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第一話 エルギノスは如何にして『カ』となりしか。(下)

西銀河帝国は、最早回避不能と判断されたヴェネビンシア共和国との最終対決に向けて、その総力を挙げて取り組んでいた。

そして、遂にヴェネビンシアの第七次解放軍がその首都星カエサリアに襲来した時、帝国の運命を決する大戦の火蓋が切って落とされた。

トロワノス・カ・アルキレイア中将をはじめとする帝国の将官たちは、この大戦をどの様に戦うのか。

そして、若きカッツ・ディーワ中尉の決断は、帝国に何をもたらすのか。

帝国宇宙軍は、その頂点に立つ軍務卿から末端の一兵卒に至るまで、総力を挙げて今回の作戦の準備に奔走した。

特に、デ・ロルフ軍務卿自ら陽動艦隊司令官を志願したという話が拡がった事で、全員が今回の決戦に掛ける悲壮な覚悟の程を改めて認識し、その意志に続く決心を固めていた。

その結果、何とかぎりぎりでヴェネビンシア艦隊の侵攻が始まるまでに、準備が完了した。

奇襲艦隊の両翼は、秘密裏に近接領域の左右に配置し終わり、陽動艦隊はカエサリア近傍に待機して、ヴェネビンシアの侵攻を待った。

やがて、ヴェネビンシアの大艦隊が近接領域中央を通って侵攻して来た事が察知され、デマントロスは宮廷内に大本営を立ち上げさせた。

そして、陽動艦隊は、展開を始めた。


マルトノ・クレア少佐は、艇長席に着いてホロヴィジョンを見ながら、ふねを進めて行く。

艇は、前へ出過ぎず、かといって後ろにもならない位置に、ごく目立たない様に着いている。

彼は、戦場に向かうときはいつも気が重いのだが、今回は特にそうだった。

彼の艇であるメジェド級第六艦隊一番艇(単にメジェド0601というしごく素っ気ない名前である)は、巡洋艦並の強力なエンジンを積んでいるが、兵器は自衛用の物しか載っていない。

その有り余る出力の半分は、主力戦艦五隻分にも相当する各種センサーを駆動する事のみに投入され、残りは逃げ足のために取ってある。

その任務は、戦場で皇帝の目を勤める事であり、ただひたすらに情報を集めて、危なくなれば一目散に逃げ帰るのだ。

これまでも彼は、何度も同僚達が死ぬのをひたすら見続けて来たが、今回見なければならない死は、今までとは比べ物にならない数になるだろう。


脇目も振らずにカエサリアに向けて突進してくる共和国艦隊が中核領域前に最後の超空間ジャンプに入ったと思われるとの報告が来た時、大指令室への模様替えがようやく完了したばかりの大広間に、デマントロス臨席の許で全閣僚が勢揃いしていた。

侵攻軍の最初の一隻が実体化した時点で、デ・ロルフは短く言った。

「進め。」

その一言は暗号化されて、超空間通信で奇襲艦隊に送られる。

奇襲艦隊は、その指令を受けて最初のジャンプに入った。

これ以降は、作戦が(成功であれ失敗であれ)終了するまで、艦隊は完全に無線封鎖される。


大広間の宙空にはホロヴィジョンで、両艦隊の機動が映し出されている。

それは、艦隊の要所要所に配置されたメジェド級情報収集艇から超空間通信で入る情報を、集約した画像である。

青い光点で表される陽動艦隊は、壁を構成する様に並ぶ主力艦隊と、その後ろに大きく半球状に展開する(張りぼての)後備艦隊で構成されている。

その映像の反対側から、共和国艦隊を示す赤い光点が大挙して湧き出して来た。

定石であれば、その艦隊はジャンプを終えた地点で一旦集合し、艦隊を整えてからこちらの出方を窺いつつ徐々に迫って来る所なのだが、湧き出した光点は全て勢いを保ったままこちらに向かって進んで来る。

それは、まるで抗し難い力で流れる大河の如き規模と長さで、力強く迫って来た。

デ・ロルフは、焦りを覚えた。

あれほどの大軍なら、奇策を弄する必要はない筈だ。

だから、堅実に定石を踏んで来ると思っていたので、それを逆手に取って時間稼ぎをするつもりだったのに、全く足を止める気配がない。

これでは、早々に戦端が開かれてしまう。

その分だけ陽動艦隊の消滅が早まり、奇襲艦隊の貴重な時間が失われる。

その内に、赤い光点の流れは恐ろしく長く延びて、その先端が鋭く尖っていった。

まるで、長大な尾を引く彗星の様である。

「ふむ。」

デ・ロルフは、取り合えず安堵した。

「ソルキン、如何いかがした?」

デマントロスの問いに、彼は落ち着いて答えた。

「奴等は、突破・挟撃戦術を取るつもりの様で御座います。」

「それは、どんな戦術なのだ?」

「尖った先端に強力な打撃力を集中して、こちらの手薄な箇所一点に錐を揉み込む様に突入する事で、防衛面に穴を開けようという意図で御座いましょう。」

「穴が開くとどうなるのだ?」

「あの後ろに続く大軍の内で強化した先鋒とそれに続く部分を、その穴に流し込むのです。そして、その突入した兵力は、こちらの防衛面を突き抜けた所で、噴水の様に拡がって回頭し、こちらの背後から襲い掛かります。その間に本隊を含む主要戦力はこちらの軍に対峙した位置で広く展開致します。そうなれば、我が艦隊は腹背に敵を受けて、両方向から擂り潰される事になります。」

「それは、防げぬのか?」

「難しゅう御座いますな。」

「しかし、そうなると、艦隊はどうなる?」

「誠に残念至極では御座いますが、彼我の力の差を思えば、前からでも後ろからでも大差は御座いませぬ。前から攻撃されれば、その場に足を留めて全滅するまで殴り合いをするだけですし、後ろから攻撃されれば、逃げる振りをしてわざと追い付ける速さで攻撃を受けつつ、全滅するまでその場で旋回を続けるだけです。陽動艦隊は、初めから全滅するまでの時間を稼ぐ事だけを考えております。これは、そういういくさで御座います。」

改めてその目的の過酷さを突き付けられたデマントロスは、低く唸る事しか出来なかった。

「こちらの張りぼての偉容を見て定石を踏んで来るなら、戦端を開くまでにもう少し時間を稼げたのではありますが、それは高望みに過ぎませぬ。戦闘が始まってしまった以上、後はどの様な不様な姿を晒してでも、奴等の脚にすがり着いて泥濘ぬかるみを作り出すだけで御座います。」

そう言って、デ・ロルフはホロヴィジョンに向き直った。

デマントロスも、せめて青い光点が全て消えるまでは、この光景から目を逸らさぬ事が、自身の義務であると覚って、映像を見つめる。

赤い彗星の先端からは、その予想進路が点線で延びており、それは、陽動艦隊の中核から少しそれた辺りを貫いているが、青い光点はその点線に向かって移動し始めていた。

「あれは、何をしているのだ?」

「錐を食い止めるのは無理でも、側方から叩いて少しでもその力を殺ごうとしております。カ・アルキレイアは、最後の一兵まで無駄にせぬ男で御座います。」

そう言いながらデ・ロルフは、僅かながら違和感を覚えていた。

突破用の錐にしては、その予想進路がこちらの中核部に近すぎる様に思えたのだ。

とはいえ、穴を開けるなら中核部に近い方が後々の展開に有利になるのは明白なのだから、これだけ彼我の力に差があるなら、より有利なポイントを狙うのはおかしな事ではない、と強いて自らを納得させようとしていた。

しかし事態は、彼の予想に反する方向へ動き始めた。

赤い彗星の先端部の速度が徐々に落ち始めたのである。

突破・挟撃ならば、錐の先端の速度が鍵となる。

何故、むざむざとそれを失う様な機動を取るのか?

やがて、ホロヴィジョン上で侵攻艦隊の隊型が変わり始めた。

敵艦隊の全体が速度を落とすのではなく、先端に近い部分ほど速度を落とし、後ろはその勢いを保っている。

突破・挟撃ならば、先端ほど速度を保ち、本隊を含む後部は手前に広く展開するために速度を落とす筈なのだが、これでは全く逆だ。

まるで、後ろが追い付くのを待っている様に見える。

やがて延びきっていた共和国艦隊は、その全長をどんどんと短縮して行き、先端部の密度が高まって行く。

それにつれて、鋭く尖っていた先端は、丸く太く変わっていった。

その陣形には見覚えがある。

「いかん!陽動艦隊への通信チャネルの暗号化を停止せよ!」

「それでは、傍受されてしまいます!」

超空間通信は、数万光年に渡って受信できるので、簡単に傍受出来る。

だから、通信は基本的に暗号化して送信される。

とはいえ、暗号は原理的に必ず解読可能なので、完全に秘匿する事は出来ない。

従ってその目的は、傍受されても間に合わなくなるまで解読に時間を要する様にする事であり、その目安は概ね一時間程度と見積もられている。

しかし、解読にそれだけの時間が掛かるだけの複雑な暗号は、通常の解号にもそれなりの時間を要する。

だから暗号通信は、どうしても数分間のタイムラグを生じるのだ。

「今は一秒を争うのだ!早く、平文通信に切り替えろ!」

通信班のオペレータは、タッチパネルを素早く操作した。

「暗号化を停止しました!」

デ・ロルフは叫ぶ。

「カ・アルキレイア中将!散開するのだ!敵の先端とぶつかってはならん!どんな事をしても、その先端をわせ!それは、先鋒ではない、主力だ!」

「何が起こっているのだ?」

デマントロスが尋ねると、デ・ロルフは答えた。

「あれは、『鉄槌』で御座います!」

「なんだと?」

「奴等は、こちらの艦隊の中核を、一撃で叩き潰す気です。」

「鉄槌だと、何が違うのだ?」

「鉄槌は、艦隊司令部自体を危険にさらす必要が御座います。奴等の目的がこちらの迎撃艦隊の殲滅であれば、彼我の戦力差からして、もっと手堅いやり方でも十分に可能ですから、それは、無用な危険を抱えるだけで御座います。」

「では、奴等は何がしたいのだ?」

「恐らく奴等は、全面侵攻と見せ掛けてこちらの侵攻を誘い出して、罠にはめる気でしょう。とはいえ、あれほどの艦隊を動員しておりますれば、ヴェネビント側に単独で我が侵攻艦隊を叩ける程の戦力は残っておらぬでしょうから、あの艦隊は我が迎撃艦隊を一撃したあと、そのまま超空間に飛び込んで一気にヴェネビントに戻り、こちらの侵攻艦隊を背後から叩くつもりでしょう。」

「つまり、こちらの手は読まれていた、という事か?」

「左様で御座います。我らは賭けに破れました。」


トロワノスは、配備が比較的薄い部分を突き抜けると踏んでいた敵先端が、転進し始めるのを見た。

そこへデ・ロルフからの叫ぶ様な声が入る。

やられた!鉄槌だったのか、彼は唇を噛んで、一瞬思案した。

一旦動き出した鉄槌に対抗する手段は、正面から全力で受け止めて兵力の擂り潰しあいをするか、大きく散開して突き抜けさせるかしかない。

前者なら、当然ながら先に手持ちの主要兵力が擂り潰された方が敗けであり、その敗北を喫するのは、勿論兵力の少ない側、つまり今回で言えばこちら側だ。

後者を取るとしたら、敵をほぼ無傷で通す事になり、通り抜けた敵は、全速で回頭して再度こちらに向かって来る筈だ。

こちらも全兵力を集結して敵に向かう訳だが、一旦薄く散開した兵力を再集結するのは、時間がかかる。

そして、先に体勢を立て直す事の出来た側が、圧倒的に有利となる。

先に集結する事が出来る見通しは全く立たないが、それでもまだ僅かながら希望がある。

即座に彼は、艦隊に散開の指示を出す。

しかし、その指示は間に合わなかった。

鉄槌は更に密度を増しながら進路を変え、彼のいる艦隊旗艦を含む中核へ突撃して来る。

長く延びて鋭錐に見せかけた隊型を、みるみる内に濃密な鉄槌に組み換え、更にはその打撃の方向を中途で変えて見せるとは、恐るべき練度である。

現役時代のデ・ロルフの艦隊でもこんな芸当が出来たかどうか。

いずれにせよ、迫り来る巨大な鉄槌をわす事はもう出来ない。

トロワノスは、最早これまでと覚悟を決めた。

「全艦自律行動!」

これは、旗艦が行動不能になる、つまり艦隊司令部が消滅する事を前提として、以降の機動は全て各艦長に任せるという命令だ。

これにより、各艦は司令を待って対応が遅れる事はなくなるが、艦隊としての戦闘能力は失われる。

それでも、各艦が自律的に戦闘行動を続けている内は、敵艦隊の行動もそうそう自由にはならない。

今はとにかく、奴等の足を止める事だけを考えていれば良い。

ただし、その各艦長の権限には、戦線からの離脱も含まれる。

つまり、ここで逃げ出しても敵前逃亡に問われる事はない訳だが、それで離脱する艦が出ても仕方がないと、彼は考えていた。

むしろ心情的には、戦線から撤退する事で、一人でも多く生き延びて欲しいくらいだが、彼の立場は撤退命令を出す事を許さない。

デマントロスに宣言した通り、今ここにいる将兵は、全て彼の責任において死なせなければならないのである。

しかし、彼が死んだ後に任を引き継ぐ者に、その責任まで引き継がせたくはなかった。

だから、このふねが沈む時には、必ずこの指令を出すつもりでいた。

まさか、戦端を開いた早々にそれを出す破目になろうとは予測しなかったが。

潔く死ぬ気になっていたトロワノスは、ホロヴィジョン上で刻々と近付く鉄槌を見つめていたが、ふと、自艦の周囲に目をやった。

艦隊は無統率状態で散開を始めて、青い光点の雲は大きく薄く拡がっていく筈なのに、むしろ小さく濃くなっている。

全艦隊が中心に向かって駆けつけようとしているのだ。

しかも、その大半はこの艦と敵艦隊の間に割り込もうという意図らしい。

苦笑しながら周りを見回すと、参謀達も同じ表情である。

「全く、揃いも揃って馬鹿ばかりだ。」

その声には、隠しきれない嬉しさが滲み出ていた。

「まだ、諦めるのは早いという事だな。ようし、先程の指令は取り消す。全艦全速前進!」

凝縮しつつあった陽動艦隊は、そのまま敵の鉄槌に向かって前進を始めた。

相対速度が大きくなれば、それだけ照準がぶれる。

じっと待ち受けるより、生き残る艦が増えるかもしれない。

今優先すべきは、敵に大きなダメージを与える事ではなく、一艦でも多く残す事で、敵艦隊が掃討戦無しにジャンプ出来ない様にする事なのだ。

「さあ、来るぞ!」


「だめだ!間に合わん!」

デ・ロルフの悲痛な叫び声が響いた。

その時彼は、薄く拡がっていた青い光点の雲が、中央に向かって凝縮しつつ前進し始めるのを見た。

「もう、それしかないか。」

悲しげなデ・ロルフの呟きに、デマントロスが尋ねた。

「どうなっているのだ?」

「最早、鉄槌を避ける手段がなくなりましたので、全兵力を擂り潰して鉄槌が通り抜けるのに掛かる時間を少しでも長引かせよう、という肚でございましょう。ですから、今あのように全艦隊が鉄槌の本体に向かって決死の突撃を敢行しております。たとえ歯は立たずとも、こちらの攻撃が続いている間は、奴等はジャンプに入れませぬ。」


旗艦の前方に形作られた壁が、ついにハンマーの先端と接触した。

青赤の光点が複雑に入り雑じり、紫色の雲になる。

しかしその重複部分は、みるみる内に赤く変わって行く。

赤点も徐々に消えて行くのだが、それ以上の早さで青点が消えて行くのだ。

そして、紫色の壁がじわじわとオールド・グラニーに迫って来る。

「敵攻撃が届き始めました!」

参謀の一人がディスプレイから顔を上げる事なく言った。

鉄槌の先端が、艦隊中核部に直接当たる所まで来たのだ。

最早この段階では、彼に出来る事はない。

後は各艦長がやる事である。

それは、意識を集中しなければ判らないくらい微かな震動から始まった。

通常の、足を止めて相手の出方を窺いあう戦闘なら、始めの内は船内では何も感じられない。

その場合、まず届くのは先行する艦載機が放つレーザー砲なのだが、戦闘艦種の装甲表面は基本的に対光線仕様の鏡面となっているので、レーザー砲のエネルギーの大半は反射されるし、反射しきれないで吸収された程度のエネルギー量で装甲が貫かれる事はない。

攻撃する艦載機側もそれは判っているのであり、その目的は搭載しているミサイルの発射位置に着くために、目標艦の対空レーザー砲座を黙らせる事だ。

しかし、今回の様に両艦隊が全速で会遇する場合には、どちらも艦載機を出す事はない。

出した機体を回収する方法が無いからだ。

そこで、双方が強力なレーザー艦砲を釣瓶打ちする事になる。

最初の数撃は、艦載機のレーザー同様にその大半が反射されるが、それでも、吸収しきれないエネルギーで装甲が過熱・膨張し、弾けて捲れ上がるので、ごく軽い衝撃となり震動を起こす。

更に、接近する事で艦体に命中する光線の数が増えると、捲れ上がって鏡面がその反射能を喪った箇所にも光線が当たり始め、ダメージが幾何級数的に増大する。

そうして、徐々に震動が大きくなって行くのである。

ややあって、断続的に震動が感じられ始めた頃に、やはり小さくはあるが、それでもはっきりと判るくらいの大きさがある異質な震動が加わった。

「本艦も内部でガンマ線を検出しました!」

陽子ビームの砲撃が始まったのだ。

陽子ビームは、レーザーと違ってビーム自体が質量を持っているので、そのエネルギー量はレーザーとは比べ物にならない程大きい上に、装甲自体と交互作用を起こすので、鏡面で反射する事は出来ない。

だから、当たった箇所がごく小さいとはいえ核爆発を起こす事で艦自体を軽く揺さぶり始める。

つまり、この軽い震動の度に、装甲が削られている訳だ。

そして装甲の真下は、危険なレベルのガンマ線が弾けているのである。

ただし、質量のある粒子を撃つのでビームの速度は亜光速に留まる上に、その粒子は全て正の電荷を持っているので互いに反発しあって拡散するから、その射程はレーザーに比べるとかなり短い。

つまり、今や敵艦は宇宙的な感覚で言えば目と鼻の先に迫っているという意味であり、もうすぐ対艦ミサイルが届き始めるという事だ。

やがて、その時がやって来た。

「艦外でガンマ線バースト検出しました!」

艦の外部で強力なガンマ線が弾けた。

ミサイルを至近距離で迎撃したのである。

「ガンマ線レベル急上昇中!」

防御用の陽子ビーム砲が、艦に迫るミサイルを片端から蒸発させているのでなんとかなっているが、敵も当然そこは判っている。

対空砲の防御を破る手段として最も有効なのは、飽和攻撃である。

それは対処能力を超える数量を投入する、つまり、数で勝負するという事だ。

向こう側は、このオールド・グラニーが旗艦であると見当を付けている筈だから、正面の全艦がミサイルをこの艦に集中するであろう。

つまり、オールド・グラニーの対処能力を超えるミサイルが殺到するのは、時間の問題なのだ。


激しい衝撃が司令部を襲った。

ついに、ミサイルを撃ち漏らしたのだ。

「左舷前部被弾!」

トロワノスは、思わず艦長に状況確認をしかけたが、思い留まった。

艦の状況は、艦長が把握していれば良いので、彼が逐一知る必要はないし、艦長は報告などしているひまはない筈だ。

おそらくもう彼の出番は、両艦隊が互いにすり抜けて回頭が可能になるまで訪れる事はない。

その時に、彼がまだ生きていればの話だが。

「右舷中央被弾!」

泣きそうな声の、報告があがる。

彼は、ホロヴィジョンを注視する。

今や、青赤の光点は大きく入り雑じり、紫色のラグビーボール状になっている。

他より一回り大きなオールド・グラニーの青点は、そのボールの後端から1/3程の所にある。

これほど大きな領域で敵味方が錯綜しているという事は、向こう側は個艦の撃破に目もくれず、この艦に攻撃を集中しようとしている訳だ。

それでも、青点は全速でこの艦の前に割り込もうと懸命に殺到してくる。

敵艦を攻撃するより、この艦の盾になる事を優先している様にすら見える。

紫色のボールはどんどんと凝縮し、その密度を増している。

その中で青赤の光点は次々と消えて行くのだが、すぐにその空隙は次の光点で埋められる。

やがて、その密度が限界に達したと思われる頃、青赤の二つの光点が重なっては対になって消え始めた。

「もういい!そこまでする事はない!」

トロワノスは、血を吐く様な叫びを上げた。

少しでも敵艦隊の行き足を鈍らせようと、特攻する艦が出始めたのだ。

この状況で何も出来ない彼は、ただ黙って拳を握り締め、ホロヴィジョンを見つめていた。


懲罰艦隊旗艦ベンジャミン・フランクリンの司令室でホロヴィジョンを睨みつつ、パーマーは呆れていた。

三十年以上にわたる軍歴を持ち戦場経験が豊富な彼も、ここまで往生際の悪い相手は見た事がなかった。

この宙域での作戦のきもは、帝国艦隊を確実に一撃で行動不能とする事、具体的にはその中核を叩き潰す事である。

そして、必殺の一撃を叩き込んだ後は、中核を喪って右往左往する雑魚には目もくれずに超空間ジャンプに入る。

その先は主戦場であるヴェネビント宙域だ。

こんな前哨戦に手こずっている訳にはいかないのだ。

そのためには中核部、特に旗艦を逃がさず確実にハンマーの射程に捉えなければならない。

しかし、こちらの戦術がハンマーだと悟られたら旗艦が逃げ出すかもしれない。

そうなると、話が厄介になる。

中核が健在な『活きた』艦隊を背後にしてジャンプに入るのは、ただの自殺行為である。

だから、油断を誘うために、わざわざ一旦ニードル&ファウンテンで行こうとしているかの様に装って、旗艦が逃げ出さない様にしていた。

この作戦では、編制をニードルからハンマーに組み換える間、艦隊が一時的に応戦不能となるので、そこで総攻撃を受けるのが最大の不安要因だったが、その段階を無事に通過して安堵し、敵艦隊中核の予想進路に向けてミサイルを斉射した。

宇宙という広大な戦場では、高速で進むミサイルでも会敵までは数時間かかる。

だから、予め予想進路に向けて展開しておく以外の使い方は出来ない。

それから急速転進で敵旗艦をそのハンマーの射程に捉えた時点で第一段階の成功を確信したのだが、そこで目算が狂った。

まさか、ハンマーに真正面から総力を挙げて衝突してくるとは、予想していなかったのだ。

彼は軽く狼狽しつつ、その目標の予想進路を算出し直して、残りのミサイルの大半をそちらに向けて再度斉射させた。

これは、元々はヴェネビント空域に戻ってから使うために取っておいた物だが、止むを得ない。

戦場では目算が狂う事は、珍しくないのだ。

それにしてもこの敵艦隊の行動は、彼此の戦力差を考えれば、ラッシュを掛けるヘビー級のボクサーにフライ級の選手が正面から立ち向かう様なものである。

この愚かな行動のつけは自分達で払うがいい、と軽い侮蔑を覚えつつ、彼はそのパンチを意にも介さず全力で殴り続けた。

互いにノーガードで殴り続けるなら、向こうの心が折れて後退あとずさり始めるのは時間の問題だと思ったからである。

しかし、この時点で最初の躓きが起こった。

どれ程パンチを入れてもこの相手は、退がるどころか更に手数を増してじりじりと前進してくるのだ。

予定ではここで、後退を始める相手を追う形で、勢いを増しながらして行く筈だったのだが、相手が全く退がらないために、予定していた加速を始める事が出来なかった。

これは、作戦完了がそれだけ遅延する事を意味する。

それでも、ようやく旗艦に攻撃が届き始め、更には追加で展開したミサイルが目標を捉え始めるのが時間の問題となった事で勝利を確信したのだが、向こうは明らかに勝ち目が無くなっても、なお次々と大小の戦闘艦を投入して進路を遮ろうとする。

雑魚は無視して全速で進むのがこの作戦の前提なのだが、さすがに真正面に割り込んで来られれば対処せざるを得ず、加速タイミングを逸しただけでなく、その行き足は急速に鈍りつつあった。

ようやく、十分に間合いを詰めたと言える所まで来た時点では、その遅れは十時間を越えていた。

とはいえ、今や目標までの距離が短すぎて、無理に割り込んで来る艦があっても、こちらに艦首を向けて戦闘姿勢を取るだけの時間的余裕は無い筈だ。

さあ、後は旗艦を沈めるだけだと、最後のラッシュを掛けようとしたが、割り込んで来る艦は全く減らない。

最早、標的になるために出てくる様なものだと、微かに哀れみを覚え始めた時に、報告が入った。

「ラファィエットが敵艦と衝突しました!戦闘不能です!」

いくら混戦とはいえ、敵味方が衝突するのは珍しい。

宇宙は広いのだから、それほど接近して闘う事はまずないのだ。

艦隊を詰めすぎて、味方同士が接触する事は、まれにだがある。

だから、その危険を冒さねばならない程にタイトな隊型を組んで複雑な機動を繰り返す今回の作戦では、全艦をフランクリンから直接コントロールする事にしたのだ。

とはいえ、味方同士の接触なら、その相対速度は大した物では無いので、まず致命的な結果になる事はない。

しかし、敵味方の衝突となると話が変わる。

同方向に進行しながら側面同士で撃ち合う同航戦以外では、その相対速度は膨大な物であり、一部が触れただけでも容易に致命傷となるのだ。

「ボリバルも敵艦と衝突!」

「何だと!」

何かおかしいと思い始めた時に、次々に敵艦と衝突して戦闘不能となったという報告が続いた。

まさか、艦ごと特攻してくるとまでは、予想していなかった。

「操艦を、敵艦との衝突回避優先に変更しろ!」

行き足が更に鈍るのを覚悟の上で、回避操作を命じるしかなかった。

「ジェファーソンとオイギンスが接触!」

各艦毎に回避行動の操艦をするとなると、各艦から大量のセンサー情報を集める必要があり、その情報量は膨大な物となる。

さすがのフランクリンのコンピュータも悲鳴を上げ、その操艦にタイムラグが生じたが、それはこの密集隊型の中では致命的な遅れとなった。

その結果、随所で味方同士が接触事故を起こし始めたのだ。

「止むを得ん。全艦進路を保ったまま、散開!」

艦隊の密度が下がると打撃力が低下するが、このままでは艦隊行動自体に支障が出かねない。

更に行き足が鈍るのを承知で、彼は対応を命じた。


満天を覆うビームの矢と雨霰あめあられとばかりに降り注ぐミサイル群に、オールド・グラニーは急速にその機能を喪失しつつあった。

もう、何度目か判らない衝撃と耳をろうせんばかりの警報の中で、参謀長が穏やかにトロワノスに促した。

「本艦は戦闘不能となりました。閣下、退艦願います。」

艦内には数ヵ所に脱出用のポッドが設置されており、その一つは、司令室から直接乗り込める。

勿論、司令官が脱出するための設備だが、未だかつてこれを使用した将軍はいない。

「君達はどうする?」

「我々は、まだ残存艦隊への指示が残っていますので、それが片付きましたら、脱出します。」

「判った。」

トロワノスが頷くのを見たカッツは、安堵して壁の開扉ハンドルに歩み寄った。

赤枠で囲まれたハンドルボックスのカバーを押し破り、ハンドルを握ると一気に引き下げる。

空気が漏れる溜め息の様な音と共に、壁が開いた。

「閣下、ご搭乗下さい。」

トロワノスは、搭乗口の前で立ち止まると言った。

「カッツ、君が操縦しろ。」

ポッドは八人乗りだが、恐ろしく狭いので中で座席を入れ替わる事は出来ない。

つまり、先頭から順に乗らなければならないので、操縦手のカッツが最初に乗り込む事になる。

「お先に失礼します。」

そう断って乗り込むカッツの背中を見ながら、トロワノスはじっと立っている。

カッツが操縦席に着くと、シートベルトが自動的に胴体を拘束した。

射出時の加速は極めて大きいのでシートベルトによる固定は必須なのだが、緊急時にはしばしばその手順が忘れられる。

だから、着席すると自動で締め上げるのだ。

そしてこの拘束は、射出シーケンスが完了するまで解除されない。

トロワノスの背後で中をそれとなく窺い、それを確認した参謀長は、次席参謀に目配せした。

参謀は頷くと、レバーを勢い良く引き上げた。

操縦席に縛り付けられた状態のカッツは、ドアが閉まる音に驚愕して頸を大きく捻りながら必死で振り向こうとした。

「閣下!どうされたんですか!閣下!」

カッツの絶叫は、内張のクッションに吸い込まれて妙に籠っている。

その時、コンソールから参謀長の声が響いた。

「打ち出すぞ!怪我をしたくなければ、しっかり肘掛けを握れ!」

続いてトロワノスは、世間話でもするような調子で言った。

「ブルガンには友情に感謝していると伝えてくれ。あと、良かったらマーシアにも会いに行ってやってくれるとありがたい。」

カッツの懸命な呼び掛けは、虚しく艇内の内張に吸い込まれるだけであった。

そして、背中を蹴りあげられる様な衝撃と共に、ポッドは射出された。

「小芝居に付き合ってくれて、助かったよ。」

トロワノスが礼を言うと、参謀長が答えた。

「お陰で、我々も気が楽になりました。彼を巻き添えにするのは、気が進みませんからね。」

トロワノスは内緒で、カッツを逃がす手立てを参謀達と打ち合わせていた。

といっても、当初彼が頼んだのは、最期の時にはカッツを引きずってでも連れて逃げてくれ、という話だったのだが、艦隊参謀は、全員が脱出を拒否した。

『最期の時』が来るなら、それは、作戦立案をした彼等の責任なのだから、司令官を置いて逃げる事は出来ない、というのだ。

ただし彼等は、この作戦に責任を負わないカッツを逃がす事には、異存は無かった。

それで、あの芝居となったわけだ。


パーマー中将は、かなり苛立っていた。

ここでの戦闘に限って言えばそれなりに勝利を納めつつあるのだが、今や遅れは相当な大きさになっている。

今回の戦略上の目的は、総力侵攻に見せ掛けて、帝国主力艦隊をヴェネビント宙域におびきだして殲滅する事であり、彼にとっての主戦場はここではないのだ。

ヴェネビントからは、予想通り帝国の主力艦隊が侵攻して来た事を報せてきた。

だから彼がこの戦場でするべき事は、短時間で旗艦を潰して敵艦隊を突き抜けた後、一刻も早くこの囮艦隊を突き抜けて陣容を建て直し、帰還のためのジャンプに入る事なのだ。

今回の任務は、まだ始まったばかりなのである。

そして、敵中核をその射程に捉えたと思ったところで、戦略の成功を確信したのだが、敵艦隊はその戦力を次々とハンマーの正面にぶつけてくるという、予想外の戦術に出てきた。

勿論それは、こちらの圧倒的破壊力の前では竜車に向かう蟷螂の斧に過ぎないし、ある意味で戦力の逐次投入とも言える愚かなやり方なのだが、その抵抗は意外に頑強で、これを排除しつつ進む事により、想定以上の時間を喰われてしまった。

更に、戦艦自体の特攻という気違いじみた攻撃が、その遅れを一気に拡大したのだ。

今ようやく敵旗艦を沈める目処が立った事で、ここを突き抜ければヴェネビントに戻れそうだと期待されるので、なんとか作戦を進める事が出来そうであり、一息着いたのである。

後は、とにかくここでの遅れを少しでも取り戻すために、全力を挙げなければならない。


「総員、死に方用意!」

トロワノスは、威厳に満ちた声で命じた。

そんな指令は、規定にはない。

良く戦ってくれた将兵に、戦闘の義務を解除して、好きなやり方で死を迎えよ、と言いたかったのだ。

その言葉に各部署の長は、部下に対して脱出ポッドへ乗り込む様に命じたが、戦闘要員は大半が、ポッドへの乗り込みを拒否して、持ち場に着いたままで戦闘行動を継続した。

やむ無く彼等は、直接戦闘に関わらない要員だけをボッドに押し込んで順次打ち出して行った。


「艇長!脱出ポッドが出始めました!」

クレア少佐は、頷いた。

「ポッドのマーキング開始。」

ポッドは長距離を航行する能力はないので、早めに回収していかなければならない。

だから、出来るだけ沢山のポッドを回収するために、リアルタイムでその位置をモニタして、救助艦に通報しなければならない。

そこで、ポッドの位置データに順次マークを付与していく必要がある。

破れつつある青い光点の雲から、オレンジの光点が次々と飛び出して行く。

ポッドの外見は、戦闘機やミサイルとあまり大きくは変わらない円筒形だが、強いて言えば、翼が無い点が戦闘機とは異なる。

勿論、宇宙空間で活動する戦闘機が、揚力を得るために翼を付けている訳ではない。

その目的は、大量の機外搭載兵器を吊るすポイントを設けるためだ。

だからポッドの外見は、戦闘機よりはむしろ同じく翼を持たないミサイルに似ている。

ただし、ポッドとミサイルは、発振する電波で識別出来る。

ミサイルは、索敵レーダーの細く絞ったビーム状の電波を、前方に向けて断続的に発振するが、ポッドは、救難要請信号の電波を、全方位に対して途切れる事なく発振する。

そして、その電波が載せている情報も全く異なる。

ミサイルのレーダー波は、返ってくるエコーをノイズと区別するための識別コードで出来ているが、ポッドの救難要請信号は、乗員の心音をデジタル化した物である。

これは、全銀河系標準の救難要請信号であり、汎銀河救難協定によって、心音を発振している乗り物は、可能な限り救助する義務があり、また、これを攻撃する事は禁止されている。

だから、脱出ポッドは簡単に識別出来るのだ。

更に、メジェド級の情報収集艇には、帝国軍の全将兵の心音パターンが登録されたデータベースがあり、ポッドに誰が乗っているのかまで判る。

ホロヴィジョン上で次々と飛び出して行くポッドを示すオレンジの光点は、あらゆる方向に向けて飛び出すが、敵艦隊の方向に出た物はすぐに進路を変え、後方に向かって行く。

その様はまるで、火の粉が弾け出ては風に煽られて、風下に流れている様に見える。

その例えは、ある意味で実態に即しているとも言える。

今や艦隊は盛大に燃え上がっており、敵の攻撃という強風に煽られて、流されているのだ。

しかし、その中でただ一つの光点だけが、風に逆らう様に敵艦隊に向けて直進していた。

「何だ、あれは?」

その異常な動きは、観測員も気付いていた様で、それだけで意図が通じた。

観測員は素早く、コンソールパネル上で指を滑らせ、情報を読み取る。

「艦隊司令官付きのディーワ中尉ですね。」


カッツは射出された方向のまま、操縦桿に手を掛ける事なく、漫然と直進していた。

このまま進めば、敵艦隊の中核に突入する事になるが、そんな事は最早どうでも良かった。

人生の目標を喪った今の彼には、進むべき方向は存在しないのだ。

彼の頭脳は現状を認識する事を拒み、その目は半分がた閉じられている。

といって眠りかけている訳でもない。

ただひたすらに、自分自身の心の中に沈み込んで行きつつあった。

その時、見るとも無しに眺めていたコンソールパネルの光点表示が消えた。

元々脱出ポッドに情報収集艇からの情報を直接受信する機能はない。

電波を受信するだけなら可能だが、それを解析してリアルタイムに映像化するという大掛かりなシステムを搭載する余地が無いのだ。

だから、ポッドのコンソールに表示される情報は、母船で中継されている。

今コンソールが消えたという事は、母船であるオールド・グラニーが機能を停止したという事である。

その刹那、彼の頭の中で父ブルガンの怒声が響き渡った。

「カッツ!お前は何のためにあの御方に着いた!」

彼は、一気に目を見開くと、コンソールを自機のレーダーに切り替えた。

衝突防止を目的とするごく低機能な物であり、少し距離が空くとぼやけてしまうのだが、それでも、敵艦隊配置の濃淡ぐらいは判る。

操縦桿を両手で握り締めると、進路を雲の様に広がる敵艦隊の最も濃い部分に定めた。

閣下、せっかくのご厚意を無にして申し訳ありませんが、ブルガンの息子は、どこまでも貴方に着いて行きます!そう心の中で誓うと、右手は操縦桿に掛けたままで、目標に向かって方向を微調整しながら左手をスロットルに掛け、力一杯引いた。

震動がひときわ大きくなり、再び背中を蹴りあげられる様な衝撃を感じる。

ポッドには、戦闘機並のエンジンが搭載されているので、その加速も戦闘機並となる。

ただし、推進材の搭載量は大した物ではないので、全開を維持すると十分と持たない。

しかし、どうせ目標はそう遠くないしそもそも帰る気も無いので、何の問題もない。

身動きが出来ない程の強烈な加速に堪えながら、迷う事なく突進する。

目的は、ポッドが破壊されるまでに、少しでも大きな運動量を蓄え、かつ少しでも敵艦に近付く事だ。

例え木っ端微塵になっても、その欠片の一つでも当たれば、傷くらいは付けられる様に。


「艇長、ディーワ中尉のポッドですが・・・」

「ああ、加速してるな。カ・アルキレイア司令官も同乗なさっているか?」

即座に答えが返る。

「心音はディーワ中尉だけですね。」


カッツがコンソールを映像モードに切り換えると、視野を埋め尽くす巨艦の群が見えた。

一番手前にいる艦に狙いを定め掛けたが、そのずっと奥に、他の艦とは全く違う巨大な塔が屹立している艦を見つけた。

あいつが何者であれ、あの艦だけが他と違うなら、そこには何か必然性がある筈だ。

同じ事なら、あの艦にしよう。

彼は、居並ぶ艦の間をすり抜けてその巨艦に向かうルートを探した。


各艦のセンサーは、艦隊中心に向かって突進してくる飛翔体がある事を検出した。

この状況ではミサイルが疑われ、各艦の迎撃システムは反応しかけたが、すぐにその動作は解除された。

救助要請信号が検出されたからだ。

その結果、その飛翔体の情報はノイズとして除去され、誰も気付かなかった。

そうして、この飛翔体は迎撃を受ける事無く濃密な艦隊の海をすり抜けて行った。


カッツは、信じられない思いであった。

彼の望みは、敬愛するトロワノスの後を追う事であり、どうせ死ぬなら、少しでも敵にダメージを与えられれば良い、という程度の話なので、最初に出会った艦に突っ込もうと思っていた。

ところがいざ敵艦隊中心に向かい合うと、欲が出てきた。

どうせなら、目標は少しでも大物が良いという気持ちになったのだ。

そうして、特に目立つ艦に狙いを着けたのだが、それは随分と奥にいて、到達するまでには何百隻もの艦の間をすり抜けて行く必要がある。

途中から、欲をかきすぎたかと軽く後悔し始めた。

辿り着く前に撃墜されてしまえば、全くの無駄死になのだ。

撃墜される前に、手近な艦に突っ込んでしまおうかと、何度も思った。

しかしその都度、弱気な思いを振り払った。

最期くらいは後悔無く迎えられる様に、初志貫徹しようじゃないか、と自らを鼓舞して、進み続けた。

そうして遂に、奇跡的に(としか、彼には思えなかった)ここまで辿りついた。

巨峰を思わせるその偉容は、頂点に巨大な塔を頂いている。

その塔の表面は、通信モジュールらしきもので埋め尽くされていた。

これは、幸運かもしれない。

装甲に覆われた船体に突入しても、何も爆発物を持たないこのふねではそれほど大きな孔を開ける事が出来るとは思えないが、あのモジュール群は恐らく装甲を持っていないだろうから、この艇の運動エネルギーだけでもそれなりのダメージを与える事が出来るかも知れない。

目標は、あのモジュールの中央だ。


ベンジャミン・フランクリンの隕石警戒システムが、高速で接近する質量を検知した。

警戒システムは完全自立機構として動作し、危険な質量の接近に対処する。

また、その対処ロジックには、救命信号の判定は含まれていない。

だから、接近する質量の中身を気にする事無く、艦体各所の危険物排除機構を作動させた。

それは、実態としては全自動で自律的に動作するレーダー・機銃のコンポーネントの集合体であり、今やそのコンポーネント群は全力で撃ち始めた。

その機銃の弾丸は、貫通力の低い実体弾であり、また、爆発物を含まない金属の個体弾であった。

隕石は概ねそう硬い物ではないし、そもそもそうでないと、流れ弾が僚艦にダメージを与えかねないからだ。

ポッドに容赦無く鉛の雨が降り注ぎ始めた。


激しいショックが加わると同時に、減圧警報が鳴り響く。

迎撃弾によって、ポッドの気密が破れたのだ。

カッツは、士官学校の最初の講義で学んだ急減圧への対処法を思い出し、口を大きく開いた。

体内の空気を無抵抗で逃がさないと、まず鼓膜が破れ、次に肺胞が破裂する。

鼓膜が破れると方向感覚が喪われて進路を維持する事が困難になるし、肺胞が破裂すると、肺の出血で激しく咳き込むので操縦に支障をきたす。

たとえ一気に真空に暴露されても即死する訳ではないので、体内の空気は潔く諦めるべきである。

どうせ、もう大した時間は残っていないのだから、問題はない。

本来なら、次に固く目を閉じて、瞼の上から掌で強く押さえて眼球が飛び出さない様にしなければならないが、操縦桿から手を放す訳にはいかないし、ここで目を閉じるのは問題外だ。

彼の心算では、衝突まであと精々数十秒しか無いので、眼球はそこまで持てば良い。

遂に、塔の中央を射程に捉えたと確信したその瞬間に、正面から視野を覆い尽くす程の濃密な金属の雨が迫って来た。

カッツは思わず操縦捍を押し込んでしまった。

ポッドは塔の中央から逸れて、塔の付け根に向かって行った。

しまった!なぜ最期の瞬間に、躊躇ためらってしまったのか!

カッツは歯噛みしながら塔の根元に突っ込んで行った。

そうして彼は、自分があり得ない程の大当たりを引き当てた事を知らないまま、蒸発した。


パーマー中将は、ようやく旗艦を沈め敵艦隊中核を破壊した事で、この泥沼から脱け出す事が出来るかと胸を撫で下ろし掛けたが、特攻は終るどころか一層激しさを増した。

「こいつらは気違いか!」

実のところ、脱出可能な要員を送り出し終って思い残す所の無くなった各艦は、その心の支えであったオールド・グラニーが爆散するのを見て、自分達も最期の行動に出たのだった。

この理不尽極まりない状況に彼は、身を切られる思いで更に艦隊の隊型を散開するように指示した。

それは、この戦線の離脱が更に遅れる事を意味していたからだ。

専任オペレータがコンピュータに拡散の指示を入力すると即座に全艦にその指令が届き、ホロヴィジョンの中で艦隊の雲がじわじわと希薄になっていく所を、パーマーは憤懣やる方ない思いで見ていた。

その時、想像もしなかった事態が起こった。

突然ホロヴィジョンがブラックアウトしたのだ。

彼は、狼狽し叫んだ。

「何が起こった!」

主任オペレータの声が響く。

「艦隊指令回線切断!」

「各艦応答なし!」

「観測情報途絶!」

それに続いてオペレータ達が口々に叫んだ。

「何だ!一体何が起こったんだ!」

パーマーは度を失って怒鳴った。


「本当かよ!」

通信解析班長が上げた驚愕の声に、クレアは尋ねた。

「どうした?」

「見てください、あちらさんの通信情報量が激減してます。」

そう言って班長が操作すると、中空に折れ線グラフが表示された。

それは、何色もの複雑に上下する線の集合体だが、その中でただ一本の赤い太線だけが他の線とはかけ離れた高い位置で上下動していた。

そのままグラフがスクロールして行くと、その赤太線は他よりも遥かに高い位置から更に細かく上下動しつつも全体としては緩やかな上昇を続けていたが、あるタイミングで突然垂直に落下し、そのまま途絶えた。

「何だ、こりゃ。何があったんだ?」

「あの線がへし折られてるのは、ディーワ中尉の信号が消えた瞬間ですね。」

まさか、と疑いつつ尋ねる。

「ディーワ中慰と関係があると言うのか?」

普段はベテランの貫禄を見せて冷静に話している班長が、熱に浮かされた様に興奮して唾を飛ばしながら喋る。

「どんな魔法を使ったのか知りませんが、このタイミングは偶然の一致じゃあり得ません!間違ってたら、艇長の帽子を喰っても良い。」

クレアは苦笑いしながら言った。

「これは大事な帽子だ。喰われてたまるか。」

そう言いながらも、班長の興奮が伝染した彼には、これは絶望的な現状の中での唯一の希望だと思われた。

今の艦隊(の残存部)、いや、帝国にとってそれは必要な物だろう。

たとえ間違いであっても構う事はない。

とにかく報告を上げようと、緊急報告を起草し始めた。


今や、青い雲は中央が大きく窪み、あれほど濃密だった光点は、次々と消えて行く。

デマントロスは拳を握り締めて、あの点が一つ消える度に千人からの人命が喪われているのだと思い、哀しみと悔しさのない交ぜになった感情に懸命に堪えていた。

帝国の存亡という恐ろしく高いチップを掛けた乾坤一擲の賭けは、外れようとしていた。

作戦は全て効を奏さず、期待は泡のように弾けつつあった。

そして、遂に旗艦グラニコス二世の光点が消えた時、彼は思わず目を閉じた。


懲罰艦隊の各艦は、突然の通信途絶で行動の指針を喪った。

全艦の自動制御機構は、規定通り最後の指示に従って行動を自動継続した。

つまり、散開をそのまま続けたのだった。


始めに覚悟していた通り降伏に赴かねばならないが、その前に宰相に脱出を命じようと目を開いたまさにその時、デ・ロルフに報告が入った。

デ・ロルフは、そのタブレットに表示された報告が信じられず、画面を見つめながら我を忘れて腑抜けた様に立ち竦んでいた。

「ソルキン、如何した?」

訝しげな皇帝の声で我に返ったソルキノスは、まるで口にすると嘘になってしまうのではないかと怖れる様に、か細く震える声で奏上した。

「へ、陛下、敵艦隊は統一的な戦闘行動を停止しました。」

「何だと!」

「敵艦隊は、散発的な個艦戦闘行動を行いつつ散開を続けています。」

「何が起こったのだ?」

そう尋ねるデマントロスの声も震えていた。

「陽動艦隊司令官付き士官が単身で敵艦隊に突入した結果、敵艦隊は統一戦闘機能を喪失した思われる、との事で御座います。」

大本営は沈黙に包まれたが、やがて誰からともなく歓声が沸き起こった。

「静まれ!」

デ・ロルフが一喝し、再び静寂が戻る。

「敵艦隊は、統一的制御を喪ったまま依然拡散し続けており、戦闘行動に戻るにはかなりの時間を要すると思われます。」

再度、歓声が起こる。

「それで、」

皇帝の声に、全員が口をつぐんだ。

「その士官は、どうなった?」

「メジェド0601からの報告では、中尉はその命と引き換えにこの快挙をなした、との事で御座います。」

「何ぃ!」

もう、デマントロスはじっとしている事が出来なかった。

玉座から弾かれる様に立ち上がると、声を張り上げ尋ねた。

「その者の名は何と言う?」

「は、カッツ・ディーワ中尉だそうでございます。」

彼は叫んだ。

「よし!その者に『デ』の称号を与える!」

廷臣達はその言葉に耳を疑い、我に返ったあと一様に聞こえなかったふりをした。


「状況が判明しました!」

「何だったんだ?」

パーマーの言わずもがなの問いに、幕僚長が言いにくそうに答えた。

「通信塔基部の全通信回線分岐ノードに何かが高速で衝突したために、分岐ノードが大きく損傷して全通信が途絶しています。」

「何だと!」

どこの馬鹿がそんな愚かな設計をしたのだ?と頭に血が昇った彼は、自分がその設計を承認した馬鹿の一人である事を忘れていた。

「何でも良い!一秒でも早く復旧しろ!」


ホロヴィジョンの中で、両艦隊を示す光点は大きく薄く拡散して、個艦同士の散発的な戦闘を続けていた。

今やその赤い雲の脅威度は大きく減じていた。


「通信が回復しました!」

こめかみの血管が切れるかと思われる程に苛立ちながら待っていたその報告が上がった時、通信途絶からもう六時間も経っていた。

パーマーは噛み付く様な勢いで言った。

「全艦再集結!」

しかし、艦隊の三分の一を超える艦が、その時点で目前の敵と交戦しており、自動行動に従う訳にはいかなかったので、各艦長は止むを得ずスレーブ機構を停止して目の前の戦闘を継続した。


赤い光点の雲は、その濃度を大きく下げ、禍々しさを喪って漂い始めていた。

大本営に安堵の空気が流れ始めたその時、赤い雲が再びゆっくりと凝縮し始めた。


「どうなっている?」

もう、何度目か判らなくなった問いに、幕僚はやっと判りません以外の返事が出来た。

「何とか、混戦を収拾する目処が立ちました。全艦再集結を開始します。」

ヴェネビントから敵艦隊襲来の連絡が入ってから、もう、三十時間になる。

そして、帰還を求める矢の様な催促は、五時間前に入ったのを最後に、途絶したままだ。

「帰還に要する時間の見積は?」

「再集結が終わるのに四時間、それからジャンプを五回に分けて行うので、これが状況確認を含めて十時間、合計で十四時間程度と・・・」

その数字を聞いただけで、そんな悠長な事をしている場合ではないと言わざるを得ないパーマーは、喰い気味に被せた。

「状況確認している隙は無い!再集結完了後、全艦予定位置に向けてジャンプしろ!」

「待って下さい。それでは跳び先の状況が確認出来ません!」

超空間ジャンプで重要なのは、一にも二にも跳び先の安全性の確認である。

当初の予定では、帰還時のジャンプは味方の確保領域なので、リアルタイムの詳細情報が得られるから、万一予定箇所に問題があっても補正可能なため、目を瞑ったままただ一回の大ジャンプで戻っても、何の不安も無い筈だった。

しかし、その主戦場であるヴェネビント宙域からの応答が全く得られない今、当てにしていた予定箇所の情報が全く無しに跳ばなければならない。

それは、無謀では無く無茶であった。

「これ以上時間を無駄にする訳にはいかん!一回で跳ぶんだ!」


「敵艦隊がジャンプに入り始めました!」

ホロヴィジョン上で、赤い光点が次々と消えて行く。

ヴェネビント侵攻中の強襲艦隊の状況が気になるが、強襲艦隊は作戦終了まで完全に情報封鎖されているので確かめる手段は無い。

順調に推移している事を祈るしか無かった。


強襲艦隊司令官カ・グロニエは、背後にいつ敵の大軍が出現するかという不安を敢えて圧し殺して、全力で正面の敵を叩いていた。

今彼らがするべき事は、ともかく前面の敵艦隊を突き抜けて、ヴェネビントに到達する事である。


「敵艦隊出現!」

オペレータの声に、ソルベイオスは尋ねた。

「何処に出た?」

ホロヴィジョンに赤い光点が表示される。

それは、殿軍しんがり艦隊の右翼と重なっていた。

彼は、切望しつつも恐れていた事態が起こった事を覚った。

「プランZ発動を宣言する!各自はその信ずる所に従い、自身の想う帝国への忠誠を尽くせ!」

その声を待ちかねた様に、各艦は敵艦隊の出現点へ向かって回頭し、そのままエンジンを全開にした。

定石であれば、敵が近傍に出現した場合は、出現点から距離を取って、攻撃準備をする。

特に大軍が続くと思われる場合は、出来るだけ安全な距離を保って攻撃の機会を窺うべきだと考えられている。

しかしソルベイオスは、敢えて出現点を艦隊で埋め尽くすという作戦を立てた。

艦隊行動としてのジャンプであれば、ジャンプ後の再集結に要する時間を出来るだけ少なくするために、事故が発生しない範囲でできるだけ狭い範囲に出ようとする。

それなら同じポイントに数珠繋ぎで出現すれば良さそうにも思えるが、それでは複数の艦が同時に跳ぶ事が出来ないので、ある程度の大きさの空間を目指す。

つまり一隻出てきたら、その周辺に次々と出現するという事だ。

敵艦隊は散発的に出現する都度、至近距離からの集中砲火を浴びて、爆発していった。

そうして、赤い光点が出ては消える度に艦隊の至るところで歓声が上がったが、ソルベイオスはこのワンサイドゲームが続くとは期待していなかった。

じきに、こちらの手に余る程の艦が出現してくる筈だ。

そうしている間にも、殿軍艦隊はその密度を高めて行った。


ヴェネビント宙域に帰還した各艦は、敵艦隊が目の前にいるのに気付いたが、今更どうしようもない。

ひたすら全力で突っ切る事だけを考えて、エンジンを全開にした。


滔々と溢れ出てくる敵艦は、もうロ・ロルフ支隊の対応能力を超えていた。

次々と敵艦が艦隊をすり抜けて行くのを見ながら、ソルベイオスはひたすらある事象を待っていた。


軽巡洋艦レミ・シュライネンの艦長は、自分の獲物を探していた。

その時、突然目の前の空間がぐにゃりと歪むのを見て、すぐに全艦隊に警報を発した。

「こちら、シュライネン!重なるぞ。付近の艦は下がれ!」

そう言い終えるかどうかで、彼の目前に蜃気楼の様に揺らめきながら銀色の壁が出現した。


ジャンプを終えてようやく通常空間に出たと思った重巡洋艦ローザ・ルクセンブルクは、何が起こったのか理解しない内に閃光の塊に変わった。


通常空間で、複数の質量が同じ座標を占める事は出来ない。

通常空間を通って移動する限り、そもそも同じ座標に複数の質量が重なる事はあり得ないのだが、どちらか一方でも超空間を通れば、その実体化する座標に他の質量が存在する事は、あり得る。

もしそうなれば、同じ座標で重なる二つの質量は、正物質と反物質が出会った時の様に、対消滅を起こしてエネルギーに変わる。双方合わせて二十万トンを超える質量が対消滅を起こせば、そのエネルギーで一瞬だけそこに恒星が出現したと同様になる。

それは、出現ポイントの空間座標を大きく圧縮した。

戦艦シモン・ボリバルと軽巡洋艦トマス・ホッブズは、ジャンプを終えた瞬間に、互いが接近しすぎている事に気付いた。

衝突を回避しようとホッブズが大きく右に転舵したが、そこは重巡洋艦ヤン・シジュカの実体化した目と鼻の先だった。

右舷にシジュカの艦首が突っ込み、ホッブズの船体はそのまま二つに折れた。

そして行き足の止まったシジュカに、後方から戦艦ペリクレスが衝突した。

先発で実体化した各艦は、適正な間隔を保つ事が出来ず、目前の僚艦を避けるために闇雲に転舵を繰返したために大混乱に陥った。

最早、安全な空間は何処にも無かった。


ソルベイオスの座乗するロ・ロルフ支隊の旗艦レオニダス一世は、敵艦隊の湧き出す想定ポイントから前方にやや距離を置いて戦局を見守っていた。

艦隊司令官が居るべき場所としては、特におかしくはないのだが、今回の作戦で部下達に強いた犠牲を思うと、自分が安全圏にいる事は内心忸怩たる物があった。

そもそも、今回の無謀な作戦は、この艦の名前から思い付いた物である。

その名前の元となったのは、古代ギリシャのスパルタ王であり、テルモピュライにおいて、ラケダイモン兵千五百を率いて十五万のペルシア軍と対峙する殿軍を引き受け、自身を含めた全滅と引き換えにギリシャ軍の戦略的撤退を支えた人物である。

レオニダスは、事前に「王が死ぬか、国が滅ぶか」という神託をげられたが、彼は躊躇ためらう事無く前者を選択したのだ。

だから、彼自身は始めから生き残る気は無かったのだが、そうは言っても他の艦と同じ程度の仕事で死ぬわけにはいかなかった。

彼は、最初から唯一つの目標を探していた。


座標圧縮の影響は直ぐに解消し、正常な間隔で実体化し始めたが、その進路は、混乱する先発艦隊で塞がれている。

ようやく通常空間に出たパーマー中将は、味方の各艦が出鱈目に機動して艦隊進路を塞いでいる状況を見て、一刻も早くヴェネビントに駆けつけなければと焦躁に駆られた結果、非情な決断を下した。

「各艦は、緊密な隊型を保ったまま、進路を保持して直進せよ!進路を塞ぐ障害物は、全力砲撃で排除するんだ!」

敢えて障害物と呼んだそれらが、同僚の乗る艦である事は全員が理解しており、その非情な指令は、艦隊の士気を大きく減じた。

そうして各艦の艦長達は、衝突を避ける事を優先して大きく外に向かって転舵していった。

命令と裏腹に、懲罰艦隊は急速に密度を下げていった。


「標的判定出来ました!」

ホロヴィジョン上で、敵艦隊の中に大きな光点が明滅している。

ついに、ソルベイオスの探し求めていた目標が見付かった。

彼が探させていたのは、通信量が突出している艦だった。

「よし、全速で突撃!他の艦は気にするな!」


旗艦フランクリンの警戒オペレータは、艦隊の海を掻い潜って突進してくる艦に気付いた。

その艦は、通常ならば派手に砲撃を始めるであろう距離まで接近しても沈黙していたために、見過ごされていた。

「艦長、何か大きな艦が接近しています。」

艦隊は大きく拡散してしまって敵味方が入り雑じっており、そこかしこで激しい砲撃戦が起こっているため、何も撃たない艦を気にしている余裕のある者はいなかった。

だから、気付いた時には、その巨艦はもう陽子砲の射程距離内にいた。

しまった、と艦長は悔やんだ。

この混戦の中で撃たないでいる艦が、何も企んでいない筈がないのだ。

「直ぐに砲撃しろ!」

そう命じるのと、その艦が砲門を開くのがほぼ同時だった。

その巨艦は、陽子砲・レーザー砲を問わず全ての砲撃をフランクリンに浴びせ、更には大量のミサイルまで飛ばしながら、尚も一直線に迫って来る。


レオニダスは旗艦だけあって、ロ・ロルフ支隊では一番装甲が厚く、また砲の門数もトップクラスである。

だから、敵旗艦と一対一さしで勝負出来る唯一の艦だといえる。

プランZが発動されたら支隊は指揮を取れる状態ではなくなるので、この艦の指揮機能は無用の長物となる。

だが、艦隊最強の艦であるという事実は揺るがないから、これをぶつけて敵旗艦と刺し違えるには丁度良いのだ。

そのために、この艦には彼と最も気心の知れた艦長を任命してある。

ソルベイオスは、本来の居場所である司令室を出て、ブリッジに立っていた。

「後の事は何も考えなくて良い。ありったけ撃ち込め!」

艦長は、心得ていますとばかりに頷いた。


パーマーも、相手がただ者ではない事に気付いた。

これだけ強力な艦は、そうある物ではない。

全力で掛からなければ生き残る事は出来そうもなかった。

「艦長、本気で掛かるんだ!」

こうして、過去に例を見ない旗艦同士の総力砲撃戦が始まった。


カ・グロニエは、ついにヴェネビントに達した。

ひたすら前を向いて走り続ける間、その背中には一本の矢も届く事は無かった。

トロワノスとソルベイオスがどんな魔法を使ったのか判らないが、ともかく奇襲艦隊がここまで来るに足るだけの時間を稼いだのだ。

カ・グロニエは、恐らくもう二人の顔を見る事は出来ないだろうと悟っていた。

彼はヴェネビント宙域を制圧し終えると、帝国侵攻軍司令官として、ヴェネビンシア政府に降服勧告を行った。


臨時召集されたヴェネビンシア議会は、絶望的な空気に包まれていた。

「ヴェネビント防衛艦隊は、潰滅しました。」

大統領ヘンリー・ペターナーは、沈痛な面持ちで報告した。

「懲罰艦隊は?パーマー中将はどう言っているんですか!」

野党代表が尋ねる。

「ヴェネビント外縁で、身動きが取れなくなっています。」

「ここで持ちこたえなければ、銀河系における民主主義が終わってしまうではないですか!徹底抗戦以外には無いでしょう!」

気楽な事を言う、とペターナーは苦笑した。

「最早、我々にはその力は有りません。」

「政府は、この失態にどう責任をとるつもりですか!」

何を言いやがる、お前らが無謀な突き上げを繰返した結果じゃないか、という不快感を圧し殺しながら、彼は言った。

「ヴェネビント政府は、議会に対して降服勧告の受け入れを提案します。また、その提案の諾丕に関わらず、政府は総辞職致します。」

後は自分達で何とかするが良い、と言い捨てたかった。

「無責任だぞ!」

議場のあちこちから野次が飛ぶ。

何方どなたでも宜しい。今ここで挙手頂ければ、その方を大統領代行に任命する大統領令を発令します。」

ペターナーがそう言うと、議場は静まり返った。


「わが統合艦隊は、共和国主力艦隊の追撃を受ける事なく、共和国首都星ヴェネビントの包囲を完了致しました。」

デマントロスは、最大級の自制心を動員して落ち着き払った風を装い、重々しく尋ねた。

「作戦は成功した、という事か?」

その声には、明らかに疑いの念が籠っていたが、それは無理もない事と言わざるを得なかった。

なにしろ、報告を読み上げるソルキノス自身が、全く信じられないでいたのだ。

「さようでございます。今、カ・グロニエ中将は、陛下の御名みなにおいて、ヴェネビンシア政府に降服勧告を行ったとの事です。」


結局手が挙がる事は無かった。

誰も、火中の栗を拾う愚を冒す度胸は無いのだ。

代わりに与党議員から、降服勧告を受け入れた上で総辞職したばかりの現行政府を、新たに臨時政府として承認して終戦交渉を一任する、という動議が出て、全会一致で可決された。

都合の良い事ばかり言うな、と言ってやりたいが、他に手はない。

ペターナーは、全ての野党から各一名の代表を出させて、挙国一致政府とするという条件で、その決議を受け入れた。


「閣下!ヴェネビンシア政府から、通信要請です。」

カ・グロニエは、居ずまいを正した。

「繋げ。」

ホロヴィジョンに、初老の男が浮かび上がる。

「こちらは、ヴェネビンシア共和国大統領ヘンリー・ペターナーです。そちらの政府を代表する方とお話ししたい。」

「遠征艦隊司令官アルノドス・カ・グロニエです。」

「失礼ですが、貴方は政府代表ですか?」

カ・グロニエは頷く。

「本戦役においては、本職が皇帝陛下の名代を仰せつかっております。」

ぺターナーは、超人的な自制心で感情を抑え、事務的に言った。

「判りました。ヴェネビンシア共和国臨時政府は、降服勧告を受諾します。」

カ・グロニエは、全く勝利の実感が湧かぬまま、穏やかに応えた。

「宜しい。ただ今をもって、戦闘行動を停止する事に同意します。」


「陛下!ヴェネビンシア政府が降服致しました!」

デ・ブロノアが叫んだ。

この男とは皇太子時代からの長い付き合いだが、取り乱すのを見たのは、これが二回目だった。

しかも、二度ともこの戦役がらみである。

いかに今回の戦役が無謀な賭けであったかが、改めて認識された。


停戦命令は、ほんの僅かな遅れで間に合わなかった。

二隻の旗艦は、壮絶な砲撃戦の末に衝突して塵となった。


やがて、戦役の詳細が判明して論功効賞が行われる事となった

デマントロスは、枢密院の戦功顕彰委員会から提出された、位階昇格奏上書を受け取った。

彼がそれを傍らの玉璽管掌侍従に渡し、分厚いそのリストの表紙に皇帝玉璽が押されれば勅許となり、そのまま手続きが行われる。

普段なら、こういう儀典関連の奏上はある程度の皇帝への内々の根回しが済んでいるので、ほんの数ページをめくって目を通すふりをするだけで、中をあらためる事なくそのまま侍従に渡されるのだが、今回は違った。

表紙をめくり、最初のページから何枚も続く大仰なだけで何の内容もない形式的奏上文を読み飛ばして、称号授与対象者リストを探し当てると、その先頭ページを食い入る様に見つめた。

そこには「『マ』昇格を相当とする者」との標題が附され、ただ一人「宇宙軍中将トロワノス・カ・アルキレイア」の名だけが記されていた。

この前にあるべき「『デ』昇格を相当とする者」のページがない、つまり、載るべき名前が載っていないという事だ。

デマントロスは、ゆっくりと顔をあげると穏やかに尋ねた。

「カッツ・なにがしの名が、載っておらぬ様だが?」

実は、委員会ではディーワ中尉の処遇も話し合われたが、デマントロスの命じた帝国貴族最上位の称号である『デ』を与える事は、全く検討対象とならなかった。

枢密院の委員会であるからには、全員が『マ』以上の爵位保持者つまり上級貴族である。

その彼らから見れば、なんと言っても皇帝自らのお声がかりであるから、もしディーワ家が異例ではあるが帝国貴族第三位階の『カ』の称号を持っていれば、或いは異例中の異例だがせめて第四位階の『ヴ』の称号でも、『デ』の叙爵は可能だったかもしれないが、全くの無位では話にもならなかった。

なにしろ、本人一代のみで世襲とならない称号は、第五位(つまり最下位)の『バ』の称号に限られており、『ヴ』以上は全て世襲となる。

勿論、ディーワ中尉の功績は将に格別と言うべき物である事は、委員会としても異存は無いのだが、それでも、無位の家に『デ』はあり得ない、それが委員会全体の空気だった。

「その者の名は、『バ』のリストの先頭にございます。」

デマントロスは、不快げにリストをめくった。

『バ』のリストは、世襲を認められる永世『バ』と、本人限りの一代『バ』に別れており、彼の探す名は、永世『バ』の先頭に挙がり、更にその横にだけ、「格別の叡慮により継嗣の承継を認める」と付記されていた。

貴族の位階については、通常なら最年長の嫡子が位階承継者と見なされ、死後はそのまま位階が継承される。

また、嫡子が居ない場合でも、庶子もしくは近親者を継承者として届けてあればこれに準ずる。

しかし、 嫡子がおらず届けもなされていなければ、庶子または近親者が位階を継承する際に、位階一等を下げての継承となる。

だから、嫡子の居ない(そもそもまだ結婚すらしていない)ディーワ中尉が『バ』となれば、たとえ永世『バ』であっても、その継承者は位階一等の降格による継承となる筈だが、『バ』は帝国貴族の中では最下位なので、一等下げた時点で貴族ではなくなる。

永世『バ』と一代『バ』の間には継承を認めるかどうかの違いがあるだけで、位階としては全くの同格なので、一代『バ』に下げる事は出来ないのだ。

だから、デマントロスに配慮して、今回に限り近親者に永世『バ』の継承を認めるというのである。

しかし彼にとっては、その程度の事は『配慮』とは言えなかった。

永世『バ』だと?余は『デ』と言った筈だ、とデマントロスは苛立ちを隠さなかった。

彼は、しばしば彼の要求が骨抜きにされ、或いは聞き流される事に、長らく不満を溜め込んできた。

とはいえ、骨抜きにされるのは、まだしも我慢できる。

骨抜きにされるという事は、まだ形を取り繕う必要を感じる程度には彼の要求を尊重している事だからだ。

しかし、聞き流されるとなるとそれは、帝権が軽んじられるという事である。

歴代の皇帝が必死に追い求めてきた強力な帝権に裏打ちされた発言の重さは、しばしば「勅言汗の如し」と表現される。

一度流した汗が元に戻せぬ様に、皇帝の言葉である勅言は、それを発した彼自身の意思をもってしても、取消す事が出来ない筈なのである。

『デ』と、永世とはいえ『バ』では、いくらなんでも差がありすぎる。

これは『骨抜き』というレベルではない。

実は、「勅言汗の如し」という言葉は、帝権の強力さに対する畏敬の念以外に、もうひとつ別のニュアンスを持つ事がある。

それは、何らかの理由で軽んじられ強力な帝権を振るうことが出来ない皇帝が出た時、その勅言も本人同様にごく軽く扱われ、誰もしかるべき敬意を持って扱おうとしない、というさまを『汗の如く出っぱなし』だと揶揄する言葉でもあるのだ。

このいは、歴代の皇帝にとって悪夢以外の何物でもない。

これは将に、余の言葉を聞き流すことではないか、と思うと、彼は黙っている事は出来なかった。

「余は、 『デ』と言った筈だが?」

ブロノア個人は、この決定は少々了見が狭すぎるのではないか、もう少し張り込んでも良さそうなものだと感じてはいたが、一介の中尉のために上級貴族達と争う様な義理はないので、敢えて反対まではしなかった。

しかし、この件に関してデマントロスがここまで執着するとは予想していなかった。

「恐れながら陛下、この者に『デ』を与えるのは、少々差し障りがございます。」

万事に如才の無い宰相がそう言うのなら、勿論しかるべき理由が有るのだろうし、実は彼自身も、つい勢いで『デ』を、と言ってしまったものの、やはり張り込みすぎであったかと後悔し始めていたのだが、こうあからさまに聞き流されては今更引っ込みが着かない。

彼の機嫌を窺おうとするブロノアに、不機嫌そのものという調子で短く尋ねた。

「なぜだ?」

宰相は、辺りを憚る様に小声で言う。

「この者には子が居りませんので近親者が継嗣となりますが、それでも『デ』となれば、その継嗣が『マ』となってしまいます。」

その点は失念していた。

もし、ディーワ中尉が『デ』となれば、その承継者は一段下がって『マ』を名乗る事になるわけだ。

規定では、『マ』以上の貴族は、自動的に枢密院に議席を持つ事になっている。

すなわち、国政に直接参与する権限を持つのである。

そうなれば、枢密院を独占する上級貴族共が一斉に金切り声を上げるであろう。

デマントロスは、つい感激の余り『デ』をと言ってしまったが、これは確かに軽率と言わざるを得なかった。

ブロノアは、こんな事もあろうかと用意していた案を出した。

「この者を『マ』とするのは、いかがでございましょう。」

なるほど、それなら承継者は『カ』止まりなので、まだ通りそうだ。

しかし彼のプライドは、素直に撤回に応じるには高過ぎた。

それを顔色から読み取った宰相は、その背中を押すために付け加えた。

「この者を、格別のご叡慮を持ちまして中級大将に叙任遊ばされ、また、今戦役の慰霊式典においては、カ・アルキレイア中将を越える筆頭者といたしますれば、格好がつきましょうかと愚考致します。」

その言葉に、彼は表情を弛めた。

「そうか。ディーワ中尉は、宇宙軍であったな。」

例えばトロワノスは今回の功績で死後叙階とはいえ『マ』に叙せられ、同時に下級大将となる事が内定しているが、この職位は、軍務において慣習的に『マ』で就く事の出来る最上位とされている。

中級大将以上の職位は、『デ』でなければ就けないとみなされているのだ。

しかし、それは帝国法に明記された規定ではないので、叡慮を持ってすれば、それを越える階級に昇任させる事も可能ではある。

ここで、その軍人が属する軍の種別が問題となる。

帝国には、大きく分けて、傘下の各惑星の陸海空戦力及び恒星系の有人惑星近縁部に限られる宇宙戦力を管轄する帝国惑星軍と、傘下全恒星系外縁部及び恒星の外部宙域の宇宙戦力を管轄する帝国宇宙軍の二つの軍が存在する。

ただし、それはどちらも俗称であり、正式名称はそれぞれ、統合惑星軍と帝立宇宙軍である。

この名称の違いは、それぞれの軍の成立過程によるものである。

帝国は、かつて惑星ゾフィアに興ったゾフィア公国から始まった。

ゾフィア公国は、その異称を『帝国の種子』という。

このゾフィア公国(現在は古都星ゾフィアと称される)は、近隣の恒星系を次々にその傘下に収め、支配領域を拡大して西銀河帝国へと発展していったが、その過程で各惑星ないしは恒星系の保有する軍を、帝国への忠誠の誓いを立てさせた上で、既存領域を管轄する帝国軍とした。

そして、それらの惑星軍を一括する軍組織として、各惑星軍司令官を構成委員とする惑星軍統合委員会を設立したのだ。

だから、惑星軍は全体として統合惑星軍と称される。

この経緯から、統合惑星軍を構成する各惑星軍は、形式上は帝国傘下の各惑星の加盟前の主権者(惑星毎に大公や議会、或いは惑星政府首班など)の所有物という建前となっているので、任官の扱いはそれらの所有者の了承を必要とする。

勿論彼らは帝国に忠誠を誓っているのだから、『叡慮をもって』命ずる事も可能な筈だが、歴代の皇帝でそれを実行した者は居ない。

もし、それをして拒絶する軍が出た場合には、最低でも不敬罪による譴責や、ひょっとすると大逆罪による討伐が必要となり、万一それが不首尾に終わる様な事でもあれば、皇帝の権威に大きな傷がつく恐れがあるので、敢えて火中の栗を拾うの愚を避けるために、惑星軍の叙任は統合委員会に一任して来たのだ。

これに対して宇宙軍は、ゾフィア公国宇宙軍が領域の広がりに応じてその規模を拡大してきた物であり、純粋に帝国(つまりは皇帝)のみに属している。

いわば、皇帝の『個人資産』なのである。

だから、叡慮一つでディーワ中尉を中級大将に任ずる事も可能なのだ。

そしてそれは、ディーワ中尉の『マ』が『デ』相当の重みを持つ物である事を、帝国全体に知らしめる事になるであろうし、この件について(随所で陰口はきかれるであろうが)表立って反対出来る者も居ない筈だ。

「よかろう。さよう取りはからえ。」

「畏まりました。」

「ただし、中級大将叙任手続きは、必ず慰霊式典までに済ませ、また、式典でのディーワに対する儀礼は、『デ』相当とする様に。」

「仰せのままに。」


こうして、カッツ・ディーワ中尉は、カッツ・マ・ディーワ中級大将となり、帝国の鋭槍という二つ名を冠せられた。

カッツが一人で稼ぎ出した十六時間が帝国を救ったのは、疑い様の無い事実だったのだ。

そして、独身だったカッツの跡継ぎとして、その兄グロンドの息子達の中から、カッツと最も仲の良かった次男エルギンが位階一等を下げた『カ』を継承し、エルギノス・カ・ディーワとなった。


彼の記憶する優しいカッツ叔父さんと、帝国の鋭槍カッツ・マ・ディーワは、若干八歳で『カ』となったばかりのエルギノスにはどうしても同じ人物だとは思えなかった。

その点について、祖父ブルガンに尋ねた事があるが、ブルガンは優しく笑いながら「人には、いろんな面があるんだよ。」と答えただけだった。

今は、何となくあの時の祖父の当惑が判る様な気がする。

その後、カ・ディーワ家を興すためにやらねばならない事が山の様にあった。

『カ』である以上、今までの家に住み続けるのは論外であり、それなりの邸宅と言える物を構えなければならないし、そうなれば多数の使用人が必要となる。

そんな金も人材の当ても、ディーワ一家にあるはずが無かった。

特に、邸宅の一切を取り仕切る家宰と、下賜された領地を管理して収税を取り計らう代官が重要となる。

それらは、いずれはエルギノスの兄弟が勤める事になるだろうが、今は幼すぎてどうしようもない。

とりあえず家宰はグロンドが代理を勤めるしかないので、グロンドは少佐で退役した。

しかし、軍務経験しかない彼には、どうしたら良いか皆目見当が着かない。

それら一切合切は、エルギノス少年の手に余る物である事は勿論のこと、祖父ブルガンにも父グロンドにも、どう片付けて行けば良いのか全く判らず、ディーワ一家は途方に暮れかけた。

そんな中で、トルバオス・マ・アルキレイアから、呼び出された。

祖父・父と三人でトルバオスを訪ねると、現状を尋ねられた。

グロンドが窮状を包み隠さず答えると、トルバオスは苦笑しながら言った。

「まあ、そうだろうね。とりあえず、うちの別宅を空けておいたから、そこに引っ越せば良い。そこに家宰見習いのダングロを置いておくから、当面は彼と相談しながら進めて行きなさい。後、判らない事は何でも聞いてくれ。」

そうして、ダングロの仕切りで、対応が急速に進んでいった。

家紋を決め、邸宅の家紋入り調度を次々と入れ替えながら、エルギノス少年の大礼服やグロンドの礼服のしつらえに始まる、『カ』とその係累に相応しい衣類を全て一家全員分新調し、それと並行して、要路への挨拶を添えた高価な進物を贈り、その仕上げとしてのお披露目パーティーが賑々しく行われた。

これら全てはグロンドの家宰代理としての実地訓練を兼ねていたので、ダングロは費用まで含めた全てをグロンドに見える形で行った。

それは、家紋のデザインを意匠師に依頼するだけでも、グロンドの肝を冷やさせる程の額であったので、彼ははその費用をどう工面するのかと尋ねた。

「今回の費用は、全て我が主から出ておりますので、ご心配無きよう。」

ダングロは、事も無げにそう答えた。

お披露目が無事に終わった所で、ダングロを含めた四人は、改めてトルバオスに礼を言上した。

そこでエルギノス少年が、何故ここまで面倒を看てくれるのかと尋ねると、トルバオスは笑いながら言った。

「君は、我が父トロワノスの偉業を完成させてくれたカッツの承継者だ。私はその困窮を放置する程の恩知らずではないよ。それに、君達は父のクリエントだったのだから、これはパトロノスとしての義務でもある。パトロノスになるとはそういう事だ。君もこれからは、パトロノスにならねばならんのだから、覚えておきなさい。」

そう言ってから、付け加えた。

「後、今回の掛かりの半分は、デ・ブロノア閣下が持って下さる事になっている。閣下にもお礼を言上する様にな。」

ブルガンは驚いた。

「何故宰相閣下が?」

「さあ、それは私にも判らん。閣下の方からお申し出下さったんだ。」


後日三人で宰相の公邸を訪ねて礼を言上した。

デ・ブロノアは、短く「そうか。」と言っただけであった。

エルギノスは少年らしい直截さで、今回の好意の理由を尋ねたが、宰相は困った様に笑うだけであった。

結局彼がその理由を知らされたのは、成人してからであった。

軍務貴族として生きる道を選んだエルギノスは士官学校に進んだ。

無事に卒業して任官が決まった事で、トルバオスに挨拶に上がった後、デ・ブロノアを訪ねた。

その直前に官界から身を退いていたデ・ブロノアは、今までに無く饒舌に様々な事を語った。

ひとしきり話した後、デ・ブロノアは唐突に話を変えた。

「君が以前、何故私が君の面倒を見るのかと尋ねたのを覚えているか?」

彼は、恐れを知らない少年時代の無謀さを思い返して、赤面しながら言った。

「はい、その節は無礼なお尋ねを致しまして、申し訳ありませんでした。」

デ・ブロノアは、笑いながら言った。

「なに、別に無礼という訳でもない。ただ、子供には判らんだろうと思っただけだ。それにな、」

そう言って、辺りを憚る様な演技をして見せた。

「宰相という職に就いていると、中々言いたい事も言えんのだよ。」

「と、おっしゃいますと?」

カウチに寝そべる様に体を休めていたデ・ブロノアは、上体を立てる様に座り直した。

「君が『マ』になり損ねた理由は知っているかね?」

「いえ、存じません。」

そもそも、自分が『マ』になり損ねたという話自体が初耳である。

デ・ブロノアは決まり悪そうに曖昧な表情で言った。

「私が、反対したからだよ。」

何がどうなっているのかさっぱり判らないという表情のエルギノスに、皇帝を説得したくだりを話して聞かせた。

「私個人としては、カッツに『デ』を与える事に反対では無かった。いや、むしろそうしたいと思ったと言って良いだろう。ただな、宰相としては、帝国の秩序を優先せざるを得んのだ。」

今の話を聞く限りでは、当時のデ・ブロノアの言い分は、エルギノスとしては十分に納得の行く物ではある。

むしろ、それに負い目を覚えるという事の方が奇異に感じられる程であった。

「だからあれは、そのせめてもの償いだよ。」

その言葉には、謝罪よりもようやく肩の荷を下ろした安堵感が滲み出ていた。

それなりの位階を持ちつつも軍隊という別の原理で動く組織に軸足を置いている彼は、宮廷の複雑怪奇さ加減をその外部から第三者的な視点で見られる立場にあった。

こういう『誠実さ』を持っている人があの真っ只中で生きて来るのは、さぞや大変だったろうな、と、思わず同情を覚えた。

そうして、感謝よりもその辛さに対して掛けるべき言葉が見付からず、エルギノスは黙って頭を下げた。


そうして彼は、中級貴族カ・ディーワではなく、一介の武弁として生きてきた。

どう考えても、自分にはデ・ブロノアの様な生き方が出来るとは思えなかったからだ。

特に彼には、祖父ブルガンの語るトロワノス・マ・アルキレイアという軍務貴族としての明確な理想像があったので、その去就に迷う事が無かったから、ある意味でそれは一番楽な生き方だったかもしれない。

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