初夜
形だけの夫婦生活を送るとしても、寝室は一つ。ベッドも一つ。どこで眠るかでもめた。
「俺が床で寝るから、君はベッドを使ってくれ」
「そんなわけにはまいりません。ここはあなたの家です。わたくしが床で寝ます」
塔の生活では、罰として食事を抜かれることはあっても、床で眠ったことはなかったが。眠れないことはないはずだ。
「駄目だ。床は硬いし体が冷える」
「でしたら、なおさらわたくしだけがベッドで眠るわけにはいきません」
体が冷えるというのなら、ヴァナルガンドも同じなのに。どうしてヨルズに譲ろうとするのだろう。理解できない。
「気にするな。俺は雑魚寝やその辺の地面で寝るのに慣れている」
言うなりベッドから枕と薄いかけ布団を抜き取り、床に寝転がってしまう。
「あの……」
「おやすみ」
会話をあいさつと広い背中に打ち切られ、仕方なくヨルズはベッドに潜った。
眠れない。
ヨルズは何度もベッドの中で寝返りをうった。
ベッドの寝心地は悪くない。むしろいいと思う。眠れないのは枕が変わったのと、先ほどのヴァナルガンドとのやり取りが、頭の中をぐるぐると回っているのが原因だ。
ヴァナルガンドは、なぜヨルズにベッドを譲ったのだろう。
見栄だろうか。否。二人きりで誰に見栄をはるというのか。意味がない。
ではなぜ?
急に胸の辺りが、ぎゅっと締めつけられる。なんだか少し苦しい。
きっと自分一人だけ、ベッドを使うのが心苦しいのだ。
何度目になるか分からない寝返りをうったヨルズは、床で眠るヴァナルガンドの様子を見ようと、そろりとベッドの端に移動する。
「眠れないのか」
移動しきらないうちに低い声が響き、ヨルズは動きを止めた。
「……申し訳ありません。起こしてしまいましたか」
「いや。俺も眠れなかった」
身を起こしたヴァナルガンドが、苦笑した。立ち上がり、枕と布団をベッドの片隅に置く。
「どこへ行かれるのですか」
「適当な空き部屋で寝る」
「お待ち下さい。出ていくのならわたくしが」
ヴァナルガンドを引き留めようと、ヨルズはとっさに手を伸ばして腕を掴んだ。その瞬間、腕を掴んだ手のひらが熱くなる。
「熱っ」
「すまん、大丈夫か」
たまらず腕から離した手に、大きな手が触れかけて止まる。少しの間うろうろと空中をさまよわせてから、踵を返した。
「水。水で冷やそう」
「平気です」
手のひらは熱くて痛いが、ヨルズは本当に平気だった。痛みなど慣れている。
「赤くなっている。火傷したのだろう。早く冷やさないと」
しかしヴァナルガンドは平気だと思わなかったらしい。険しさも威厳もどこへやら、慌てた様子で持ってきた水を差し出した。
ヨルズは手を水につけずに、焦るヴァナルガンドを見上げた。
精霊の加護は王族の血に宿るとされている。ゆえに王族は神聖視されるが、強い加護を持つ王族は少ない。一国に二、三人いるかいないか。その程度だ。ヴァナルガンドほどの加護となると、一人いればいい方。
そんな貴重な存在で、何十、何百という敵を焼き、砕いてきた人がヨルズの火傷一つでこんなに動揺している。
情けなく下がった眉尻と潤んだ目を見ていたら、なんだか、毒気を抜かれてしまった。
この結婚そのものが、ヨルズに大なり小なり精霊の加護がある前提で進められたものであり。ヴァナルガンド当人が強力な精霊の加護持ちである。
軽い治癒能力という、弱い加護の開示くらいなら構わないだろう。
「本当に必要ありません。ほら」
「治癒か」
火傷をした部分に加護を発動させると、痛みと熱が引いていく。赤味の欠片もない手のひらをかざすと、赤と金の瞳が見開かれた。
「軽い火傷や、すり傷程度だけですが」
本当は違う。けれど今はまだ、全てを見せるほど信用していない。
精霊の色は髪や瞳に強く現れるため、強力な加護持ちはヴァナルガンドのように特徴的な珍しい色をしている。
しかしヨルズは肥沃な土色の髪と瞳という一般的な色合いもあって、加護を持っていないか弱いと思われていたし、そう思わせていた。
『いい? ヨルズ。あなたの力は信用のできる人にしか見せては駄目。約束よ』
母と交わした約束。母の顔も声も忘れかけているけれど、優しい手と約束だけは忘れずに守っている。
一度だけ。幼いヨルズがまだ家族と小さな村にいた頃、名も知らない男の子に少し大きなものを使ったけれど。
「治せるとはいえ痛かっただろう。すまなかった。この通り、俺は力の制御が効かない怪物だ。ふとした拍子に加護が発動してしまう」
水の入った容器をサイドテーブルの上に置いた、ヴァナルガンドの赤と金の瞳がかげった。広い肩が落ちる。
見るからにしょんぼりとした様子に、ヨルズの奥底で何かがうずいた。
この人は。
制御出来ない加護に振り回され。
自分の意思に反して人を傷つける度に、傷ついてきたのだろうか。
怪物と罵られ畏れられてきたのだろうか。
「今のあなたは……」
ヨルズが口を開くと、不安そうな視線を向けてくる。こんなに大きくてあんなに強い人が、まるで叱られた子供のよう。
なんとかしてあげたい。大丈夫だと言ってあげたい。そんな気持ちがわいてくる。
これはきっと同情。
「英雄とも、怪物とも思えませんね」
力なく垂れていたヴァナルガンドの手を、ヨルズは握った。
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