渡されたのは、一冊のノート
「交換日記をしましょう」
そう言って彼が渡してくれたのは、一冊のノートだった。深い緑色の落ち着いた色合いで、余計な装飾は一切ない。それは女子高生に渡すにはシンプルすぎたし、そもそも子供でさえ携帯電話を持っている現代、交換日記をしようだなんて随分と時代錯誤だった。時代に逆らって携帯を持っていない、というわけでもなく、どちらもちゃんと持っていたのだから尚更。でもとても彼らしいと好感を覚え、喜んで受け取った。
彼は十二歳年上の私の恋人だ。私が今年十六歳なので、彼は二十八歳になる。少し癖毛の薄い茶髪を緩やかに伸ばし、
知的さを醸し出す黒縁眼鏡の奥では穏やかな瞳が覗いている。誰に対しても敬語で話し、どんな話題でも茶化したりする事はなく真面目に聞き、相槌もきちんと打ってくれる人。私服は着物で、趣味は囲碁と読書、好きなものは醤油お煎餅と温かいほうじ茶というおよそ二十八歳らしくない精神年齢の高い人だ。芸能人のように格好いいというわけでもないのだが、おばあさん達にとても人気らしい。亡くなったおじいさんを思い出すのよね、と話しかけられているのを見た事もある。
彼と出会ったのは、いきつけの本屋さん。個人経営なためさほど大きくはなく、どちらかといえばこじんまりとしているお店。でも流行の本はきっちり抑えていたし、置いてある小説の数々が実に自分好みだったのでよく通っていた。そこで店員をしていたのが彼だ。特に意識をしていたわけではないけれど、温和な、明らかな善人オーラが見えるせいか、彼が店番をしている時はレジに本を持っていきやすかった。店主であり彼の叔父であるという男性が嫌だったわけではないが、あまり愛想は良くなく、なんだか緊張してしまっていたからだ。そうやって客と店員という立場のまま、半年ほど過ぎた頃だろうか。受験勉強のため参考書を買いに行った時、「応援しています」と一言声をかけてくれたのがきっかけだった。社交辞令だろうかとも思えたが、真摯な響きにそういったものは見られず、ただ本心から言ってくれているのが分かった。それから何気ない事をぽつぽつと話すようになり、次に出る新刊が楽しみなんです、その先生の本は全部持ってますよ素敵ですよね、本当ですか羨ましいです、じゃあ貸しますよ、代わりに何かお勧めがあったら貸してください、と交流を深めていく。
好きです、付き合ってもらえませんか、と告白されたのは、志望校に合格したと彼に報告した時。彼に好意を抱き始めていた私が断る理由があるわけもなく、頷いてこちらこそよろしくお願いしますと返した。頬を赤く染めてはにかんでくれた彼は可愛らしく、心の底から愛おしく思えた。
彼も私も騒がしいところは得意ではなく、お弁当を持って公園へ出かけたり本屋巡りをしたり隠れ家的なカフェで雑談する日々。手を繋ぐだけでそれ以上の事はせず、夜八時前には別れるという健全なお付き合い。十歳上の兄には理解不能だという顔をされたけれど、私は充分に幸せだったし彼も幸せそうだったので嬉しかった。交換日記を渡されたのは、高校に入学して二ヶ月ほど経った頃の事だった。
30P綴りの、松葉色のノート。それぞれ1Pずつ書き、私は彼の住むマンションの一階にある集合郵便受けに入れて彼は私の家の郵便受けに入れる。代わり番こに書いて、使い切るのに二ヶ月かかった。二冊目のノートは、私から彼に渡す。