弟10章
何分急いでいたため、ディランは金庫の中にあったものをあまり詳しく見ることなくとにかく写真に撮りまくっていた。そして、その結果としてサイラス・モントゴメリーという名前が偽名であり、彼はアメリカのユタ州ソルトレイクシティの出身で、アリゾナ大学の医学部を卒業していることがわかった。年齢は三十六歳で、イラク戦争に従軍したのは約四年前、彼が三十二歳、脳外科専門医の認定試験に合格した年のことだった。
各国を股にかける手練れの殺し屋か傭兵……といったように見当をつけていただけに、ギルバートたちはCIAから届いたあまりにもクリーンなサイラス・モントゴメリーこと、クリス・メイソンの経歴に目を見開いていたものである。
それにまた、本人にはっきりと聞かなければわからないことではあるが、まだ一言も彼の肉声を聞いていないながらも、クリス・メイソンの性格が窺えるような資料まであった。ディランはあの時、書類の最初の数枚を、ではなく、何故あの中のものをすべて写真に撮っておかなかったのかと実に後悔したものだ。
通帳は三つあり、ふたつはアメリカの銀行のもので、もうひとつはユトランド共和国のものだった。それぞれ、二十万ドルほどの預金があり、当座はまったく何も生活に困っていないだろうことが窺える。また、机の上にはパソコン、その横には開いた医学書があったことから――メイソンはおそらく医学論文を書いていたのではないかと思われる。つまり、<ジェネラル>から命令が下った時以外はそんなふうにして普段は時間を過ごしているということだ。
クレジットカードは全部で六枚あったが、そのうちのふたつがすでに使用期限が切れている。他の四枚のうち、頻繁に使われているのは二枚、利用履歴として多いのはアマゾンで、おもにCDや本、生活用品などに使われているようだ。その他、金銭的なやりとりとしては、巨額の振り込みがあるといった経歴は一切ない。
そして、写真データとして押収したものの中で、もっとも重要だったのが、一枚の女性の写真と六枚のノートに直接書かれた日記だった。
写真の女性の名前はキャサリン・ノアクロス(と、写真の裏側に手書きで名前がある)。ブロンドに青い瞳の、知的な雰囲気の女性だった。迷彩服を身に纏っているということは、彼女もクリスと同じくイラク戦争へ従軍していたということなのだろうか?
以下は、ディランが金庫の中にあった茶封筒から取りだした日記の途中までの描写である。
>>愛しいあなたへ。
今日から、時間を見つけて日記を書くことにしました。今はなんでもデジタルの時代なので、自分でも少し変な気持ちです。
アンネ・フランクは自分の日記にキティと名づけていたそうですが、わたしはクリス、あなたに話しかけるようにしてこの日記を書いてみようと思いました。といっても、この日記をあとであなたに見せたいと思っているわけではないのです。
ただ、もし無事で帰れたら……何かの記録としても読み返せるかなと思ったし、何より暫くの間クリスに会えないと思うと寂しいから……日々の報告としてあなたに話しかけるように日記を書いてみようと思いました。
おとつい、クウェートに到着しました。気温のほうは四十度近くあります。自分のことよりも、他の兵士たちのほうが気の毒です……長い陸路を軍の車輌が砂漠の中を続いていきます。強行軍で、ほとんど不眠不休でイラク入りしました。しかも、そんな状態の中で初めての戦闘を経験し……わたしも軍医として最善を尽くしましたが、残念ながらすべての兵士を救えたというわけではありません。
あなたも知ってのとおり、わたしが従軍することになったのは、大学の医学部を卒業して医師として一人前になるまでの間――そのすべての学費を免除してもらうかわりに、陸軍病院で十八年の間働くという契約のためでした。正直、イラク軍によるスカッドミサイルの攻撃を見て以来、わたしはイラクへやって来る前の自分の直感が当たったことを、あらためて思い知りました。
クリス、あなたも湾岸戦争のことは当然知ってるでしょう?その戦力の圧倒的な違いから、バケツの中の金魚を撃つ戦争とも揶揄された、あの湾岸戦争です。あの時フセインは自分がクウェートへ侵攻しても、アメリカが実際にイラクを攻撃してくることはないと判断していたのでしょう。けれど、そうはならなかった。そして、歴史は繰り返すとはよく言ったもので、今度はアメリカが読み違えをしたのではないでしょうか。
湾岸戦争の時に、圧倒的な戦力の差を見せつけられた、アメリカと喧嘩しても被害が大きくなるだけで決して勝てない――そして、今度もまたアメリカはイラクが速やかに降伏するものと思っていた……クウェートを通った時にわかったことですが、クウェートの人たちもまた、決してわたしたちアメリカ軍を歓迎しているというわけではありません。せいぜいのところを言って、フセインよりもアメリカのほうが多少はマシ……そんなふうに思っての協力といったところなようです。
アメリカ中からかき集めにかき集められてやって来た、我々アメリカ軍ですが、あなたも知ってのとおり、従軍医師の数はどんなに頑張ってかき集めても少ないままだったのでしょう。中には自ら志願してイラクへ行くことに決めた勇敢な医師もいるようですが、わたしと同じように軍に所属している以上は仕方がない――といった医師のほうがおそらく多いに違いありません(誰もみな、口に出して言う者はありませんが)。
わたしたちは、補給部隊とともに進軍してきたのですが、最初にイラク軍から攻撃を受けてから、医師たちはずっと不眠不休で怪我をした兵士たちの治療に当たりました。不眠不休といっても、二十四時間まったく眠らずに、というわけではありません。大体一日に交代で三時間くらい眠っては仕事に戻るということを他の軍医たちと繰り返した、といった意味です。
わたしは整形外科医だったとはいえ……驚かないでくださいね、クリス。他の仲間の軍医たちは、内科医のみならず、専門が眼科や産婦人科、あるいは乳腺外科が専門だったりと、わたしのチームには実は外科を専門にしている医師は二人しかいません。
では、わたしたちは一体どうしているのでしょう?眼科医は目に腫瘍の出来た兵士がやって来るまで手持ち無沙汰に待機しているのでしょうか?産婦人科医は妊娠中のイラク人の女性のことだけを見るために従軍しているとか?そして乳腺外科医は――いえ、こんなふうに書くのは不謹慎ですね。
もちろんあなたも知ってのとおり、わたしたちはイラクへやって来る前にそうした研修プログラムを受けています。それに、専門を決めて一人前の医師となる前に、誰もがみな救急科で最低でもある一定の訓練を受け続けるのですから……乳腺外科の専門医としてキャリアが十年にもなるレオナルド・メイナード医師も、産婦人科医として七年になるアロンゾ・マンシーニも、みな勘を取り戻すのは早かったと言えます。
というよりも、最早それどころでない危急の事態が続いていますし、整形外科医のわたしでさえ、ここまでひどい外傷は見たことがない、というくらいの重症の兵士たちが次々運ばれて来るのです。今はまだ、戦火における初めての環境ということもあり、治療の流れの中に非効率的な部分もありますが、このあたりもいずれ、改善の余地のある部分については少しずつ改善されてゆくでしょう……。
わたしのかつての同僚の、ウォーレン・ウェイドのこと、あなたは覚えてますか?あれはもう一体何年前のことになるでしょう?彼は、自身の内に宿る篤い信仰心と道義心から、自らそれと望んでエルサレムの病院で働くことを志願したのです。けれど、そちらで働きはじめて半年もしないうちに帰って来ました。もちろん、わたしたちは彼がどこかに怪我をするでもなく戻ってきてくれたことが嬉しかった。中には、「大口叩いていた割に、尻尾を巻いて逃げてきたのか」とからかう人もいることにはいました。でもウォーレンは……「あそこで起きていることは僕たちの想像を絶している」とだけ言って、それ以上多くのことについては決して語りませんでした。
今、わたしはその時のウォーレンの気持ちがわかる気がしています。このイラクという戦場で起きていることは、わたしたちの想像を絶しています。そして、何故わたしたちは今の今までずっと、目を瞑り続けてきたのでしょう。ウォーレンがエルサレムへ行った時から……いえ、そのずっと以前からこのイラク戦争に繋がるようなすべての根、種といったものはそこら中に播かれており、実は9.11のような惨劇というのはいつ起きてもまったく不思議はなかったのだということに。
でもわたしも、今はただ、あなたと家族が恋しいだけの、自分の限界と脆弱さを覚える弱い人間のひとりです。クリス、わたしにはあなたが空軍の軍医であることが、せめてもの慰めかもしれません。空軍の空母のほうが、わたしたち陸軍よりも遥かに危険が少なくて安全なはずですもの。そして、わたしにはわかっています。あなたが毎日わたしのために祈っていてくれること、それにわたしのほうでも毎晩そうして眠るっていうこと……。
おやすみなさい、クリス。アメリカへ無事帰れたら、あなたと早く他愛もないようなデートがしたい。アクションが派手なだけの、くだらない映画を見て、そのあとマクドナルドでハンバーガーを食べながら、その映画を酷評するみたいな、何かそんなことをね。
――ここで、日記は途切れ、このあとの日記の続きは、かなり時が流れてからのものであることがわかる。この間、日記の書き手であるキャサリン・ノアクロスに何があったのかはわからない。ただ、出だしの描写で、一度目のイラク派遣から彼女が戻り、今度は二度目にイラクへやって来たのだろうことがわかるだけだった。
>>愛しいあなたへ。
ほんの短い間とはいえ、クリス、あなたと休暇の時期を合わせることが出来て本当に良かった。今回の二度目の派遣に、あなたは強く反対したけれど……次に戻ってきた時にはあなたと結婚するっていうことと引き換えに、ようやく承諾してくれましたね。
本当のことを言うと、もちろんわたしだって今度のバグダッド派遣はまったく気が進みませんでした。でも、陸軍には自分を立派な一人前の医師にしてくれたという恩があるし、何よりわたしと同じ気持ちで二度目にイラク入りするという兵士というのは、何もわたし一人だけというわけじゃありません。
ブッシュ大統領がなんと演説しようとも、アメリカ人はすでにみな、今回の戦争にうんざりしています。あなたにも会った時にお話ししたように、イラクの民兵たちのIEDとEFPに、わたしも含めた兵士たちはみな怯え、常に恐怖と不安と戦っています。
ああ、そして……こんなことをあらためて書くのも気が滅入るのですが、わたしがバグダッドに到着して最初の一週間くらいで、軽く百名以上のそうした兵士たちの治療に当たりました。IEDの爆発により、ある19歳の兵士は左の大腿から下を失い、別の二十三歳の軍曹はEFPによる爆傷により、利き手である右手を失い、さらには右眼を失明しました。中にはもっとひどい外傷を負った兵士たちが何十人となくいます。
最初の一週間でこの混迷した状態なのですから、今月末には一体死者と負傷者とが何百人にまで膨れ上がるのか、想像もつきません。これもまた、クリス、あなたと会った時にまったく同じことを話したと思うけれど……こうした兵士たちはみな、とても若いのです。ある部隊の兵士たちなど、平均年齢が二十三歳です。そして こうしたことというのはまったく珍しいことでもなんでもなく――わたしたちは救命第一の精神で、とにかく兵士たちの命の助かることを最優先に治療しています。
けれど、わたし自身、わからないのです。もちろん、治療の最中にある時には、兵士の命が助かるようにということと、彼らの痛みの緩和といったことしか頭にないとはいえ……でもその結果として、片腕と片足を失った状態で助かった兵士や、わたしの担当したケースでは、IEDにより両腕と両足を切断するしかないケースまであり、彼らは速やかに本国へ帰され、軍の病院で無事に治療を受けることが出来ている――という意味では、最早イラクというこの悪夢の戦場へやって来なくていいという意味では、安心かもしれません。
けれど、このたくさんの兵士たちの今後の人生はもう目茶苦茶になってしまいました。しかも、すでにこの戦争には戦うだけの価値も意味もないとみな知っているのに、それでいてなお増派によって絶望的な思いを味わうためだけに、新しくこうした若い兵士たちが送られてくるのです。わたしも、一度帰国した時に……自分が治療したこうした兵士たちのその後が気になって何度かお見舞いに行きました。
戦場では、麻酔などによってある程度痛みさえコントロール出来ている状態であれば、兵士たちは時々微笑みさえ浮かべてくれることがあります。健気にも、わたしたち治療者に精神的負担をかけまいとしてのことなのかもしれません。いえ、あるいは彼らはまだ戦場にあってある種の感覚が麻痺しており、自分の身の上に起きたことを十分に理解できていないだけなのかもしれません。実際、EFPでひどい外傷を負ったある軍曹などは、自分の片腕が一瞬で吹き飛んだというのに――自分のなくなった肘から先を間近に見ても、そのことが現実であるとはにわかには信じられなかったと言います。
でも、イラクという戦場から別の安全な病院へと移され、さらにアメリカという祖国へ帰る頃には……彼らにも実感としてわかっているはずです。自分がもう二度と亡くした腕や足を取り戻すということはないこと、内臓の機能を損傷したせいで、自覚して排尿することは二度とないだろうことや(しかもまだ、二十歳という若さなのにですよ!)、脊髄の神経を損傷したせいで、片手片足がないだけでなく、首から下が動かなくなってしまった二十五歳の上等兵や――わたしは彼らと病院で再会すると、とにかく互いに抱きあって涙を流しました。
本国への帰還と同時、家族はみんな良くしてくれる、と彼らは口を揃えて言っていました。けれど、イラクで起きたことを本当の意味で分かち合えるのは、あの地獄をともにし、同じ視線で見たことのある者だけだ、と。そしてわたしたちは何人かの兵士たちに、恐れを感じつつも、聞けそうな時には一言こう聞きました。いえ、聞かずにはいられなかったのです。「わたしや他の軍医があなたを助けたことは正しいことだったかどうか」ということを……。
そのことには一人残らず、「決まってるじゃありませんか、ドクター」と、彼らは笑顔とともに答えてくれました。その瞳に、一筋の真実の光のあったことだけが、今のわたしの心の救いです。また、わたしがお見舞いに行ったことで、それまではリハビリに対して投げやりになっていたのに、突然態度が百八十度変わったと、あとから家族にお礼を言われたこともあります。
でも、わたしが思うには……これはわたしが彼らの立場だったら、ということですが、両手や両足を失ったような状態で生き残りたかったかどうか、むしろ何故あのまま死なせてくれなかったのかと、そうとしか思えない気がして……彼らの勇敢さに励まされるとともに、ずっと迷っていた気持ちが固まりました。
クリス、あなたの「もう二度とキャシーには戦場へ戻って欲しくない」という気持ちも、わたしには痛いほどよくわかっていました。わたしも、一度は自分に嘘をつこうとしたのです。軍におけるわたしの契約義務はまだ終わってはいません。けれど、イラク行きを拒否することが出来ないというわけではありませんから……でも、わたしはあなたにそのことをどうしてもうまく説明できなかった。それで、泣きだしてしまったわたしのことをあなたは優しく抱きしめて、「わかったよ。次に君がイラクから戻ってくるまで待つ」と言ってくれたこと、とても嬉しかった。
クリス、あなたがそう言ってくれたのも――従軍医師は常に後方にいて他の前線部隊に守られているという気持ちがあったせいだとわかっています。でも、きのう――わたしたちとはまた別の部隊の医療班にいたウォーレンが迫撃砲による攻撃で亡くなったと聞きました。
自分たちと同じ軍医が死んだと聞いて、わたしだけでなく、レオもアロンゾもとても落ち込んでいます。特にわたしは、ウォーレンのことを個人的に知ってもいただけに……彼の気持ちはかつて昔、エルサレムへ行こうとした時とまったく同じ、純粋な正義と道義心、それに信仰心とに満ちてここイラクへやって来たに違いないのです。
クリス、わたしたちは間違った戦争をしています。そのことはわたしには最初からわかっていたことでした。けれど、若い兵士たちが最初にイラク入りした時は特に――みなが「イラク人の解放のために」、「イラクの人々をフセインの圧政から解放するために」と、そのような正義と道義心とに満ち満ちて、こんな地球の裏側のような砂漠の国までやって来る決意をしていたのです。
でも残念ながら……わたしたちアメリカ兵とイラクの人々との間には、とても厚い壁があるというのが現実なのです。街中のそこここにIED(即製爆弾)やEFP(自己鍛造弾)が仕掛けられていても、イラクの人々はアメリカ兵にそのことを知らせたり、あるいは不審な人物を見たと教えてくれることさえありません。
何故かわかりますか?いえ、あなたもまた今ではテレビの報道などによって、こうした現実を知っているとは思います。アメリカ兵のことを快く思っていないテロ組織、その他民兵たちがIEDやEFPを仕掛けているのですが、もしこうしたことを一般のなんの罪もないイラクの人々がアメリカ兵に知らせたとしましょう。
もしこの<密告>のことが民兵たちにバレた場合、その家は幼い子供を誘拐されて殺される、あるいは家族全員が虐殺され、その家もすべて焼かれるかもしれません。そのことをイラクの一般市民の人々はとても恐れており、アメリカ兵に話しかけられただけでも、どこかから見ている民兵に<裏切り行為>と判断されたらと、彼らはそのことを恐れているがゆえに、わたしたちアメリカ兵に心を許す、協力的な態度を取るということがどうしても出来ないのです……。
ここには、砂煙と土煙と悪臭、およそそんなものしかありません。アロンゾもレオも、他の医師たちも――本国にいた頃には、そう「Fuck××!!」という言葉を口にすることはなかったはずです。けれど、ここではすべてが「Fuck」です。むしろ、それ以上にすべてが最悪の状態であり、そのような環境なのです。
そして、そのことを重々承知していながら戻ってきたはずなのに……ウォーレンの死には、流石のわたしも打ちのめされました。でも、唯一最後にクリス、あなたのことを心に思い浮かべると、この最悪の世界にもまだ僅かながら微かに希望というものが残っていると信じることが出来ます。
到着してまだ、半月にもならないのに、こんな精神状態です。前線の兵士たちはわたしよりもさらにつらくキツく厳しい中で戦い続けているというのに……でも、この地獄の砂漠の国から次こそ帰還した時には、あなたの花嫁として幸せになれると思って、残りの十一か月の期間をどうにか耐え忍ぼうと思っています。
愛しています、クリス。いつだったか、かなり前に――毒ガス・生物兵器警報が流れて、早朝に叩き起こされたあと……砂丘の上からみんなで美しい夜明けの星を見たことがありました。とても美しかった。その時、あなたもここにいてくれたらと、その時だけ何故か思ったことを、きのうふと思いだしました。
心からの愛をこめて、最愛のクリス・メイソンへ。
キャサリン・ノアクロス
――この日記はノート六枚分に書かれ、(おそらく)まだ続きがあった。だが、ここまでのことだけでも、色々とわかることが十分にある。調べるまでもなく、彼女はおそらくこのイラク戦争で死んだのだのだろう。だが、そのことと今クリス・メイソンがユトレイシア共和国にいて、ブラックバイパー社の開発部に何故籍など置いているのかという、その関連性については謎のままだ。
そして、このキャサリン・ノアクロスという女性については、CIAへ問い合わせる前に、インターネットに名前を入れただけで、経歴のほうがある程度わかった。クリス・メイソンと同じ出身で、アリゾナの医学部を卒業している。年齢はメイソンのひとつ上の(生きていれば)三十七歳。また、イラク従軍中に死亡とあるが、彼女がまだ存命中に更新していたSNSがあり、そちらは彼女に対する哀悼の言葉で満ちていた。
「従軍中に敵に捕えられ、そのまま死亡とウィキぺディアにはありますが……どうやら、イスラム兵に拷問されたりレイプされた痕跡が遺体に残っていたということで――アメリカではイラク戦争の聖女のように今では思われているようですね」
ディランのパソコンを覗きこんだあと、他のギルバートとトミー、ルークとは、すっかり疲れたというように、それぞれ自分の椅子に座り直していた。
「……一体あのクリス・メイソンって男、なんで今こんなことになってるんでしょうね?」
「それはきっと、こういうことじゃないか?」と、トミーに答えてギルバート。「おそらく、彼自身は空母の中で軍医として待機していたってことなんだろうから……自分の恋人が陸地でそんなことになっているとも知らないでいたことが許せなかった。だが、そこから<ジェネラル>へと続く線がまだ見えない」
「これは、わたしの想像の域を出ないことではありますがね」と、ルーク。「声をかけてきたのはおそらく、<ジェネラル>のほうなのではないでしょうか。ジム・クロウの時がちょうどそうだったように……<ジェネラル>、あるいは彼個人でなくても、彼の組織側の人間の誰かが――メイソンの医者としての有能さを見てとり、その復讐心を利用して組織の内側へと引っ張りこんだ……そんなところなのではないでしょうか」
「そうだな。ある程度腕のある医者というのは、裏の世界でも重宝されるものだろうからな。<アストレイシア墓地>で襲われた時には、ヘリの操縦者はきっと、ここにいる全員を殺しても良心の痛まぬような殺し屋に違いないと思っていたのに……こうなってみるとなんとなくわかる気がする。クリス・メイソンはジム・クロウを始末するためには、巻き添えを食う人間がいても仕方がないというように命じられたはずなのに、医者の彼にはやはり出来なかったんじゃないか?ジム・クロウについてはおそらく死んだほうが世の中の良くなるマフィアのボスと聞かされていただろうが、彼ひとりを確実に仕留めるというのは、あの場合は非常に難しかったろう。つまり、彼が本物の殺し屋であったなら、ここにいる何人か、あるいは全員が負傷するなり命を落とすかしていたかもしれない」
ここで四人は暫くの間沈思黙考した。<ジェネラル>の正体を暴くために、次なる一手をどう打つべきかとそれぞれが考える。そして、最初に口を切ったのがディランだった。
「彼がもし、<ジェネラル>のことを何も知らなかったとしても、出来れば彼を味方につけたい」
「俺もそのことを考えていた」と、トミー。「それに本人だって犯罪組織の闇医者になるなんて絶対本位じゃないだろう。今は復讐心から目が曇っているのだとしても、そんな生き方は亡くなったキャサリン・ノアクロスだって望んじゃいないさ」
「…………………」
ギルバートとルークは黙っていた。思いはディランとトミーと一緒だったが、かといってクリス・メイソンのことを助けるのにいい作戦というのが何も浮かんでこない。
「それで、エレベーターのところで顔を見られて、向こうに気づかれたみたいなんだろ?」
「ああ、たぶん……」と、トミーがギルバートに答える。「だけど、わかんないよな。俺たちのほうにやましいことがあったから余計にそう感じたってだけかもしれないし」
「そうだな。<アストレイシア墓地>で顔を見られたといっても、向こうだってジム・クロウを狙うのに必死だっただろうし――そう考えた場合、俺たちふたりに本当に気づいたかどうかっていうのは100%絶対そうだとは言えないな」
少し考えたのち、ギルバートがこう英断を下す。
「とにかく、この場合動くのに早いにこしたことはない。俺はこれから長官に許可を取ってクリス・メイソンの捕獲ユニットを組もうと思う。だが、中は確認していないものの、大きな金庫のほうには武器類か銃器類が入ってるんじゃないかということだったな?」
「ほぼ間違いなくそうだと思う」と、ディラン。「それも、銃を一丁二丁隠し持っているといった大きさじゃない。大体ライフルが入るくらいの大きさだったが……」
ここでディランがハッとする。もちろん、トミーやルークも。
「そんなものを、彼は何故持っているんだ?護身用ということであれば、ライフルまでは必要ないはずだ」
「そうですね。仮に猟が趣味だったのだとしても――この場合は他に何か目的があると考えたほうがいいでしょう」
ルークは隣のギルバートのことを意味ありげに見やる。
「そもそも、彼は何故ユトレイシアへやって来たんだ?恋人が死んだその復讐……だが、そういう意味では敵はユトランド共和国にではなく、アメリカのワシントンにいるんじゃないのか?」
ここで、ギルバートはトミーとディランにクリス・メイソンがユトランド共和国へ渡ってきた理由を調べるように命じ、ルークにはユトランド共和国内における軍複合企業についてあらためて調査してもらうことにした。特にルークには、ギルバートが細かく指示など与えなくても、自分の上司が何を言いたいかを彼はよく理解していたといえる。
ギルバート自身はリグビー長官から許可を得たあと、クリス・メイソンを自宅で捕獲するためのユニットを組み、こちらは秘密特殊部隊に動いてもらうということになった。クリス・メイソンをどんな理由で捕まえなくてはならないのか、理由を知らされずとも、彼らであればそのことが最終的に国家の益となると信じ、迅速に任務に当たってくれるはずである。
一方、トミーとディランはクリス・メイソンが恋人のキャサリン・ノアクロスの死亡が確認された翌年に退役し、その後彼が医師として勤めていた病院へ戻りもせずにユトランド共和国へ渡ってきたことを知った。このことの内にはおそらく、かなりはっきりとした動機があったはずである。それが一体なんだったのか……ふたりがブラックバイパー社にその目的や理由を求めようとしていると、「これを見てください」と、ルークがふたりに向かってパソコンの画面を向ける。
「ブラックバイパー社はイラク戦争時、相当儲けたようですね。オーナーのケビン・キングリッチは、軍事産業だけでなく、金融、IT、石油産業などでも大きく事業展開しており、特に石油産業のことではアラブ諸国と太いパイプを築いています。ここからはまだ、わたしの推測の域を出ないことではありますが……ブラックバイパー社は毎年多額の政治資金を政治家たちに献金しています。そこで、莫大な利益を得るために――こう言ってはなんですが、果たしてそれが本当に必要なのかどうかわからない戦闘機まで製造し、国民の血税を無駄に使っているのですよ。ところで、ここにアメリカから追われるようにしてやって来たひとりの男がいます。彼――ジョン・キーナムは、キャサリン・ノアクロスが捕虜として囚われていた時、大きなミスを犯しました。キーナムは上院議員のジョサイア・キーナムの息子ですが、イラクで捕虜となっている兵が多数いるにも関わらず、アラブ人を排斥するような運動を大々的に展開したのですよ。ユーチューブにそういった類の派手な動画を作成してはアップロードし、その再生回数のほうは毎回一日で軽く百万PVを越えたそうです。本人は愛国心を煽るためにそのような行動に出ていたそうですが、テレビでも相当派手に吠えていましたからね。ですがその後、イラクから生物・化学兵器など一切見つからず、彼がその手のことをテレビで流暢にしゃべったことが原因で捕虜の一人が首を切られて死んだことから……今度は随分非難が集中し、海外へ逃亡することになったわけです」
「俺も知ってるぜ、そいつ」
ルークがパソコンの画面に出したジョン・キーナムの顔写真を見ながらトミーが言う。
「なんといってもアメリカが世界のナンバーワンで、アラブ人なんていうのはそもそも二流……いや、二流どころか三流か四流の国民だとか、アメリカからイスラム教徒を追いだすべきだとか、戦争が起きたばかりの頃はそれでも、彼を支持する人間っていうのが結構いたんだよな。父親のジョサイア・キーナムは立場上、自分は息子の持つ意見と同意見ではないとかなんとか弁解していたが、実際はこいつもクー・クラックス・クランばりの人種差別主義者でな。ようするに白人至上主義なんだ。「彼はよほどのことでもなければ黒人とは握手さえしようとしないような人間でした」と、高校や大学のクラスメイトなんかが証言しているらしい。まあ、父親のほうは今も上院議員としての立場を保っているが、ドラ息子のほうはユトランド共和国の母方の親戚が経営する軍事企業に重役の椅子を得たというわけだ」
ジョン・キーナムの顔写真の横にある、彼の経歴を読みながらトミーは溜息を着く。なんとも生意気そうな三十四歳の男の顔がそこにはあるが、まるで俳優のような容貌をしているだけに……彼のナイトライフのほうはアメリカでと同様にここユトランド共和国でも変わらず華やかであろうと思われる。
「だが、こんな馬鹿な男のせいで恋人が死ぬことになったのだとしても――クリス・メイソンは賢い男だ。こんな小物を殺したところでなんになるとしか思わないんじゃないか?彼がもしライフルで狙撃するとしたら……きっともっと大物だ。そしてそいつは<ジェネラル>にとっても邪魔な人物だという点でお互いに利害が一致している、といったところか?」
「いえ、今の段階では我々にはこんなところまでしかわからないにしても……これからさらに調査の手を伸ばして調べていけば――また新たにわかってくることが色々あるはずです」
トミーとディランとルークの三人は、その方向性で手分けして情報を精査しはじめたわけだが、ギルバートは秘密特殊部隊のユニットとこの夜、クリス・メイソンのマンションへ侵入するための綿密な計画を立てていたにも関わらず……その直前にクリス・メイソンは突如として雲隠れしてしまったのであった。
>>続く。




