12
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屋敷の一番奥。テーブルやらシャンデリアやら洋服箪笥やらテーブルランプやら、あまりそういったものを見たことがない白夜やテオにもそれらが傷一つつけるのも恐ろしいほどに高い品々であることがわかる。それらが放置された物置部屋の片隅に、地下へ続く隠し通路があった。少女が出てきたためか開きっぱなしのその通路で地下に下ると、冷たく埃臭い、湿った空気に満ちていた。そのなかに錆びた鉄のような臭いも混ざっていて、あまり長居をしようとは思えない。
煉瓦だろうか、固く冷たい、閉ざされた空間。なぜだか頭が痛んで、白夜は顔を顰めて頭を押さえた。動悸がする。首を絞められているように、息が苦しい。嫌な汗が背中を伝う。
等間隔に並んだ蝋燭の燭台という簡素な灯りを頼りに進んでいくと、やがて左手側に格子が並んでいることに気づく。
「ここは……、地下牢……?」
暗いせいか、その空間を満たしているかび臭い空気のせいか、怯んだようなテオの呟きがやけに大きく聞こえた。
「地下、牢……」
白夜の脳裏にぐるぐるとなにかがよぎり、巡り、目が回ったようにくらくらする。かろうじて歩けてはいるが、少し足元がおぼつかない。
誰かがいる。誰かが叫んでいる。誰かが泣いている。傷だらけの誰かが倒れている誰かを庇って、
それで───。
「よくもガキを逃がしたな! この……!」
「うっ!」
なにかを殴るような打撃の音と、痛みに呻く声が耳に届いて、白夜は我に返った。
「ママ……!」
顔を上げると、暗闇の中へ走り出す少女の後ろ姿が見えた。少女が向かったのは、手前から二つ目の牢屋だった。鉄格子を握りしめ、中を覗き込んでいる。
白夜とテオもそこへ駆けつけ、薄暗い牢屋のなかを見やる。周囲の灯りは牢屋のなかの奥の壁に一つと、通路の壁に一定間隔で設けられている蝋燭の燭台しか無いため見えにくいが、通路と同じ冷たい煉瓦の箱の隅に、人らしき姿を二つ見つけた。
甲冑のようなものをつけた、どうやら男であるらしきそれの足元には人が力なく横たわっている。
「やめて! ママ……! ママ!」
少女を鉄格子が阻む。それでも彼女は泣き出しそうな声で叫んだ。暗がりの中の二つの影がぴくりと動いて、こちらを向く。
「お前たちは……!?」
「ニ、ナ……?」
男は驚いたように肩を揺らし、横たわっている影がよろよろと、まるで亡霊のように体を持ち上げた。一緒にジャラジャラと思い金属の音がする。おそらくは鎖だ。
少女の名を呼んだ声は掠れているが女性のものであった。彼女が顔を上げたことで見えなかった顔が牢の中の唯一の明かりである燭台の火に照らされてあらわになる。
齢三十前後ほどだろうか、美しい顔立ちに優しそうな目をしているが、その目はどこか濁っていて光が無い。顔や体にある殴られたような傷からは痛々しくも血が滲んでいて、豪奢な作りの服は土埃で汚れ、綺麗にまとめられていたのであろう髪の毛はめちゃくちゃに乱れている。
対し、甲冑を着た影が着ている服装と、その肩と背中に記されている紋章に、白夜とテオは見覚えがあった。
「どうしてここに騎士団の兵が……!?」
「クソっ!」
テオが間違いないと目を見開くと、その男は逃げるつもりか半開きになっている出入口の扉へ駆けてくる。
すると青白い閃光が男の目の前を駆け抜けて、次の瞬間その体は扉に届く前に青い電流に貫かれながら牢の奥へと吹っ飛んだ。壁に叩きつけられた衝撃かそれとも一瞬にして電流に意識をもがれたか、倒れ込んだ騎士兵が再び動くことはなかった。
まさかと顔を向けたテオの視界に、なにかを命じるように右手を前へかざした体勢で立っている白夜が映る。
「ママ……!」
「ニナ……!」
少女が牢の中へ飛び込むと、体が動かないのか、女性は這うようにして近づいてきて、少女と身を寄せ合う。小さな手を愛おしそうに握る手は傷だらけで、手首には手錠が嵌められていた。
「どうして戻ってきたの……!」
「だって……! だって、ママが……!」
泣きじゃくる少女につられたか、女性の頬にもまた涙が伝っていた。
「い、今助けますから!」
次いでテオが牢の中の二人に駆け寄る。
すると、首元のフードがごそごそと動き、耳元で焦ったようなルシルの声がする。
「おい。ここに騎士兵がいるということは、まさか……───!」
ルシルの言葉が途切れた。コツコツと響く足音を聞いたからだ。
それはやがて複数になり、大きくなり、こちらへ近づいていることを悟る。
「みーつけた」
「っ!」
かび臭い地下牢に響いた無邪気な声は、しかし裏にねじ曲がった狂気を孕んでいた。
白夜は構えを取りながら出口へと続く通路の奥に目を凝らす。次第にあらわになるその顔は、
「ゼノ……!」
獰猛な獣の目をした彼が含み笑いをして、不意に壁際へと移動した。すると薄暗い影からシルエットが三つ、無理やり前へ引きずり出され、その姿を壁の燭台のかすかな明かりが照らし出す。
「シャリオン様! ギルダーツさん! アディシャークさん!」
「貴様……!」
腕を縛られて拘束されているらしい三人に目立った外傷は見受けられなかったが、悔しそうに奥歯を噛み締めて俯いていた。アディシャークに至っては罪の意識か、ずっと顔を反らしたままでこちらを見ない。
脅しかけるように、騎士兵たちが三人に武器を向ける。
「あやつ、裏切ったか……」
アディシャークを睨むルシルの低い声が聞こえたらしいシャルが前のめりになりながら叫んだ。
「違いますルシル様! アディシャーク卿は家族を人質に取られていて……! それで……!」
家族、とは助けてを求めてきたあの幼い少女と、ついさきほど助けた女性──おそらくは彼の妻──のことだろう。白夜は牢の中にいる彼女たちを一瞥する。
申し訳、ございません……!とアディシャークが呟く。
「さあ、鬼ごっこはお終いだ。白夜」
完全に勝ちと踏んだゼノが愉快そうに口端をひん曲げて笑っている。
シャルを捕縛するのは彼女の父である前皇帝の命令だ。おそらく、騎士団たちは絶対にシャルを傷つけないだろう。ならば、強行突破はできる。
白夜の中にある最優先事項はただ一つ。自分と、ルシルと、シャルと、ギルダーツとテオの五人で、なんとしても、生きて逃げること。
避けられない犠牲だと割り切ってアディシャークとその妻子を見殺しにする覚悟を決めた白夜は、ここを力づくで離脱するために今から起こす行動を頭の中で思案し、順序だてていく。
しかしそれを阻むように、突如心臓が大きく脈打った。
「うっ……!?」
白夜はたまらず胸を押さえながら頽れ、膝をつく。
なにかに感づいたゼノは興味深そうに顎に手を添え、高みの見物のように白夜を見下ろしていた。
「白夜さん!」
───しまった……! もう夕暮れか……!?
地下であるここからでは外のことも時間もわからないが、この痛みが現れるのは決まって夕暮れと夜明けだ。それが今起きるということは、外は夕暮れなのだろう。
歯を食いしばり、激しい痛みに耐える白夜にテオはすぐさま駆け寄り、しっかりしてくださいと肩を支える。
「う、ぐ……ぅ……!」
「白夜くん……! 白夜くん!!」
メキメキという生々しい音を体から発しながら目の前で苦しみだした彼に何が起きているのかは分かっている。シャルもまた駆け寄ろうとしたが、肩や腕を押さえる騎士兵たちがそれを許さない。
「……ぅ……! ゲホッ! ゴホゴホッ!」
白夜の口から血が吐き出され、びちゃびちゃと不快な水音をたてながら膝元に血だまりを作る。牢の中でアディシャークの妻子がヒッと喉を鳴らし、震えているのがわかる。
耳元ではルシルの舌打ちが聞こえた。だが白夜の意思で止めることが出来るほど、コレは軽い現象ではない。
三分は続いただろうか。じわりじわりと痛みが引き、比例するようにして吐血も収まってくる。血混じりの唾液を垂らす白夜の喉がひゅーひゅーと鳴る。
そして鉛のように重い身体に違和感を感じることで、いつものように身体の造りが変わったことを悟る。
「は、あ……! はぁ……!」
「白夜さんしっかり……!」
立ち上がろうとこめた力はうまく入らず、膝元について体を支えていた右腕が頼りなく震える。
「へぇ。これが副産物であり代償か。初めて見た。結構エグいね」
血を吐く前よりも幾分か小さくなった体に、男性には無い若干の凹凸と緩やかな曲線が出来ており、髪も長くなっている。見世物を見るようにじろじろと白夜を観察しながら、ゼノは笑っていた。
倒れている場合ではないと白夜は再度体に力を入れ立とうとするが、既に意識は朦朧としていて視界も霞んでいる。
「く、そ……っ……!」
いうことをきかない体に苛立ち悪態をついてもこの状態では強がりにもならない。間もなく、ついに意識を取られた白夜の体が大きく傾いた。
「びゃ、白夜さん!? 白夜さん!」
「白夜くん!!」
テオが慌てて受け止めて揺さぶるが、すでに意識はなく、青い血色をした顔を汗が流れ落ちていく。
シャルが拘束を振り解こうともがくが、適わない。
「今ならヤツも暴れまい。こいつらも連れていけ。アディシャークは牢に閉じ込めておけ」
手際よく指示を出すと、後ろから手の空いている騎士兵たちがぞろぞろと歩いてきて、テオと白夜をそれぞれ拘束する。
「放してください! 白夜さん! 起きてください白夜さん! うわっ!」
捕まるまいと抵抗しながら再び白夜を揺さぶるが、反応はない。それでもその肩を掴んで呼びかけていると、騎士兵たちが強引にテオを白夜から引き剥がす。
支えを失った白夜はそのまま血だまりの横に力なく倒れ込んだ。
「おい白夜! 起きるのだ馬鹿者! 起きろ!」
倒れた白夜のフードから転がり出るように出てきたルシルが小さな手で彼の頬を叩くが効果は無い。
そのうちに、二人は騎士兵に囲まれ、担がれていく。
そんな……。どうして、どうしてこんな結末に……。
「……っ、……ごめん……なさい……!」
振り絞ったような震えた声が、下を向いたシャルの口から涙と共に零れ落ちた。




