褐色の忘れ物
その日は、珍しく客で店がごった返していた。
仲買人が来た翌日というのもあり、掘り出し物を求めて来るのである。連日の雨による虫食いもあるかもしれない。
だから、閉店後の店内でそれを千代が見つけたのは、本当に偶然だった。
「おっ母さん、これって家のじゃないよなあ?」
「市松の手ぬぐいかい。出した覚えはないね」
両端がほつれている手ぬぐいは、褐色で市松模様が描かれている。
誰かの忘れ物だろうか。
「……何か挟んである」
手に持ったときから布以外の感触が伝わってきていたが、千代の意識は手ぬぐい本体に集中していた。持ち主を探すためにそっと開いてみると、裏地に文が縫い付けてある。
母に見せに行くと、登代は目を見開いて苦い声で呟いた。
「厄介なもんだね」
宛名も差出人も書かれていない封筒は、まさしく怪しい代物である。
持ち主を当てようにも、封を開くには手ぬぐいから剥がさないといけないため、難しい。
「……これ、家の品物に埋もれていたんだよ」
「ま、どっちにしろ店じゃ売れないからね。持ち主が出てくるまで引っ込めとけばいいさ。悪戯だとしても、素知らぬ顔で返せばいい。ひと縫いだって弄ってないんだから」
「それもそうか」
手ぬぐいをさらりと撫でつける。絹でも麻でも、上布でもない。滑らかな手触りだが、丈夫な繊維を使っている。麻のように涼やかで、風通しもいい。
「いいなあ、これ」
胸の内で呟いたはずが、口からこぼれ落ちていたらしい。
登代はじっとりとした視線を向けたが、仕方なさそうにため息をつき、自分が持っているだけの知識を千代に与えてやった。
「そりゃ木綿だからね。丈夫で肌触りがよくて、染めるのも簡単だ。麻に変わる素材だって、お上の方々の中で流行ってるよ。
私らのところにも偶に入ってくることもあるが、まだ高価なものだね」
「あ、そう……」
千代は木綿の特徴を食い入るように聞いていたが、上布や絹と同じくめったに出回らないことにがっくりと肩を落とす。
絹よりも出回りが少なそうだな。上布といい勝負なんだろうか。
千代が今まで一度も触れたことのない布地だった。
ま、そりゃそうか。今までは押し入れに溜め込んだ端切れを弄るばかりだったもの。そんな高級志向の反物なんて、端切れ一欠片分も無駄にしたくないに違いない。
「これが古着屋に並ぶのが普通になったら、麻は消えちまうのかね」
「は、縁起でもないことを言ってないで店じまいだ。このままじゃ、夜が明けっちまう」
「あいおっ母さん」
件の手ぬぐいは丁寧に畳むと、引き出しにしまった。
珍しいものだと思ったが、それだけだった。一度触れられただけで僥倖である。これの持ち主は、きっとお奉行さまだ。
想像するだけで千代の胃はぎう、と絞られた。
位の云々で応対を変えたくないと思うものの、実際現れたら過剰なくらい謙ってしまうだろう。
店に出して勝手に取ってもらおうにも、他のお客が手に取ったらお終いだ。
どうしたもんかなあ、と千代は手ぬぐいを入れた引き出しを睨んだ。
###
千代の憂いと反して、手ぬぐいを探しに来る者は一向に現れないまま1週間が過ぎた。
悪戯という線がだんだん濃厚になっていく。
あれだけ良いものを使って悪戯なんて。
千代は少しずれた視点で憤慨していた。多少、布は疲れているが、まだ手ぬぐいとして活用できる状態だったので。
このまま肥やしとして腐らせるのも木綿に対して失礼だろう。
店を閉めたらおっ母さんに相談しようと千代は決めた。
「今日は妙に騒がしいね」
「女将さん、知らねえのかい?川の土手に死体が転がってたんだよ。やだねえ、ここらも治安が悪くなっちまって」
なんでも、武家の方だったらしいじゃないか。
千代は手を動かしながら、母と客の会話に耳を傾ける。今日は皆、その話題で持ちきりだ。通りに出れば、瓦版を待たずとも情報が面白いように入ってくる。
非道いことをする奴もいるね、土左衛門なんて。
俺は刀で刺されたって聞いたけどな。
それにしても、隅田の土手で死んじゃあな。
大方、女に恨まれたんだろ。
妻か女郎か。どちらにしても浮かばれないね。
花を見る前にくたばっちまうなんてなあ。
おお、くわばらくわばら。
大半が下世話な勘ぐりだったが。
しかし武士であることは疑いがないようで、町民は怖がりながらもあっけらかんとしている。
武士。千代の頭ん中に、褐色の市松模様が入っている手ぬぐいが浮かんだ。
「まさか」
考えすぎであろ。千代は自分の考えを脳内から蹴り落とした。
なんでって、現実味がないのである。
店に残った木綿の手ぬぐい。近所で見つかる武士の死体。それを安易に結びつけちゃあ、妄想の飛躍もいい所だ。
図らず偶然で偶発的な、事件への拡大解釈ができてしまうような出来事が2つ重なった。ただそれだけのことである。
おっ母さんに呼ばれた頃には、千代はそれをすっかり忘れてしまっていた。
###
数日後。相変わらず手ぬぐいは桔梗屋にある。
千代は額から流れる汗を拭きながら、あの感触を思い出していた。
木綿で小袖を作ったら、どんなに快適だろうなあ。
梅雨が明けたあとも、両手に纏わり付くような湿気は無くならない。雨の運ぶ生ぬるい空気よりもずっと不快だ。
せめて着物と体の間に伝う汗をどうにかしたい。どうにかできるものかは分からないけれど。
店の入口近くで物音がする。
お客が入ってきたと千代は腰を浮かしかけたが、登代の方が早かった。
「まあ……」
登代が座敷の前に出て、入ってきたお客を伺おうとしたが、ぱちりと瞬きしてそれっきり。なぜなら客の男は、腰に大小帯刀をした武士だったからである。
「どうなさいましたか、こんな古着屋に……」
「以前、ここに武士が来なかったか。見ていなくとも良い。褐色をした市松模様の手ぬぐいを持ってはおらぬか」
とうとう返すときがやってきた。
しかし、と千代は武士の言葉を脳内で反芻する。
手ぬぐいはまだしも、人探しとはどういうことか。
登代も同じことを考えたようで、言葉遣いに気をつけながらも事情を話した。
「あいにく最近は客の入りが激しくなっていまして、お腰に帯刀をしていない限り、分からぬものなのです。
手ぬぐいなら、店先に置かれていたため預かっております。少々お待ち下せえ」
「あい、分かった」
引き出しに1番近いのは千代である。金具を引っ張り、文を包むように畳んだ手ぬぐいを出した。
分かっていたこととはいえ、嫌な汗が噴き出す。手ぬぐいに染みを作っちゃならねえ。そんなことは分かってる。
静かに、しかし迅速に客へ近づくことは普段の接客と変わりない。客層が変わっているから、胃が絞られる。
「こちらに、なります」
千代は武士を見上げるようにして、手ぬぐいを恐る恐る渡そうとした。
「お待ちください」
その手は、何者かに阻まれる。女の声だった。
3人が店の入口を向くと、どことなく妖艶な雰囲気を漂わせた女が何かを耐え忍ぶように立っていた。
「武家の方を遮ったことをお許しください。しかし、その手ぬぐいは私のものです。どうかそれを、譲っていただきたく参りました」
「ほう」
武士が目を細め、ゆっくりと空気が凍りつく。
彼は千代に背を向けて、女に居直った。
「そのような戯言、今すぐ切り捨てられても文句は言えんぞ。それを知っての狼藉か」
「熟知しての言い分ですとも。たとい命に替えてでも、それは私が持つべきものなのです」
武士の男はカ、と笑い、鯉口に添えた左手を降ろす。
「面白いな。してどうする娘よ。その手ぬぐい、どちらに渡す」
面白いと嘯いて千代に振り返った男の顔は、全く笑っていなかった。千代はどう、と汗をかく。皮膚に伝う気持ち悪さを感じる暇など消し飛んだ。
粘つく唾をごくりと飲み干す。男と女の双眸が、こちらを見下ろし一寸の猶予も与えない。
果たして手ぬぐいはどちらの手に渡すべきか。
男か女か。丁か半か。
思わず震えた手の平と手ぬぐいが擦れる。
千代の頭に、ある考えが浮かんだ。