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想いの旅路

武士に対する敬称を訂正しました。(2020/09/03)

『その人だったら、あっちの方角に走っていったけれど』


 千早を見た店の者は、口を揃えてそう言った。

 つまり、千早はどこの店にも入っておらず、ひたすら川の方へ走っていったのだ。

 千代は武士の倒れている現場に居合わせていない。ただ、嫌な予感がする。


 もしも、千早が後を追ったら。


 確証はない。千早は命知らずの迷惑行為を働いただけかもしれないし、八郎の結婚相手とも決まっていない。

 それでも千代が走るのは、取り返しのつかない後悔をしたくないからだ。千早にからかわれたっていい。そうしたら、とぼとぼと家に戻るだけの話だ。


 でももし、先を誓った相手の置き土産さえ手に入らず、三途の川を望んで自ら命を落としたら。


 それは、絶対にあってはならないことだ。ましてや、千代が間に合わなかったせいで、なんて。


「どこに、いるんだい」


 草鞋が擦り切れる錯覚を覚える。

 肺が痛い。身体の内がひどく熱い。

 懐に入れた形見たちが、早くしろと千代を急かす。



「っごめんください!」

「は、はい。どうなさいましたか」


 目の前に川を望む茶屋に駆け込み、千代は息を切らしながら年老いた店主に尋ねた。

 ここが駄目なら、川の土手を全て走り切らねばならない。ここに居るとも限らないのに。


「菖蒲の着物を着た女の人、見かけやしませんでしたか!」

「淡藤色を着たお女中さんでしたら、あちらの方に。通ったばかりですから追いつくと思いますがねえ」

「あ、ありがとう御座います!」


 あっちの方。衣紋坂とは逆方向だ。

 一息でさえ惜しいと千代は折り曲げた体のまま、腕を振り抜く。

 小休止をしてしまったせいか足が重い。変にもつれそうな感覚が纏わりつく。

 川の中を歩いているみたいになって、千代は膝の下を叱咤した。


 休むのも、考えるのも後回し。それは全部、千早を見つけたあと存分にやってやる。


 どのくらい走っただろうか。茶屋はもう随分と遠くのはずだ。


 走って。走って、走って、走って。


 川の端に行き着きそうな程に走った末の、土手の雑草に埋もれるようにして、薄い藤の着物がひらめくのが見えた。


「いた……!」


 なんだかふっと消えてしまいそうな気がして、千代は慌てて駆け寄った。


「貴方……」

「はい。古着の桔梗屋の者です。千早様は、八郎様のことをご存知でしょうか」


 千早は心底驚いたように肩を震わせ、土手から立ち上がる。


「何故、八郎様のことを」

「文に書いてあったのです。この度は、手違いとはいえ本来の受け取り主から形見を奪ってしまったこと、誠に申し訳ありませんでした」


「そんな、膝をつかないで下さいな。それよりも、あの武士の方は宜しいのですか。随分手ぬぐいに執心されていた」

「子中様は八郎様のご友人であり、遺族に返すため手ぬぐいを探していたそうで」

「ああ、それで……」


 千早は安心したように息を吐き、地面に座り直した。しかしその顔色は未だ良いものとは言えず、動揺が透けて見えた。


「それから、手ぬぐいと共に文が残されていたのです。小中様が開いてしまわれましたが、これらは貴方に遺されたものであると納得したご様子でしたんで」


 少し言葉遣いが崩れたのを自覚して、思わず口を閉じる。対する千早はそれに気づかなかったようで、手ぬぐいに重ねて差し出した手紙を食い入るように読んだ。


「……ああ、そう。……は、馬鹿な人」


 千早は喉を震わせ、やっとのことでその言葉のみを吐き出した。

 透明な涙が、鼻筋を通ってぽたりと落ちる。


「ごめんなさいね、こんなところで」

「いいえ。……それから、これも」


 紅葉の絵が入ったつげ櫛を千早に見せた瞬間、彼女は息も、瞬きも、表情も凍らせた。


「……受け取れない、こんなもの」


 今度は千代が表情を凍らせる番だった。


「理由を、聞いても?」

「ええ宜しいですとも。……どうせ此処を離れるンだ。こんな、よりによってこんな櫛なんて、あの人から渡されなきゃ意味が無い」


 千早は先ほどまでの言葉遣いを抜いて、方言が混じったような口調で話し出す。


「あの人が、衣紋坂で待っててくれって言ったンだ。自分は見返り柳の近くに行くから、そうしたら一緒に逃げようって。

 私は、あの男に身請けされるなんて、嫌だった。あの趣味の悪い男の元に行くなんて、舌を噛み切って死のうと思っていた。

 でもあの人が、八郎様が、私を救ってくださった」


「身請け金だって、提示された額の倍だ。それが悔しかったんだろうよ。

 人斬りを雇ったか、自分の手を汚したか知らないが、きっとあいつが殺したに決まってる。

 そウでなきゃ、楼主が八郎様から手のひらを返すはずないもの」


 千早は一度言葉を区切って、千代をゆるりと見上げた。疲れたような、呆れたような、妙な表情をしていた。


「約束をした日、もしも刻限通りに自分が来られなかったら、褐色の市松模様の入った手ぬぐいを探して欲しいって。そう言われたンだ」

「それじゃあ、なぜ桔梗屋に」

「私だって、あちこち探したさ。でも木を隠すなら森の中、って言うんだろ。それに約束したあの日、あの人に縁のある方が、桔梗屋にお世話になったと言っていたから」


「なんでも、息子の御新造様の母君の着物を探し回ってくれたそうじゃないか」


 千代はようやく合点がいく。同時に世間の狭さを知った。


「やだね、何にも知らせず逝っちまうなんて。これで私が喜ぶと思ってんのかい、エ? 遺書なんて用意しちまって、そのくせこんな、櫛だなんて。遅いんだよ、何もかもが」


 ぽたぽたと涙がとめどなく流れ落ち、千早はそれを拭こうともしない。だから千代はただ見ているしかなかった。


「……これ、文に包んであったのかい?」

「いいえ。この櫛は八郎様の懐から出てきたと、子中様がおっしゃっていました。託すのではなく、直に会って渡そうとしたんでしょう」


 千早は右手を千代に向ける。千代はその手のひらに、櫛を乗せた。


「やっぱり、これは貰っとくよ。

 ……馬鹿なこと。たとい極楽から降りてくる幸せだって、肝心の貴方が居なけりゃ台無しでしょうに」


 千早は土手から立ち上がり、着物の裾を叩く。愛おしそうに紅葉の絵柄を撫でた後、懐にしまった。


「何だってこんな、ちぐはぐなんだか。回りくどいのを直せって言っておけば良かったなあ。貴方がいなきゃ、私は1つだって受け取れなかったンだから」

「これから何処へ?」

「手紙の通り、道場に行くかね。後追いはそれからだ。せいぜい三途の川で待ちぼうけていればいい」


 千早はカラカラと笑い、涙の跡を手ぬぐいで強引に拭う。


「世話になったね、今いくつだい」

「今年で十になりました」

「そうかい。いい店主になるね」


 その言葉で、千代は救われた気持ちになった。客から言われたそれは、跳ね返ることなく胸の中にすっと入っていった。


 千早は傍らに置いてあった荷物を背負い、道場に繋がる道で千代と別れる。


「武家の人に、よろしく言っておいてくんな」

「ええ、また会えたら」

「会えたら、でいいよ」


 千代は、千早の影が小さくなるまで見送った。


 遠くで、蝉の音が聞こえる。


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