第一話 その後
ヴェネビント戦役の戦勝十周年記念式典に向けて準備が始まった頃、デマントロスは、気になる話を聞いた。
トロワノスの末娘がまだ独り身のままだというのだ。
帝国では一般的に、『レ』は二十代前半で然るべき家に嫁ぐ物とされていた。
しかしマーシア・レ・アルキレイアは、二十代もそろそろ終わろうかというのに、何処へも嫁いでいないそうなのだ。
かつて宮殿の祭でマーシアを見た事があるが、その時の彼女はトロワノスに手を引かれてよちよち歩く子供だった。
その手を取るトロワノスの蕩けそうな表情に、この男はこんな顔も出来るのかと、驚きを覚えた。
それ以来、顔を見る機会は無かったが、トロワノスの娘が色々と(特に芳しからざる話を)囁かれているとなると、気にならないでもないので、その兄のトルバオスに尋ねてみた。
トルバオス・マ・アルキレイアは、恐縮しきりという様子で答えた。
「それが、何を言っても、その気にならない、の一点張りで御座いまして。その、何と申しますか、あれは父に似て頑固者で御座いますれば。」
頑固者の下りで、彼は思わず苦笑いした。
なるほどあのトロアンの娘だからな、と納得したのだ。
同時に、その変わり者の娘に興味が出てきた。
「では、余が話してみよう。連れて参れ。」
トルバオスはやや難色を示したが、勅言であれば致し方無い。
翌日、兄妹は御前に仕向した。
兄の後について現れた娘というには(帝国の基準では)些かとうの立った女は、それでも美しかった。
元々トロワノスが古傷がなければ端正な目鼻立ちだったし、その妻も絶世のとまでは言わぬにせよ、たおやかな美人であったのだから、その娘ならさもありなん、という顔立ちであった。
これなら後宮に容れても良いかとも思わないでも無かったが、あの時のトロワノスの表情を思い出すとそれも気が退けるので、言い出しはしなかった。
「何やら、結婚の事で兄を困らせておるそうだな。思うところがあるなら、申してみよ。」
マーシアは、憚る様な風で兄に視線を投げる。
「トルバオス、下がっておれ。」
そう命じられて、兄は何か言いたげな風ではあったが、黙って退席した。
「さて、これで良いか?」
「はい。」
短く答えたその声も、中々悪くなかった。
「どうだ、余が似合いの男を探してやろうか?」
「恐れながら、その儀はご辞退申し上げたく存じます。」
ごく控え目な言い方ながら、芯の強さを窺わせる答えであった。
「誰か心に決めた男でもおるのか?それなら、余が話してやっても良いぞ。」
再び丁寧だがきっぱりとした返事が返った。
「その様な話でも御座いません。私は、貴族の妻となって家に入り、我が子のみを育てる母というものに成りたく無いので御座います。」
その言葉に、益々この変わり者に興味を覚えた。
「ほう、それではそなたは、何に成りたいのだ?」
「私は、次代の帝国を支える子女を育てて参りたいと思いますが、兄が良い顔を致しませぬ。」
「教育の道に進みたい、と申すのか。」
「左様で御座います。」
そうしてマーシアは、貴族の娘達に対する高等教育の必要性を、情熱を持って語った。
本来なら、貴族たるものはあらゆる意味において、平民の手本とならなければならない立場である。
特に、物心両面での大きな負担を必要とする教養という点において、明らかに大きく優位に立っている貴族男子は、その、平均的教養において平民のそれを上回っている。
ところが、同じ優位的立場にある筈の貴族子女は、中等教育のあとは各家庭での体系化されない躾を受けるだけに留まっており、帝国の基礎を支える貴族社会の基盤となる各家の切り盛りにおいて、必須となるであろう家政学を体系的に学ぶ場が存在しない。
それらは結局、女主人の心得といった曖昧な家訓として母から娘へ伝えられるのみであり、実態は、どっしり構えて家令や女官達に任せなさい、という程度の抽象的な教訓に過ぎない。
こういった曖昧な理念のみを基礎とする非効率な心得に支えられているだけの家庭から育ってくる次代の担い手の能力は、本人の資質に大きく依存する物となる。
そして、高い教養を持つ厳格な父と賢らぶった学問は無いが慈愛に満ちた母、といったステロタイプな両親像を理想化する貴族文化の中で、幼児教育すら人手を借りるのが、貴族家庭の有り様と見なされてきた。
この事が親子、特に母子間の精神的紐帯の養成において各種の好ましからざる影響を及ぼしている。
子供達は、その母よりも乳母に慰めを見出だすのが常態となっている事で、貴族家庭の中によそよそしい空気を醸成している。
これがしばしば所在なさのやり場を持たない貴婦人達の乱行や、使用人によってスポイルされた貴公子達の不行跡、そして、寒々しい家を嫌い家庭を顧みない父といった様々な不和の原因となっている、と彼女は言う。
妻となり母となる事、特に貴族の家庭でその役割を勤める事は、それ自体が壮大な事業なのであり、然るべき高等教育なくしてこれを成し遂げる事は大変な困難を伴う物なのだ、とマーシアは力説した。
「なるほど、そなたの言い分は判った。それで、そなたはこれから具体的にはどうして行きたいのだ?」
「まずは、私自身が学びたいと思います。私の知識は、本で読んだだけで体系的な高等教育を受けておらぬ、言わば『畳の上の水練』で御座いますので、全く役には立ちませぬ。ですから、いずれかの大学に、聴講生という形ででも入ってきちんと学びたいので御座います。」
あれだけ立派な論が展開出来ても、本人的にはまだまだ足らぬという事らしい。
デマントロスは、その謙虚な姿勢を褒めてやっても良いと感じた。
「それで、学んだらその後は?」
女子教育を行う学校、特に女子教育者を養成する女子師範学校は帝国内にもいくらかあるが、聴講生では資格は取れないし、仮に正式に入学して資格を取ったとしても、歴とした『レ』それも『マ』である当主が就労に反対している貴婦人を教師として採用する学校はあるまい。
「父が私宛てに遺してくれた財産が少々御座いますので、それを遣って、塾でも開こうかと。」
「ほほう。」
この娘は、中々考えているな、と感心した。
「しかし自前の塾なら、学びながらでも出来るのではないかな?」
「残念ながら、私が聴講生として大学に通う事すら兄にとっては不快なのだそうで、塾を開く事など到底許しが得られませぬ。もう、兄とは何年もこの件で言い合いになっておりまして。」
「それで、ひたすら本を読んでいる訳か。」
その言葉にマーシアは、辺りを憚る様に小声で言った。
「実は昨年から、こっそりと大学に忍び込んで、勝手に授業を聴いております。」
これは益々面白い娘だ。
「それは、トルバオスの知らぬ所で、という事だな。」
「はい。兄は私が友人達のお茶会に出ていると思っております。」
とうとう、デマントロスは吹き出した。
その夢の実現のためには、兄ですら欺いて具体的な努力に邁進している。
これは、並の『レ』ではない。
いや、『レ』にしておくのは勿体無い位の積極性の持ち主と言うべきである。
デマントロスはこの娘に本気で感心した。
それは、マーシアの言葉が筋が通っていたからというだけではない。
帝国では、女子に対しても高等教育の門戸は開かれてはいる.
しかし、女子でありながら大学に進むのは、手に職を着けなければ生きて行けない庶民のする事であり、貴族の娘達が身に付けるべき貴族の母となるための教育は、貴族の家庭における躾で身に付ける物と考えられている。
しかし、そこから送り出されてくる女達つまり次世代の母達は、どうにも浮世離れした『深窓の令嬢』となるきらいがあり、貴族子女の高等教育の必要性は、彼の祖父の代から話題に上っていた。
ただ、父グランドロスは打ち続く戦役の対応に忙殺されて、それどころでは無かったのだ。
そしてそのテーマは、いずれ片付けねばならない課題として、彼の意識の隅に常に引っ掛かっていたのである。
今ここで、貴族の女子教育に熱い情熱を懐き、更にはおおよそ貴族らしからぬ行動力を持つ娘に出会ったのは、偶然ではないのかもしれない、半ば本気でそう思った。
「宜しい。それでは、そなたに学びの場とその理想を実現する機会を与えてやる。その上でトルバオスが反対できない様にしてやろう。」
皇帝の力強い言葉に、彼女は遂に希望を見出だした。
「ありがたき幸せに存じます。」
そう言いながら彼女は、皇帝が兄に彼女の進学に反対しないように命じてくれるのだと思った。
やがて退出してきた妹にトルバオスは、何を言上したのかと問い質したが、彼女は何も答えなかった。
まあ、どうせいつもの女子教育の話だろうと見当を着けた上で、今後どうするかを考えた。
もし陛下に進学を認めよと命じられれば承諾せざるを得ないが、まあ、形だけの教育を受けさせれば良かろう、と考えていた。
それで陛下の面目が立てば、妹もそれ以上は望めない事が理解できるだろうから、それから(少々嫁き遅れの感が無いとは言えないが)嫁ぎ先を決めれば良い、と考えたのである。
兄も妹も、皇帝の本気を甘く見ていたのだった。
程なく、貴族子女の高等教育を行う大学として帝国女学院を設立するという勅令が出された。
麗々しく公宣された公布書の中では、その学校の教授として帝国の教育界を代表するそうそうたる顔触れが並んでいた。
それら副学長以下の教授陣の能力の高さは、教育界に詳しくない者でもそれらの名前に続いて記されている長い長い経歴を見ればおおよそ想像がついた。
しかし奇妙にも、総長だけは経歴が全くの空欄であった。
その初代学長の名前はマーシア・レ・アルキレイアと記されていた。
マーシアも驚いたが、トルバオスは腰を抜かしそうになった。
しかし、最早彼にはそれを覆す手段は無かった。
こうしてマーシアは、帝国の貴族子女の教育全てを担当する地位に就き、同時に各種の教育の権威から直に教えを受ける最初の学生となったのだった。