2つの着物
店の奥に引っ込んでいた千代が、登代に指示を仰ごうと顔を出すと、やけに疲れきった十六ばかりの女性がしきりに頭を下げているのが見えた。
しかし、その表情は綻んでおり、悪いことではないと予感させる。
「すみません、いきなり飛び込んできて着物の出処を聞くなんて……。本当に、ありがとうございました」
「そんな、顔を下げなさんな。どんな事情かは知らないけれど、力になれて良かったよ」
「い、いえ……。私はこの町をよく知らなかったので、ここに辿り着けて良かったです」
本当に、良かった。女性はそう呟き、くすんだ梔色の麻の葉文様が入った着物を風呂敷に包む。それを丁寧に抱え込んで店を出ていった。
「切羽詰まっていたのって、これが原因だったのかい」
「そうらしいね。詳しくは知らないが、大事なものだったらしいじゃないか。綺麗な絹の反物だったってのに、持ち主に見つかるまでに痛んじまってさ」
「絹?」
そんな上物、店に出していたかしら。否。いくら布の状態が悪くとも、自分が種類を間違うなんてあり得ない。
「ねえ、おっ母さん。昨日干した反物って、もう店に出したのかい?」
「いや、まだだよ。これから縫い合わせるところさ」
じゃあ、あれは。
千代の脳裏に、一昨日の売買の様子がまざまざと思い出された。
同じ色の、同じ紋様。そして大きさも同じ着物が2つ。でも確かに、手触りが違った。
「おっ母さん、あれ違うよ! 絹の着物じゃねえ、なんの糸かは知らないけれど、違うものだ!」
「なんだって!?」
「呼び戻してくる!」
千代は母の返事も聞かずに店を出た。左右を見渡すと、さっきの客の後ろ姿が見える。人混みに紛れつつあるが、まだ追いつける範囲だ。
「待ってくだせえ! えっと、あーと……なんて呼べばいいんだい!」
名前が分からないので、どうにも呼び止められない。さらに言えば、この客は千代の声を知らないため、いくら叫んでも振り返ってはくれないだろう。
千代が悩んでいるうちに、2人の距離はどんどん開く。そりゃそうだ。6年分の差があるもの。黙ったままじゃ、千代は用事を果たせない。
「あ、あのー! お客さーん!? 古着の桔梗屋の者ですけどー!!」
当然ながら、通り過ぎる人々もこちらに意識を向ける。ああ恥ずかしい。
しかし千代が顔を真っ赤にする甲斐あって、本命の客は足を止めてこちらを振り返った。
「ええと、私?」
「はい、そうです! あ、や、すいません。大声で呼び止めちまって。買った着物に不備があったみたいで、店の方に来てもらえませんか?」
「まあそんな! もちろんです、お願いします」
女性はあっさりと頷き、千代の後に着いていく。
だが、店の前まで来たところで、女性は急に足を止め、1寸たりとも動かなくなった。
「お客さん、どうしたんです?」
「あのう、着物の不備と言っておりましたよね? もしかして、買い手がついていたのでしょうか……」
女性は消え入りそうな声とともに俯く。それを見た千代は、安心させるため元気よく答えた。
「そんなことではありませんよ。ただ、同じような着物が2つ流れてきて、お客さんの探している方は店の奥にあるのに気づきまして」
「まあ、それで……」
「ええ、絹の着物で合ってますよね?」
「そうです、それです!」
上手いこと説明できたように思える。千代は早々と安心した。
一時はどうなることかと思ったが、これで一件落着だ。
「すみませんね、お待たせしてしまって」
「いいえ、とんでもないです」
店の中で待っていた母との会話を聞いていると、女性は随分と丁寧な口調で話していると千代は気づいた。どこかの豪商の娘だろうか。
本来所望した着物を仕立て直すため、登代は居間に戻る。奥の座敷で茶と茶請けの饅頭を出されたが、2人して向かい合って座ると沈黙が痛い。
千代は自分の湯のみに口をつけながら、話題の切り口を考えていた。
千代は、根っからの職人気質だと自覚している。二足の草鞋を履いている登代を幼い頃から見ていると、すごいなと思うと同時に、追っつけないなと肌で感じてしまうのだ。
父は、千代が幼い頃に失踪したという。亡くなった、と言わないところがミソだ。
気丈に振る舞っている母も、夫の面影を探しているに違いないが、なんせ店のことも家のことも一身に背負っているのだ。
恨みつらみで探している可能性もある。
1人でおっ死んで逃げるなよという気迫が感じられるので。
そんなわけで千代は母に頭が上がらない。それに加えて、客ごとに沈黙と発言の比率がちょうどよいときた。
千代は毎日、その背中が遠いことを突きつけられてる。諦めるのは性にあわないが、どうしたって上手く口が回らない。たどたどしいという評価も、ずばり的を射ていたといえる。
ほら、今だって。湯のみの茶を飲んでるふりして、降り積もる沈黙を一掃できていない。
やだなあ。
嫌だなあ、と千代は思った。
店主の登代に、店を継ぐと啖呵をきったのだ。
それをなんだ、気質がどうとかグチグチ言いやがって。
諦めるのは吐くほどやって、脛を蹴られて、突き落とされてから考えろ。
千代は下唇をぺろりと舐めて、湯のみを置いた。座敷に上がってから、まだ数十秒のことだった。
「そういや、何か大事なものだったんです?あの着物」
この際、知らぬふりも方便だ。どうせ大差ない時間だもの。
誤差だと自分で言い張って、大義名分に忙しい。
ええい、うるさい。どっかの将軍サマだって、大義がなけりゃ生きてけないのだ。ハリボテだってなんだって、戦うきっかけが欲しいだけ。
「ええ、大事なものなんです。それこそ、命の次に」
千代が一人相撲をしている最中、娘が口を開いたので、それは永遠にお開きになった。
予想以上に重大で、どことなく物騒なものを匂わせる事情に、意図しなくても肩肘張ってしまう。
「お茶の片手間にでも聞いてくださいますか?誰かに聞いてほしいところでしたから」
「そりゃもう」
千代は饅頭に手をつけず、湯のみを両手に持ってきろりと相手の顔を見た。
こちらから吹っかけたんだ。あちらが気を負わない程の誠意は見せても問題なかろう。
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「あの着物は、母の形見なんです」
母は私が幼い頃に病で亡くなりましたが、生前の思い出は覚えているんです。
祭りのときは一緒に夜店を回ってくれたり、私の好物をたびたび作ってくれたりしました。
そんな母が一等大事にしていたのが、あの麻の葉の着物なんです。
なんでも、母方の祖父母は紺屋を営んでいたらしく、母の成人祝いに絹の反物を染めて、仕立ててくれたと言っていました。
事が動いたのは、母の葬儀が終わり、私が父方の親戚に引き取られたときでした。唯一持っていたあの着物を、あろうことか質屋に預けると言われたんです。
同居していた父もそれに賛成していました。たしかに、あの家は決して裕福でなく、そこに私が転がり込んできましたから、厄介者と思われていたのでしょう。
成人してから質屋に赴きましたが、もう売り払われた後でした。
それでも、私は諦めきれませんでした。
母が亡くなる直前、「ねね」と名を呼び手を握ってくれたことが、今でも忘れられないのです。
奉公先で得たツテをかき集め、今まで探し求めてきました。
明日は、母の7回忌なんです。どうかそれまでに着物を取り返したくて、あのように押しかけてしまいました。
「ですので、どれほどお礼を言ったらいいか……。あなた方は恩人です、本当にありがとうございました!」
「やあ、そんな恩人なんて。そんじゃあ、あたしも追いかけた甲斐があるってもんです」
千代はへらりと、ねねに笑いかけた。ねねもそれに微笑んだ。
手に取った饅頭はあんこの甘みが強く、登代が入れた緑茶によく合った。
「お待たせいたしました。昨日から洗い張りをしたので汚れは落ちていると思いますが、色の方はどうも……」
「ええ、ええ。大丈夫です。手元に戻っただけでもこんな喜びはないというのに、また着られるなんて……。色があせてしまっても、あの梔はこの手にありますもの」
結果的に二度手間を取らせてしまったため、店の外まで見送ることとなった。
橋の方へ去っていくねねの姿が小さくなるまで、登代と千代は頭を下げ続ける。
「……それにしても、あの着物はなんだったのさ。触ったこともなくて、危うく間違える所だったじゃねえか」
「ありゃあきっと、上布の類だよ。質屋がごまかしたんだ」
登代が苦々しく、それはもう悔しそうに言った。
「麻でも上級のものだからね。店にはめったに出回らないうえ、状態がよければ傷んだ絹と変わり映えしない。能登か近江か──どこのものでも質は一級。間違っても店先に吊るすもんじゃない」
「じゃあ、しまい込むのかい」
「まさか。ここぞというときに出すのさ。あれは当分、看板商品になるね」
登代の表情が若干悪いものになり、頭ん中でそろばんを弾いているのが透けて見える。
「おっ母さん、顔が怖いよ……あいて」
余計なことを言うなと頭を叩かれて、思わず見上げると、登代の顔は強ばっていた。
「おっ母さん?」
「千代、さっき差し出した着物はたしかに、色あせていたね?」
「うん? ああ、そうだと思うけどな。ところどころ白んでいたから。おっ母さんも見ただろう?」
「梔色は、いくら色あせても、変わらないものなのかい?」
千代の脳天からザーッと血の気が引く。同じく登代の顔も、わずかに青ざめており、同じことを考えていると悟った。
これは、由々しき事態である。
「そうだ、紺屋。紺屋の喜助に、聞いてくる」
「る」の文字を言ったときにはもう、千代は走り出していた。