水面下で動き出す
青波学園内には、すべてがそろっている。校舎から研究施設、寮、図書館、病院、植物園、そして、その広い学園内を移動するための循環バスまである。
結局、実験設備をかしてもらえないまま今西教授の研究室を退出した二人は、循環バスに乗ってデルタ科の寮に帰った。まるで高級ホテルのようなたたずまいの寮へ着くと、荷物をエントランスのボーイに預け、その足で食堂へ向かう。
食堂も寮の外観に負けずに豪奢だ。シャンデリアがきらきらと光を弾き、真っ白なテーブルクロスが敷かれたテーブルが広い間隔で並べられ、ボーイがすいすいとテーブルの間を縫う。
初めてここに来たときは現実感のなさに思わず笑ってしまった。冗談で話題にするような世界が本当にあるのだと思い知った。今となってはもう慣れたものだ。
食堂には、教室で会ったばかりの面子がそろっていた。全寮制なので、デルタ科の生徒は全員ここにいる。彼らの話題は、『第三実験室壊滅事件』でもちきりだった。
しかも伝言ゲームの要領で話が大きくなっていて、「真名木がまた実験棟を爆破したんだ」「いや違う。研究を盗もうとしてるテロリストの仕業だよ」「お前、間違ってるよ」「俺が正しいんだ」という言い争いにまでなっていた。席から立ち上がるものまでいる。ざわざわと騒がしい食堂に、真名木たちが足を踏み入れた途端、視線が一気に集まり、会話がぴたりととまった。
注目された真名木が思わず一歩あとずさりしたが、背後から「で、本当のところは?」と大塚が背を押し返した。完全におもしろがっている声だ。
仕方なく説明しようと口を開いたとき―――。
カタンッ―――。
食堂の隅のテーブルに座っていた生徒が立ち上がった。食堂の中にあってただ一つ、そのテーブルだけは喧騒から隔絶されたように上品に夕食をとっていた、そのテーブルを囲んでいた生徒のうちの一人だ。
そのテーブルは、特別な意味をもつ。食堂の生徒たちの視線が、真名木から立ち上がった生徒に移った。動揺が走る。
「桜井さん‥‥」
誰かが呻くように呟いた声がきっかけとなって、席を立っていたものが次々と席に着く。あるものはぎこちなく水のグラスを口に運び、あるものは視線をさまよわせて意味もなくフォークを手にとる。
桜井桜理―――青波学園理事長の孫で、デルタ科のなかで一目おかれている人物だ。キツネ色の髪と、琥珀色の瞳。一目で日本以外の血が入っていると分かる外見の、通称『王子』。まるで蝋人形ように滑らかな肌と、整った顔立ち。本当に血が通っているのかと思える、超然とした雰囲気をまとっている。
同じ学年の生徒だが、話すどころか近寄ることさえできない。それくらいがっちりと、取り巻きたちにガードされている。同じのテーブルを囲んでいた取り巻きたちは桜井についていこうと、あわてて立ち上がろうとしている。しかしすでに桜井は歩き出していた。まっすぐに真名木の方に近づいてくる。ガラス玉のような瞳は何も映していない。
真名木は、桜井の表情がかわったところを見たことがない。それでもどこかにほころびが見つからないかと、わざとじっと琥珀色の瞳を見詰めるが、その視線が揺らぐことはなかった。
外国人の血が珍しいわけではない。世界じゅうから生徒が集まるこの青波学園には、たくさんの留学生がいる。桜井は、そうした外国人ともどこかが違った。現実から切り離されたような、幻を見ているような違和感に襲われる。
食堂全体が、息を詰めて王子の動向を見守っていた。一身に集めた視線をものともせず、空気の上を歩くような桜井が、すっと真名木の横を通り過ぎた。すれ違う一瞬前、一度だけ二人の視線が交錯した。
桜井が食堂から姿を消して、取り巻きたちがその後を追うと、部屋に張り詰めていた緊張感が一気に霧散した。しかし気を削がれたのか、みんな大人しく食事に戻った。
「初めて、王子をあんなに近くでみたな」
ぼうっと立ち尽くしていた真名木は、大塚の声に我に返った。
「ん?あー‥‥そういえばそうだな。それにしてもあの取り巻きたち、いっつも桜井のあとについてまわってるよな」
「そりゃあ、桜井さんは王子だからね」
「そうだなぁ」
てきとうに相槌を打ったものの、大塚のその言葉の本当に意味を知ったのは、ずっと後のことだった。
―――慧一郎、病気というのはな、知らないうちに進行しているものなんだ。症状は、異常を知らせる身体からのサインだ。症状が表に出たときにはもう手遅れということも多い。表に出る前に手を打つことが大切だ。
薄暗い部屋の中、ベッドの上で目を覚ました。寮の自分の部屋だ。見慣れたはずの天井に、なぜか違和感があった。
久しぶりに父の夢を見たからだ。あれは初等部のことだった。友人と気まずくなってしまって、しかし謝ることもできずにいた慧一郎に、友人のことにはなにも触れずに、ただそれだけを言った父。医療に携わるあの人らしい言葉だと思う。
あのときは何を言っているのか分からなかったが、今になってことあるごとに父の言葉を思い出す。
なぜいま、あの夢をみたのだろう。
最近、正体の分からない不安がつきまとう。そのせいかもしれない。
自分は何かを見落としているのではないか?
夢が何かを知らせてくれているような気がするが、それが何か分からなくて落ち着かない。
大きく息をついて起き上がり、気分を変えるために空調を切って窓を開けた。
だいぶ日が長くなった。朝早いというのに空は白み始めている。暖かくなってきたとはいえ、朝はまだ少し冷える。
ひんやりとした空気を頬に感じながら、窓から見える寮の庭を眺めた。寮の庭は朝の散歩コースにもなっているが、まだ時間が早いので誰もいなかった。
しばらくそこで静かな景色を眺めてから、慧一郎はシャワーを浴びるために、浴室へと足を向けた。
「今日ってシールド・ボールのリーグ戦だよな。俺体育の授業であのゲームが一番好きだ」
うきうきと弾んだ声の真名木が男子更衣室から出てきた。ジャージのズボンの上に体操服を着て、やる気十分だ。一緒に出てきたのは、同じクラスの大塚と佐古田。佐古田は色白で線が細く、真名木が「いかにも魔器の研究をしてそうって感じだな」と言う眼鏡青年だ。
「それ、偏見」
ずり落ちてきた眼鏡を上げながら、佐古田が不本意そうに呟く。
「そうかぁ?だってサコ、俺がサッカーに誘ってもいっつも勉強があるからって断るじゃん」
デリカシーの欠如した真名木は、相手が気にしそうなことでも平然と言ってしまう。「だからこんなに細いんだぞ」とむき出しの腕を佐古田のそれと並べた。
大塚が思ったとおり、佐古田は自分が細いことを気にしていた。ショックと大きく顔に書いてある佐古田に大塚がフォローを入れた。
「真名木の方が背が高いんだから、腕が太いのは当たり前だろう」
しかしフォローする大塚も十分に背が高い。そもそも佐古田の体型は、標準より少し細めという程度だ。だが背の高い真名木や大塚の隣に並ぶと、どうしても貧弱に見えてしまう。
「俺、お前らと並びたくない」
デルタ科の双璧の隣に並ぶのは、どう考えても不利だ。すねたように言う佐古田の頭に腕を回して、真名木がぐりぐりと頭をかきまわす。「やめろよ」と頬を膨らませて真名木の腕を振り払おうとする佐古田。
まるで大型犬と小型犬がじゃれあってるみたいだ。
大塚は、ペットの犬を散歩して歩く飼い主の気分だった。
真名木が大塚を振り返ってにぱっと笑った。
「イチロー、サコも、また同じチームになろうな!」
こうした相手の好意を疑わないところは、彼の魅力のひとつだ。断られる可能性をまったく考えていない屈託のなさは、まるで小さな子どものようだ。
その笑顔につられて、大塚は何も言わずににっこりと笑い返した。
真名木の腕から逃れた佐古田が、乱れた髪を整えながら言った。
「俺もデルタ科の双璧と同じチームがいいけどさ、でもお前らが同じチームだと勝負にならないだろ。たまには別々のチームになったら?」
デルタ科の双璧とは、ただ単に背が高いだけの意味ではない。二人がシールド・ボールで最強コンビだからだ。攻撃の真名木と、守備の大塚。二人がいるチームは必ず勝つ。
「えー、俺イチローの【シールド】が一番やりやすいもん」
シールド・ボールは基本的にドッジとそう変わらない。敵にボールを当てればいいのだ。違うのは、魔器を内蔵したボールに魔力を込めて攻撃し、【シールド】の魔術で守ること。 【シールド】をきれいに張れるものは、教師でもそういない。たいていは穴がぼこぼこと空いていたり、よくても厚みが不均等だ。
「そりゃあ、誰だって慧一郎くんの【シールド】がやりやすいって言うよ。【シールド】の魔器のランクがBプラスって言ったら、十分実用できるレベルだよ。デルタ科の中で、あの王子たちに次ぐ能力を持ってるんだからね。しかも、王子たちと組むみたいに緊張しないでいいし」
「それ抜きにしてもさ、俺シールド・ボール初めてやったときからずっとイチローと組んでたから、他の奴だとどうもやりにくくて」
真名木は大塚の【シールド】の癖をよく知っていた。敵にボールを投げられたとき、どの辺りに逃げれば防げるか分かっているので、攻撃に集中できる。
「それもそうかもね。それにしても圭太ってほんとに高校になるまでシールド・ボールやったことなかったの?」
佐古田が真名木を見上げた。
「あぁ。ドッジ・ボールならやったことあったけど、シールド・ボールなんて聞いたこともなかったぞ」
「シールド・ボール用のあのボールって特殊だから、高価なんだよ。管理にも気をつかうしな。地方の公立校に置いてあるものじゃないから、知らなくても不思議じゃない」
「へぇ、そうなんだ。たしかにここみたいに金かけてるとこ見たことないな。ってかイチローよくそんなこと知ってるな」
真名木が感心したように言った。佐古田は別のところに驚いていた。
「シールド・ボールを知らないなんて、驚きだなぁ。俺たちは初等部のころから当たり前だったのに、外じゃ違うんだ」
まただ、と真名木は思った。大塚はあまり使わないが、青波学園の生徒は学園外のことを『外』と呼ぶことが多い。同級生がその言葉を使うたびに、真名木は自分でもよく分からない違和感に襲われる。
特に気にする必要はないが、何かが引っかかる。
このときもそうだった。
「サコとイチローって、二人とも青波学園の初等部にいたんだっけ?」
「うん、ここにいる生徒のほとんどが、初等部の頃から一緒だよ。慧一郎くんは幼稚舎からいるみたいだけどね。外からの編入生なんて珍しいから、圭太が来たときはみんな興味津々だったんだよ」
佐古田は得意気に語った。彼の言葉の端々にも『外』に対する優越感が透けてみえる。それは、青波学園の大半の生徒に対して言えることだ。そして彼ら自身は、それに気がついていないのだ。
「この学園に編入するぐらいだから、よっぽど優秀なのかそれとも特殊な事情があるのかって噂だったんだよ。それが蓋をあけてみれば、圭太はどっちも違うしね。どうして圭太が青波学園に入学できたのか不思議だよ。だってこの学園は‥‥」
「佐古田」
佐古田の長広舌を遮ったのは大塚だった。
そこで初めて、佐古田は自分が無神経なことを言ったことに気がついて、さっと顔色を変えた。
「ご、ごめん‥‥」
真名木は何も言うことができずに、苦笑いで返した。
佐古田に悪気があるわけではないのは分かっている。彼を責めても仕方がない。
青波学園の生徒なら誰でも思うことだった。それくらい、真名木の存在は青波学園の中で異質なのだ。
しかし彼の言葉は、真名木がずっと心の奥底に押し込めて見ないようにしてきた、名前の付けられない違和感を刺激する。
真名木が言葉にできない違和感を、大塚ならこう表現しただろう。
―――疎外感。
普段は深く沈んでいるが、ふとした瞬間に浮き上がってくる想い。
―――自分は、ここにいていいのか。
―――自分の居場所はここじゃないんじゃないか。
―――だとしたら、自分の居場所はどこにあるのか。
真名木は大きく息を吐いて、浮上しようとするその想いを再び奥底へと沈めた。こういうときは、身体を動かすのが一番いい。
「行こうぜ」
そう言って、体育館へと向かった。
自分でも思った通り、シールド・ボールが始まってしまえば真名木は何も考えることなく、ゲームに集中した。
「サコ、下がれ!」
佐古田の背後から真名木が叫んだ。
「できりゃ、そうしてるよっ!」
佐古田は一人ごちた。その間にも、佐古田を狙ったボールが飛んでくる。
前に出すぎて下がれなくなった佐古田は敵の集中攻撃にさらされていた。下がることもできずに、ひたすら敵のボールを避ける。
自陣に残っているのは、真名木と大塚と佐古田、あとは同じクラスの生徒二人。
対する敵陣には三人が残っている。
シールド・ボールの決勝戦。
現在、五対三の優位に立っている。しかし、ボールは敵の手にあった。
魔力を込めたボールが佐古田の脇をかする。なんとかよけたものの体勢を崩して片手を床につく。佐古田を再びボールが狙った。
その瞬間、後ろに下がっていた真名木が動いた。
その動きを察して、大塚も動く。
バシュッという音がして、佐古田がいつの間にか閉じていたまぶたを開くと、目の前にボールを受け止めた真名木の背中があった。
「ナイス、イチロー」
そのまま勢いよく敵にボールを投げる。
真名木の狙い通り、ボールは敵の張った【シールド】の間を抜けて敵にヒットした。
どうやっているのかは知らないが、敵の【シールド】の穴を見切るのは、真名木の得意とすることだ。一度、どうやって狙いを定めるのかと聞いたときは「勘だ」と答えていた。
「これで五対二」
真名木はにやりと笑って、唇を舐めた。
佐古田は振り返った先に大塚を見て、すぐに何が起こったのかを察した。
魔力の籠もったボールは投手の思ったようにカーブする。それを受け止めるには、【シールド】で魔術を相殺しなければならない。
あの瞬間、見事なコンビネーションによって大塚が敵の魔術を相殺し真名木がそれをキャッチしたのだ。言葉で言わなくても、二人の息はぴったりだった。
「サコ、いったん下がれ」
ボールは味方にあるが、息を整えるために佐古田は真名木の言葉に従った。
リーグ戦は誰もが予想した通り、大塚チームの優勝だった。結局あのまま味方は一人もやられずに五対零で試合終了した。
更衣室に帰っていく生徒たちを見ながら、体育館に残った体育教師がぼそりと呟いた。
「やっぱり次はあの二人を引き離さないと、勝負にならないな」
実は今回のチーム、『デルタ科の双璧』以外はみんな弱い生徒ばかりを集めて作ったチームだった。
真名木、自分はサコに失礼なこと言っておいて……笑