15
鎖のような音がした。視界にはなにも映っていない。
そう感じたことで、自身が気を失っていたこと、先ほどまで見ていたものが夢であったことを知る。
ゆっくりと目を開けてみると、肌に触れる空気がわずかに土のにおいと湿り気を帯びていることに気づいた。
少しぼけた視界を彩る色はモスグリーンばかりで、視界が晴れるまでは森の中にいるのではとさえ思った。
「ここ、は……」
目を擦ろうとして動かした右手が、動かない。同時にまた鎖のような音が頭上から落ちてくる。上を見ると、枷らしきものをつけられた両手が、骨組みのような金属のポールに括りつけられていた。その上ご丁寧に、枷は足首にも嵌められていて、身動き一つ取れない。
そうだ。アディシャークの妻子を助けようとしていたところに、ゼノが現れて……、捕まったのだ。
「……! ルシルっ!!」
この空間の中央に吊り下がっている唯一の明かりを頼りに目を凝らすと、だんだんと鮮明になってきた視界の端に簡素なテーブルが映り込んで、その上にある鳥籠に似た小さな格子の中でぐったりとしているルシルを見つけた。白い瓢箪のようなその体には白夜につけられた手枷に似たものが付けられている。
意識を集中させ、響鳴術を起動する。
しかし白夜の意思とは裏腹に、青く細く、小さな電流が周囲にちりちりと爆ぜるのみで、枷を壊すほどの威力は無い。何度やっても術が思うように発動しなかった。
───この枷のせいか……!
「くそ……!」
無理やり外せないかと引っ張ったり、腕に力を入れてみるが、無駄に頑丈らしくびくともしなかった。これはまずい。
枷と拘束から抜け出す方法を思案しながら、周囲を見渡す。どうやら今いるのはテントの中のようで、モスグリーンの色のテントはその色を利用して森の中に身を潜める際に使用されるもの。テントの隙間から入ってくる湿った土のにおいも合わせて考えると、ここは騎士団たちが駐屯している森の中、といったところか。
どういうわけか着ていたはずの外衣を脱がされているせいで少々肌寒さを感じる。
「お目覚めか、白夜?」
覚えのある声が左から聞こえて、白夜はすぐに首を回しながらその声の主を睨みつける。
ちょうど入ってきたところだったのか、テントの出入口の垂れ幕の傍に立っているのは間違いなくゼノだった。
「ルシルに何をした。シャルたちをどこへやった!」
低く唸るような白夜のセリフに、ゼノはくつくつと笑う。
「アレは紛いなりにも、いや、文字通り贋作でもれっきとした精霊だからね。僕達だってバカじゃない。それなりに用心はするさ。あの贋作とキミに付けたその枷は響鳴術を封じるためのものだよ。これでキミたちは響鳴できないし、力を使うこともできない」
響鳴術を封じる枷。予想通りの、しかし厄介なものを拵えてくれたものだ。彼の言う通り、今現在、白夜とルシルは響鳴出来ていない。わかりやすく言えば、気絶する前までは体内に確かに感じていた彼の力を感じない。
「安心しなよ。一緒にいたお仲間は無事さ。お姫サマはさすがにこんなとこには連れてこれないから、アディシャークの屋敷に閉じ込めておいた。明朝、夜明けとともにキミたちを連れて帝都に戻るよ。でも、その前に」
コツコツと靴音を立てて歩み寄ってきたゼノは白夜の顎を強引に掴んで固定し、彼の唇に自身のそれを押し付けるように重ねる。
「ん……!? う……!」
深く深く、貪られる。
手足を縛られている白夜は首を動かして顔を逸らそうとするが、ゼノに顎を掴まれているため適わない。
恐怖は無い。ただ気色悪いというだけの強い嫌悪から、白夜は口内を蹂躙するゼノの舌を思い切り噛んでやった。
狙い通り、彼はすぐに口を離した。気色悪い口付けに呼吸を阻まれていた白夜はげほげほと咳き込みながら生理的な涙を浮かべた目でゼノの様子を見ると、彼は痛みにひどく顔を顰めて口を抑えていた。そしてギロリとこちらを睨んだかと思えば、右頬に向かって彼の手の甲が飛んできた。凄まじい痛みが襲い来ると同時に、口内に鉄の味が広がる。口の中を切ったようだ。
そして間髪入れずワイシャツの胸ぐらを掴まれて引き寄せられる。眼前に迫る彼の目は血走っていて、顔はまた狂ったように笑っていた。そして湧き上がる興奮を抑えきれないというように、弧を描いて口端が歪む。
「いいぞ……! 実にいいザマだ白夜! 《あの日》からずっと、ずっと僕はこの時を待っていた!! キミの希望を奪い、心を粉々に砕き、その顔を絶望に染め上げるこのときをッ!!!!」
言いながら、彼は空いている手をルシルに向けてかざす。その手を中心に紫色の小さな響鳴陣が展開し、それに反応するようにぐったりしていたルシルが苦しげに呻きだした。
「うぐっ……!? う……、うあぁ……!!」
「ルシル!? ルシルっ!!」
呼ぶ声に応える余裕もなく小さな白い体がのたうち回るのを見た白夜は叫ぶように言う。
「止めろゼノ! 頼むから止めてくれ!! 頼むから……!!」
彼の腕をへし折ってでも止めたいのに、生憎と両手は動かないまま。
すると、ゼノは高らかに狂気の笑い声をあげる。
「っハハはハはははは!!! イイ子だ白夜!! 中々イイ声で啼くじゃないか!! あの小娘よりも、あの仲間の二人よりも、痛みに鈍いキミ自身よりも、そこの贋作を目の前でいたぶる方がキミには苦痛だろう?! 陽も差さないかび臭い牢屋でドブネズミみたいに過ごしてきたキミの、大事な大事なオトモダチなんだからさァッ!!!」
ルシルに向けられている手がぐっと握りこまれ、空気を握り潰す。
「がっ、あ……!! ……あぁあああぁああっ!!!」
「ルシルッ!!!」
一際大きく悲痛な叫び声をあげたあと、跳ね回るようにして転げ回ったせいでルシルを囲う小さな鳥籠の牢がバランスを崩して簡素なテーブルの上から落ちた。ガン、と音を立てて転がる鳥籠の牢の中では、ルシルが事切れたように動かなくなっている。落ちた衝撃で体のどこかを強く打ち付けたのか。
それとも───?
「ルシル……? ルシル! しっかりしろ! 起きろルシル!!」
何度名を呼んでも、ぴくりとも動かない。
「なんだ。もうくたばったか。人から造られたせいで耐久力はあまり無いとはいえ、紛いなりにも精霊のくせに、呆気ないな」
冷たく言い放つゼノの言葉も、白夜の耳には入らない。
彼に目をやると、青い瞳を見開いたまま固まっていた。まさしく絶望したようなその表情が、またゼノの快楽を刺激する。
「ああ、白夜。僕はキミのその顔が見たかったんだ」
悦に入り、恍惚とした表情で笑うゼノが不意に、恋人に睦言を囁くように耳元に口を寄せ、我が子に過去の残影を聞かせるように優しい声色で語りかける。
「ねぇ、白夜。覚えているかい? あの日のことを」
四年前のあの日。白夜とゼノが初めて出会った日。
帝国の科学研究班が熱心に弄り続けていた、非常に出来のいい被験体だという子供が、戦闘訓練のために騎士団の修練場に連れてこられた。
やっと十五を越えたかどうかというところの、伸びた髪は乱れ放題で、とても小さく、か細い体に布切れに近いボロボロの服を着た、ドブネズミのように薄汚れた貧相な子供。そんな子供が、信じられないことに修練場に屍の山を積み上げたのだ。
周りの隊長たちが情けなく後ずさるなか、当時十九歳で早くも頭角を現し、小隊長を務めていたゼノはその子供に興味を持ち、相手を自ら名乗り出た。
結果は、惨敗だった。
あまり歳の変わらないその人物は、三分も経たない間にゼノをねじ伏せた。弱いヤツは死ぬ。それが戦場に生きる人間の定め。だから死ぬのだと思った。こんなひょろひょろのガキに殺され、無様だと笑われながらあたりに散乱する屍の仲間入りをするはずだった。
なのに、
「……なのに、キミは僕を殺さなかった。 殺すどころか、反吐が出るほどキレイな笑みで笑いかけ! 楽しかったなどと宣った! あの時のあの侮辱だけは、絶対に許さない!!」
途端に腹の底から押し寄せるように湧き上がったのは、驚きでも怒りでもなく、どろりとした黒い黒い憎悪だった。
叩きのめして、見下ろして、圧倒的な強さを見せつけて、それでいて殺さない。それがどれほどの屈辱であったことか。
メンツなどどうでもいい。地位に興味は無い。 ただ相手を捻り潰し、勝つことこそが全てであったゼノにとって、これ以上ないほどの最大の侮辱でしかなかった。
「僕はキミが憎くて、大キライなんだ。だからね、」
ゼノが腰の短剣を引き抜き、ゆっくりと掲げる。
「僕の手でキミが傷ついて、絶望して、失意の底に膝をついたまま、永遠に僕の人形にしてあげる!!!」
短剣が迷いなく振り下ろされ、白夜の右肩に突き刺さる。
「うあああっ!?」
痛みが右肩から全身を駆け抜け、傷口から赤い血が滴り落ちる。
「ああ、最高だ……!」
顔を伏せ、歯を食いしばって痛みに耐える白夜に、ゼノが恍惚の表情で笑う。
「もっともっと、キミが苦しむ顔と、その綺麗な血を、僕に見せてよ! 白夜!」
容赦なく短剣が引き抜かれ、再び傷口が痛んだ。かと思えば、間髪入れずに今度は右足を貫かれる。
「ち、がう……」
力なく首を振り呟くが、聞こえていないのか、ゼノは返さない。
覚えている。ある日突然修練場に連れてこられて、ただ一言、戦えと言われて、兵士は武器を手に本当に殺す気で向かってきた。だから無我夢中で返していたら、いつのまにか、皆動かなくなっていた。
───違うんだ……。あのときお前を、殺さなかったのは……。
年の近そうな人間を初めてみつけて、ただ、友達になってみたかった。また戦いたかった。なのに、そんな幼稚な思いが彼を冒涜した。
彼の誇りを、侮辱していたのだ。
───ごめんな……。
ついに目尻に涙が光ったそのとき、テントの外で慌てたような声がいくつも飛び交っていることに気づいたゼノが動きを止めた。
わざわざ白夜を嬲る手を止めたのは、その騒がしい声に違和感を覚えたからだ。水を差されたことに対する苛立ちから舌打ちをして、ゼノは様子を見るべく白夜から離れていく。
そしてテントの垂れ幕を雑にかき分けると、薄ら寒い月夜の下をバタバタと行き交う兵たちに半ば怒鳴り散らすようにして声を投げる。
「おい。なにを───っ!」
彼の言葉を遮ったのは騎士兵ではなく、並び立つテントのいくつかが炎に侵されるようにして燃えていく景色と、右から空を切って迫る刃だった。不意打ちをかろうじて見切り、大きく飛び退ってかわす。
「貴様、何者だ……!」
体勢を立て直すゼノは目の前のその青年を、カイナを睨みつける。白い髪も、紅い双眸も、顔も服も覚えが無い。
「なに、名乗るほどの者じゃない。ちょっとした顔見知りたちがなにやら穏やかじゃない連中に連れていかれたようだったので、心配になって連れ戻しに来ただけだ」
おどけながら、ウインクを一つ。
他に仲間がいるという報告など受けてないが、ただの顔見知り程度で弱きを助けるという青臭い偽善からこんなところに飛び込んで来るバカがいるわけがない。
周囲ではまんまと奇襲に気づかなんだらしい兵士どもが術が使える者を中心にして火の手を鎮火しようと駆け回っている。
「カイナさん! こちらは粗方片付けられました!ギルダーツさんが早く白夜さんを連れて脱出をと……!」
カイナの後ろからテオが長いローブをはためかせて走ってきた。
よく見れば───命令で捕まえたやつの顔なんか一々覚えていないし興味無い───そいつは白夜と一緒に捕らえた他の二人のうちの片方だ。
「中に白夜がいるか見てくれ」
降ってきた攻撃を咄嗟に避けたため、テントの垂れ幕の前は陣取られてしまっている。く……、とゼノが歯を噛み合わせた。
言われた通り、テオはテントの垂れ幕をめくって中を見渡す。すると、奥で手足を拘束されている白夜を見つけて声をあげる。
「あ! い、いました! 白夜さん!」
すぐに飛び込み、駆け寄った。
「白夜さん! ご無事ですか?!」
「テ、オ……? どうやって……」
ゆっくりと向けられた目は失意に覆われ、声に覇気がない。
「カイナさんが助けてくださったんです。裏通りから兵士たちに運ばれる僕達を見ていたらしくて、気になって後をつけてきたと」
それが嘘か真かはわからないが、ともかくこうして脱出に力を貸してくれたのだ。今は何も言うまい。
たった今つけられたばかりなのか、右肩と右足からは今も出血が続いているが、治癒術を扱えるのはシャルだけだ。歯がゆくも思いながら、今助けますから!とテオは彼の腕を縛る手枷に手をかざし、目を閉じる。
大きく息を吸って、集中して、短く息を吐く。
「えいっ!」
威力をコントロールし、小規模の響鳴術を起動して枷を壊す。続けて足の枷も壊すと、テオが声をかける前に白夜は飛びつくようにルシルに駆け寄る。
「ルシル!」
枷が取れたおかげで響鳴術は使える。鳥籠の牢を壊してルシルを救い出し、小さな体を抱きしめた。
「ごめん……! ごめんな、ルシル……!!」
かろうじて気絶しているだけみたいだったが、愛嬌のある丸い顔は苦しそうに顰められている。
「白夜さん、今は早く脱出を……!」
すぐ近くで鉄と鉄が空を切り、ぶつかり合うような音がする。ゼノとカイナだろうか。
一度取り上げられていたがカイナの助力により取り返した荷物に紛れていた彼の外衣を肩にかけてやりながらともかく急かすと、白夜はルシルを抱きしめたまま立ち上がった。こちらへ、と彼を先導しながらテントを出る。
途端に肌に覆いかぶさってきた熱風に顔を顰めていると、ちょうど目の前にカイナが飛び退ってきた。腰を上げて構え直すその手には彼の得物である大剣が握られている。
そして、カイナが険しく見据える先には、大きな両刃剣の柄と柄を繋ぎ合わせたような武器を手に鋭くこちらを捉えるゼノが小さな声でなにか悪態をついていた。
カイナは目だけを横に滑らせて言う。
「白夜も動けるな? こちらは思ったよりかかりそうだ。先に行け」
「でもこんな敵地の真っ只中にお一人では……!」
周囲の火の手が収まり始め、手が空いた騎士兵たちが加勢しようと集まり始めている。
食い下がるテオを右手で制し、白夜が頷いた。
「分かった。世話をかけて悪い。でも必ず生き残れ」
「白夜さん!」
「この騒ぎが知られれば、連中はきっとシャルだけでも帝都に送還しようとすぐに町を出る。そうなれば、オレたちの旅にもはや意味は無い」
その通りであると理解出来てしまったのだろう。テオは言葉を失い、俯いてしまった。
「ありがとう、テオ。私は大丈夫だ。騎士団の隊長相手に負けるような腕で、君たちを助けに来たりなどしないさ。さあ行け! 手遅れになる前に!」
カイナが大剣で宙を薙ぐ。その刃先から彼の響力が三日月を象りながら地面を抉る。芽吹く草花を犠牲にしてしまうのは心苦しいが、その下にある砂粒を巻き上げ、煙幕となる。
「待て白夜!! くっ!?」
ゼノが腕を顔の前に持ち上げる。奪われた視界のなかでは白夜たちとの距離は測れない。
「いくぞテオ!」
「はい! カイナさん、絶対死んじゃダメですよっ!」
「ああ。善処しよう!」
善処かよ。
白夜の呟きが聞こえたのかは知らないが、彼の笑った声が聞こえた気がした。彼に背を向け、二人は砂粒の煙幕の中を突っ切る。
ひたすら走ったさきには響鳴術で騎士兵を吹っ飛ばしているギルダーツがいて、こちらを確認するや否や、やっと来たかと言いたげな呆れた表情で息をついた。そして周囲に敵影が無いことを確認し、白夜とテオが数メートル先まで近づいてきたところで彼も先頭を走り出した。
「遅くなって悪い。ギルダーツ」
「間に合わなかったら腹いせにあなたを殺します」
振り返らずに投げてきた返答に白夜ではなくテオが苦笑する。それから白夜の腕の中にいるルシルが視界に入った。目が覚めないのか、まだ少しぐったりした様子だ。
「白夜さん。ルシル様は……」
「大丈夫だ。息はある。今オレの力を流してるから、もう少ししたら目を覚ますはずだ」
「そうですか……!」
まるで自分のことのように辛そうにしていたテオの表情が和らいだ。
相変わらず、優しいやつだ。と白夜もまた微笑んだ。
夜闇よ、まだそこにいてくれ。
上弦の月よ、どうか融けないでくれ。
鈴の転がるような声で笑い、そよ風の波に揺蕩う花のようなあの笑顔を取り戻す、その時までは───。




