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第1章

 ギルバート・コナーは、ユトランド共和国の秘密情報部(Secret Intelligence Service)――通称、USIS――で働く情報分析次官だった。三十六歳の今になるまで、中国、ロシア、アフガニスタンにイラクと、なかなかに過酷な任務をこなし、アフガニスタンに二年、イラクに一年滞在したのち、ようやくのことで本国へ戻って来たのだった。


 彼の父親は長く軍部にいて順調に出世したのち、今は首府ユトレイシアにある国防総省で上から三番目の地位にいる(いわゆる「制服組」というヤツである)。もっとも、ギルバート自身は幼い頃からあまり情愛を感じたことのないこの父の職業と、今の自分の職業を選ぶに至った経緯の間には、さして関連性はないように考えていた。


 というのも彼は、ユトランド共和国でもっとも伝統があり、将来の国の重役を担うエリートが集うと言われる私立校――フェザーライル校へ十二歳の頃入学し、高校を卒業後は、ユトレイシア大学へとストレートで合格した。彼は国のトップ大学に四年在籍中、特にこれといって将来に目標があるでもなく、テニスとコンパに明け暮れて過ごした。その後、さて、大学院へ進むかどうか……と迷っていたところ、USISのリクルーター(就職担当者)に大学のキャンパス内でスカウトされたのである。


 もちろんこのリクルーターは、ギルバートの生育歴や大学での四年間の成績や交友関係など、すべて調査したのち、彼に声をかけてきたのである。だが、当のギルバートにしてみれば、もしや友人のドッキリか、新手の詐欺商法だろうかなどと、当然疑ってかかったものである。


「毎年、国のトップ五大学をまわって、まあその内の数人に声をかけるんだ。何分特殊な仕事だからね、単に成績だけ良ければいいかといえば、そういうわけにもいかず……その点、コナー君、きみは実に面白いと思った。まあ、簡単にいえば秘密情報部の諜報員に向いていると全体として直感したのだよ」


「へえ……」


 大学横丁にある古い喫茶店で、アイスコーヒーを奢ってもらいながら、ギルバートはぼんやりそう返事していた。友人たちはみな次々と一流企業や官公庁などに就職が決まっていたが、ギルバートだけがいまだろくな就職活動もせず、毎日後輩たちとテニスばかりしていたものだ。


「その、びっくりしました。そんな国の秘密の中枢を担う極秘機関が、割とこんな大っぴらに学生に身分を明かして声をかけるものなんですね。もし仮に俺が『今日オレ、USISのリクルーターに声をかけられちゃってさあ』って吹聴してまわったり、ネットに何か書き込んだりしても問題ないんですか?」


「別に特にこれといって問題はないさ。何分現場は常に人員不足でね。ひとりの情報分析官を育てるのもなかなか大変だし、自分はこの仕事に向いてないと思ってすぐやめてしまう者も多い。まず、USISの分析官になるには、最低でもIQ120以上の知能が求められるし、そのくらいの人物というのはね、他のもっと効率よくお金を稼げる職業を選んでしまうということで、こんなふうに我々リクルーターが大学をまわって歩いたりするというわけなんだ」


「………………」


 自分の質問したことに、正確に返答してもらったわけではないが、なんにしてもギルバートはこの時、命の危険を伴うこともあるだろう仕事に強く惹かれるものを感じた。もっとも、映画の007に対するような憧れはギルバートにはまったくない。というより、実際に現実のUSISの情報分析官の仕事というのは……心身ともに消耗の激しいキツい仕事だろうことは、彼にも容易に想像がついた。


「それで、あなたが俺に声をかけてきたのは……俺の父親の職業も関係あったりするんですか?」


「いや、その点はあまり関係はないかな。だがまあ、君の成績やテニスのプレイ、AIを相手にチェスで勝てる頭脳の明晰さ……そうした人間総合力を見て声をかけることにしたわけだが、それでもお父上が陸軍上層部の出世を約束されたエリートであり、政財界にご友人も多く、現大統領とも親友ときた日には――コナー君、きみは滅多にいない逸材といっていいのかもしれないな」


「でも、なんだかそれだと少し変ですね。ここユトレイシア大学には、俺なんかじゃなくてももっと成績のいい奴がいるし、交友関係の広い好人物がもっと他にたくさんいそうなもんですがね。だってそうでしょう?俺、フェザーライル校時代までは結構勉強がんばってましたけど……一旦国の最高学府に入れてからは、成績のほうも中の下といったところでしたし、政治経済学の論文のほうも、そんな真新しいようなことは何も書いてなく、昔誰かが書いたことあるような、手垢のつきまくった二流のレポートをいつも提出してましたからね。どうせスカウトするんなら、俺よりもっと優秀な人格者がこの大学にはゴロゴロしてそうなもんだと思うんですが」


 男は、四十代半ばの、四角四面という言葉がいかにも似合う真面目そうな人物で――ギルバートが何か軽い冗談を言っても笑いそうになかったが、この時少しばかり頬の筋肉を緩めていたかもしれない。


「秘密情報部の職員の適性は、単にIQが高いとかいうよりも、柔軟性、頭の柔らかさということが非常に重要なんですよ。その点、あなたは友人やこれまでにつきあったガールフレンドの数も多く、部の後輩からも慕われている……IQが120以上にもなると、自分が専門としている学問のことにしか興味がなかったり、人づきあいの苦手な変人なども多いですからね。総合的に鑑みてコナー君、きみはこの職業に適性があるのではないかと、そう私は判断したわけですよ」


 ――こういった話運びにより、ギルバートはUSISの情報分析官になることを決め、大学院へ進むための試験は受けないことにした。二年、軍隊並みの厳しい訓練を専門機関で受けたのち、ギルバートの情報分析官としての初任地は中国に決まった。中国語や上海語や広東語を学び、主に中国政府が持つ株などの経済の流れ、政府役人や軍内部の動向を探り……まあ、簡単にいえば、アメリカのCIAなどに『取引』として売れる情報がないかと、探りを入れては報告書にまとめて本部へ送るということをギルバートは四年ほど続けた。


 表面上は、株のトレーダーとして働いているということになっており、上海や北京、あるいは香港などの快適な高級マンションで何不自由なく暮らしていたし、彼はアジアでのこの初仕事に真面目に取り組み、いくつかの重要な人脈と中国政府の表には出されては困る政治的情報も手中に収めるに至った。が、その後ロシアのモスクワ及びサンクトペテルブルクに計五年務め、今度はロシア政府内部の汚職の数々と、チェチェンやウクライナやグルジアなど、ロシア政府が裏でどのような形で手を回しているかを探る過程で……FSB(ロシア連邦保安庁)に危うく捕まりそうになるといった命の危険もあった。だが、ギルバート自身は中国での活動よりもロシアでの諜報活動のほうがよりやり甲斐があると感じていたものである。


 その後、戦争が泥沼化しているアフガニスタン・イラク勤務をそれぞれ二年と一年務めたのち、ギルバートは命からがらようやくのことで祖国ユトランドへ戻ってきた。そしてこの時彼は三十四歳にしてそれまでの功績が認められ、秘密情報分析部の情報担当局長に昇進することが出来ていたのである。


 何分、アフガニスタン・イラク勤務では命の危険と隣合わせだったこともあり――生来が港々に愛人がいる……といった遊び人の彼ではあったが、この時真面目にひとりの女性とつきあい、結婚するということを考え、実際に帰国後一年もしないうちに結婚した。相手は大学時代の友人に紹介してもらった女性で、彼のほうで彼女に惚れこんだというよりも、女性のほうが熱を上げる形ですっかりギルバートは気に入られ、キャサリン・ガードナーという自分よりひとつ年上の、モデルをしていた女性と結婚することになった。


 だが、残念ながら幸せな時は長くは続かず、キャサリンが妊娠中にギルバートが他の女性と関係を持ったことで大喧嘩となり――キャリントンと名づけられた娘が生まれた約八か月後、彼らの間には正式に離婚が成立していた。正直なところをいって、ギルバートはなんとかしてこの結婚生活を続けたいという気持ちがあったし、妻のほうで不貞に対し怒っていたにしても、いずれは許してくれるだろうとの<読みの甘さ>があった。


 けれど、最終的に彼が何故妻の求める離婚に同意したのかといえば……ある日家に帰ってみると、妻のキャサリンが食用の昆虫を食べていたから、というのがその直接の理由だったといえる。



   *   *   *   *   *   *   *


(「離婚した理由はなんですか?」ってよく聞かれるけど……まさか言えないよな。妊娠中に浮気したのは確かに俺だが、その後妻の嫌がらせがエスカレートして、最後には虫まで食ってたのが離婚の原因だなんて……)


 キャサリンはもともと、美人であるだけでなく、聡明な頭のいい女性だった。大学は、一般にユトランド国内で三番目に良いとされるカークランド大卒。大学在籍中からすでにモデルとして活躍していたが、所属していたチア部のほうでもとても目立つ存在だったという。いや、こう言うと何やらギルバートが彼女を容姿と経歴によってのみ結婚相手として選んだように聞こえるかもしれない。だが、普段から(心の中で)「馬鹿な女ほど可愛い」と密かに思っている彼としては、つきあう女性の学歴や大学内での存在感の有無などは、どうでもいいようなことだったといえる。


 とにかく、自分のことを一番に愛してくれて、子供が生まれたあとは家庭を優しく守ってくれる女性……ギルバートが求めていたのはそうした女性だった。何分、当時は戦地帰りで心身ともに弱りきっており、ギルバートのほうでもそう贅沢な条件を出そうと思ってなかったにも関わらず……気を利かせた友人が、素晴らしい上玉の女性を紹介してくれたというわけだった。


 もともと、女性に好かれやすい性質のギルバートではあったが、まさか出会って二か月でスピード婚に至るとは思ってなかったかもしれない。また、そのように交際が深まる前に結婚を決めたことが、結婚後二年とせずに離婚に至った原因だろう――と思う人も多いに違いない。


 だが、ギルバートは思う。もしあのあと二年つきあってのち結婚したとしても……おそらく結果は同じだったろうと。確かに彼は妻以外の女性と関係を持った。そのことはギルバートも悪いと思ってはいる。だが、国の秘密情報部に務める夫の動向を探るため、彼の妻はあろうことか、興信所で探偵を雇ったのだ!


 結果として、この探偵はそのことが原因で死んだ。もちろん、ギルバートが殺したわけではない。ユトレイシアには、国の高官など、極限られた人々だけが通うことの出来る、会員制の高級娼婦クラブがある。ちなみに、ギルバートの父はここの会員ではないが、ギルは知りあいのツテを頼ってここへ通うようになり――結婚後も時々利用するつもりでいた。無論、彼には『妻には絶対バレない』との自信があったわけだが、国の高官相手の高級娼婦クラブの存在を知るに至った探偵は、そのことが原因で死亡することになったのである。


『あなたが彼を殺したの!?』


 ある日、家に帰ってみると、妻にそう怒鳴られてギルバートは驚いた。なんのことだか、まったく見当がつかなかったからだ。


『彼って、誰のことだ?』


『とぼけないでよ!この浮気のサイテー野郎!!ずっとわたしのこと騙してきたんじゃないっ。「浮気してるでしょ?」、「いや、してない」、「浮気したでしょ?」、「おまえの気のせいだよ」……ずっと、わたしか妊娠してるから気が立ってるんだろうとか、家にばかりいるから神経がピリピリするんだろうとかなんとか……あんたの嘘はもうたくさんよっ。ほらっ、すっかり白状したらどう!?証拠はすっかりあがってるのに、往生際が悪いったら!!』


 ここまで妻に問い詰められても、ギルバートのほうでは冷静そのものだった。彼は一般女性を相手に浮気しているわけではなかったし、何分、彼の利用している高級娼婦クラブ自体、その存在があることすら、自分の口で言うつもりはなかったからである(ようするに彼はこの時も、シラを切り続ければどうにかなると思っていた)。


『それで、その証拠とやらはどこに?』


 ギルバートが書類や写真の類を求めるように、片手ではネクタイを緩めながら、もう片方の手で妻に手を伸ばすと、キャサリンは夫の手を突っぱねていたものだ。


『わかってるくせに……っ。探偵の話じゃあね、あなたのこと調べはじめてから、週に二回くらいはそこに通ってるってことだったわ。ただ、見た目は高級マンションでも、特定の女性がいてそこに通ってるわけじゃなさそうだって。ようするに、プロの娼婦が相手なんだろうから、証拠写真なんかを撮ることは難しいって話。だけど、そこに行ったきり、軽く八時間はそこから出てこなかったりする以上――ねえ、これ以上のことは何も説明する必要ないんじゃなくて?』


『…………………』


 ここまでなら、ギルバートにしてもいくらでも言い逃れが可能だった。知り合いに部屋の一室を貸してもらっており、浮気などは一切してないが、時々ひとりになりたくなるのだとか、あるいは仕事の関係でそのマンションに実は出入りしていた……など、誤魔化しようはいくらでもある。


 だが、自分を尾けていた探偵が死亡したとあっては話が別だった。国の秘密情報部に務める人間が、探偵の尾行に気づかなかったのが問題だといっているのではない。いや、多少はそれもあるが、ギルバートにはすぐにわかっていた。間違いなくその男は、高級娼婦クラブを経営している人物に不審を察知され、雇われた殺し屋に消されたに違いないのだ。


『おまえ、自分が何をしたかわかってるのか?』


 いつもとは違い、妻が自分の子を妊娠しているのも忘れ、この時のギルバートの口調は冷淡だった。いや、キャサリンが妊娠して以降、彼にしても随分妻に対しては気を遣っていた。実は浮気しているといううしろめたさからではない。実際、妊娠初期の頃からキャサリンはつわりがひどく、しかもこれだけ医療の発達した現代で、つわりの治療法はないと医者に言われた時、彼自身とても驚いたものだ。


 そのようなわけで、ギルバートなりにこれまでずっとどんなことでも妻に譲歩し、色々と心を砕いて優しくしてきたつもりだった。だが、そのずっと抑圧されてきたストレスが、もしかしたらこの時、機会を得て爆発してしまったのかもしれない。


『その探偵がもし死んだのなら、それは俺のせいじゃない。おまえが夫のことを信用せず、あれこれ嗅ぎまわらせるような真似をしたから――それでそいつは死んだんだ。言い方を変えれば、キャサリン、おまえが殺したのだと言っても過言じゃないかもしれないな』


『…………………っ!!』


 普段は気の強いキャサリンも、この時には流石に黙りこんだ。夫婦の寝室の前を通りかかった時、彼女は泣いていたが、ギルバートは妻にかける言葉を持たなかった。この時、ケイトリンは妊娠八か月で――とにかく子供さえ無事生まれてくれれば、すべては元のとおりになるだろうとギルバートは思っていたのである。


 だが、キャサリンはこの夜以降、実家へ帰るとギルバートとの連絡を断った。もちろん彼は仕事の合間にもキャサリンの実家へ何度も電話した。そして妻のかわりに彼女の母親が何度も「ごめんなさいね」とあやまってくれたものだ。


『ギル、あなたが悪いってわけじゃないってこと、わたしたちにもわかってるから、その点は安心してちょうだい。ほら、あの子ってもともとああいう子でしょ?小さい頃から勉強もよく出来たもんだから、わたしたちもつい甘やかして育ててしまったけど……生来からして我が儘な子なのよ。キャシーはあなたの顔なんて見たくないって今は言ってるけど、子供が生まれるまであと一か月だもの。そのあとでなら、またコロッと変わると思うわ。だって、わたしもそうだったもの。キャシーは三人兄弟の真ん中だけど、わたしが上のお姉ちゃんを出産した時には……』


 ――いつもなら、おしゃべり好きで、意味もなく長話したがるキャシーの母親の話を、ギルバートもある程度のところでかわすようにしている。けれどこの時は、パソコンで報告書を作成しながら彼女の長話に根気強くつきあい、結果、彼自身がもっとも望む言葉を義母より引き出すことに成功したのだった。


『そう。わかったわ。浮気はあの子の早合点なのね。それで妊娠中だと思ってギル、あなたも随分色々我慢してきたけど、あろうことか国の秘密情報部に務める夫に探偵をつけたと聞いて……つい腹が立ったのね。ううん、違う!違うのよ。ギル、あなたの言い分のほうが正しいわ。あの子にはわたしのほうからよく言って聞かせるから、大丈夫。それでね、家のほうにも戻るようわたしとケネディのふたりで説得するから、あなたは仕事に集中してちょうだい。まったくもう、首都の一等地に現金でぽんと家を買えるくらいの稼ぎのある夫を疑うだなんてねえ。馬鹿な子よ。ええ、ええ。夫は昔からあの子に甘かったからどうかわからないけど、とにかくわたしはあなたの味方ですからね、ギル』


 だが、結局のところ無事キャリントンを出産するまで――キャサリンは実家から戻って来なかった。そしてそのまま離婚すると言って聞かない彼女のことをギルバートが迎えにいき……父のケネディと母のヴァネッサから「もうこれ以上おまえを家に置くつもりはない」と言い渡されたことで、彼女はようやく夫の元へ戻ってきたのだった。


 その後、暫くの間(といってもほんの三か月ほど)、赤ん坊に対する無償の可愛さもあり、キャサリンとギルバートの仲はとてもうまくいった。妻より出産の立ちあいを拒まれていたギルバートではあったが、病院のほうへは毎日通って娘に会いにいった。娘というものがこんなに可愛いものだとは、ギルバート自身想像してみたこともなかった。もしかしたら今でもギルバートが妻のキャサリンにもっとも感謝していることといえば、このことかもしれない。突然世界観が変わり、少し大袈裟な言い方をしたとすれば、人類皆兄弟とでもいうのだろうか。すべての人がこのような経験を通して生まれてきたのだと思うと、<命>というものに対する考え方が、彼の中でそれまでより一層深くなったように感じたものだ。


 だが、ギルバートが娘可愛さのために毎日なるべく早く帰るようになって三か月が過ぎた頃、キャサリンは突然こんなことを言いだした。娘のキャリントンがすぐ隣の部屋で寝ていて、夫婦ふたりで食事していた時のことだ。


『ねえ、あなた。いいかげん浮気したってお認めになったらどう?』


 もうその話は忘れ去られたものと思っていたギルバートは、当然、不機嫌な顔になった。


『お義母さんから聞かなかったのか?俺は最初から浮気なんかしてない。おまえの早合点だよ。あのマンションだって、出入りしていたのは仕事の関係からさ。詳しいことは、仕事の機密に関わることだから言えないけどな』


『へええー。そうなのー。ま、そういうことにしておいてあげてもいいけど……』


 この時、キャサリンが『それにしてもまた白々しい嘘を』とでもいように、ぐるっと目をまわしたことで――食事の途中ではあったが、ギルバートは席を立とうとした。そんな彼の背中に、キャサリンがなおも声を投げかける。


『なるべく早くお認めになったほうがあなたのためよ、ギルバート。わたし、あなたが浮気したって認めて、誠意をこめてわたしにあやまってくださらない限り……あなたのために食事なんて金輪際作るつもりはありませんから、そのつもりでいて』


『…………………』


 とはいえ、この次の日の朝は、きちんとパンやシリアルやオムレツといった食事が用意されていたため――ギルバートはキャサリンのこの不気味な宣言をあまり気にしなかった。


 だが、この日の夜、いつもとは違って確かに食卓の上にはひとつの皿もありはしなかった。もともと彼は仕事の関係で帰ってくる時間が遅いし、そのまま秘密情報部の本部のほうで仮眠をとって仕事をすることも多かったから、ギルバートはこのことも気にはしなかった。


 また、この時以降、彼が唯一気にしたのは、次のことである。キャサリンが再び浮気のことを蒸し返すようになったのは……確かにこの前日、またしても例の高級娼婦クラブにギルバートが行って以降のことなのだ。だがもう、ギルバートには『絶対にバレない』との自信があったため、何故わかったのかと、そのことが不思議だったのだ。


 妻がまたしても探偵やその手の類の何かを雇ったというのは考えにくい。また、キャサリンの父のケネディ・ガードナーも元軍人だが、そのような場所を利用できるほどクラスが高くないため、他に情報が漏洩する可能性もない。となると、何故妻のキャサリンには夫が他の女性と交渉を持ったとわかったのだろうか?


 一応、ギルバートなりに気を遣い、背広等に香水や化粧品の匂いが残らないよう気をつけているし、女性の口紅の跡なり長い髪の毛がありえない場所に付着しているといったこともないはずだった。それなのに何故キャサリンにはわかるのか?――言ってみれば、最終的な答えはひとつだった。ようするにそれは、いわゆる<女の勘>というやつである。


 だが無論、言うまでもなくギルバートは「浮気などしていない」とシラを切り続けた。キャサリンのほうは、「相手がプロの娼婦だから浮気じゃないって言いたいわけ!?」と詰め寄り、さらには彼が娘のキャリントンに触れようとすると……「他の女とやった汚い手でこの子に触らないでよ!!」と、苛立ちも露わに夫の体を突き飛ばすという始末だった。


 こうして彼がローンも組まず現金で購入した豪邸は、帰ってきても心の休まらない、『地獄というのはもしや、自分の家庭の別名なのか?』と自問する以外にない場所へとだんだん様変わりしていったのである。


 妻は口を開けば<浮気>の二文字しか口にしないし、テレビを見ていて有名人の誰それに不倫疑惑があるだのいう報道があると、二言目には『どっかの誰かさんみたい』とか、あるいは娘のキャリントンに『浮気する人ってサイテーでちゅねー。キャリーちゃんはそんな男の人と結婚しちゃダメでちゅよー。あばばー』などと言いだす始末だった。


 ――あとにしてみると、ギルバートも機会を見て『わかったよ!そうだよ。俺は浮気したよ』と認めておいたら良かったのかもしれない。もちろん、認めたら認めたで、認めていなかった時とは別の地獄が待ち受けてはいたろう。だがもしかしたら、離婚するという最悪の事態だけは回避できていたかもしれないのだ。


 お互いに意地を張りあい、『浮気した!』、『いや、してない!』という奇妙な攻防戦が長く続いたある日のこと……キャサリンはリビングで子供をあやしながら何かを食べていた。最初、ギルバートはそのことを特になんとも思っていなかった。というのも、キャサリンは元モデルというだけあって、つきあっていた頃から食事のことについてはうるさかったからだ。妊娠中もそのことはとても気にしていたようで、ギルバートにしても随分感心したものだったが――まさか彼女がいも虫スナックを食べているとまでは、気づくことが出来なかったのである。


 そしてこの日の夕食時、久しぶりに珍しくちゃんとした料理が出てきた。彼の大好きなぺペロンチーノにミネストローネ、マッシュポテトやサラダなどなど……いつもは嫌味をこめてか、インスタントのカップラーメンや非常食の缶詰がひとつ置いてあるきりなだけに、この時ギルバートは妻もとうとう疲れてへそを曲げるのをやめたのだろうと早合点してしまったのだ。


『キャリーは隣の部屋で寝てるのかい?あとで、母さんに送るのに写真撮ってもいいかな?おまえはさ、気を遣うから俺の母さんにはあまり来てもらいたくないなんて言ったけど……母さんもキャリーに会いたがってるし、もう少し考えてもらえると助かるよ』


 実をいうとこの頃、ギルバートは妻キャサリンの許可がなければ、娘に接近することさえきつく禁じられていた。しかも抱っこする際にも、しっかり手を洗って消毒してからでなければ、可愛いキャリーには指一本触れることが出来なかった。


『そうね。あなたのお母さん、前に生まれたばかりの頃に会いに来て……もう赤ん坊になんて三十何年も触ってないわ!なんて言って、大変なはしゃぎようだったものね。あの時はわたしも、育児疲れでナーバスになってたものだから、「キャリーはまだ首がすわってないんだから、変な抱っこの仕方しないで!」なんて、つい心の中で思っちゃったけど……そうよね。あなたはうちと違ってひとり息子だから、キャリントンが初めての孫なんですものね。そりゃもう、可愛いことでしょうよ。うちなんか、上の姉さんにも下の弟にも、もうそれぞれ三人ずつ子どもがいるから、わたしがこの子を生んでも『あっそう』って感じだったけどね』


『そんなことはないよ。お義母さんだって、「こんな可愛い赤ん坊は見たことがない」って言ってたじゃないか。親の欲目と言われればそれまでだけど、実際俺も病院のベッドにいたどの赤ん坊よりもキャリーが一番可愛いと思った。あの子は本当に特別な子だよ。将来はきっとキャシーに似て美人になるだろうな。だけどもし、あの子とつきあいたいなんていう男が現れたとしたら……』


 ギルバートが何気なくここまで話した時――彼はなんとなく目の前の妻に対して、「変だな」と感じた。彼女の前にも、ランチョンマットに彼のと同じいくつかの皿が並んでいる。ぺペロンチーノの皿にミネストローネの入った皿、他にパンやマッシュポテト、サラダののった皿など……けれど、キャサリンはシャンパングラスに入れたミネラルウォーターしか飲んではいない。


 そしてただ、何かの興味深い観察対象でも眺めるように、あるいはモデルの仕事をしていた時のように美しい笑みを浮かべ、夫のことを優しく、どこか慈悲深い眼差しで眺めているのだった。


『おまえ、一体どうかしたのかい?もしかして、何かいいことでもあったとか……』


 ギルバートはフォークにぺペロンチーノを絡ませるのをやめると、一度ナプキンで口許を拭った。なんだか、恋人同士になったばかりの頃の熱愛期間が戻ってきたのだろうかと、彼自身錯覚しそうなくらいだった。実際、以前はこうした優しげな目でキャサリンは自分のことを見つめてくれたものだ。


『ねえ、あなた。わたしが昔……まだつきあいはじめたばかりの頃、ぺペロンチーノなんて貧乏人の食べるパスタだって言ったら、怒ったことがあったわよね。自分は大学時代、毎日ぺペロンチーノばっかり食べてたって。というのも、大学の寮にぺペロンチーノ作りの天才がいて、あれがもう一度食べられるなら、数万ドル出してもいいとかって……』


『ああ。そんなこともあったっけな。でも、おまえの作ってくれるこのパスタだって十分……』


(美味しいよ)とギルバートが言おうとした時のことだった。彼はもう一度パスタ皿に目を落とし、それからフォークを床に落とした。ガタリ、と反射的に椅子を後ろに引いて立ち上がる。


『キャ、キャサリン……おまえ、まさかこれ………』


 次の瞬間、ギルバートはキッチンのほうへ走っていき、「おええええっ!」と、口の中に残っていたものを吐いた。自分が先ほどパスタ皿に見たものがそこにはなくて、心底ほっとする。


『ふふふ。コオロギ頭のぺペロンチーノのお味はどう?これであなたにも、すっかり信用しきっていた相手にある日裏切られる気持ちがわかったんじゃなくて?』


『……おまえ、そんなにこの俺のことが憎いのか。だったらもう離婚するしかないな!温厚な俺ももう、流石に我慢の限界だっ。正直いってこの数か月、この家は俺にとって針のむしろだった。こんなんじゃもう結婚している意味も何もないっ。だが、キャリントンのことだけは……』


 ここでギルバートは、いつもは許可を取ってからでないと入れない娘の部屋に、だだだっと走りこんでいった。そしてベビーベッドですやすや眠る可愛い娘のことを抱きあげる。


『キャリーのことだけは絶対に渡さないぞっ!俺の可愛い娘に虫なんか食わせてなるものかっ。これでも俺はおまえの横暴にずっと耐えてきたんだっ。仕事だって忙しいし、家に帰ってきてまで色々気を遣ってたんじゃ、いくら頑丈な俺の胃もそろそろ破けちまうからなっ。離婚だ離婚!!ケイトリン、俺はもうおまえと100%絶対に離婚するぞっ』


<離婚>という言葉を出した時に、キャサリンがどう反応するか、ギルバートにもわからなかった。けれどもしここで、彼女が『わたしも悪かったわ……』といったようになるなら、自分も離婚だけは思い留まろうと、彼にしてもそう思ってはいたのだ。


 だが、キャサリンは薄暗い子供部屋のドアのところに立つと、何を思ったのか「オホホホホっ!!」とそこで白い喉をのけぞらせて笑っていた。この時、ギルバートは妻がとうとう夫の浮気を気に病むあまり、気が狂ったのかと思ったほどだった。


『そうよ。わたしはあなたのその顔が見たかったのよ。自分は浮気してるくせして、そのことをあやまりもせず、しゃあしゃあと居直っちゃってまあ……あのね、言っておくけど、昆虫食は体にいいのよ。っていうか、これからもし地球が食糧難になったとしたら、人類は積極的に虫を食べたほうがいいって言われてるくらいなんだから。たんぱく質やミネラル、ビタミンが豊富な虫もいるし、あなたのぺペロンチーノに入れたコオロギの頭もね、全部ちゃんとした食用だから安心してちょうだい』


『食用とかなんとか、俺はそんなことを問題にしてるんじゃないっ!!キャサリン、おまえ、あやまるなら今のうちだぞっ。おまえがもう浮気浮気とうるさく言わず、メシの中にも虫や変なものや毒を入れたりしないと誓うなら、俺も離婚だけは思い留まってやるっ。だが……』


 キャサリンはここで、またしても『アッハハアっ!!』と、哄笑しだした。さもおかしくて仕方がないというように、お腹を抱えて。


『あなたさっき、わたしと100%絶対離婚するって言ったばかりじゃないの。だけど、キャリーのことは絶対に渡さないわよ。決まってるでしょ、そんなの。あなたは自分でもさっき言ったとおり仕事で忙しいし、他の女と浮気するのでも忙しい男なんですものね。そんなんで一体どうやって可愛い娘のことを育てていくっていうの?ええっ!?』


『…………………っ!!』


 最後にびっくりするようなどでかい声で『ええっ!?』と凄まれたことで――ギルバートはぐっと黙りこんだ。鬼嫁に気圧されたというわけではない。ただ、虫の食事に哄笑、それに今妻が大きく目を見開いたままこちらへ近づいてくるのを見て……彼の脳裏にはホラー映画の一場面がよぎっていたのである。キャサリンの姿が徐々に頭がおかしくなりつつある、ホラー映画内の登場人物と重なって仕方がない。


 だがそれでも、妻がキャリーのことを自分から奪いとろうとすると、ギルバートは抵抗した。このままいったら娘はきっと、ビタミンやミネラルが豊富だからという理由で、離乳食にまで虫のパウダーを混ぜこまれてしまうことだろう。彼はそれだけは避けなければとの一念で、キャサリンに娘のことを渡そうとはしなかった。


『何してるのよっ!!早くベッドに戻さないとキャリーか起きちゃうでしょっ』


『いいや、駄目だ。今晩キャリーは俺と一緒に寝るんだ。何分、俺には母さんがいるからな。キャリーのことは母さんに預けて仕事に勤しみ、性悪な元妻への慰謝料でもなんでも支払うさ。こんな、夫がしてもいない浮気のことで毎日気の狂いそうになってる母親に育てられるより、母さんに育ててもらったほうが、キャリーもどんなにか……』


 身長差と体格の良さによって、ギルバートはキャサリンから娘のことを遠ざけた。けれど、今度はキャサリンのほうがムキになって、なんとかしてキャリーのことを奪い返そうとする。


『何言ってるのよっ。裁判になんかなったら、負けるのは絶対あんたよっ。キャリーのことは絶対あんたみたいな浮気男の嘘つきに渡したりなんかしないわっ。ギルバート、あんたみたいなどうしようもない女たらしがそばにいたら、娘の情緒形成に絶対影響するわ。絶対にそうよっ!!』


『ふんっ!!夫を苦しめるしか脳のない魔女みたいな性悪女に、虫を食わせられながら育つよりはよっぽどマシさっ。キャリーのことは絶対に渡さないぞっ。裁判なんか起こしたって、いい恥みるのはおまえのほうだぞ、キャサリン。おまえは俺が浮気した、浮気したっていうが、一体どこにその証拠がある!?そんなものは全部おまえの妄想にすぎないんだからなっ』


 ギルバートの、あくまでもシラを切りきろうというこの態度によって、キャサリンはカッとした。そして、『この嘘つきっ!!』、『卑怯者っ!!』、『ヤリチンのサイテー野郎っ!!』と彼女が叫びながら、夫の鍛え上げられた胸のあたりをドカドカ叩いていると……『うえええんっ!!』と、とうとうキャリーが泣きだしたのだった。


『ほら、あんたのせいでキャリーが目を覚ましちゃったじゃないのっ!!』


『何を言ってるっ!!そもそもおまえが、旦那様の大事な食事にコオロギの頭なんか混ぜたりするから今こんなことになってるんだろーがっ』


『なああにおうっ。ビッチとやりまくった汚いその手で、可愛いキャリーちゃんに触らないでちょうだいっ!!しっしっ。あっちへいってちょうだい、もう!!』


 ギルバートが一度キャリーのことをベビーベッドへ戻すと、キャサリンはもう容赦しなかった。夫のことをどつきにどついて、子供部屋の外へと追いやったのである。


 そして、母と子のふたりだけの世界から追い出されたギルバートは……『キャリーちゃん、オムツをとりかえまちょうねえ~』とか、『次はおっぱいかな、ばぶばぶ』だのしゃべる声をドアの外で聞きながら、あらためて重い溜息を着いていた。


 こののち、結局のところキャサリンの態度がどうしても軟化しなかったことから、ギルバートは間に弁護士を立てて、彼女とは協議離婚するということになった。といっても、この頃にはもう彼に娘の親権をもぎとってまでも妻と離婚しようという考えはなくなっていたかもしれない。


 確かに娘のことは可愛かったが、冷静になって考えてみると、やはり母親であるキャサリンに育てられたほうがキャリーのほうでも幸せだろうというように結論づけたのである。もしギルバートの母に孫の面倒や教育、しつけのことなどを頼むとしたら、もちろん彼の母親は喜んでその育児を引き受けたことだろう。だが、キャサリンがもし実家へ戻った場合、近くに姉夫婦や弟夫婦も住んでおり、家族としてとても賑やかなのだ。その点、ギルバートの母は広い屋敷に夫とふたり住まいだったし、また母に何かあった場合――娘のことをベビーシッターに任せるというわけにもいかないだろうと、ギルバートは長い目で見てそう考えたのである。


 このようなわけで、もしかしたら身から出た錆だったのかもれないが、ギルバートにとって初めての結婚は苦い後味を残す形で終わった。首府の高級住宅地に購入した屋敷は購入した時の半値で手放さなければならなかったし、キャサリンには娘の養育費及び慰謝料を毎月支払わなければならず……離婚が正式に成立した時、彼は自分がイラクから帰ってきた時よりも満身創痍であるように感じたものだ。


 正直なところを言って――今もギルバートにはわからない。あの短い結婚生活の中で、自分は一体何をどうしていたら良かったのだろう、と。おそらく人に相談すれば、元妻の雇った探偵が死んだ時点で娼婦クラブ通いはやめにしておくべきだったとアドバイスされるかもしれない。だが、ギルバートとしてはどうしてもそうは思えない。というのも、お互いの関係が悪くなってから、キャサリンと彼の間ではセックスのほうもしっくりいかなくなっていたからだ。そのような事情もあって、ギルバートはやはり自分ばかりが悪かったとは思えないし、彼女がもし「夫は浮気などしていないし、その証拠もない」と納得さえしてくれたとしたら……自分は普通のサラリーマンなどよりよほど稼ぎもいいし、娘キャリントンのいい父親でもあれただろうにと、そう思わずにはいられなかったのだ。




 >>続く。








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