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左手に起こったことに呆気にとられている僕を一切見ることなく、王子さんは指先で水面に何かを描きはじめた。文字のような図形のような複雑な模様であった。不思議なことに指先で水の上をなぞるだけなのに、水上には模様が消えることなく光輝いていた。
「ねぇ、それって何してるの?」
王子さんに質問するものの僕のことを見ることなく相変わらず無視の王子さん。
いいですよーだ、自分で考えるから。王子さんの言葉から察するに、王子さんはここから脱出するんだよね。水面に描かれた意味不明の模様が脱出の魔法ってことなんだよ。そうでしょ?
王子さんの様子を伺うと、王子さんの指先はまだ水面を走り続けていた。王子さんからは大きな魔法の力がにじみ出ていた。虫の息だった時の王子さんには一切魔法の力を感じなかったのに、今目の前にいる王子さんからは井戸を一瞬で消しさることができるほどの強い力を感じる。ふと、疑問が浮かんだ。
僕に呪いをかけるのに魔法を全部使っちゃったって王子さんが自分で言っていたよね。どうやって、魔法の力を回復したんだろう?普通は体力と一緒で寝たり休んだりしたら回復するんだけど。
「ねぇ、どうやって魔法の力、復活したの?」
王子さんはやっぱり僕に見向きもせず、水面の模様とにらめっこしていた。
答えてくれるとは思っていなかったよ。自分で考えるね。やっぱり、あれだよね。今まで見たことも聞いたこともない、僕の血でできた赤い玉。それが消えた後の王子さんのピアスの変化。それから推理するに、あれによって魔法が回復したんだろうね。ってか、それ以外で説明ができないんだよね。
「僕の血で魔法の力を回復したりできるの?血でそんなことができるなんてはじめて聞いたんだけど。それよりも、脱出の魔法に随分時間がかかっているけど、それってどれくらいかかるの?」
僕が王子さんに聞きたくなるのも無理はなかった。王子さんが水面に模様を描きだしてから10分以上時間が過ぎていたのである。
ここでちょっと質問です。王子さんがここから脱出しようと何やら魔法を使っているのはわかりましたが、その脱出メンバーに僕も含まれているのでしょうか?
一番聞きたいことだったが、一番聞きにくいことだった。なので、少し角度を変えて聞いてみた。
「王子さんがここに今いるのって自分の意思?」
「僕がここに今いるのって王子さんの意思?」
「王子さんの背中の怪我は誰の意思?」
三つの質問にも王子さんは一切答える気配がなかった。
これじゃ何にもわからないよ。ま、王子さんが瀕死の状態だったときは、王子さんを助ける必要があったけど、今はその王子さんは元気になって自分で脱出してくれるそうだから、僕としてはどっちでもいいんだけどね。この中に置いていかれても、明日の夜には飛べるようになるから自分で飛んで出るし。明日の食堂のお手伝いがサボりになってしまうけど、お客さんも少ないし教師も見逃してくれるよ、きっと。井戸に落ちた事情を説明してもいいしね。あっ!それは駄目か。魔法科の屋上に行ったのがばれちゃう。ま、でもどうにかなるでしょ。
だから、ここにひとりで残されても僕は別に泣きませんからね。
王子さんに置いてきぼりを食らう最悪の事態を想像して、実際の最悪の事態に備えた僕だったが、何かが起こる気配は全く訪れなかった。王子さんが井戸から脱出することもなく、ましてや僕がこの井戸から脱出することもなかった。
どいうこと?
王子さんの水面へのお絵描きはまだ続いていて、王子さんの額にはいくつもの汗が浮かんでいた。
詳しいことは全然わからないけど、脱出魔法って大変なんだね。
よくよく王子さんのお絵描きを観察してみると、模様が完成する前に先に描いたものから消えていってしまっていることがわかった。
もしかして、上手くいってないの?
今までずっと動き続けていた王子さんの指が急に止まった。少しして井戸の中が暗闇に包まれた。いつの間にか月も移動していたようで、月の光は届かなくなっていた。王子さんが何か体を動かしていることは水の振動でわかったが、何も起こらなかった。
「ここでは魔法が使えないように結界が張られていますね」
王子さんの諦めたような独り言に僕はすかさず声をあげた。
「ええっ!そうは言っても、王子さんの傷も僕の傷も魔法で治したんじゃないの?」
「ああ、それは魔法というより呪いですからね。私にしかできません。それとは違い、この井戸の中では一般的な魔法が使えないようになっています。この状況では死ぬことも考えないといけないかもしれませんね」
僕の言葉にまともに答えてくれるようになったと思ったら、王子さんの口から聞きたくもないような言葉が出てきた。
何ですと!死ぬとは?ここから脱出できないってこと!?
「シルバー・レイに気をとられ過ぎて、罠に嵌められてしまいましたね。ま、別にいいんですけど」
ちょ、ちょ、何が別にいいわけ!?僕は何もよくないよ。もうちょっと、足掻こうよ、祝福の王子さん!!
「ちょ、ちょ、王子さん!!諦めないでよ。明日の夜まで頑張ったらきっと助かるから!!」
必死の僕の声も王子さんは聞く気がなかったようで、僕が伸ばした手は無情にも水の中に沈んでいく王子さんに触れたのだった。
もう、勘弁してよ!!王子さんを水中から、いや泥水の中から引っ張りあげるの何回目だと思っているんだよ!!やんなっちゃう!!




