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甲板へと続く道。
等間隔に設置された燭台と、窓から差す月明かりによって照らされた道は、歩ける程度の明るさは保っているものの、月が雲に隠れてしまえば途端に暗闇へと変わってしまう程薄暗い。
頼りなく光る蝋燭は殆ど溶けており、殆どが光源としての意味を成していなかった。
取り換え時だな、とレオは頭の中で呟く。
すると、レオの向かう先、甲板へ出る通路の奥に、人影がある事に気が付いた。
その人影は、完璧に潜めていると思い込んでいるようだが、レオにとってこの程度の暗さは容易に見通すことができ、また、隠れているのが誰なのかも理解していた。
「...ヨル?何してんだよ、こんなとこで」
レオの視線の奥、甲板へ出た通路の横から見える人影へ、声を掛ける。
しかし、いくら待っても来ない返事に違和感を覚えたレオは、手の届く距離まで歩みを進める。
「もう寝る時間だろうが。また寝坊したって知らねぇぞ」
2度目の呼掛けにも、やはり反応はなかった。
流石に不審に思ったレオは、ヨルの隠れている通路の先を覗く。
「ヨル?」
覗いた先。
そこには、壁へ凭れ掛かるヨルが見えた。
レオの身長が高く、ヨル自身俯きがちになっていることで顔を見る事は出来ないが、この闇夜のような黒い髪の子供は、ヨルで間違いない。
再度、声を掛けようとした時、ヨルが小さく何かを呟いていることに気が付いた。
レオが耳を澄ました途端、ヨルの小さな呟きはピタッと止む。
「...なぁ。おれって、どこで生まれたんだ?」
「あ?どうしたよ急に」
俯き、表情の見えないまま語り出した唐突な質問に、レオは戸惑いを覚える。
「さっき聞いたんだ。子供を攫ったことがあるって...。その為に火を点けて回ったって!...その子供って、おれのことなんじゃないのか...?」
ヨルが声を荒げながら口にした言葉。
それは半分以上が真実であり。
その真実を知る者は、レオ以外殆ど居ない筈だった。
「...お前、それ誰に聞いた」
事と次第によっては、身内を疑う事も辞さないという覚悟を決め発した、低く響く言葉はしかし、ヨルには届かない。
何かを悟った様な声と共に、ヨルは俯いていた顔を上げる。
「!やっぱりそうだ。...の言ってたことは本当だったんだ...!」
レオへ向けられた視線。
大きく見開かれ、焦点の定まっていないヨルの目は、目の前にいるレオを透して別の何かを見ているようだった。
「なんで、なんでだよ...。せっかく、せっかくカッコいいって。おれも、そうなりたいって思ったのに!自分がバカみたいじゃんか...!」
ヨルの目は今、初めてレオをまっすぐ視界に捉える。
視線が交差したのも束の間、それは一瞬のうちに曇った様な目に戻っていく。
「そうだ、越えちゃえばいいんだ...。いまここで、おれが倒せばいい」
濁っている。
ヨルの目の奥に、別の誰かの意思が混じっているのをレオは今この瞬間、垣間見る。
「...お前、誰だ?」
「うるさい!!」
思わず伸ばしたレオの手。
それをヨルは容易く振り払うと、突然懐から短刀を取り出す。
「...おまえを倒せば」
普段と違う言動、虚ろな目に、レオは得心がいった。
ヨルを突き動かしているのは、何者でもないヨルの本心。
原理は不明だが、何か特殊な力によって心の奥に潜む本心を無理やり引きだし、暴走させているのだろう。
レオの知る者の中で、こんな回りくどい事をする者に覚えはない。
つまり、これは身内の外からの策略。
「それだけの力があれば、もうあんな嫌な思いしなくて済むんだ!!」
今日数回使っただけの、使い熟せる筈のない短刀。
それをヨルは、まるで使い方を熟知しているかのように構える。
ここまで使い熟せるのならば、昼間闘り合ったゴロツキ程度、簡単に切り伏せることだって可能性だっただろう。
だが、今この場に居るのは、それを素手で倒すことが出来る男。
短刀を奪い組み伏せるなど、造作もない。
レオは口角を僅かに上げる。
「いいぜ、来いよヨル」
しかし、あえてレオは動くことをせず、代わりに掌の内を大きく広げ、挑発するように振舞う。
それに応えるのように、ヨルは無防備になったレオの身体へ思い切り突き刺した。
「全っ然、効かねぇなあ」
レオの腹部に、紅い液体が滲み出る。
勢いの割にそれほど深く刺さらないものの、それでも半分以上がレオの身体へと突き刺さっている。
刺された本人からすれば、悶える程の痛みが襲い掛かっていることだろう。
しかし、レオはまるで効いていないかのように白い歯を見せ、笑みを浮かべる。
「お前の本気、こんなモンじゃねぇだろ?」
確かに、ヨルの構えは十分様になっていた。
格下相手ならば、その構えに恐れを成して逃げ出すかもしれない。
だが、それだけだ。
脅して、終わり、ただそれだけ。
それもそうだろう。
今のヨルは刃物という武器に踊らされているだけで、攻撃そのものには気持ちが全く篭っていないのだから。
現に今、殺す気で放ったはずのヨルの一撃は、刃先が触れる直前に手元が緩み、力がまるで入っていなかった。
いくら構えが完璧でも、殺る気のない攻撃を何度受けようが、斃る気は微塵も起きない。
なぜ気持ちが入らないのか、その答えはひとつ。
ヨルの心が、無意識のうちに力を抑えようとしていたから。
幾ら身体が操られていようとも、その原動力がヨル自身の心の叫びである限り、本気で向かう事など出来やしない。
また、それはこんな回りくどいことをした理由にも繋がってくる。
感情を引出すことは出来ても、心そのものを操ることは出来なかったのは、それだけヨルの心が強かったからだろう。
そこへ、追い討ちを掛けるように、確信を突いたレオの言葉。
動揺を隠せないヨルは、いつの間にか震えていた身体を止めることが出来なかった。
「...本気ってのはなぁ」
震えたヨルの両手。
そこへ、重なるようにレオの掌で包み込む。
「こうやるんだろうが!!」
短刀を握るヨルの手共々強く掴み、レオ自ら腹部へ深く突き刺す。
今以上の紅い液体が噴き出るも、それを些細な事とばかりに気にする様子を見せないレオの目は、しっかりとヨルへ向けられている。
「いいかヨル、よく聞け」
2人の視線が交わる。
ヨルの身体はこの場を離れようと藻掻くも、レオに掴まれた両の手は並大抵の力ではビクともせず、視線は釘付けのまま外すことが出来ない。
「確かに、お前を連れて来たのは俺だ。だが、俺が火を放った訳じゃねぇ。あの炎の中お前は...いや、なんでもねぇ」
いつかは話す筈だったものが、予定が早まっただけの事。
この先を話すことは出来ないが、いずれ知る時が来るだろう。
「もし、それでも俺を怨むってんなら」
ヨルへ向けられた、レオの視線。
それは、ヨルの心へ語り掛けるかの如く、まっすぐに向けられている。
「オレを超えてみせろ」
敵わない。
そう考えることすら烏滸がましいと思える程の力の差を、ヨルの脳裏に刻み込まれる。
それは、一定の位へ上り詰めた者だからこそ言える言葉。
その声がヨルの耳へ届く度、ヨルの身体は痺れ、ある感情が沸き立つのが分かる。
畏れとも違う感情。これは、そう、憧れ。
「今度は、正々堂々と闘ろうぜ」
それは、まるで無垢な少年のよう。
期待を裏切る可能性を微塵も考えないレオの眼に、抱いていた思いは更に強くなる。
気付けば霞がかっていた意識は晴れ、代わりにレオという大きな目標が、ヨルの心に大きく存在感を放っていた。
「なるほどな。そのミゲルって奴はまだそこにいると思うか?」
「わかんない。...けど、いるとおもう」
その後、ヨルは全てを打ち明けた。
昼間出会ったミゲルのこと。
クリスと出会ってから起きたこと。
話している内にヨルの目は熱くなり始め、自分が今何をしていたのか、はっきりと思い出す。
「お、おれ…!ごめ」
「あーヨル、それはいいから」
ヨルの口から出た謝罪。
しかし、それはレオの言葉によって遮られる。
「そういうのは明日、説教の時にでも全部聞いてやるから、な?」
「ふっ...なんだよ、それ」
普段と違う、不器用に気を遣うようなレオの声。
その不自然さに、ヨルの顔に自然と笑みが溢れる。
申し訳なさから出ていたヨルの涙は、いつしか笑い泣きへと変わっていった。
「さっさと顔洗って寝ろ」
「う、うん!」
既に時刻は深夜を回り、とっくに眠っている時間。
何時もならこの後駄々を捏ねる時間があり、無理やり自室へ連れて行くことも多々あった。
それくらいの抵抗は覚悟の上で口にした言葉、その予想に反しすんなり従い自室へ走っていくヨルに、少しだけ肩透かしを食らった気分になる。
「あーあとヨル、クリスって言ったか?お前は女だと思ってるみたいだが...。ありゃ男だぞ」
最後に、仕返しの意味も込めた置き土産を言い放ったレオは、ヨルの叫び声を背中に聴きながら街へ降りていく。
今日最期の後始末をするために。
月明かりと街の街灯が薄暗く照らす港町。
その中心に位置する、噴水広場へと真直ぐに伸びる道。
見上げる程高く昇っていた月は、今では手に届きそうなほどの高さにまで落ち、もうしばらくすれば家に隠れて見えなくなってしまうだろう。
昼間賑わいでいた市場の姿はなく、出店の跡だけが残る静かな道を、レオは歩く。
「随分と遅かったねぇ」
静寂を断つ、声変わり前の少年のような声。
その声は月の照らす方角、屋根の上から響いており、月明かりによって詳しい情報を得ることが出来ない。
辛うじて見ることの出来るその背丈は、ヨルと比べ少し高い程度で子供のように見えるが、声から感じる落ち着いた雰囲気は大人のようにも感じる。
歪。
少年のような黒い影に対して、レオはそんな印象を受けた。
「ヨルをここへ呼んだのはお前か?」
「あれ、君がヨルじゃないのかい?んー、まぁいいか」
レオは、ここへ来た目的を単刀直入に聞く。
声色から僅かな驚きの感情が伺えるも、逆光により黒く塗りつぶされた人影の表情は、一切動く様子はない。
「すまなかったね、うちのが悪さをしたみたいで。代わりに叱っておいたからさ、ほら」
黒い影の少年はそう言うと、手の様な形をした影を伸ばす。
掌の先が指す方向。
そこに、水溜りのようなものが見えた。
路地の暗がりに隠れて見えにくいものの、その水溜まりは赤黒い色に染まっていることが辛うじて見て取れる。
それは、とても見覚えのある色。
状況を察するに、恐らくこれが探していた男の成れの果てなのだろうか。
何か強大な力で押し潰された様な惨たらしい惨状に、背筋が冷たくなっていくのが分かる。
「お前...!そうか、お前があいつの言っていた...!」
「おぉ、ボクの事知ってるの?すごいねー。そっちにも優秀な預言者でもいるのかな?」
声を荒げ、両の拳を強く握り込むレオ。
それに対し、少年は全く動揺する様子はなく、終始変わらない落ち着いた調子で話を続ける。
「出来れば今日、彼...ヨルだっけ?を返してもらおうと思ってたんだけど...。もう少し預ける事にしたよ。...それに、もし君と闘るんなら、万全の状態で闘りたいしね」
「うるせぇ。預かった覚えもねぇし、返す理由もねぇよ」
レオの言葉に、少年は一言「じゃあね」と答え、月が完全に沈むと同時に溶けるように消えていく。
完全に消え去ったのを確認したレオは、一息つく。
あのまま闘いになっていれば、勝てるかどうか分からなかった。
先程、自分でつけた腹部の傷が疼く。
あれから止血はしたものの、流石にいま全力で戦うのには無理があった。
...良くて相討ち、といった所か。
そう独り言ちるレオは、傷に手を当てながら、明るくなりつつある空を仰ぎ見る。
久々に相見えた強敵との出会い。
いつもなら歓喜に打ち震えていたレオの心は、しかし、心が沸き立つことはなかった。
空に太陽が登り始め、辺りに陽が刺し始める早朝。
自室から甲板へ続く通路を、少年は服へ袖を通すことすらもどかしそうに走る。
向かう場所は、甲板の先。
そこには既に先客がおり、日々の日課である動きを卒なくこなしている。
薄らと汗をかいた、筋肉質な身体。
腹部には軽く包帯が巻かれ、しかしそれを気にする様子を見せない荒々しく、洗練された動きに、少年はつい見惚れてしまう。
しかし、今日はそれを観に来たわけじゃない。
自分も同じくらい、いや、これ以上の男になると決意したのだから。
少年は大きく息を吸う。
「おやじ、おれに戦い方を教えてくれ!そんで、あんたを超えるような、世界で1番すげぇキャラバンを作ってやる!」
少年の声に、男は動きをピタッと止め、振り向く。
「遅ぇぞ!さっさと準備しろ!」