桔梗屋
古着屋の娘は奔走する。
店から店へ移っては走り、戸を叩いて所望の品を探し回った。
着物の裾をたくし上げ、草鞋で擦り切れそうなほど駆け回る姿を見た通行人は、何事かと目を留める。
周囲の反応など知ったことか、と娘は空を見上げ、薄橙に染まり始める雲を睨んだ。
「絶対に、見つける」
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「お千代、お千代! ……全く、あの子はどこに行ったんだい」
簪できっちりと結い上げた女性__名を登代という__がため息を吐くと同時に、襖がすらりと開いた。
「どしたの、おっ母さん」
「まぁたそんな所にいて。おいで、お客だよ。そろそろあんたにも家のことを教えなきゃあ」
端切れを溜め込んである押し入れから出てきた娘を見て、もう一度ため息を吐いてから手を招く。
それを見た千代は、不服そうに唇を尖らせながらも従った。自分の宝物をぞんざいに扱われるのは気に入らなかったが、ようやく店のものに触ることができるのだ。
「ね、ね。手伝うのって着物を出す方?」
「最初っから勘定をやらせる訳がないだろう。特にあんたはそそっかしいんだから」
登代は千代を窘めたつもりだったが、本人には何も効いていない。それどころか目を輝かせ、今にも小躍りしそうに千鳥足になっている。
「今だけ落ち着きなさい。じきにお客の目の前だよ」
「あいおっ母さん」
店の邪魔になると注意すれば、あっさりと頷き、たちまち歩行も細やかなものになった。
商売には滞りないが厄介なものだ、と登代は密かに呆れる。
千代は物心ついたときから反物に興味の全てを注ぎ込んでいる。
同じような年頃の子どもは、外へ出て遊んでいるのに、何が面白いのか千代は売り物にならない端切れを大切に持っている有様だ。
せめて家が呉服屋だったら。
古着よりもずっと良いものに触れさせてあげられたのに。
娘の趣味を根底では否定せず、このときばかりは生業の矮小さに歯噛みした。
「大変お待たせしました。ああ、衣替えを。この時期になると虫がねえ……ええホントに」
母が常連客に駄弁りを交えつつ、注文を聞いている。千代はそれを聞きながら、たしかこの女性は娘がいたな、と思い返した。
昨日、質屋からの流れ物で麻の葉文様の着物を手に入れたはず。
脇に置かれている戸棚をちらちらと眺め、どこにしまったっけな、と目で探していると、母から声がかかった。
「お千代、帯出してくんな」
「あいな」
時間切れである。客の方に視線を戻すと、群青色で無地の布地を持っていた。
「登代ちゃん、そんな帯なんて」
「いいのいいの。ほら、昔っから家で買ってくれるし。お祝いだと思ってさ」
母がお客の少し膨れた腹を愛おしそうに見つめる。
ははん、お子を授かったんだな、と千代は勘づいた。
おっ母さんは情に厚い。家にたびたび寄る客は、常連がほとんどだ。その全員に帯をあげちゃあ、店はあっという間に傾いちまう。その塩梅が難しいんだな、と千代は思った。
「杏色と水色、他にもこんなのがありますけど。どれに致しやしょう」
帯くらいは柄があった方がいいだろう。麻の葉や観世水、露芝の紋様が付けられているものを多めに持ってきた。
ゆくゆくは赤ん坊のおしめになるのだ。いくら襤褸になったって、あんまり派手じゃあ悪目立ちする。
「まあ……」
お客はそう零したっきり、帯を見つめて沈黙した。時折目当ての品を見比べるように忙しなく目が動く。
千代はよかれと持ってきたが、これが初めての手伝いである。勝手を間違えたかもしれん。
やらかしたかな、と千代は冷や汗をかいた。初めてだってなんだって、お客には関係ないことである。もしや馴染みの客を逃すやもしれない。
たっぷり数十秒の間を置いて、二児の母になる客は、七宝の紋様が入った水色の帯を手に取った。
「これが好いわ。ごめんなさいね、目移りしちまったもんだから」
「や、そんなら良いんです。ありがとうございます」
お客が代金を支払い、親子揃って会釈をするとカラコロと下駄が遠ざかっていく。
千代はようやく息をついた。生きた心地がしなかった。
ちょうどお昼どきに差し掛かったもんだから、当分新しい客は入ってこないだろう。
鰻が食べたいなあ、と唾を飲み込んだところで母に頭を叩かれた。
「なんだい、あの応対は。たどたどしくって見ちゃいられなかったよ」
「んなこと言われたって、これが初めてなんだよ。知ってるだろ」
「客にとっちゃあ、初めても何もないんだよ」
言われなくても知ってらあ、と言い返したいのをぐっと飲み込んで、素直に謝る。
登代が昼食を作りに奥へ引っ込んだところで、千代も出してきた帯をしまいにいった。両手に触れる空気が生ぬるい。じきに雨が降るだろう。
今年の水無月に十になった千代は、家の手伝いを本格的にさせられる運びとなった。
家の生業は古着屋で、江戸の下町で賑わいを見せる店のひとつである。たまに上方の下がりものを調達する登代の店は、いわゆる庶民の味方というやつだった。
千代にとってはこんな喜ばしい家業はない。着物と一括りにいっても、多種多様な種類があり、飽きがこないのだ。手に取っても、色合い、紋様、布地の手触りは全く違う。
つい先日まで齢1桁だった少女の興味が反物とは特異にも程があろう。本人はそれをよくよく心得ていた。
「そういやおっ母さん、あの麻の葉文様の下がりもの、どこにしまい込んだのさ。箪笥の肥やしじゃ仕立て屋だって浮かばれないよ」
「なぁに生意気な口叩いてんだい。それならまだ並べられないよ。素材はいいが、だいぶ汚れちまってる。朝に洗い張りして、裏で干してるよ」
千代の頭ん中に、ぱっと先ほどの嫌な感覚が甦った。
「すぐに取り込まないと! じきに雨が降るんだから」
「手で分かったのかい?」
「うん」
なら部屋干しに変更だということで、二人して裏の庭に向かう。
空は雲ひとつない晴天で、雨の1粒も予感させない。
それでも2人は迷いなく梔色の布地を取り込み、部屋で同じように干し直した。
今日は先勝だからか、午後になると客の入りが極端に少なくなる。店に来るだいたいが冷やかして終わるため、商売にならないのだ。
登代の抗議でようやく彼らも散り、さてひと段落といったところで、ぽつりと地面に染みができる。
それはぽつ、ぽつと段々多くなり、すぐにザアザアと激しい雨音が響くようになった。
2人で食事をとりながら、登代がなんとなしに言う。
「相変わらずだね、あんたのその手は」
「うん。下手な日和見よりも上手いだろ」
「……千代」
「いけね」
母からの鋭い声に思わず首を竦ませる。天気を予測できる職人である日和見は、航海に欠かせない者の一人である。
売り子であり、職人気質でもある登代は、その仕事を軽んじるような発言を許さなかった。
千代の持つ触覚は、五感の中でも特に秀でており、空気の感触でさえ掴んでしまうほど敏感なものである。
絹をより滑らかに味わい、麻布の風通しの具合を感じ取れる能力は、登代の店に一役かっていた。ただ、恩恵ばかり得ることはできない。
千代が5歳の頃、居間に出しっぱなしにしていた裁縫道具で指を怪我したことがある。布地を仮止めしてあった、まち針に触れたのだ。
血が滲んだだけの、唾をつけるまでもない傷である。しかし千代は火がついたように泣き出した。
当時はこれぐらいで大袈裟な、と思ったが、それは大きな間違いだったと気づいたのは、今のように天候を予測したときである。雨も雪も、嘘のように当たった。
「千代、あんた日和見になる気はないのかい?」
「何言ってんだい! あたしはこの家を継ぐからね。そりゃ、あちらさんの仕事を引き合いに出したのは悪かったけどさ……」
「ま、あんたの好きにすりゃいいよ」
いつか千代の気が変わっても。邪魔も否定もしちゃいけねえよなあ、と登代は帳面に記録されている売上を思い出しながらぼんやり思う。
登代の店は、桔梗屋は、緩やかに斜陽の一途を辿っていた。