毒薬
ヴァナルガンドと共に眠る夜は、もう何度目だろう。
ずしりと腹にかかる腕の重み。ヨルズの前髪をくすぐる微かな吐息。
硬い胸の温もりに頬を寄せると、一瞬だけ背中に回った手に力が入ってからすぐに抜けた。
「ん」
寝言とも吐息ともつかない声を漏らして、ヴァナルガンドが寝返りを打った。ヨルズを抱えていた腕がその拍子に外れる。はだけた寝間着の下から、黒い紐のような痣がのぞいた。
精霊の力を抑える呪印グレープニール。テュールの加護の力。
ヨルズは眠るヴァナルガンドの顔を眺めた。
テュールの加護が抑えていること。最近のヴァナルガンドが戦場に出ておらず、大きく精霊の力を使っていないことから、今のところ命の危機はないけれど。
形だけの夫婦のままでは、いつか精霊の力に喰われてしまう。
きゅうっと胸元が苦しくなって、ヨルズは寝間着を握った。
婉曲な表現ではなく、ただヨルズを抱いて眠るだけで、ヴァナルガンドは手を出してこない。
まだ、自分たちの間には愛がないのだろうか。
月光に照らされた青味のかかった銀髪、通った鼻筋と頬が白く浮かんでいる。
影を落とすまつ毛の一本一本も銀色。閉じた唇も綺麗だ。
このままキスをしたら、なし崩しに夫婦になれる?
そんなことを考えてから、ヨルズは息を止めた。視野いっぱいにヴァナルガンドの顔がある。いつの間にか紙一枚しかない距離にまで、ヴァナルガンドの唇に自分の唇を寄せていた。
口元を押さえたヨルズは、弾かれたように離れる。一呼吸遅れてかあっと頬に血が上った。
寝ているヴァナルガンドに勝手にキスをするなんて、彼に悪い。はしたない。無意識にそんな行動をした自分が恥ずかしい。
少し夜風に当たって熱を冷まそうと、ヨルズはそっと寝室を出た。
夜の庭の空気は澄んでいて、程よく冷たかった。低木と植物は月明りで白く、背の高い広葉樹は黒い影のように立っていた。色彩の落ちた、淡い光と影のコントラストが世界を形作っている。
治まらないドキドキを鎮めるために、夜の庭園をゆっくりと歩いていると、ふいにヨルズの近くの低木がみるみると縮み始めた。茂っていた葉が少なくなり、枝が短くなっていく。
「いけない」
加護の暴発だ。ヨルズは大きく深呼吸をした。
ほどよく冷えた夜の空気を肺に取り込むと、意識が無になっていく。火照った頬も夜風に心地よく冷やされて、うるさかった心臓の鼓動も治まっていった。
低木の縮みが止まる。隣の低木に比べ、二回りも小さくなっていた。
暴発が止まるとやってくる、頭痛と倦怠感、息苦しさをじっとこらえてやり過ごす。これくらいはどうということはない。加護の力が強く、頻繁に暴発しているヴァナルガンドは、きっとこの比ではない苦痛に耐えている。
体調不良は数分でおさまり、安堵の息を吐いていると、広葉樹の枝が揺れた。そちらに視線をやれば、枝に黒い鳥がとまっている。
「カラス?」
ヨルズは首を傾げた。暗いから黒く見えるだけかと思ったが、本物の黒い鳥だ。しかしフクロウならともかくカラスは夜目がきかない鳥である。この時間に活動はしていないはず。寝ているのかと思ったが、カラスの視線はこちらに向いている。
カラスが羽を広げた。木の枝から飛び立ち、ヨルズの前に舞い降りてくちばしを開いた。
「はじめまして。フギンと申します。ベルヴェルク様の『目』でございます」
ヨルズの心臓が凍った。くちばしから響いたのは女の声だ。カラスがしゃべったことよりも、ベルヴェルクの名に衝撃を受けた。
「伝言とこちらを預かってまいりました。お受け取り下さい」
カラスが足を開いた。小さな包み紙が地面に落ちる。
「儂は今お前の両親と共にいる。二人の命が惜しくば氷炎の怪物を殺せ」
今度はしわがれた男の声だった。一度だけ聞いた、ベルヴェルクの声だ。
「包み紙の中身は毒薬でございます」
カラスの声が、女のものに戻った。
「で、出来ません。わたくしにはそんな恐ろしいこと……」
父母の命と、ヴァナルガンドの命。選ぶことのできない選択肢に、すっかり冷たくなった指先が震えた。
「ナイフや短剣と違い、その薬を飲み物か食べ物に混ぜればいいだけです。貴族の妻でありながら料理を作っているのですから、簡単でしょう」
落ち着いて。よく考えなくては。ヨルズは震えながら、思考を回した。
料理を作っていたことを知られているということは、監視されていたのだ。それも領地内ではなく、屋敷での行動を。
屋敷の庭でカラスを見たことはないから、カラス以外の監視の目もあるはず。
「ベルヴェルク様の『目』は私以外にもおります。ヨルズ様が首尾よく怪物を殺すかどうかは、我々が見ているということをお忘れなきよう」
やはりカラス以外にいる。
ヨルズは地面に落ちている包み紙を拾った。
「いつ、どこで殺せば、父王に確実に知らせることができるのでしょうか」
「鳥という鳥が我らです。庭か、窓のある部屋であれば『目』が捕捉します」
鳥の目が届く範囲は全て監視下。
「怪物を殺せば、わたくしは夫殺しの罪に問われます」
「身の安全は保障します」
嘘だろう。ヴァナルガンドが死ねば、両親とヨルズは用済みだ。
カラスなどの鳥なら国境越えは簡単だが、ヨルズはそうはいかない。きっと捨て置かれる。
ベルヴェルクにとって国境越えの危険を冒してでもヨルズが必要だと思わせなければ。両親の命も危ない。
「わたくしの加護は『回復』。今よりも前の状態に戻すことができます」
ヨルズは先ほどの加護の暴発で小さくなった低木を指さした。監視していたのならカラスは見ていたはずだが、何の言及もないということは、有用性に気づいていない。示せば食いつくはず。
「このように」
ヨルズの指先が示した低木の枝や葉がさらに縮んでいく。やがて、植えたばかりのような苗木になってしまった。
「これを人に使えば、若返らせることも可能だと思いませんか」
カラスの目が光った。
「怪物を殺したら、混乱に乗じて屋敷の外へ。カラスがベルヴェルク様の元へ案内します」
即座に身の安全の保障などというあいまいなものではなく、具体的な指示が返ってくる。
「分かりました」
「成功を祈ります」
それだけ告げたカラスの鳥影は、月光の外へ逃げ、闇に消えた。
お読み下さりありがとうございます。
ブクマ、ポイント、とても励みになります。
ここからしばらくハラハラとした展開になりますので、なるべく更新速度を上げます。
お付き合いいただけると幸いです。




