだった。


「あの、警察の方でしたよね。あの時は夜で、スーツを着てらしたので……一瞬まるでわかりませんでしたわ」


「思い出していただけて良かったです。あなたと一度お会いして忘れる人物というのはいないでしょうけどね」


 この手の話を男からされるのにはうんざりしているのだろう。サラは軽く会釈すると犬を連れていこうとした。ところが、犬のほうでギルバートからなかなか離れていかなかったため――「いらっしゃい、エド。駄目じゃないの!」などと、サラは若干顔を赤くしていた。


「俺がかわりに散歩させてきましょうか」


 ギルバートが試しにそう言うと、サラのほうでは迷ったような仕種をした。それでギルバートも強い態度にでる勇気が持てたのである。


「いいですよ。ランニングのついでですし。少し一緒に走ったら、門か玄関口のところまでお連れします。それじゃあ」


「……すみませんけれど、お願いします」


 エルメスの犬のリードを受けとると、ギルバートはパピヨンのエドのことを連れ、犬が満足するまで十分走ってからハリントン家の別荘まで戻ってきた。インターホンを押すと、「あ、今開けますね。そのまま玄関のほうまで入ってらしてください」というサラの声がする。


 黒い錬鉄製の門が自動で開くと、ギルバートは左右の花盛りの庭を眺めつつ、エドのことを連れて玄関口のほうまで歩いていった。すると、内側からドアが開いてサラが顔を覗かせるなり――ほんの三十分離れていただけなのに、パピヨンのほうでは弾丸のように御主人さまの胸の中へ飛び込んでいった。


「よかったわねえ。そう、楽しかったの……わたしと散歩する時はのんびり歩いていくのにねえ。本当はエドのほうがわたしのほうに合わせてくれてたのね。おお、よしよし」


「じゃあ、俺はこれで……」


 犬がフガフガと鼻を鳴らしながら、遠慮なくサラの胸の谷間に顔を突っ込むのを羨ましく眺めつつ――ギルバートはその場を辞去しようとした。そして、そんな彼のことをサラが呼び止める。


「よかったら、上がっていってください。何か冷たいお飲み物でも用意しますから」


「それじゃあ、遠慮なく……」


 その言葉を待っていたというように、ギルバートのほうでは本当に遠慮がなかった。外から見ただけではいくつ部屋があるのかわからぬほどの大きな屋敷だったが、中に入ると思った以上にひっそりとしている。自然の風景を描いた絵画やドライフラワーの飾られた廊下をリビングまで歩いていく。リビングのほうはフランス窓のほうから外へ出られるようになっており、花盛りの庭を見渡せるようになっていた。それが彼女の趣味なのかどうか、ブルー系の花をまとめた花壇と暖色系の花壇とが分かれていて、その真ん中あたりに天使のオーナメントが置かれている。サフィニアやブルーサルヴィアやアンゲロニアやアガパンサスやネメシア……タチアオイやインパチェンスやマリーゴールド、グラジオラス――ギルバートは母親の花壇仕事をよく手伝っていたので、いくつかの花の名前を除いては、ある程度花の名前を当てることが出来ていた。


 ギルバートが眩しそうに夏の庭を見渡していると、キッチンのほうでアイスティーを入れていたサラが戻ってきた。「よろしかったらどうぞ」と言われ、ギルバートはアンティーク調の繻子張りのソファへ腰かける。室内にはアルフォンス・ミュシャの絵画がかかっており、ギルバートは「ミュシャがお好きなんですか?」と聞いてみることにした。


「ええ、まあ……買ったのは主人なんですけどね。わたしが好きなのを知っていたので、それで何点か買ってくれたんです。といってもリトグラフなので、本物ではないんですけれど」


 テーブルの上にもともと置いてあったピエール・エルメのチョコレートの箱を開けられ、サラに勧められるがまま、ギルバートはそのいくつかを口に含んだ。犬のほうは、サラが座っている側のソファの脇で、ガフガフ水を飲み、がつがつと餌に齧りついている……こう言ってはなんなのだが、三十分ほどの散歩の間にギルバートが思ったのは、この犬が相当の駄犬のようだということだったかもしれない。


 というのも、散歩している間中ずっと注意散漫で、あっちの草むらに顔を突っ込み、こっちの土をほじくり返しと、終始落ち着きがなかったからである。ギルバートとしては、「おい、真っ直ぐ歩くか走るかしろよ!」とぐいとリードを引っ張りたかったが、何分これからお近づきになりたい女性の、可愛い愛犬である。そこはぐっと気持ちを抑え、落ち着きのない犬の趣味にずっとつきあっていたのだった。


「その、本当に可愛らしいワンちゃんで……」


 会話が何も思いつかず、ギルバートがそう苦し紛れに口にした時のことだった。果たして、自分のことを言われたとわかったのだろうか。エドはぴょんとソファへ飛び乗ると、水でびしょびしょの口まわりの毛を、ギルバートの胴にびしょおと撫でつけてきた。


「ま、まあ。エドったら。いけない子ね。ほら、お口のまわりをふきふきしなきゃダメでしょ!」


 そう言ってサラは、すでにギルバートのTシャツのほうに水分のほうは吸いとられていたものの、何かお義理的にタオルで愛犬の顔まわりを拭いていた。ギルバートのほうでも(チッ。しょうもねえ馬鹿犬だな)などと、本音を洩らすことはない。ただ、「申し訳ありません、本当に……」などとサラがしきりに言うもので、「べつに気にしないでください」と笑って済ませるだけである。


 実際のところ、ギルバートはエドというこの犬が金持ちによくいる甘やかされた駄犬と思っていたが、そんなことはどうでもいいのだ。サラ・ハリントンという美女とアイスティーとピエール・エルメのチョコレート……あとは失礼にならない程度の時間で引き上げなくてはならない。


「こんなことを聞くのは不躾とは思うのですが、ミスター・キーナムとはどういったお知り合いなので?」


「ええと……そうですわね。株主総会なんかで定期的にお会いするというくらいですけれど。あとは社交上のパーティでもお会いしたり。そのくらいですかしら」


「その、今そうお聞きしたのは、彼が危険な人物ではないかと思ったからなんですよ。こう言ってはなんですが、そうした男性とあなたのような女性が話していて、会話に共通点などあるのだろうかとふと疑問になったものですから」


 サラはハーブティーを飲みながら、少しかしこまった様子でソファに腰かけていた。犬のほうでは散歩の興奮がまだ覚めやらぬというように、ソファのまわりをおもちゃを追いかけてはダッシュしたりといったことを繰り返している。


「ああいうお仕事をしている男性っていうのは、大体が似たものですわ。ビジネスに熱心で、あとはそのための憂さ晴らしとして綺麗な女性と一夜の関係を求めたりとか……まあ、もうわたしにはあまり関係のないことですけれど」


「関係ないとは?」


 べつに<警察官>という自分の職業を演じなくてはならない理由はないはずだが、ギルバートはなんだか自分が尋問調であることが気になった。


「いえ、わたしは主人を亡くして二年になりますけれど、特にもう再婚したいとも思っておりませんし。主人の財産的なものはこれから少しずつ処分していくつもりですの。じゃないと、社交的なつきあいとか色々、面倒なことがあんまり多すぎるものですから……」


(なるほど。そういうことか)


 今こうして直接話してみて、ギルバートにも彼女のことが初めてわかった気がした。それまでもモデル時代のインタビュー記事などを見てはいたが、彼女が本当はどういった人間なのかはいまいち把握しかねたからである。


(あの日の夜も、何もキーナムとどうこうということはなかったんだ。ただ、あいつのほうでは彼女の礼儀正しい態度なんかを見て、自分が強引に押せば関係を進めていけると思いこんでいたとか、何かそんなところだったんだろう)


「では、こちらへは仕事の御都合で滞在していらっしゃるということなのですか?」


 サラ・ハリントンのパスポートの記録については、ギルバートのほうでもう確認済みだった。ヨーロッパ各国へも時々足を伸ばしているが、一番多いのがアメリカとユトランド共和国の往復だった。それはもっぱらビジネスが絡んでのことなのかどうかまでは、ギルバートにもわからない。


「そうですね。そういうところもありますけれど……一番の理由は主人との思い出です。ほら、わたしも主人もアメリカ人ですから、向こうにずっといると息が詰まることがあるんですよ。エドが亡くなってからは主人の遺産目当てに近づいてくるっていう人が多くて、辟易してましたの。そういう時、主人とここの別荘で過ごしていたことを思いだして。大体夏の今時期くらいには、いつもユトレイシアに来ていました。エドがわたしにプロポーズしてくれたのも、こちらにいた時でしたし……」


(そうだったのか。じゃあ、あのイタリアンレストランにいた時も……テーブルの向こうにいたのはエドガー・ハリントンだったってことなんだろうな。なるほどな)


「じゃあ、ここには本当におひとりでお住まいなんですか?」


(何故そんなことを聞くのかしら?)というように、サラが首を傾げていたため、ギルバートとしても照れくさかった。誤魔化すようにミントの浮かんだアイスティーをがぶ飲みする。


「その、危険じゃないですか?なんだか見たところメイドのような人も見当たりませんし……あなたのような資産家の女性がこんな広い屋敷に犬とだけ暮らしているだなんて」


「一応、セキュリティのほうは結構しっかりしてるんですよ。警備会社にとってもうちは上得意の相手ですから何かあったらすぐ駆けつけてくれるでしょうし……」


「そうですか。すみません。職業柄どうしても気になって」


 ギルバートは都合よくそんなことにしておいて、そろそろこの場を辞去することにした。あまり長居しすぎてサラに不純な動機があるように悟られたくなかった。


「いえ、わかります。あの日の夜も思いましたもの。大変なお仕事なんだろうなって……」


「まあ、それほどのこともないですが……」


 玄関口までサラが犬のエドとともに送ってくれたため、ギルバートは犬の頭を「またな」と言って撫でてからハリントンの別荘をあとにしていた。また同じくらいの時間にこのあたりをランニングしていたら――散歩している彼女と話をする機会があるだろうか?


 石造りのスレート葺きの屋敷を振り返り、ギルバートはそんなことを思った。そして彼はその後も毎日地道にランニングを重ね、もう一度サラと話が出来ないかと考えていたわけだが……今度は犬のエドは直接絡んでこなかった。ギルバートが例によってハリントン家の塀のまわりを走っていると、庭で水遣りをしているサラと目と目があったのである。


「あ、おはようございます」


 ホースを手にした彼女の足許には、犬のエドがいた。だが、彼は草や土の匂いを嗅ぐのに夢中で、この時はご主人さまの行動にはまったく関心がなかったようである。


「……どうも」


「随分精が出ますのね。でも、ご職業柄体力がないと大変だっていうことかしら?」


「そうですね。じゃないと犯人に逃げられてしまいますから」


 ここで思いがけなくサラが笑ったもので、ギルバートもほっとした。少々図々しい態度に出てみようかという勇気もでる。


「そういえばこの間、聞き忘れてしまったんですが……犬のエドはいくつなんですか?」


「まだほんの二歳ですの。主人が亡くなってから寂しくなって飼いはじめたものですから……やんちゃで手がかかりますけれど、この子のいない生活なんてもう考えられませんわ」


 ギルバートが塀の隙間からエドの姿を見ようとすると、サラが言った。


「よかったら、こちらへ来られませんか?エドもあなたと会いたいでしょうし」


 塀ごしに手を伸ばすと、エドがしきりと尻尾を振ってふがふがギルバートの匂いを嗅ぎはじめたもので――サラのほうでも犬をだしにして、思いきってそう言うことが出来たのである。


「じゃあちょっと、ワンちゃんと遊ばせてもらおうかな」


 この日は庭の東屋のほうで、ギルバートはサラと一緒に軽い食事までとることが出来た。スパゲッティとパンに冷製のスープだ。エドがそんなふたりの間を物欲しそうに走りまわるもので、サラはそのたびに犬用のエサを放っていたものだ。


 話としては、そんなに大した会話はしていない。ただの世間話やギルバートの警察での仕事のことや、サラのここでの暮らしぶりのことなど……ギルバートはそのまま彼女と何時間でも過ごしていたかったが、それだと夕方から出勤予定だとの嘘と辻褄が合わないと思い、仕方なくその場をあとにした。


 けれど、ギルバートとしては十分満足だった。これでまたランニング中に塀ごしに彼女と目があったとすれば――これはもう偶然などではない。サラのほうでも多少は自分に対して気があると思っても、男の自惚れではないだろう。


 こうして、ギルバートはサラとの距離を少しずつ縮めていった。アメリアとのパリやローマを旅行するという予定もキャンセルし(今扱っている事件が急展開したと彼は嘘をついた)、ギルバートは二か月という休暇の間中、ハリントン家の別荘に通い詰めだったのである。

 

 そしてまずはエドのことを散歩に連れていき、その後はサラと食事をし、一緒に庭仕事をしたり――最初は「夕方から捜査の仕事が……」と言ってしまった自分の嘘を悔いたが、実はそれが良かったのかもしれない。ギルバートは必ず明るいうちに仕事を理由にサッと帰ったし、その前に必ず女性には面倒な力仕事を引きうけたりといったことをしていたからである。


 自分の体目当てに近寄ってくる男には、サラも辟易していたのだろう。こうしたギルバートの態度はどうやら計算ずくでそうしたということではなく、高い好感度をもって受けとめられたらしい。とにかく、ギルバートは待った。そして、彼女のほうから「あなたと寝てもいいわ」といったサインがはっきり出ることでもなければ、キスひとつすら自分からはしなかった。


 そしてとうとう――犬のエドがギルバートの足に体をなすりつけた一月半後、ギルバートの求めていた日がやって来た。彼自身にそうした趣味はなかったが、サラにつきあってドライフラワーやハーバリウムを作ったりしていた時、ギルバートの右の目のコンタクトがごろついたのだ。


「ちょっと鏡……いや、洗面所を貸してもらってもいいかな」


「ええ。いいけど……目をどうかしたの?」


 花の花粉か何かが作用したのだろうかと思い、サラはギルバートに目を見せるように言った。「いや、これはそういうんじゃないんだ」とギルバートは言ったが、サラは彼のことが心配で、この時は珍しく強引だった。


「ダメよ。ちゃんと言うこと聞いて。ほら、そこに座ってちょうだい」


 ギルバートとしても少し迷った。彼の視力は両目とも1.5で、本来ならばコンタクトは必要ない。だが、彼が右目にだけコンタクトを入れていたことには理由があった。


 サラはソファにギルバートのことを座らせると、彼の右の目のほうを自分で見た。すると、ポロリとコンタクトが落ち、どこかへ行ってしまう。


「まあ……もしかしてギルバート、あなた……」


「そうなんだ。あんまり人には知られたくないんだけどね……左目はブルーなんだが、右目はダークグリーンなんだ。それで、コンタクトをしてる。視力のほうはいいほうだと思うんだけどね」


 サラはそのまま、ギルバートの両の瞳にじっと見入ったように、両手で彼の頬を挟んだままでいた。そして最後に、自分のほうから彼の両目の瞼にキスをし、それから最後に……唇にもキスした。


 彼女のほうからしたキスは、許しと祝福を与えるかのような清らかなものだったが、そのあとギルバートがサラに返したキスは――最終的に、かなり激しいものになった。サラのほうでも彼を拒むことはなく、最後には「寝室へ行く?」と、優しい声でギルバートの耳元に囁いてくれた。


 そしてギルバートは、サラのことをお姫さま抱っこすると、彼女の案内で天蓋付きベッドのある寝室で心ゆくまでサラと愛しあった。犬のエドのほうはこの時小腹を見せて昼寝していたが、目が覚めるとあたりに誰もいなかったため……最後にはキュンキュン鳴きながら広い屋敷を走りまわり、寝室で御主人さまを見つけると裸のふたりの間に遠慮なく入りこんできたものだ。


「そろそろ、爪を切らなきゃいけないな」


「そうね。でもあの床を走る時のカシャカシャ言う音、ちょっと可愛いのよね」


 サラがくすくす笑いながら、間に割りこんできたエドの爪を見る。


「でもこの間、廊下を猛ダッシュで走ってて、カーブを曲がりきれなくて……つるっと後ろ足が思いきりずっこけてただろ?犬用の爪切りはちゃんとある?」


「あるにはあるけど……大分前にね、わたしも自分でエドの爪を切ろうとして、深爪しちゃったことがあるの。そしたらエドがキャインって鋭く鳴いて……その時以来ちょっと怖くなって、爪切りは獣医さんかドッグサロンの人に任せることにしてるのよ」


「じゃあ、俺が明日連れていくよ。獣病院にでもドッグサロンにでも」


「ケモノ病院じゃなくて、動物病院でしょ」


 サラはくすくす笑うのと同時に、体を起こしていた。ぐっすり眠って充電したエドは、もはやご主人さまに寝ることを許してくれそうにない。そしてギルバートのほうでもエドの物凄い「構ってアピール」に根負けし、ベッドから体を起こすことにする。


 エドはといえば、ベッドの上を気が狂ったようにぴょんぴょん跳びまわっていたし、どうやらお腹がすいてもいるのだろう。サラは階下のキッチンまで行くと、缶詰をひとつ開けることにしていた。


「俺さ……今日、このままここに泊まっていってもいいかな」


「もちろんよ。だって、明日になったらエドのことをケモノ病院にまで連れていってくれるんでしょ?」


 ここで、ふたりは再びキスした。そしてギルバートはサラを手伝って夕食の用意をし――食事のあとは、エドと一緒に風呂に入って彼の体を洗ってもやった。体を拭いたりドライヤーで乾かしたりするのはバスルームからびしょ濡れになったエドを受けとったサラの役目である。


 夜はDVDを見て気楽に過ごし(ちなみに、犬の感動作だった)、サラがバスルームから出てくるのを待って、ギルバートはまた彼女と愛しあった。そして朝になった時、部屋にいかめしい顔つきをしたエドガー・ハリントンの写真があるのに気づいて……ギルバートは笑いを堪えるのが実に大変だった。何故なら、あのやんちゃなパピヨン犬もエドと言うのだが、自分は前夫の名のついた犬と一体何をしているのだろうと、そんなことがおかしくて仕方なかったのだ。




 >>続く。








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