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松葉色の交換日記  作者: 綾里 美琴
番外編
10/10

事の真相

君にお願いがあるんです、と久しぶりに兄から電話がかかってきた。内容を尋ねたものの直接会って話したいという。この兄というのは妙に落ち着いた人で、たった一歳違いであるにも関わらず昔からよく面倒を見てもらっていた。少々マイペースすぎるきらいはあるが、穏やかで人に好かれやすい彼を菖蒲も勿論慕っている。だから、急な呼び出しであってもすぐに駆けつけた。


「入院……!?」

「はい」


さっと顔色を変えた菖蒲を、彼――桔梗は座布団の上で正座しながら静かに見つめる。予想通りの反応だったのだろう。だが、「しばらく入院する事になりました」と突然言われた菖蒲にしてみれば衝撃が強すぎた。


詳しく問いただせば、近頃体の不調を感じていて念のためにと病院に行ったらしい。幸いにも今すぐ命に関わる大病ではなかったものの、ずっと放っておけるものでもなかったそうだ。入院を勧められ、頷く事にしたのだという。その日のうちに叔父に事情を話し仕事を辞め、既に準備も整えているというのだから流石といったところだろうか。やけに部屋が片付いているように感じたのもそのせいなのかもしれない。聞き返したい箇所は山ほどあったけれど。


「どうして仕事、辞めたの……? 休職でもよかったじゃない」


店主である叔父は理解のある人だ。事情を話したのなら、いつでも戻っておいでと快く言ってくれるのは想像に難くない。


「……笑いませんか」

「? まあ、多分ね」

「そこは笑わない、と言ってほしかったところですけどね。実は小説家になりたいと、昔から夢見ていまして」


やや恥ずかしそうに、けれど力の篭もった声で彼は告げる。冗談ではなく、本気なのは見て取れた。元より冗談を好みタイプでもないのだが。


「縁起の悪い言い方ではあるんですが、もし明日死ぬとしたら後悔の少ない道を選びたいな、と思ったんです」

「ほんっとに縁起悪いわね。兄さんそういうとこ空気読めないわ」

「……すみません」


しゅん、と項垂れる彼は、まるで叱られた子供のようだ。妹でさえちょっと可愛く見えるのだから、付き合っている彼女からしてみればたまらないのではないだろうか。彼女、と考えて菖蒲はその少女の名を口にした。


「比奈ちゃんにはもう話したの?」


比奈、彼の最愛の彼女。なんと今年の春に高校生になったばかりである。桔梗が二十八になるので、年の差は十二歳だ。犯罪じゃないのかと突っ込んでしまったのは記憶にも新しい。しかし実態としては付き合っている、というだけでキスをするでもなくそれ以上は持っての他という非常に健全な――――中学生カップルでももう少し進んでいるだろうといった日々を過ごしているらしいのだけど。恐らくは、彼女が二十歳になるまでは手を出さないだとか誓っているのだろう。そして彼の事だから、本当に実行してみせるだろう。


「彼女には、今回の事を伝えるつもりはありません」

「はあ!?」


何言ってんの馬鹿兄貴! とはかろうじて飲み込んだものの、険しい顔になってしまったのは菖蒲自身も自覚していた。反対に、桔梗は顔を曇らせる。


「だから君も、言わないでくださいね」

「いや私会ったことないわよ。てか正気!?」

「ええ当然です」

「理由を、お聞かせ願いたいわね」


少なくとも一ヶ月以上、もっと伸びる可能性も多いにあると言った。それだけの期間入院するというのに、恋人に伝えないというからには何らかの理由があるはずだ。というか、なければ殴っている。


「彼女はね、高校に入ったばかりなんです」

「二ヶ月が過ぎた頃よね」

「貴方にも、覚えがあるでしょう。一日一日が眩しいほど輝いていたあの日々がどれほど尊いものだったのか」

「それは、わかるけど」

「大人になってからでは、絶対に取り戻せない。今は今しかない」

「要するに彼女の時間を使わせたくないって言いたいの」


比奈という少女について桔梗から話を聞いた事しかないが、今時の女子高生らしくなく落ち着いていて真面目な子であるのはよく分かった。入院した恋人を放っておけるような性格ではないはずだ。毎日でも、お見舞いに来るだろう。季節の花を持って、花瓶の水を変えて、桔梗が好む本を持って。


「……そんなものは、兄さんのエゴだわ。私なら知った時に怒るわよ」


無言で寂しそうに微笑む彼は、それが肯定である事を意味していた。


彼女の気持ちを無視した、大人の勝手な都合だと思う。でも目の前の人を止められるだけの言葉を、菖蒲は持っていなかった。自分が同じ立場だったとして、迷いなく言えただろうかと悩んでしまった時点で駄目だった。くだらない事で友達と笑って泣いて、少し話せただけで胸がどきどきするような恋なんてしてみたりして、親の干渉をちょっとだけうざかってみたりした高校時代は、もう懐かしむ事しか出来ない。あの時は気付かなかったけれど、大人になった今なら分かる。それがどれほど、どれほど尊いものだったのか。


高校生に入って、まだたった二ヶ月。そんな時に入院している恋人の面倒なんて見ようとしたら、間違いなく彼女の放課後は潰れてしまうだろう。友達とファーストフード店でだべったりアイスを食べながら寄り道したりといった誰しも経験する事が望めなくなる。新しい環境に慣れるので精一杯だろう少女にかかる負担は、推して知るべしだ。けれど、……けれどそれでは。


「君に頼みがあるんです」


そう言って、一冊のノートを見せる。深い緑色の、何の装飾もないシンプルなデザイン。彼らしいと思った。


「彼女と、交換日記をしようと思いまして」

「こ、交換日記? メールすればいいじゃない」

「いえですが、病院ですし」

「今は機器にもほとんど影響が出ないから、場所は限られてるけど使えるところもあるって友達が話してたわよ。気にすることじゃないと思うけど」

「そうかもしれませんが……無機質なメールでは途中で挫けてしまいそうで。僕の我侭だと言ってしまえばそれまでなんですが」


そういえば彼は、手紙といった手書きの文章を好む人だった。そのため、あまりメールはしたがらない。誰が打っても同じの機械的な文字ではなく、彼女自身の字を、言葉を、支えにしたいという事なのだろう。いくら彼でも、長期間の入院はやはり不安らしい。会いに来てもらえば簡単でしょうに、とついぽつりと零れてしまった言葉に返事はなかった。


「でもどうやって交換するの?」

「その事で、君を呼び出したんです」


入院している人間との交換日記は、相手が病院まで取りに来なければ成り立たない。しかしそもそも入院している事さえ黙っていた場合はどうやったって不可能だ。第三者が間に入り、橋渡しをしない限りは。


「いいわよ」

「え」

「ちょっと、何で兄さんが驚くのよ。遠慮せずはっきり言えばいいじゃない」

「ですが君は、家庭を持つ身です。子供だっている。無理な事を頼もうとしているのは、僕だって分かっているんです。でも、彼女を大事にしてくれる人は君しか思いつかなかった」


十二も年下の恋人を思いやるのは、桔梗の優しさであり付き合いたての彼女に格好悪いところを見せたくないという男のプライドでもあるのだろう。馬鹿みたいだと思う。さっさと白状してしまえば楽になれるだろうにとも思う。だが、兄の電話を受けた時から心に決めていたのだ。例えそれが無理難題でも自分に出来る事なら受けようと。今日までずっと、優しい兄に甘え続けてきたのは紛れもない自分なのだから。


「ありがとう、菖蒲」



◇◇◇



昼過ぎに彼から交換日記を受け取り、彼女の家の郵便受けに入れる。彼女は次の日の朝に桔梗の住むマンションの郵便受けに入れてから学校へ行っていたから、また同じように昼過ぎに回収して見舞いがてら渡す。こんな事を二ヶ月もの間繰り返した。当然、夫にも事情を説明した。家事を疎かにはしないから、と。菖蒲がそうしたいならいいよ、と笑った後、でもいつでも断っていいと思うよ、と言った。兄にも既に言われていた台詞だった。


雲一つない晴天の日も、しとしとと雨が降る日も、来る日も来る日も通い続ける。辛いと感じた時はない。これくらいしかしてあげられないのが歯がゆいくらいだ。でも、本当にこれでいいのかと迷ったのは一度や二度ではない。


仕事が忙しいのだと信じて健気にも待っている彼女は、一人だけ除け者にされて何を感じるだろう。頼ってもらえなかったのだと、自分が幼いから支えになれなかったのだと、落ち込んだりはしないだろうか。どうして黙っていたのかと苛立ちを覚えたりはしないだろうか。断る権利が菖蒲にあるとするのなら、彼女には知る権利があるのではないか。特に強く思ったのは、彼女の記念すべき誕生日を彼が祝う事が叶わなかった時だった。


「これを、一緒に渡して欲しいんです」


安物のボールペンしか使わない菖蒲でさえ知っている、著名メーカーの万年筆。前々から用意していたのだという。十六の娘に渡すような代物ではなかったが、本人がいいのならいいかと受け取る。


「ねえ兄さん、やっぱり話すべきだと思うんだけど」

「いいえ」

「けど、普通に考えておかしいでしょ。彼女の誕生日に会わないなんて」


夏休みを控えた七月三日。偶然にも、彼の手術日と重なってしまった。事が事だけに彼女に伝えるよう何度か説得したものの、意思を曲げるつもりはないようだった。頑固者め、とわざとらしいため息をついてから病室を後にする。


その日は、夕方頃に彼女の家へと行った。遠くから見えた少女に、声をかけようと近付く。でも、真新しい制服に身を包み、「またね」と友達に手を振るその姿を見ると動けなくなった。彼女は確かに、明日への希望で満ちていた。子供のうちは、大人に守られた世界でのびのびと過ごせばいい。そう心から願った兄の気持ちを踏みにじる事など、出来るはずもなかったのだ。



◇◇◇



「――――初めまして、菖蒲さん」


真っ直ぐに背筋を伸ばし、凛とした声音で挨拶をする彼女。ああ彼女は気付いたのだと、悟った。厳重な「嘘」を、とうとう彼女は見破ったのだ。ここまできたら、後はもう真実に触れるだけ。


「兄もね、ごまかし通せるなんて思っちゃいないと思うわ。男の意地なんて壊しちゃえばいいのよ。だから私、比奈ちゃんの味方するわね」


菖蒲を責めるでもなく感謝の心を現したこの少女なら、きっと大丈夫だろう。もしもどうにもならない事があったら、微力でも手助けしてあげられる。だからどうか、幸ある未来を二人に。


「貴方と家族になれる日を、心から楽しみにしているわ」


少なくとも、後四年はかかるだろうけれど。


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