宣言
結婚式が終われば、当然初夜が訪れる。
湯浴みを終えたヨルズは、寝室で一人待っていた。
寝室には誰もいない。ヨルズの常識では、王候貴族の初夜というのは立会人がいるものなのだが。この国では二人きりで行うものなのだろうか。
それだけではなく、この国に来てから朝の起床、着替え、全てにおいて監視のない生活に驚きの連続だった。
全く人の目がないというわけではない。しかしそれは、監視というより見守っているようだった。使用人たちの目や声は温かくて戸惑う。
塔で周りにいた侍女、侍従たちは、じっとヨルズを観察し、基準に達しなかった事を指摘した。
伸びていなかった背筋、優雅に組めていない指先、音を立ててしまった食器。一挙手一投足に気が抜けなかった。
ところがここの使用人たちは、ヨルズの一挙一動を褒める。姿勢が綺麗、所作が美しい、残さず食べて嬉しい。出来て当たり前で、何でもないことなのに。
控えめなノックの音が耳に届いた。
「はい」
「入ってもいいだろうか」
声音の冷たさは変わらないけれど、内容は随分と気弱だった。
入っていいも何も、ここの主はヴァナルガンドその人であり、花嫁である自分は所有物だ。許可など取らずに入ってくればいい。
少し迷ってから、「どうぞ」と答えた。
そっと扉が開き、ヴァナルガンドが長身を室内に滑り込ませる。
ゆったりとしたシャツに、ナイトガウンを羽織っただけだが、それも様になっていた。
後ろ手に扉を閉めると、そこにとどまった。
「今日付けで君と俺は夫婦になったが、安心してほしい。この結婚は形だけのものだ」
ヨルズは頷いた。形だけの結婚は、想定内だ。今度はこの男の妻を演じる生活が始まる。それだけのこと。
「俺は君の祖国を滅ぼし、家族を追い落とし、生活を一変させてしまった。形だけとはいえ、俺が夫など耐えがたいだろうが、そこだけは我慢してほしい。生活に何不自由はさせない。俺は君に指一本触れない。恋人を作ってもらっても構わない。そうなったところで君への待遇は変えない」
提示された破格の条件に、ヨルズはゆっくりとまばたきをした。
どうして。まさかヨルズの祖国を滅ぼしたことに責任を感じ、ヨルズに同情しているのだろうか。
「祖国を滅ぼし血族を追いやったことを気に病んでおられるのでしたら、必要ございません。むしろ感謝しているのです。わたくしは祖国も王家の血族も、今までの生活も憎んでおりました」
ヨルズは出来る限り背筋を伸ばした。
優しい待遇も、謝罪も、建前だけのものだ。きっと全部裏がある。今までヨルズに関わった人間は皆そうだった。
鵜呑みにしてはいけない。期待なんてしてはいけない。元から信じなければ傷つかなくてすむ。
「お好きにすればいいのです。妻は夫の所有物なのですから」
ヨルズの扱いなんてどこでも同じだ。ずっとずっと、そういう人生だった。
「君は物ではない」
ヴァナルガンドの美麗な眉根が寄った。
「物です。わたくしの祖国での扱いは物でした」
信じない。もう諦めているのだから、美しい嘘で希望なんて持たせないで。
「俺は君を物として扱うつもりはない」
冷たい声に硬質な憤りをにじませ、ヴァナルガンドがガウンを脱いだ。シャツのボタンも外し始める。怒りの感情に呼応してか、ちり、と熱と冷気がヨルズの肌をなぶった。
ほらやっぱり、とヨルズは思う。
「これを見ろ」
しかしヴァナルガンドは、己の肌をさらしただけだった。
「痣……ではありませんね」
黒い紐のような痣が引き締まった体を這っていた。黒い紐から、大きな力を感じる。
「精霊の力を抑える呪印グレープニールだ」
そういうことか、とヨルズは納得した。
氷炎の怪物。あれほど強力な加護であれば、人間の許容量を超える。だからあの呪印で封じているのだろうが、それも限界がある。遠からず過ぎた力はヴァナルガンドの命を奪うだろう。そうならないための、結婚だったのだ。
王族は精霊の加護持ちが多く、ヨルズも大地の精霊の加護があった。
「俺の延命のために、周りが君の意思を無視して勝手に結婚を推し進めてしまったが、俺は君の同意なしに自分のものにするつもりはない」
硬かった声と瞳が急に硬度を失う。小さく肩を落とすと、辺りに満ちていた熱と冷気がぬるく溶けた。
精霊の加護を持つ者同士の婚姻は、互いの力を安定させる。夫婦の営みもない形だけのものでは、精霊が認めない。
「形だけの婚姻では、あなたは死ぬのですよ。わたくしを抱けばすむ事ではありませんか」
「そういう行為は、好きな男とでないと駄目だ」
「どなたか他に想い人がいらっしゃるのですか」
「そんな女はいない」
ヨルズはますます戸惑った。
死すらいとわないほど頑ななのは、他に好きな女性がいるのかと思ったのだが、それも違うらしい。いよいよ訳が分からない。
もしかして、とヨルズは自分の体を見下ろした。ひょろりと伸びる生白い手足。胸はピンと張りがあるものの、大きくない。貧相だ。
「確かに、その気にならないほど魅力のない身体かもしれませんね」
異性に欲情されるのは怖いが、全く魅力を感じてもらえないのは少し傷つく。
「いや。君の魅力は有り余っているというか、出来るなら今すぐ……いやなんでもない。忘れてくれ」
ヴァナルガンドが顔を背け、決まりが悪そうに咳ばらいをする。気のせいか首元まで赤く染まって見えた。
「とにかく。愛のない行為はしない」
目を閉じたヴァナルガンドが、疲れのにじむ声を吐き出した。
「短い間かもしれないが、よろしく」
「不束者ですが、よろしくお願いいたします」
ヨルズはあらためて、ベッドの上で三つ指をつき、頭を下げた。
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