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地平線から太陽が覗き、空が朱鷺色に染まり始めた早朝。
雲一つない空には海鳥が鳴きはじめ、眼下には雲海が広がっていた。
ボーっと、野太い船の汽笛と共に目が覚める。
意識がはっきりとしないまま、ベッドの上で5、6歳ほどの黒髪の少年は、大きく伸びをして眠気を覚ます。
暫くぼーっと呆けていると、次第にはっきりとしてきた頭で今日するべき事を思い出していく。
「んーーっ...って、やばい!もう日が昇ってるじゃん!」
少年は窓から勢いよく身を乗り出し外の陽の高さを確認すると、事態の状況を再認識し焦りを覚えた。
すぐさまベッドを抜け出し身支度を整えると、一目散に部屋を飛び出していく。
この世界の殆どを占める白い海、雲海。
遠い昔、この白い海へ踏み入った者がまるで雲を踏んだ様に落ちていった事から、畏怖の念を込めてそう呼ぶようになった。
というのも、もう過去の話。
それから月日が流れ発達した魔導の技術により、雲海へ立ち入ることは出来ない、という人々の常識を打ち破ることに成功した。
雲海を縦横無尽に航海する事の出来る船。
それを、魔導船と呼んだ。
船の甲板には溢れ返るほどの人で犇めいており、皆一様に船首側を見つめていた。
その中には女性や年配の者も見受けられるが、殆どが筋骨隆々な男で占めている。
皆の見つめる先、そこには甲板全てを見渡せる程の高さの台に立つ、2人の男性と女性が見えた。
その女性は隣の男に負けないほどの高身長で、かっちりと整えられたスーツに身を包み、小麦色の長髪を後ろへ纏めた姿の、正に秘書然とした出で立ちをしている。
女性の名はエルザ・ブラン。
この場に似つかわしく無い程に細い身体で、自分の何倍もの大きさの男達へ拡声器を使って次々と指示を出している。
もう1人の男は、丸太のような太い腕を組み、足を肩幅ほどに開き立っている。
腕に血管を浮き上がらせながら仁王立ちで立つその姿は、宛ら仁王そのもの。
顔には程よく無精髭を生やしており、その男の佇まい、服の上からでも分かる無駄のない体格、雰囲気から、かなりの死線を越えている事がが伺えた。
名をレオ・バルバロス。この船での船長であり、このキャラバンの団長でもある。
この港へ着港したことで、船員へ指示を与えるためにこの場へ集めさせたのだった。
「3班と2班、依頼された荷物の確認と積下し作業を。それが終わり次第、出航までの3日間は休暇とします。」
数人の返事が聞こえると、指示を与えられた者達はこの場から去り、持ち場に向かい歩き出す。
それを確認したエルザは、拡声器を通しても尚変わらぬ抑揚のない声で、次の班へと指示を出していく。
淡々と事務的に指揮を執っていくエルザとは対照的に、時折舌打ちをしながら腕を組むレオの表情からは、苛立ちが募っていくのが見て取れた。
それは周囲の者ですら感じとれる程で、指示を与えられた者の中には緊張で声がつっかえる者もいた。
この場に居た殆どが指示通り持ち場へ向かい、人も疎らになった頃。
そこへ、一人の少年が走り向かってくるのが見えた。
「あっぶね!間に合ったー!」
「...間に合ったー、じゃねぇよこの馬鹿野郎!!陽が昇ってからどんだけ経ったと思ってんだ!」
演台の前まで走ってきた少年は、膝に手を付きながらゼーゼーと息をしている。
そんな状態の少年へ、今まで口を開かなかったレオは声を荒げながら近づいていくと、岩の様な拳を容赦なく少年の頭へ落とした。
「いってぇ!!なにすんだよおっさん!」
「何で殴られたのかはお前がよく知ってんだろうが!大方、昨日遅くまで起きてたんだろ。自業自得だ馬鹿野郎!...あと、おっさんじゃねぇ!せめて親父と呼べ!」
図星を突かれ、反論する言葉が見つからない少年は大きく動揺し、声を詰まらせる。
少年は、物心付く前からこの船で過ごし、レオを代表とした船員達を親代わりに育てられてきた。
その為、レオの反抗的な性格が似てしまったのか、何かと衝突してしまうことが多い。
今回は正論を浴びせられたが、それを認めてしまうのは釈然としないのでつい言い返してしまう。
そんな2人の口論で辺りが騒がしくなる中、エルザは我関せずといった様子で淡々と残りの者達へ指揮を執り続けていく。
「最期の班は船周辺の警備を。休憩は交代でお願いします。後日別の班が交代に向かうので、その後は休暇とします。...団長、全班員への指示、完了しました。」
「だいたいなぁ!おぉ、そうか。ご苦労だった」
エルザが船員への指示を終えた旨を伝えると、少年と諍いを続けていたレオは労いの言葉を伝える。
「本日の予定としましては、急ぎの要件が二件程ございます。組合から、とある方からの要請が一件。それから、領主から歓迎の挨拶をしたいとの事で、今日中に来るよう仰せ付かっております」
「そうだな。なら支度をして早めに行こうか」
報告を聞いたレオは、支度をする為に自室へ向かう。
すると、先程口論していた少年が憮然とした表情で大きく手を広げ、2人の前へ立ち塞がる。
「ちょっと待てよ、おれも連れてってくれる約束だったじゃんかよ!」
「はぁ?それは朝の練習に来れたらの話だろうが。寝坊してきたお前を連れてく道理はない」
レオは呆れたような表情で、目の前を立ち塞ぐ少年の言葉をバッサリと切って捨てる。
告げられていた条件を満たしていない以上、少年の要望を聞く必要はない。
正論を突き付けられた少年は、なんとかして認めてもらおうと必死に考えを巡らす。
「うぐっ。...じゃ、じゃあ、何か仕事をくれよ!他の奴らみたいに仕事を終わらせたら」
「やらんやらん、お前は船で大人しくしとけ」
頭を絞り出してようやく思い付いた代替案を、レオは膠もなく切る捨てる。
これ以上ない程に頭を使い捻り出した案を即座に却下されたことで、少年は深く打ち拉がれてしまった。
そこへ、今にも泣きだしそうな顔の少年を不憫に感じたのか、相変わらず抑揚のない声でエルザが助け舟を出す。
「団長、一つ御提案が」
「ん?...あぁ、なるほど。......わかった。お前に仕事をやろう」
「ほんとか!?」
耳と口の間を長く細い指で隠し、コソコソと少年に聞こえない声量で話す2人。
すると、今まで頑として譲らなかったレオは、あっさりと少年の案を認めてしまった。
突然の心変わりに不審に思いつつも、他に当てのない少年は、詳しい話を聞くまでもなく二つ返事で承諾する。
その様子を見たレオは、ニヤニヤした表情で話し始めた。
「そうだなぁ、お前の仕事はーー」