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迷子の親探しを手伝うことに決めたヨルは、情報を集める為に人通りの多い場所へ向かった。
場所を人の賑う店や大通りを行き交う人に絞ることで、より多くの情報が得られると踏んでの行動だったが、結局それらしい人物の目撃情報は1つも得ることは出来ず、徒労に終わってしまった。
それもその筈。
ヨルは、自分なら解決出来るという根拠のない自信のまま飛び出していった為、肝心の特徴を聞いていなかった。
この港町の中でも特に人の往来が激しいこの場所で、ただ闇雲に聞き回っているだけでは見つかる筈もないだろう。
性別も不明な人物をそう簡単に見つけられる訳もなく、またその事実にヨルは気づかないまま時間だけが過ぎていった。
しかし、無駄に思えたこの時間も悪いことばかりではない。
警戒し、一切口を開くことのなかったその子は、強引ながらも親身に手伝うヨルと共に過ごす事で心を許し始めたのか、訥々と自分の事を話すようになった。
子供の名はクリスと言い、どうもこの港へ一緒に来た男と逸れてしまったらしい。
その男は噴水の前で待つように言うと、何処かへ行ってしまったという。
異を唱える間もなく行ってしまった為、クリスは仕方なく待つことにした。
しかし、いくら待っても戻る気配は無い。
クリスは朝から何も口にしておらず、空腹で倒れそうだった。
遂に限界を迎え、探しに向かおうと決意したところ、近くに漂う香りに誘われ気づけばヨルの前にいたという事らしい。
その子供、クリスの話す声はとても小さく、か細い声で所々聞き取れない箇所もあったが、想像で当てはめることで大体理解することが出来た。
多少の違いはあれど、大した差異はないだろう。
その後はクリスから聞いた情報を基に、改めて男の居場所を手当たり次第に聞いて回った。
先程と違い、見掛ける声も時折聞こえて来る様になり、2人は俄然やる気が湧いてくる。
しかし、聞こえてくる声はどれも「朝方みたような気がする」「この前むこうの店で見かけたかも...」といった曖昧なものが殆どで、そんな情報に振り回された2人は街中を歩き回る羽目になってしまった。
この港街はシス王国唯一の玄関口なこともあり、他国から来る者は必ずこの街へ訪れる。
異なる文化を持つ他の国には、この国にはない装いも多く、それにより普通の街ではとても目立つ異国の服装ですら、様々な国の者が入り混じるこの街では自然に溶け込んでしまっている。
その傾向は2人の探している男も例に漏れず、同じ特徴を持つ者はこの街に一定数存在していた。
そして、その事をヨル達2人は知らない。
太陽は傾き、辺りは夕日色に染まり始めている。
初めて歩く港町。土地勘もあるはずもなく、慣れない道にただ疲れだけが増していった。
昼間の威勢の良さはとうに消え失せ、不安に満ちた感情が顔に出ないよう必死に堪えるヨルと、変わらず俯いたままのクリス。
2人は、手を強く繋ぎながら当てもなく歩き続ける。
次第に人通りが少なくなり、2人は薄暗い路地裏へ迷い込んでいた。
普通なら近寄ることすらしないだろう道も、構うことなく進んでいく。
先に見える光が指す場所、薄暗い通りを抜けたところで遂に疲労が限界に達し、座り込んでしまう。
「ごめんな、見付けらんなくて」
ここが街のどの辺りなのか、自分がどこから来たのか。ヨルは随分前から分からなくなっていた。
後先考えずクリスの手を引き連れ回した挙句、自分まで迷子になってしまう始末。
不甲斐なさと、文句一つ言わず付き従ってくれたクリスに対する申し訳なさで自分に嫌気が差し、自然と目に涙が浮かぶ。
そんなヨルの表情を見たクリスは、繋いでいた手を両手で握り。
首を左右に振ることで否定の意を示す。
感情のままに揺らしたことで、今まで被り続けていた外套が外れ、隠されていた黄金色の髪が露になる。
陽に晒された肌は白く、中性的な可愛らしい顔立ちをしていた。
「お前、女だったのか...?」
今日一日見せることのなかった、初めて見る素顔。
名前から同性だと思っていたヨルは落ち込んでいた事も忘れ、思わず魅入ってしまう。
透き通るような碧い目に、陽に照らされ輝く黄金色の髪。
薄汚れた外套に包まれていたとは思えないその顔立ちに驚くヨルは、クリスが激しく首を振っている事にも気が付かなかった。
必死のアピールにも気づく様子がなく、クリスは仕方なく説明する為に口を開きかけた、その時。
「クリス様!こんな所に居られたのですね!」
道の先から、こちらを呼びかける声が聞こえて来る。
ハッと我に返ったヨルは、声のする側を見ると、1人の男がこちらへ向かっているのが見えた。
男は薄汚れた外套を羽織り、話で聞いていた通りの風体をしていた。
「私です、カレンでございます!いやぁご無事でなによりでございます。船の手配を終えて意気揚々とクリス様の元へ向かった所、御姿が見えないじゃありませんか!クリス様の身に何かあったんじゃないかと私、心臓が飛び出る程心配したんですよ!」
矢継ぎ早に話すカレンと名乗る男は、2人の元へ早足で近づいて来る。
聞いていた話から想像していた姿と、大きく乖離した姿にヨルは面食らってしまい、うまく言葉が出て来ない。
カレンが2人の目の前まで接近したところで、漸くこちらの存在に気づいたような素振りを見せた。
「船はもう到着しております、急いで船着き場へ向かいましょう。おや、貴方は...?」
「な、なんだよ」
無遠慮な視線を向けられたヨルは訝し気な表情を向けるも、カレンは気にする様子もなくこちらへ視線を近づける。
その視線はやがてヨルの着ていた船員服で止まると、値踏みするような目は蔑むような目に変わった。
「その服...まぁいいでしょう。クリス様を連れ回した罪。本来なら衛兵へ突き出す所ですが、今回は時間がないので不問としておきます。私の慈悲深き心に感謝するように!」
「は、はぁ!?」
人を犯罪者と決め付けるような物言いにヨルは苛立ち、声を荒げる。
しかし、ヨルの今日一日の行動を振り返っていくと、それが誘拐とそう変わらない事に気付く。
今日ヨルがしたことは、噴水の前にいた子供の手を引き、街中を連れ回しただけ。
見様によっては誘拐と取れないこともない。
その事実に気付いたヨルは、喉元まで出掛かっていた言葉を詰まらせてしまった。
「さ、クリス様。向かいましょう」
口を開けたまま固まるヨルを尻目に、クリスの腕を掴んだカレンは自分の元へ引っ張る様に引き寄せる。
クリスの身体は抵抗もなく引かれ、ヨルの掴んでいた手は緩み、抜けていく。
2人の手が離れる、その直前。
クリスの手が、微かに強張っているような気がした。
何も言えないまま、歩いていく後姿を憮然とした表情で見送るヨル。
固く握られた2人の手からは、もう二度と逸れることのないように、という強い意思が感じられる。
釈然としない気持ちが残るものの、探していた男には会うことは出来た。
自分が余計なことをしなければもっと早く出会えたかもしれないが、結果的に、これでよかったんじゃないか。
...出来る事なら、最後に別れの挨拶くらいしたかったな。
と、頭の中で気持ちを整理していた束の間。
頭の奥にほんの小さな、チクッとした痛みを感じる。
痛みは気にする程でもなく、少しの間堪えていると消えてしまった。
多少不審に感じたものの、特に気にすることなく、もう一度視線を2人へ向ける。
先程より2人の背中が遠くに見えるだけの、何ら変わらないはずの風景。
ただそれだけの風景に、ひどく違和感を感じた。
「なんだ...?」
その場で立ち上がったヨルは目を細め、違和感の正体を探る為に先に居る2人を注視する。
あの痛みで一度意識を切り替わらなければ見逃していたような、普段なら気のせいで済ましてしまう程の、小さな違和感。
この違和感を無視してしまえば、何か取り返しの付かない事になる。
そう、頭の中で何かが騒ぎ立てているような気がした。
不安と共に大きくなっていく違和感。
その違和感の正体に気づいた時。
先と変わらないはずの風景が、ひどく悍ましい物に見えた。
「な、なぁ。ひとつ聞いていいか...?」
この予想が正しかった場合、このままクリスを連れて行かれるのは絶対に不味い。
そう頭で判断する前に、ヨルの身体は呼び止める為に動き出していた。
「...なんでしょう」
カレンは立ち止まり、背を向けたまま答える。
「お前、どうやってここまで来たんだ?」
「...近くに居た方に聞いて来たんです。クリス様の髪は目立ちますからねぇ」
ヨルの感じていた違和感の正体。それは、何故クリスを見付ける事が出来たのかという事。
クリスは出会った時からずっと外套を被り続けており、身体を外に晒す事は1度として無かった。
それは、何かしら身を隠す必要があったのだろう。
にも拘らず、カレンは質問に対し「誰かに聞いた」と答えた。
隠す必要のあった特徴を、態々人に伝え探すのはどう考えても不自然。
また、あの人混みの中で人に聞いて探し回るのが不可能に近い事は、ヨル自身がよく知っている。
クリスの特徴を知っていて、且つ大々的に探し出す事の出来る者。
それは、クリスが身を隠す必要のある相手その人しかいない。
「クリスはおれといる間、ずっと外套を被ってた。髪の色が見えた奴はほとんどいないんじゃないか?」
今思うと、この男には初めから違和感を感じる部分が幾つもあった。
カレンの現れた時。
あの時カレンは、クリスの外套が脱げ、特徴的な金の髪が露になった直ぐ後に現れた。
今思い返せば、それは余りにもタイミングが良すぎるだろう。
まるで、クリス本人だと確認が取れたから近寄ってきたように思える。
その時、クリスに「様」を付けて呼んでいた姿を見て、クリスをどこかの子息、カレンはそれに仕えているのだと考えていた。
そんなクリスを広場で1人、長い間待たせるような事をするのだろうか。
そして、ついさっき2人が手を繋ぎ歩いていた後姿。
離れまいと強く握っているのだと思い込んでいた手は、クリスを逃がさない為に強く握っていたのではないだろうか。
ヨルの導き出した予想は飽く迄可能性の話であり、ヨルの考えの及ばない理由がある可能性も、大いにあった。
「......。」
カレンは、やがて言葉を詰まらせ沈黙する。
思い違いであればそれで良かった。
全てが勘違いであったのなら、ここにヨルの出る幕はなく、気持ちよくクリスを送り出すことが出来た。
しかし、先の答えでそれは確信へと変わってしまった。
嘘であってほしい。聞き間違えであってほしい。
そう願いも込めて、ヨルはもう一度、カレンへと問い掛ける。
「もう一度聞く、どうやってここに来たんだ?」
「...チッ」
僅かな沈黙の後。
カレンは小さく舌打ちを立て、不意に片手を挙げる。
それを合図に、物陰から3人の男が姿を現した。
「黙っていればいいものを...。本当に、馬鹿なガキですねぇ」
現れた3人の内、身体の大きい2人は両隣に守る様に、残る細身の男はヨルの視線を遮る様にカレンの前へ立ち塞がる。
「あのガキを痛めつけなさい」
「...一般市民への暴行は依頼に含まれてないので、別料金になりますが...。よろしいので?」
先頭に立つ細身の男が代表して答える。
その男達は皆、黒い衣服を身に纏い、黒で覆われた顔から唯一覗く眼孔により、不気味さが際立っている。
その不気味な様は、普通の者であれば恐怖で立ち竦み、身動ぎ一つ取ることは出来ないだろう。
しかし、ヨルには異様な格好の男達など眼中に無く、どうやってクリスを助け出すかに考えを巡らしていた。
「構いません。どの道、船に連れて行きさえすれば金はたんまり入るんです。二度と口を利けないようにしてやりなさい!」
「わかりました。...オレ1人でやる、お前らは手を出さなくていい」
会話する2人の様子を窺うヨル。
カレンは黒い男達への命令に意識が向いており、こちらを見ている様子はない。
その隙を突き、ヨルは走り出すと細身の男の横を抜け、その勢いのままカレンへと蹴りを放つ。
左右の大男は図体が大きい分、動きが遅いと踏んで後回しにするという半ば運に頼ったヨルの作戦は、予想が当たりヨルの足はすんなりとカレンへ届く。
顎を狙ったはずの蹴りは想定より低く放たれたものの、勢いの乗ったヨルの蹴りはカレンの腹部へ突き刺さり、そのまま吹き飛ばす。
虚を突かれたカレンは鈍い音を立てながら石畳の地面へ倒れ込んだ。
(いける!)
そう、心の中で叫ぶと共に、ほんの少しだけヨルの気が緩む。
ヨルは、地面へ倒れるカレンを最後まで見届けることなく、次の標的へと意識を向ける。
カレンへ放った蹴りの反動を使い、その勢いのまま背後にいるであろう男へ後ろ回し蹴りを放つ。
先程と比べ、より完璧な体勢から放つ蹴りに、ヨルは勝利を確信した。
しかし、その蹴りが男へ触れる感触はいくら待っても来ない。
「子供を痛めつけるのは趣味じゃないんだが...悪く思うなよ」
勢いのまま放った蹴りは空を切り、隙だらけになった背後から聞こえる、独り言ちた声。
その声に反応したヨルは、慌てて振り向こうと首を動かすも、既に男の腕がヨルの首へ添えられていることに気づく。
「あがっ!...は、なせ...よ、このっ!」
「咄嗟の動きは良かったんだがなぁ。ま、今日の所は諦めて寝とけ」
初めての対人戦に、初めて全てを1人で組み立てた作戦。
それら全てが容易に通用してしまったことで生まれた驕りは、意識を切り替えた程度では消えることはなく、また自分の犯した失敗に気付くことが出来なかった。
細身の男の腕は、まるで蛇のようにヨルの首を締め上げる。
ヨルは必死に手足を動かし藻掻くも、絞められた腕は予想以上に堅くビクともしない。
次第に意識が朦朧とし始め、ヨル自身の顔が青くなっていくのが分かる。
しかし、それでもヨルは足掻くことを止めない。
「さっさと眠っちまえば、楽になるぜ?」
「寝るのは、おま、え...だっ!」
ヨルは遠のく意識で力を振り絞り、懐に忍ばせていた串を手繰り寄せ、思い切り男の足へ突き立てる。
振り抜かれた串は、その鋭さを持って大腿部の中程までを貫く。
「いっってぇ!」
突然の痛みに呻く男はヨルの首から腕を放し、よろめき後退る。
解放され、地面へ転がり落ちるヨルは、荒い呼吸を繰り返しながらもなんとか体勢を立て直す。
「...あーむかつく」
男は突き刺さったそれを一息で引き抜くと、手の中で握り潰す。
力任せに引き抜いたことで紅い液体が噴き出て来るも、気にする様子を見せず顔をヨルへ向けた。
「...せっかく、楽に眠らしてやろうと思ったのに、よぉ!」
男は道の横幅ほどあった距離を一気に詰め、腕を振り上げる。
顔面へ振り抜かれる男の腕に既の所で気づいたヨルは、転がる事で回避する。
「逃げんじゃねぇ!!」
辛うじて避けたものの、息つく間もなく男の攻撃は続く。
未だ血の流れる足を男が気にする様子はないものの、痛みは感じているらしく、無意識に庇う足の所為で、身体が僅かに傾いている。
それにより重心がずれることで、力をうまく籠めることが出来ず、ヨルは辛うじて避けることが出来ていた。
しかし、先程のダメージが効いているのはこちらも同じ。
体力の限界を既に超えたヨルの意識は朦朧とし、ほとんどの攻撃を直感だけで回避していた。
「こんなガキ1人に手間取ってるようじゃ、金を払った意味が無いじゃないでしょう!この際殺しても構わん、はやくあのガキをやれ!」
道の端から聞こえる野次。
疲労で集中力が低下したヨルは耳障りな声に気が逸れ、思わず睨み付ける。
「よそ見していいのかよ、坊主!」
間近に聞こえる男の声。
足を蹴り上げる男の姿に、ハッと我に返ったヨルは慌てて頭を庇うも、その瞬間に感じる衝撃と浮遊感。
その感覚は、2度目の衝撃が訪れるまで続いた。
堅くも、柔らかくもある不思議な感触。
何かに衝突した感触はするものの、衝撃と痛みによって痺れた身体では確認することが出来ない。
「こんなチビ1人に梃摺るなんてなァ。ほら、手伝ってやるよォ」
痛みに呻くヨルの声を掻き消す様に真上から聞こえる、細身の男とも違う太い声。
その声の主は、地面に転がるヨルをまるで小石を拾うかのように軽々と拾い上げると、そのまま両腕を掴み羽交い絞めにして押さえつけた。
「掴んでてやるから、さっさとトドメ刺して終わらせようぜェ」
ヨルを軽々と持ち上げたのは、今に至るまで一切動く事のなかった大男の内の1人。
その身体は脂肪の割合が大きく、力自体は大して強くないものの、太さだけで言えばあの丸太のようなレオの腕と引けを取らない程。
そんな大男の包み込む様な弾力性、ヨルに蓄積された疲労も重なり、拘束されたヨルの腕は一切外れる様子はない。
「卑怯だろ!!離せよっ!」
「...恨むんなら、あの金色の坊ちゃんに出会ってしまった運命を恨むんだな。」
細身の男は溜息を1つ吐き、腰に下げていた短刀を腰だめに構え、走り迫る。
今までと違う、殺気の漂う動き。
これまでの攻撃は痛みを感じるものの、どこか温さがあった。
しかし、これは違う。
この攻撃には、一撃で仕留めるという、狩人にも似た雰囲気を感じられた。
それを感じたヨルは振り解こうと藻掻くが、その拘束が動く様子は一切ない。
疲労により力が入らない身体に、更に苛立ちと焦りが増していく。
そうしている間にも、ヨルとの距離は狭まっていく。
地を這うように走る細身の男から覗く眼孔は、ヨルの喉元へと一点に向けられている。
身じろぎ一つ付くことの出来ないヨルには、回避の仕様が無い。
眼前に迫る刃。
必死の抵抗も為す術なく、残る体力も尽きてしまう。
初めて間近に迫る死の恐怖に耐え切れなくなったヨルは、思わず目を強く瞑る。
視界が暗闇に染まる中、今日起きた事と、その後悔が走馬灯のように流れていく。
朝、寝坊して怒られたこと。
頼まれた仕事をやりきれなかったこと。
クリスを助けられなかったこと。
目前に迫る恐怖から逃避するように、ただ来るべき時を待つ。
瞬間。
風を切る様な音と、後から来た暴風に吹き飛ばされそうになるのをヨルは必死に堪えた。
しかし、いくら待てども来るはずの痛みは来ない。
恐る恐る目を開くも、細身の男は前方に見当たらなかった。
代わりに見えるのは
「 ヨル!頭ァ下げとけ!」
声を張り上げながら右腕を大きく振り上げる、ここに居る筈のない、レオの姿。
なぜここに。どうやって。
喜びと驚きが綯交ぜになった感情と共に、ヨルの頭の中で様々な疑問が湧き出るも、レオの言葉を遅れて理解したヨルは可能な限り頭を下げる。
「うぉっ、なんだおめえはァ!?」
突然の事態に狼狽した様子の大男は、身体が固まり動けない。
眼前に構えられた右腕の矛先が自分に向いている事に漸く気づき、慌てて守りを固めるも、既に振り抜かれた拳は大男の顔面を貫く。
直後に響く、空気を裂くような音と暴風。
鍛え抜かれた身体から放たれる威力は凄まじく、拳を直に受けた大男の巨体は地響きを立てながら地面へ倒れる。
「おっさん!なんぐっ...!」
「仕事サボって何やってるのかと思えば...ったく。お前、後で説教な」
レオは騒ぎ始めたヨルの口を掌で塞ぐと、辺りを見回す。
周囲の状況から大体の流れを汲み取り、大体の察しが付いたレオは呆れた表情でヨルの頭へ拳を落とした。
「レオ・バルバロス!なぜ貴方がここに...まあいいです。いくら貴方でも全員でかかれば、時間稼ぎ位にはなるでしょう」
カレンはその言葉と共に、指を鳴らす。
すると、路地裏の至る所から野蛮な雰囲気の者達が続々と現れた。
この場に現れた数十人の男達は、皆それぞれ得物を持ち、薄笑いを浮かべた下卑た表情でレオを囲む。
「お、おっさん...」
「チッ、話は後だ。お前は足手まといだから向こうで見とけ」
レオは、不安げな表情をするヨルの首根っこを掴むと、壁際へ軽く放り投げる。
体力が殆ど無いとはいえ、あれだけの大立ち回りを演じたヨル。
突然のことに面食らうも、すぐさま体勢を立て直し、特に危なげなく着地する。
それを見届けたレオは、胸一杯に息を溜め
「まとめてこいや腰抜け共がァ!」
響き渡る獅子の如き咆哮。
それだけで、圧倒的力の格差があることを周囲の者は思い知らされる。
未だ咆哮が辺りに響く中、レオは周りを囲む1人を徐に殴り飛ばした。
立ち竦む者達はすぐさま正気を取り戻すと、得物を振り上げレオへ向かって行く。
「す、すげぇ...」
斧、鉈、剣。
手にそれぞれ得物を持った男達を、レオは己の躰を用いて薙ぎ倒して行く。
その動きは正に戦い慣れた、流れるような動きで、横から眺めていただけのヨルには簡単な事のようにも思えてしまう。
しかし、その簡単な事がどれだけ難しい事なのか、レオという存在がどれだけ凄いかを今日、ヨルは身に染みて思い知った。
爽快感すら感じるレオの流れるような動きに、自分が戦っているわけではないのにヨルの身体は熱く滾り、握る掌に力が入る。
「...おれも。あんなふうに、なれるかな」
もし、自分がレオと同じくらい強くなれたなら。
今日の未来も変わっていただろうか。などと、詮無い事をヨルは考える。
身体が疼く。
ヨルだけが、ただ見ているだけの状況に逸る気持ちが抑えきれず、自分にも何か出来る事はないかと辺りを見回す。
すると、レオが戦う奥で怪しい動きをするカレンを視界の端に捉えた。
カレンは辺りをキョロキョロと見回しながら、クリスの手を引っ張りながら更に暗い横の路地へ消えていく。
陽は殆どが沈み、夕日色に染まっていた辺りも殆どが闇に染まりつつある。
このままカレンを行かせてしまえば、もう一度見付けるのは不可能に近いだろう。
レオに助けを乞えば、何とかなるかもしれない。
しかし、もし、こちらに気を取られた所為で何かあったらと思うと声が詰まる。
頭にクリスの顔が浮かぶ。
今日あったばかりの短い間だったが、ヨルにとって初めて出来た、同年代の友達と言える存在。
今この場に、すぐに動けるのはヨル1人しかいない。
しかし、ヨル1人向かった所で何が変わると言うのだろうか。
現に今、レオにそこで見ていろと言われたのは、役に立たないからではないのか。
言い訳のような言葉がヨルの頭に浮かび、弱気な感情が心を蝕む。
目を強く瞑り、大きく息を吐く。
あの時は、痛みから、恐怖から目を逸らす為に目を瞑った。
しかし今は、心を切り替える為に目を瞑る。
逃避する為でなく、覚悟を決める為に。
「おっさん、ごめん」
ヨルはそう呟くと、閉じていた目を開く。
開かれたヨルの眼には、今までの疲労を感じさせない程の、力強さが感じられた。
ヨルは近くに落ちている短刀を拾い上げ、カレンの消えた路地へと駆け出す。