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「くっそぉ騙された!こんなの終わるわけないじゃん!!」
悪態を吐きながらも、少年は甲板の上で必死にモップをかけていく。
レオから任された仕事。それは、船内を掃除することだった。
仕事の内容を聞かされた時、少年はこの甲板全てを掃除すればいいのだと勝手に思い込んでしまった。
船の甲板は端から端までかなりの距離があり、1人でやり遂げるには気の遠くなるような作業になる。
掃除は好きではないが、既に頷いてしまった手前、断ることは出来なかった。
大変な作業になるが、頑張れば今日中に終わらせられないこともないだろう。
さらに、誰も見ていない所での作業ならば、多少手を抜くことで陽の落ちる前に終わらせることも不可能ではない。
そんな狡賢い事を考えていたこともあり、少年はこの仕事を引き受けてしまった。
...あの時の自分をぶん殴ってやりたい。
少年は、そう心の中で呟く。
この仕事は想像より遙かに大変で、途中何度も心が折れかけた。
まず、掃除をする場所が甲板だけでなく、部屋、廊下等を含めた船全体だと聞かされたこと。
この時点で既に心は折れかけ、もう諦めようかとすら思ってしまった。
だが、諦めた時にするであろうレオの、馬鹿にするような顔を想像すると諦めるわけにはいかない。
それに、滅多に来ない外へ出る機会、一度失いかけたチャンスを逃すわけにはいかなかった。
おっさんが驚く位綺麗にして、ビックリさせてやろう。
...そして、こんな酷い目に合わせた事を泣いて謝らせてやる。
そう自分を奮い立たせ、立て掛けられたモップを手に取った。
次に心が折れそうになった問題は、船内がかなり汚かったこと。
大多数が男で構成されたこの船では、身の回りを清潔にしようとする物好きな奴など1人も居やしなかった。
船員室の扉を開けると、まず目に付くのは脱ぎ散らかされた衣服とゴミの山。
部屋中に漂う悪臭で鼻が曲がりそうになり、掃除どころじゃない。
なので、ひとまず後回しにすることにした。
全ての部屋の窓を開けておき、衣服を洗って干して一先ず終了。
あの酷い臭いさえ消えてしまえば、やる事は他の掃除とあまり変わらない。
それに、もう一つの問題と比べたら遙かにマシだった。
それは、掃除をしている間ずっと監視が付いていたことだ。
エルザは掃除の説明をした後、「私には、提案をした責任がある」と言い出し、どこかへ行ってしまった。
初めは手伝ってくれるのかと期待していたが、一向に戻る気配はないので、気にせず掃除を始める事にした。
それからというもの、ずっと誰かに見られているような気配が背後に感じる。
視線を感じることに気付いてからは、余計に気になってしまい、全然集中できなくなった。
振り返っても何も見えないが、気配は掃除の手を抜こうとする時に限って強く感じるので、こちらを見ているのはエルザで間違いないと思う。
掃除をする姿をずっと見られていると思うと、とてもやり辛い。
...監視されているせいで、手を抜いて早く終わらせる計画が実行できなかったというのもあるが。
甲板の掃除が粗方終わり、一息ついた頃。
今まで姿を消していたはずのエルザが、突然目の前に現れた。
「このままなら問題ないでしょう。私はこの場を離れますが、くれぐれも掃除の手を抜こうなんて変な気は起こさぬように」
抑揚のない声でそう言い放つと、少年の横を通り過ぎて行ってしまう。
少年は突然の事に付いていけず、唖然とした顔で見送った。
「こんな広い甲板をモップ掛けなんて、よくやるッスねー」
その後も、文句を垂れながらも真面目に掃除を続けていると、少年へ話しかける声が後ろから聞こえてくる。
聞き覚えのない声に振り返り、顔を確認するも、これといった特徴のない男の顔に見覚えはない。
だが、船員と同じ制服を着ていることから、この船の一員なのだろうと少年は当たりを付けた。
「オレ、感動しちゃいましたよホント!いやー、尊敬しちゃうなー!」
「何か用?用が無いなら邪魔だからあっち行ってくんない?」
終わる気配のない仕事量、そこへ突然現れた男の癪に障るような声が、少年の苛立ちを募らせる。
その苛立ちをぶつけるように、少し棘のある物言いで追い払おうとするも、男は素知らぬ顔でこちらに近づいて来る。
「いやね、さっきの話聞いちゃったんスよ。何度断られようと食い下がる、折れない心!目的の為、健気に頑張る姿!その姿、マジ痺れたなー!いやね、オレも最近この船に来たばっかで先輩方に絞られちゃって。ホントこってりと!そんな時、見掛けちゃったんスよ」
「...何が言いたいんだよ」
軽薄な笑みを浮かべたままペラペラと喋る男の話は次第に熱を帯び、留まるところを知らない。
その男の声と共に強くなっていく、モップを甲板へ叩き付ける強さが、少年の苛立ちを物語っていた。
「そんで、オレにも何か手伝える事無いかなーって。早く終わらせたいんスよね?...掃除、手伝わせて下さいよ!」
「え、...ホントに?」
その男の言葉に、少年の動きは固まる。
「ほんとほんと!オレ、嘘吐いたことないッスもん!」
「いやでも、そんなズルい事していいのかなぁ。エルザの姉さんも、ズルするなって言ってたし...」
男の提案に、少年は一度傾きかけるも、エルザに言われたことを思い出し既の所で堪える。
少年がおっさんと呼ぶレオには度々叱られることのあるので、あの拳骨の痛みはよく知っている。
それと比べ、普段から何を考えているか分からないエルザが怒る姿は未知数だった。
「大丈夫ッスよそれくらい!掃除なら今日中に終わらせとくんでバレやしないッスよ!それに...外、行きたいんでしょ?」
男の甘い誘惑に、頭に浮かんでいた不安は消し飛び。
少年は、遂に首をブンブンと大きく上下に振ってしまう。
「お前、いい奴だな!最初疑って悪かったな!」
「いいッスよそれくらい。あと、お前じゃなくてミゲルッス!」
「よろしくな!おれは、ヨルってんだ。手伝ってくれてホントありがとな!」
少年もとい、ヨルはミゲルに礼を伝え、軽い握手をすると出口へ一目散に走っていく。
桟橋へ無事降りたヨルは船を仰ぎ見ると、今まで乗っていた船の大きさに驚き、その船を外から見ることの出来たことに、得も言えぬ感情が沸き立ってくる。
その船の上方には、こちらへ大きく手を振るミゲルが見えた。