番外編 藍玉と麻
喜助だって男なんです、エエ。(訳:恋愛要素を含みます)
「千代、すぐそこで見世物小屋が開かれてんだ。お前ん家、今日は休みだろ。見に行かねえか」
「今日は半纏を仕立て直す予定なんだ。治助を連れてきなよ。明日には実家に戻っちまうんだろ」
「まだ夏も来てねえってのにか……。あと、なんで治助の予定を知ってるんだよ」
「もう夏と秋のはやっちまったんだよ。予定の把握は親の伝手ってやつだな」
喜助はしばらく桔梗屋の商品を眺めていたが、そのうち肩を落として帰っていった。
これが、1年前のことである。
###
「なあ喜助」
「……なんだよ」
「いつになく気落ちしてんじゃないか。何かあったのかい?」
「どうせ聞いてんだろ。親の伝手ってやつでさ」
千代はぐ、と言葉に詰まった。図星である。
喜助の母であるやすに、話を聞いてやってくれと頼まれたはいいが、どうも力不足のように感じた。
「治助が、喜助に対して他人行儀だって」
「なんで、何でなんだよう。生まれたときから世話してんのに、今さらなんだっていうんだよ。もう終わりだ。終わった」
「あっ、聞いてないなこいつ」
喜助はため息を隠しもせず、気落ちする空気を背負ったまま座り込んでいる。
千代は伏せられたままの喜助の顔を覗き込もうとして、やめた。最初の掴みが失敗したからである。
喜助はこちらのことなどお構い無しに、ぼそぼそと喋り続ける。たまに別人のようになるんだよな、と千代は思った。
「市に誘ったのに、治助に断られたんだ。千代さんと一緒に行けばいいってさ。見世物小屋だって行かねえ奴を、どうやって連れてけばいいんだよ。麻やら絹やらの織物はあるっていうけどさ……」
「織物?」
喜助はしまったと口を抑えたが、千代の目は既にきらきらと輝き始めている。
「なあ行こうよ。なに、治助に土産でも買ってくれば、きっと仲も取り持てるだろ。これで意固地になっちゃあ、切れないものも切れちまうよ」
「でも、今から行って間に合うか?」
「もう日は長くなってるだろ。……去年断ったのは悪かったよ。まあ、でも今度は治助と行きなよ。あたしと行ったって仕方がないんだから」
喜助の顔からは影がとれていたが、代わりに不可解な表情がくっついていた。
そのまま首を横に傾けるものだから、千代もそれに釣られて傾ける。
そのまましばし見つめあって、突然喜助が立ち上がって言った。
「行くか、定期市」
「う、うん」
「1回帰って準備してこいよ。おばさんにも知らせないといけねえだろ」
それもそうだと千代が出ていった途端、喜助は壁に頭をぶつけて呻く。
微塵も気づかれなかったのは、幸か不幸か。
「気づかれないって、なにをだよ。チクショウ」
喜助は頭で壁を叩き続け、やすにうるさいと怒鳴られた。
千代は家に帰ったあと、髪を結い直し、貯めてあった小遣いを懐に入れる。
「あ、おっ母さん。喜助と市に行ってくるよ。夕餉には戻ると思うけど」
「おや、そうかい。楽しんで行っておいで」
登代には至って普通に受け答えをされたが、声音が何かを含んでいるように聞こえた。それはきっと、碌でもないものだ。
千代は緩く頭を振って、どこか母らしくない声音を忘れるよう努めた。
紺屋町に戻ると、店から少し逸れた日陰に喜助が立っている。
「あれ喜助、そんなの持ってたのか?」
「親父のを仕立て直したんだ。若い頃に仕立てたやつだったから、ほとんど直さなかったけどな」
「家で染めたやつかい?藍が見事だね」
市までの道を駄弁りながら歩いていく。近づくにつれて人だかりが多くなり、千代は少し足を取られながらも喜助についていった。
「手ぇ繋ぐか?はぐれるだろ」
「そんな年じゃないよ。もう十なんだから」
「じゃあもっと端に寄れ。真ん中を歩くから押しつぶされるんだ」
おっ母さんみたいなことを言うなあ、と千代は言われた通りにする。
藍玉で染めた無地の着物を追いかけながら、人の波から抜け出せたことに密かに安堵した。
賑やかな大通りの向こうから、啖呵売の呼び声が聞こえる。市はもうすぐだ。
「あ、麻布だ」
「絹じゃなくていいのか?麻なら家にあるだろ」
「絹も見るさ。でも上物の麻だってあるって聞いたからよう、触りたいじゃねえか」
「わっかんねえなあ」
喜助は首の後ろに手をやって、一挙に並べられた織物にはしゃぐ千代を見た。しかし、その目に呆れは浮かんでいない。
「喜助だって、阿波で作られた藍玉があったら興奮するだろ。それと同じだよ」
「……まあ、そういうこともあるかもな」
「それ、どこの麻だい?」
「おう嬢ちゃん、お目が高いね。この青苧なら出羽のもんだよ。桐生の絹、出羽の青苧って具合でな。しかも米沢の麻ときた。
ここじゃ50で売ってるが、ウン。嬢ちゃん器量良しだから30にまけてやろう!どうするね?」
「そんじゃあ……」
「千代、行くぞ」
「え?」
懐から財布を出そうとすると、喜助に腕を引かれ店から引き離されてしまった。
売り子の男はつまらなそうに目を眇めたが、すぐに切り替えて、呼び声を張り上げ始める。
「なあ、どうしたんだよ。そんなにつまらなかったか?だったら他の店にでも……」
「あれは出羽じゃねえ。別のところのもんだ」
思わぬ言葉に千代はへえ、といった顔をしたが、やっぱり分からず首を傾げた。
「なんでそんなことが分かるのさ。調べたわけでも、ましてや触ったわけでもないのに」
「米沢で作られた麻は、藩で全部管理しているはずだ。仮に藩の元で出荷されたものだとしても、京都と奈良の市場に出されるんだよ。間違っても、東にまっすぐ来る訳がねえ」
「……あたしは騙されたってことか?」
「そうなるな」
千代はうろうろと目を泳がせ、やっと合点がいったようで大きなため息を吐いた。
「……おっ母さんだったら、あんな間違いしないんだろうなあ」
多分。きっと。千代は一度触れたものでないと、布のピンキリを把握できない。要は経験の差だ。一介の古着屋でも、麻の産地くらいで騙されることはないだろう。
「あたしは今日はもういいや。喜助は治助の土産を買うんだろう?そっちに行こう」
「……ああ、そうするか」
喜助は千代を一瞥したが、結局それに乗っかることにした。
千代はさっきのため息をなかったことにして、威勢よく一歩を踏み出した。
ぶつん。
「いてっ」
「っおい、大丈夫か!?」
「鼻緒が切れただけだ。悪いけど、土産は喜助が見てきてくれないかい?あたしは市から離れて待ってるから」
しかし喜助は首を振った。
「帰るぞ」
千代はさっきみたいに思考を停止させ、このままじゃいかんと無理やり動かす。
喜助はその間に市から離れさせ、道の端に千代を座らせた。
「何言ってんだい。喜助だって見たいものはあるだろ。気なんて使わなくても、あたしは待ってるし、その間に鼻緒を直してるよ。さっきだって喜助の足をとめさせて、つまらんものを見せてたし……」
「自分の好きなものを、つまらんなんて言うなよ。二度と家の染め物使わせねえぞ」
「んなっ!?言葉の綾だろう!?」
喜助のあまりにも惨い通告に、千代は目を剥く。
そんなに怒らなくてもいいじゃないか。喜助にとっては本当のことだろうし。
「それにお前、血が出てるだろ。鼻緒を直したってしょうがないじゃないか。治助からは俺が言っとくから、家帰って手当してもらえ」
喜助に至って冷静な正論をぶつけられ、千代は喉の奥をぐうと鳴らすしかない。
一方、喜助はしゃがみこんで千代の足から草鞋を脱がすと、それを帯に結び背中を向けた。
「ほら」
「いや、ほらじゃないよ!?あたしを何歳だと思ってんのさ!」
「十になったばかりのひよっ子」
「それはそうかもしれないけれど!」
「お前なあ、このまま草鞋を履いて帰るとどうなると思う?」
「……分かったよ」
傷が膿むのは勘弁だと千代は喜助の背中に乗り込んだ。
市中の人間がこちらを見ている気がする。ああ恥ずかしい。
「そんなことは全くないぞ」
「知ってるよ!」
喜助はできるだけ細い道を通りながら、桔梗屋の方に歩いていった。
千代の手は特別だ。ならば、足はどうだろう。言われたことはないし、聞いたこともないが、もしも同じくらいに敏感だったら。
あの怪我は、計り知れないほど深い痛みをもたらすものだろう。
喜助には、その感覚が分からない。分からないから、想像するしかない。針の刺傷は、刺身包丁で刺されたくらいだろうか。もっと酷いかもしれない。過剰なほどでちょうどいい。
そうでないと、自分はきっと千代をひどく傷つけてしまう。
喜助はそれが怖かった。
せめて気を逸らそうと、別の話題を考える。千代はあれから黙ったままだった。
痛みを我慢しているのか、羞恥に悶えているのか。
「千代は、家の跡を継ぐのか?」
「ん?ああ、そのつもりだよ。……まあ、おっ母さんには遠く及ばないけれど」
そうか、と喜助の静かな声が響く。
右足の親指と人差し指の間が、じくじくと痛い。喜助がいなかったら、家に着くまでどれほどの時間がかかるのか。
「喜助も、親父さんの店を継ぐんだろ?上手いもんな、染め物」
「上手ければ、店を継いでいいのか?」
「うーん、店によるんだろうが、上手くないより上手い方が絶対いいだろ。店の看板になるんだから」
「親になりきれなくても、いいのか?」
その言葉に、心臓が跳ねた。どうだろう。分からない。おっ母さんの背中には追いつきたいけれど、まだ指1本触れられてない。そんな奴が、喜助に意見していいのだろうか。
どうにも口を開けなくて、沈黙を作ってしまった千代に、喜助は再度口を開いた。
「悪いな、変なことを聞いた」
「あ、や、違うんだよ。ただ、言葉を探してただけでさ。
あたしはおっ母さんみたいになりたいけれど、追っつけなくて、だから喜助に言うのも変だろう。そういうのは別の人に聞いてくれ。あたしには、まだ無理だ」
無理だよ。商人にも、職人にもなれないあたしは、宙ぶらりんなんだから。
「別に、なんなくたっていいじゃねえか」
「へ?」
喜助は言葉を整理するように口をもごもごやって、静かに言葉を紡ぐ。
「お前の反物に対する熱も、手先の鋭い感覚も、お誂え向きだろうけどよ。誰もおばさんみたくなって欲しい、なんて言ってねえよ。桔梗屋の跡継ぎでも、機織り職人でも、誰かに言ってみりゃいい」
おばさんなら、聞いてくれるだろ。
ぽつりぽつりと千代の耳に入ってくる台詞は、ゆっくり胸の内に染み込んで、千代は少し涙が出た。
今まで誰にも話してこなかった。この感情は、自分だけのものだと蓋をして、誰にも触らせてこなかった。
喜助とは3年しか違わないのに、嘘の混じらない言葉と背中が暖かい。
ずるいなあ。
大人みたいな顔をして、千代をいとも容易く引っ張りあげる。
適わないなあ、とも思ったけれど、その感情は苦しくもなんともなかった。
###
「そら、ついたぞ。痛くてもちゃんと手当しろよ」
「言われなくても分かってるよ」
これには治助も辟易するだろうな、と思いながら背中から降りる。
「今日はあんがとな」
「おう。これからも染物は使わせてやるよ」
ふは、と千代は吹き出した。軽い冗談が、耳に心地よかった。