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シャルがこの町の領主と最初に関わりを持ったのは、確か歳がやっと十を数えた頃の話だ。
各地の領主や貴族たちは、年に一度行われる、各々の領地の近況報告と、皇帝と国を治める方針を話し合う定例会議に参加するために定期的に帝都へ足を運ぶ。
その際、機嫌取りと取り入りのために彼らは度々土産を持参していた。そのなかには、皇帝の一人娘であるシャルへの土産もしばしば含まれていた。
土産は様々で、地方の特産だという食材や街一番のパティシエに作らせたという菓子、色とりどりの宝石や装飾品、上質な糸で編み上げられたドレスなどなど。
しかし、シャルが一番気に入っていたのは、どんなに甘い菓子よりも、鮮やかな光を放つ宝石よりも、肌触りの良い上質な服よりも、そのアイガー・アディシャーク卿から献上される様々な本だった。
柔らかな絵柄をした優しい物語を紡ぐ絵本や、当時のシャルには難しい言葉で綴られている古書や専門書。年に一度のそれらを、シャルは毎年心待ちにしていた。
自由を与えられずに年月を過ごしてきたシャルにとっては本の世界がすべてだったのだ。
シャルが本を気に入っているという話を耳にしたアディシャーク卿は、それからというもの度々目ぼしい書物をシャルの元へ送ってくれるようになったのだった。
小さい頃、城に彼が来ていると聞いた時は部屋を抜けたしたりもした。そしてアディシャーク卿を探して、一緒に城の庭を散歩したり、書庫で本を読んでもらったりもした。シャルが抜け出したことがバレて居場所が見つかったとき、一緒に居たアディシャーク卿が自分が彼女を連れ出したのだと庇ってくれたこともあった。
最後に会ったのは確か二年ほど前だった。その頃には脱走を止め、彼から送られてくる本を自室で読みふけって過ごしていた。突然押しかけては迷惑がかかるかもしれないが、この状況を打破するためには致し方ない。
領主の邸宅前の門で警備をしていた私兵に領主へ謁見したいと話をつけ、中に通してもらった。
女中に案内され通された応接間で治療道具を借り、ここに来るまでに負った擦り傷切り傷を処置しながら待っていると、やがてノックが響き、ゆっくりと扉が開く。
「失礼致します」
中に入ってきたのは初老ぐらいの中背の男性だった。白に青と黄色のラインが入った長衣を羽織り、綺麗に整えられたやわらかい薄黄色の髪の上には長衣と揃いで作られたらしい同じ配色の小さな帽子を被っている。
扉を静かに占め、こちらを向くや否や、彼は目を丸くした。
「シャリオン様……!」
答えるように、シャルはソファーから立ち上がる。
「ご無沙汰しております、アディシャーク卿。不躾な往訪をお許しください。お恥ずかしながら、本日はお願いがあって参りました」
下腹部に両手を重ね、流れるような動作でシャルが頭を傾けると、傍に立っていたギルダーツも姿勢を正し、右手を左胸に添え同じように上体を倒した。
「とんでもございません。どうか頭をお上げくださいシャリオン様。私にできることでしたら喜んでお力添えいたします。どういったお話でしょう」
一度頭を上げ、一息間を置いてから、シャルはまっすぐにアディシャークと目を合わせる。
「恥を忍んでお願いいたします。どうか三日、いえ、二日で構いません。私たちを匿っていただけないでしょうか。物置でも牧舎でも、寝泊まりできる部屋が一室あれば大丈夫です。他には何もいりません。ですからどうか……!」
倒れ込むような勢いでシャルが頭を下げ、ギルダーツも続く。
「顔をお上げください。シャリオン様。貴方様が望むであれば、三日といわず七日でも、一月でも、ご滞在されるとよいでしょう」
ゆっくりと顔を上げると、アディシャークは柔らかな笑みをたたえていた。少しだけほっとして、こわばっていたシャルの顔が綻ぶ。
「大まかな話は聞いておりましたが、御身を案じておりました。ここまでの旅路はさぞ大変だったでしょう。ギルダーツくんも、元気そうで何よりだ」
「ご無沙汰しております。アディシャーク様。私のような一介の使用人を覚えていただけていたこと、大変恐縮にございます」
アディシャークは静かに礼をするギルダーツに穏やかな笑みを向けてから、次に白夜とテオにも顔を向けた。
「そちらの方々もお連れ様ですかな?」
怪しまれてはいなかったが、それでも若干の人見知りがテオの心を焦らせる。
「は、はい! えっと、テオドールといいます! お世話になります!」
ソファーから勢いよく立ち上がり頭を下げたテオの視界に、未だ隣に腰掛けたままの白夜の姿を捉える。
すでに半分以上意識が沈んでいる白夜は一人ソファーに座り込んだままこくんこくんと首を揺らしていた。
「ほら白夜さんも! お世話になる方なんですから、こういうときぐらい礼儀を尽くしてください!」
テオが慌てて白夜の腕を引いて立ち上がらせようとするが、白夜は腰をあげない。
「むり……、眠い……」
「白夜さぁん!!」
どうやらテオでは彼を睡魔の沼から引っ張り上げることはできなかったようである。テオはそれでも必死に腕を引っ張り続けるが、わずかに白夜の体が傾く程度だった。
アディシャーク卿は柔らかく微笑んで手をかざし、それを制す。
「構いませんよ。きっとお疲れなのでしょう。今部屋の準備をさせていますので少々お待ちを。食事ができるまでの間、お体を休めていてください。積もる話は、そのあとに」
「重ね重ね、ありがとうございます」
優しく微笑むアディシャーク卿に、シャルはもう一度、深く頭を下げた。