第一章
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人に嫌われる、人に避けられる、人にいじめられる。
どれも心が痛む表現だが、これらの全ての表現に言えるのは、相手が、自分が互いの事を覚えていれば覚えている程その質が濃くなるという事だ。
そいつを知っているからこそ嫌い、そいつを知っているからこそ避け、そいつを知っているからこそいじめる。
だが「人に忘れられる」、この表現だけは唯一、片思いの痛みだ。そして日常的に一番多く、極地に達しやすく、尚且つ他の痛みと同等の痛みを心に与える。
そしてこの表現においては痛みを与える側は相手の痛みを想像する事が最も難しい。罪悪感は微塵もない。なにせ無意識に人を傷つける事ができる唯一の暴力だからだ。
僕は嫌っていたわけじゃなかった。避けていたわけでもなかった。いじめていたわけでもなかった。
ただ――全てを忘れてしまっていた。罪悪感は、もちろん感じていなかった。
それがどれほど苦しい事なのか、どれほど重たい事なのか、僕はすぐに実感する事になる。
*
鋭利な斬撃が漆黒の影へと吸い込まれ、二つに切り裂いた。
すると影は塵となり、風に吹かれた煙のように一瞬で空気に溶けていく。
誰も居なくなった街路を一目で見渡すと、長髪の少女は両手に構えた無色の刃を降ろし、すぐ隣の建物へ背を向けた。
同時に、逆手持ちで握られていた二つのナイフは光の粒子となり、小さな音を立てて煌びやかに周囲へと散った。そしてすり替わるように、左手に握られていたのは無色透明のプレートペンダント。少女はそんな超常現象に目もくれず、ジャージのポケットへ右手を入れると、携帯電話を取り出しディスプレイの中央に目を落とす。
「……タイムリミット……かな」
大きく書かれたデジタル文字は午後十一時二分を示していた。
この数字が正確ならば辺りの景色はすっかり暗くなり、並び立つ建物の看板には色鮮やかな光が灯っている頃だろう。空が晴れていれば夜空に浮かび瞬く月光も見えるかもしれない。
しかし少女の瞳に映るのは、すぐ傍にある廃れた建物と乾いた大地、そしてどこまでも続く灰色の空。綺麗な夜景どころか、辺りは未だ曇り空の曖昧な光に照らされている。
画面のロックを解除し、手帳アプリを開いた少女は明日の予定を見て小さく嘆息。画面の電源落としポケットへ乱暴に端末をしまうと、ペンダントが握られた左手に力を込めた。
刹那、眩い閃光が廃墟の街々を照らし付けた。白く染まった光の世界は瞬く間に収束し、彼女の両手に無色透明の刃を作り上げた。
再び手にした刃を強く握り、少女は荒野の大地を一直線に駈け出した。踏み込んだ地面は砂漠のように乾燥しており、乾いた音を立てて砂埃を巻き上げる。
数十秒程走り続けたところで、少女が駆ける両側を一瞬の鈍い音と共に鋭利な刃が抜き去って行った。刃はすぐ先の地面へと激突し、硬い土を抉り取り深々と突き刺さる。
疾走する少女の表情が僅かに歪み、警戒の色が浮かんだ。
すると、再び後方から空気を裂くような鈍い音が聴こえた。途端に少女は長い髪を揺らし、身を翻すと右手に握られた見えない刃を力いっぱい振るった。放たれた斬撃は再び飛来したもう一つの刃と正面から衝突。けたたましい音と共に、飛来した刃は大きく弾かれ宙を舞った。
同時に、少女は渾身の力で左手の刃を乾いた大地に突き立てた。ガリガリと響く乱雑な音が幾秒か続き、少女の身体はようやく停止する。その軌跡を描くように、擦れた地面は砂埃を巻き上げ、少女の周囲に拡散した。振り向いた彼女が目を凝らすと、数十メートル先にある廃墟の上に先ほど切り裂いたはずの黒い影。正確には同種だが、少女にはこれ以上の彼らの相手をしている猶予は残されていない。
少女は瞳を閉じると祈るように刃に力を込めた。すると、僅かばかりの蒼が流れるように少女の全身に灯り、無色の刃を淡い空色に染め上げた。そして少女は先に見えた影に背を向け、再び黄土色の地を大きく駆けた。だがその速度は先ほどと打って変わり、瞬く間に漆黒の影との距離を広げて行く。
いくつもの廃墟が立ち並ぶ街を走り続け、少女はとある建物を探し続けた。
するとしばらくして、一つの小さな廃墟に目をつけた少女は急ぐように駆け込むと中へ侵入した。
そこでようやく足を止めた少女に、突然凄まじい疲労感が襲い掛かった。ナイフが握られた両手と膝が地に落ちる。付着した砂が膝と手首に黄土色をこびり付ける。しかしそんな事に目もくれず、少女は顔を上げると辺りを小さく見渡した。
とある建物の内部は近くに立ち並ぶ廃墟と同様、無残に荒れ果てていた。一見、他の建物と変わらない、そんな風に見えるかもしれない。しかし建物に入った少女の目線の先には漆黒が埋め尽くす大穴が広がっていた。ブラックホールのような純黒の穴は、何もかもを吸い込んでしまいそうな程に不気味な空気を周囲に振り撒いている。
刹那、後方で轟音が響いた。建物全体が大きく揺れ動き、天井からは小さな破片がいくつも零れ落ちていく。内部は一瞬にして砂埃が舞い上がった。
追手が来たのだろう。額に汗が滲み、心臓の鼓動が速度を上げていく。
小さく息を飲んだ少女はゆっくりとその場で立ち上がった。
そして、灰色の壁に浮かぶ黒い円形を睨みつけると、地面を蹴って壁へ向かって駆け出していく。黒い大穴がすぐ目の前まで迫り、少女は目を瞑るとその身を壁の中へと投げ入れた。
すると、彼女の身体を不自然な浮遊感が身を包んだ。そっと目を開き、辺りを見渡すが視界は黒く染まったまま変わることがない。そして徐々に意識が遠くなり、自然と身体から力が抜け落ちていく。そんな感覚が幾秒か続いた。
しかし次の瞬間、騒音と共に少女の視界にいくつもの色が灯った。
辺りには眩いほどに光り輝くいくつもの街灯、車、そして大きなビル。流石に夜も更けてしまっているからか、いつもよりは人通りが少ない。肌に感じる風はまだ春先早いからか冷気を伴っている。
少女は一息つくと、自らの右手に目を向ける。すると握られているのは無色透明な長方形のプレートペンダント。
それを首から下げて胸元にしまうと、ジャージポケットから再び携帯電話を取り出す。中央に大きく書かれた表示は二十三時半。あれからおよそ三十分ほど経過していた。
「……また終電……かな」
少女はそう言って呟くと、星々の消えた都会の夜空を見上げた。
*
「どうしてこうなるんだ……」
やっとの思いで駅の改札口に辿り着いた僕は小さく愚痴を零した。だが電光掲示板に表示されていた急行電車はとう昔に消え去り、普通電車へと変わってしまった。これではもう朝のホームルームには間に合わないだろう。
しかし全ては夜更かしをして準備を怠った僕が原因であり、怒りを向けるべき矛先は全て僕自身へ向いている。このまま刃を振り下ろしたところで頭に無数のコブを作るだけだろう。
四十分前、目覚まし時計に目をやり慌てて飛び起きた僕は、紺色の制服を身に着けると黒鞄へ適当に荷物を投げ入れ、家を飛び出し駅へまで力いっぱい自転車を走らせたのだ。このままスムーズに事が進んでいれば、もしかしたら間に合ったかもしれない。
問題はここからで、改札口前でズボンの後ろポケットに手をまわした僕はとある事実に気づいた。定期券の入った財布を忘れてしまったのだ。
そこからはもう地獄。慌てて財布を取りに帰り探すが何故か見当たらず、部屋中を探しまわる羽目に。やっとの思いで見つけた財布を握りしめ、外に出ようとすると今度は鍵がない。
なんとか全ての事を終え、辿り着いたのがついさっきだ。準備不足の恐ろしさを僕はこの世に生まれて16年目にして再認識させられる事となる。いや、これが初めてだ、と言う訳では無いのだが……。
駅のホームには未だ長打の列が続き、周囲には僕と似たような顔つきの人々が溢れていた。
そして電車がホームに入り、その中へ入り込むと密度を増した列車の中では、人々の顔色は更に険しいものとなる。
僕たちの住む町、加西町は俗に言うベットタウンである。
この町から毎朝多くの人々が、鳥籠のような駅のホームで人の波に飲み込まれながら、それぞれ目的地を目指している。
電車の窓から外の景色へ目をやると、住宅街の続く景色はしばらくすると緑溢れる山々へと変わり、そしてまた住宅街、最後には高層ビルばかり並び立つ大きな町が見えてくる。
様々な景色が流れ続けるその間、僕は他の人々と同様、電車の中で人の波に飲まれていた。隙間はほとんど無くすし詰め状態。皆が皆どこか疲れた表情や眠そうな表情を浮かべ、湿度が高く息苦しい車内。朝から集団で罰ゲームをしているような気分になってくる。
加西町の学校へ通い、町外にはほとんど出る事がなく、遊びも近くのゲームセンターやカラオケで満足していた僕には満員電車どころか電車に乗る機会すら少なかった。仮に乗る機会があったとしても、人の少ない休日や、校外学習で平日の昼間に普通電車で隣町へ行く程度。朝から大都会を目指して電車に乗る機会など当然あるわけがない。もし機会があったところで今までの僕なら絶対に行かなかったかもしれないが。
そんなわけで、このように人の多い場所や空気には不慣れだった。
早くも憂鬱な気分になった僕は、電車のドアが開いた瞬間、逃げるように電子液晶が見える強化ガラスの上を走り抜けていった。
川瀬町は僕が住んでいる加西町から、急行列車で三十分ほど行った所にある。ここ5、6年で急速に発展していき、デパートや高層ビルが聳え立つようになってきたのがこの町だ。10年ほど前までは緑豊かで静かな土地だったらしいが、次々に建てられていく大きなビルや建物に埋め尽くされていった。
そんな町の中でも未だ周りに桜の木が並び立ち、異質と言えるほどの空間が僕の目指す場所、川瀬北高等学校である。川瀬町が町として栄える以前から在った古い学校らしく、木造建築ではないが、少し古びたコンクリート造りの校舎と周りを埋め尽くす鮮やかな桜の木々が特徴である。
そして今、綺麗に立ち並ぶ桜並木に目もくれず、校舎の周りを巡回し、校門を目指し走っている少し寝癖のついた黒髪少年が僕、綾瀬 皐月だった。