第二話 二つの恋の終わり
エルギノスは、戦場から帰るといつもの様に挨拶回りをした。
長期の不在となると、どうしても留守中に様々な面倒を看てもらう先がいくつも出てくる。
手土産を提げて順に挨拶を済ませて行ったが、どうにも肩の凝る話で、最近になってようやく慣れ始めたとはいえ、やはりくたびれるのではある。
うんざりしながらも、それをおくびにも出さずひたすら愛想笑いを振り撒いて頭を下げ、とうとう最後の一軒となった。
ここはいつも最後と決めているが、だからといって、この訪問先を軽んじているのではなく、むしろ、挨拶回りにおけるほとんど唯一と言って良い楽しみなので、モチベーションを保つために、最後と決めているのだ。
それに、出来るだけ長く留まりたいので、次の予定を入れたくないからでもある。
総長室の重厚なデスクから立ち上がり、歩み寄って来たその女性は、彼より九つ上なのでもう三十六になる筈だが、相変わらずたおやかで美しかった。
そのデスクの上に、何やら立派そうな革装丁の薄い冊子が大量に積み上げられているのが気にならないでも無かったが、自分には関係無い物であって欲しいと、気付かないふりで挨拶する。
「ご無沙汰しています。お変わりはありませんか?」
彼が帽子を取ると、マーシアも再会を心から喜ぶ様に答えた。
「おかげさまで健勝に過ごしています。貴方も今回もご無事に戻られて、何よりです。」
そうして手土産を渡してから互いの近況を話し始めたが、聞き上手のマーシアに促されて、エルギノスは戦場での体験や見聞をどっさりと語った。
ひとしきり話し込んだ後、マーシアは唐突に切り出した。
「ところで、貴方もそろそろ身を固めても良い年頃ですわね。」
冊子の山に一瞬視線をやって、そらきた、と彼は身構えた。
「どなたか、心に決めた女性がいらっしゃるのかしら?」
彼は、曖昧に笑って答えなかった。
今ここで、正直に言って良い物かどうかの見極めがつかなかったからだ。
マーシアは、デスクに手を延ばすと、冊子の山から一冊を取り上げた。
やはりそれは、ポートレートの様であった。
「もし、いらっしゃらないなら、ここの卒業生で私が良いと思う方々を選んでみたので、ご覧なさい。」
そう言って差し出された革表紙を見たとき、彼の意思は固まった。
「恐れ入りますが、その件はご容赦下さい。」
その言葉にマーシアは、穏やかに微笑んだ。
「では、これという女性がいらっしゃるのね。」
「ええ、まあ。」
彼が曖昧な返事をした事で、彼女は面白そうな表情になった。
「立ち入った事をお尋ねして失礼でしょうけど、その方にお心はお伝えになったのかしら?」
「いいえ、まだです。」
はっきりとした答に、マーシアは子供を気遣う母の様な表情になった。
「そうですか。」
そう言って手にしていたポートレートを山に戻すと、言った。
「良い女性は引く手数多ですから、早めにお心だけでもお伝えしておかなければいけません。そうでないと手遅れになった時に心のやり場が無くなりますよ。」
その言葉で彼は、ついに決心がついた。
「それでは、お言葉に従いましょう。」
そう言って背筋を延ばすと、ゆっくりと告げた。
「マーシア・レ・アルキレイア、この先の人生を、私と共に歩んでは頂けませんか?」
彼女は、それをある程度予想していた様で、穏やかな表情のまま答えた。
「お言葉は、大変嬉しゅう御座いますが、ご希望に沿う事は出来ません。」
「何故でしょう?」
「私には既に良人が居ります。」
その迷いの無い言い方に、彼は失望しつつも挫ける事無く尋ねた。
「その方のお名前を伺っても宜しいですか?」
彼女は、些かの迷いもなくその名を言った。
「はい。我が良人は、カッツ・ディーワ様です。」
その答えに、彼は目の前が真っ暗になった。
それは、ある意味では薄々予想していた話ではあり、もし、『カッツ・マ・ディーワ』と言われても、ゆっくりと時間をかけて説得していこうと思っていた。
何より、カッツ叔父さんも、マーシアが自分に操立てして独身を貫くよりは、そちらを望むだろうと確信していたのだ。
しかし彼女の答は、予想していた『カッツ・マ・ディーワ』ではなく、『カッツ・ディーワ』であった。
それは単に『マ』が入るかどうか、というだけの話ではない。
彼女は、帝国の英雄でもなければ貴族でもない一人の男カッツを愛していると言い切ったのだ。
その想いの深さは、彼が翻意を促して良い物だとは到底思えなかった。
この一言で、十数年にも及ぶ彼の初恋は終わりを告げた。
「判りました。先程の言葉はお忘れ下さい。」
「ご理解頂いて、嬉しゅう御座います。」
そう言って彼女は丁寧に頭を下げた。
「今の私には、どの様な女性を選べば良いか見当も着きませんから、この話は沙汰止みとして下さい。」
そう言ってエルギノスが頭を下げると、マーシアは言った。
「こういう経験の無い貴方ですから、むしろここは誰かを選んでお付き合いなさるのが、宜しいかと。」
「でも、」
そう言い掛ける彼に、マーシアはポートレートの山を掌で示しながら提案した。
「この中から私が一人良さそうな女性を選びましょう。まずは、お付き合いしてみませんか。」
どうにも面倒な話だとしか感じられないが、この女性の勧めは出来るだけ断りたくない。
彼は暗い眼差しのまま答えた。
「お言葉に従いましょう。」
「貴方は、どの様な女性がお望みかしら?」
半ば自棄気味に彼は言った。
「では、貴女に似た方を。」
その答えに彼女の顔から笑みが消えた。
「気が変わりました。」
そう言ってポートレートの山を取り上げると、束ごと彼に押し付ける。
「ご自分でお選びなさい。ただし、」
そう言って凄みのある笑みと共に続けた。
「先程の様な失礼な理由でお選びにならない様に。」
明らかな怒りにほうほうの体で学園を後にしたのだが、困った事に、何が彼女を怒らせたのかが判らない。
勿論、最後の台詞が不味かったのは間違い無いのだが、その言葉の何が悪かったのかが判らないのだ。
実は、マーシアを怒らせたのはこれが二回目だった。
前に怒らせたのはずっと昔、少年時代の事である。
擦り傷だらけの顔で彼女の前に出た時に、その傷の原因を尋ねられたので、友人との喧嘩の話をした。
しばらく穏やかに聞いていた彼女の顔から、突然今日の様に表情が消えた。
怒らせたと気付いた彼は慌てて謝ったが、彼女は冷たく「理由も判らないで言葉だけ謝罪しても意味はありません。今日はもうお帰りなさい。」と言った。
帰宅してから彼は、何が彼女を怒らせたのかを必死に考えた。
どうしても判らなかったので、自分のした話と彼女の反応を順に思い返していった。
傷の痛みを語った時は、心から心配している様に見えた。
友人にひっ掻かれた下りでは、眉を顰めながらも同情してくれるのが判った。
そして、友人がどんなにひどいやつなのかを語り出したところで、彼女の表情が消えた。
つまり、友人の悪口を言った事を怒った訳だ。
改めて訪ねてそれについて謝罪したら、彼女は赦すだけでなく、よく気付いたと誉めてくれた。
あの時の彼女の輝く様な笑顔を見たときから、彼の初恋が始まったのだ。
今回も赦してもらうには、ともかく何故怒られたのかを理解しなければならないだろう。
そして彼は、必死にやり取りを思いだし反芻したが、やはり判らない。
困り果てた末に、彼の回りで女心が判ると思われるたった二人の人物の顔を思い浮かべた。
どちらにも、あまりこの話をしたくは無いのだが、背に腹は代えられない。
結局彼は、姉のブレシアに相談する事にした。
ブレシアは長子で、エルギノスとは七つ離れている。
幼い頃は、ほとんど不在であった父と、その名代として忙しく立ち働いていた母の代わりとして随分と面倒を看て貰ったために、未だに頭が上がらないので、相談するのは気が進まない。
それでも、さすがに恋愛絡みの相談を母にするのは、心理的に抵抗が大きすぎたのだ。
姉の嫁ぎ先を訪ねると、折よく義兄は外出中であった。
義兄は貴族にしては気さくな人物で、大いに気が合う相手ではあるが、やはり恋愛の話はしたくない。
ブレシアは、子供達を居間で遊ばせながら、話を聞いてくれた。
マーシアが怒った下りを聞いた姉は、感心した様に言った。
「さすが、マーシア様ね。」
どうやら彼女は、一度聞いただけで怒りの原因が判ったらしい。
しかもそれは、感心する様な事だという。
益々彼は、訳が判らなくなった。
「本当に判んない。何が悪かったんだい?」
「あんたには難しいかもね。」
歴とした帝国貴族と貴婦人の会話の筈なのだが、今でも二人だけになるとこうして地が出るのである。
「まあ普通の女なら、大概あんたの台詞で怒りゃしないし、むしろ顔には出さなくても喜ぶだろうね。」
「ふうん。じゃ、彼女は何が違うの、って言うか、どう『失礼』だったわけ?」
ブレシアは、昔のやんちゃ坊主を見る眼差しに戻って尋ねた。
「そもそも、『誰に』失礼なのか、判ってる?」
「誰にって、あの場には二人しか居なかったんだから、そりゃあ・・・」
マーシアに決まっている、と思っていたが、改めてそう問われると、自信が無くなってくる。
「よーく思い出して。他にその場に、何か無かった?」
「『何か』っていうとポートレートがあったけど・・・え?じゃあ、そのポートレートのお嬢さん達に失礼だって事?」
姉は満足げに頷いた。
ここに気付けばもう大丈夫だから、後は解説してやっても良い、と思った。
「あんたが言ったのは、そのレディ達をマーシア様の代用にしたい、って事よ。どう?失礼でしょ。」
「いや、そんなつもりで言った訳じゃ・・・」
そう言いながら、改めてあの時の気持ちを思い返してみると、確かにそういう意図が無かったとは言えない事に気付いた。
「さっきも言ったけど、並の女ならその言葉で嬉しくなる所よ。でも、あの方は教育者としての立派な信念をお持ちだから、そういう、何て言うかな、女を、それも可愛い教え子達をスペア扱いする様な発想が我慢ならなかったんだね。」
ようやく、マーシアの意図が理解できた彼は、青ざめた。
「すぐに謝らないと、」
と、立ち上がりかけた弟を制して姉は言った。
「待ちなさい。言葉だけで謝っても駄目よ。ちゃんと行動で示さないと。」
「どうすりゃ良いの?」
「まずはお言葉通りに、自分一人でどなたかを選びなさい。で、その上で報告すれば、あの方は、その結果を見てあんたが本当に理解したかどうかをお考え下さるわ。」
家に帰ったエルギノスは、書斎に籠ってポートレートの山と格闘した。
その女性自身と向かい合うというつもりで、家についての記載には敢えて目を通さず、本人の事項だけを読んでいったのだが、どうせ全員がそれなりの貴族の子女なのだから、経歴に大した違いがある筈もなく、趣味・特技くらいしか読む所がない。
それにしたって、まず突飛な物は(仮にあっても)書かれないのだから、結局の所、写真だけが手懸かりとなる。
マーシアに似た所を敢えて探さない様にしながら、それでも好ましく感じられる女性を選んでいった。
そうして、ついに三人に絞り込んだ所で、三枚のポートレートを前に考え込んだ末に、ローレア・レ・パライオニエを選んだ。
彼女は、軍務貴族の家に育っているので、軍人一筋で来た彼の話が理解できそうだったし、何よりその父のオルガノス・ヴ・パライオニエ准将が艦長だった艦に配属された事があるが、彼の目に映ったヴ・パライオニエ大佐は、マ・アルキレイアの再来と噂される、身分に拘らない本物の軍人だと感じたからだ。
「その方を選ばれましたか。」
マーシアは、その選択を特に意外だと思ってはいない様だった。
「差し支えなければ、お選びになった理由を教えて貰えませんか?」
そら来た、とエルギノスは緊張した。
「あー、その、何と言うか、一番話しやすそうな女性だったんです。」
まあ、嘘は言っていない。
「その方を写真で見ただけでそう思われたのなら、貴方の直感は大したものですね。ちょっと見直しました。」
内心で安堵の溜め息を吐く。
どうやら試験に合格した様だ。
「それでは、早速レ・パライオニエに連絡を取りましょう。」
こうしてエルギノスは、ローレアと交際を始めた。
しかしそれは、彼にとっては中々居心地の悪い話ではあった。
何故なら、彼はローレアと結婚する気は無かったからだ。
といって、他に狙っている女性がいるという訳でもない。
そもそも彼は、結婚自体する気が無かった。
マーシアが生涯独身を貫くのなら、自分もそうしようと思っていたのだ。
兄も姉も男子を一人づつもうけているし、弟もつい先日結婚した所なので、彼が独身に終わってもカ・ディーワ家が絶える心配はない。
そして、どうにもマーシアを忘れる事は出来そうもないので、それを隠して結婚するのは、さすがに相手が気の毒である。
後は、どうやってローレアを傷付ける事無くこの交際を終わらせるか、なのだが、いざ始めてみるとこれが中々難しかった。
特に、ローレアと打ち解けて話す様になってからは、そのハードルがより高くなってきた。
彼女を選ぶ際には、敢えてマーシアと似ていない女性を選んだつもりだった。
だから、ローレアも美人なのは勿論だが、面長で思慮深げなマーシアと丸顔で明るいローレアでは、目鼻立ちどころか顔の輪郭から違う。
しかし二人は、たおやかでありながらその中に強い芯が通っており、優しさと控え目さと共に、何にも敗ける事の無い強い信念を持つ、恐らくは類い稀な『本物』のレディであった。
つまり二人は、その内面においてそっくりだったのだ。
「あの・・・」
珍しくローレアが口籠る。
「何でしょう?」
「その・・・もし差し支えなければ、『エルギン様』とお呼びして宜しいですか?」
彼は、軽く微笑んだ。
「それは・・・困りますね。」
ローレアの表情が曇るのを見た彼は、言葉が足らなかった事に気付いて、笑いながら付け加えた。
「『様』は余計です。」
途端に、彼女の表情は輝く様な笑顔に変わった。
その瞬間に彼は、恋に落ちたと言って良い。
つまり私は、こういう笑顔に弱いんだな、と思わず苦笑を漏らした。
「あの、何か不作法を致しましたか?」
恐る恐る問い掛ける彼女に、穏やかな笑顔で答えた。
「いいえ、私自身の愚かさを笑ったのです。」
良くは判らないが、彼女はそれ以上追求するのは止めた。
それに気付いてから彼は、更に大きな課題を抱え込む事になった。
今までは、どうやって彼女を傷付けずに交際を終わらせるかだけを考えれば良かったのだが、今では自分自身がこの交際を続けたいと本気で感じている。
しかし、マーシアへの想いがローレアへの恋で上書きされたのならそれも良かろうが、困った事にマーシアへ向かう心も、その熱量を減じていないのである。
つまりは、マーシアを忘れたくないし、ローレアも手に入れたい、という都合の良いにも程がある望みが湧き起こってきたのだ。
彼は、自分の中にこんな『不埒』な欲求が存在するとは思っていなかったので、それをどう片付けて良いのか皆目見当がつかなかった。
いっそローレアに『乗り換え』てしまおうか、少なくともマーシアへの想いを行動に移さない限り、誰にも迷惑を掛ける事は無いのだし、と何度も思ったが、それはローレアを謀る事になるであろう。
では、当初の予定通り交際を終わらせるか、といえば、それも未練が断ち難い。
そうして、幾日も呻吟を続けた末に彼が出した結論は、やはりローレアを諦める他はないという事だった。
マーシアへの想いを心中に抱き続けていても、その事自体が誰かに迷惑を掛ける事にはならないが、このままローレアと交際を続ける事は、間違いなく彼女から幸せな出会いの機会を奪う事になる。
今や彼は、ローレアの幸福も本気で願っていた。
そして、ローレアの前で心を偽るのにもいい加減疲れたので、いっそ正直に打ち明けてしまおうと思った。
そうすれば、潔癖なローレアは彼の不誠実さに呆れて、多少は傷付くかもしれないが次の恋を探しに行く気になるのではないか、と考えたのだ。
「お話ししたい事があります。」
エルギノスの真剣な表情に、ローレアは居ずまいを正した。
「どうやら私は、貴女に本気で恋している様です。」
その言葉は、ローレアにとっては天にも昇る想いを起こさせたが、それを口にしたエルギノスの表情が、明らかな苦悩を示していた事で、彼女は湧き上がる歓びを懸命に抑えた。
「しかし、私の中にはある女性へのどうしても断ち切れない想いがあり、貴女一人に向かい合う事が出来ません。」
その言葉に彼女の眉が曇ったが、衝撃を受けた様子は無かった。
そして、彼女は探る様に言った。
「その・・・もし宜しければ、その方のお名前を伺えませんか?」
言い掛けた以上、最後まで言い切るのが義務であろうと、彼は言葉を続ける。
「マーシア・レ・アルキレイア様です。」
彼女の顔に浮かんだ感情は、驚愕でも嫌悪でも無く、むしろ同情に近かった。
「何となく、そんな気がしていました。」
と、静かに彼女は言った後、付け加えた。
「これも、もし宜しければですが、貴方はそのお気持ちをお伝えしたのでしょうか?」
ここまで言っておいて隠しだてをする事でもないので、正直に答えた。
「ええ、貴女を紹介される前に。そして、自分には既に良人がいる、と言われました。」
彼女は、得心が行ったという表情で頷いた。
「それで貴方はどうなさるおつもりでしょう?」
こういう質問は予期していなかった。
「いや、その・・・特にどうするつもりもありませんが・・・」
驚いた事に、この煮え切らない答に彼女は安堵の笑みを浮かべた。
「ならば、何も問題はありませんわ。」
「え?」
『何について』問題が無いのかさっぱり判らず、間の抜けた返事となる。
「私は、殿方の全てをこの腕の中に抱き留めておける、などと思い上がった事は考えておりません。エルギン様の中に確かに私と向かい合って下さる部分があるのなら、それで十分でしょう。」
あまりに意外な言葉に呆然となった彼は、思わず全く関係の無い突っ込みをしてしまった。
「ですから、『様』は余計です。」
そうして二人は顔を見合わせてどちらからともなく笑いだし、この話は終った。
こうして、彼の二度目の恋は終わりを告げて、二つの変化が起こった。
一つ目は、彼の二度目の恋は愛に変わったという事であり、二つ目は、ローレアの名が、ローレア・レ・ディーワとなったという事である。