第六場 夕陽。『本当に‘家族’みたいね』
中断した次のシーンから再開。そのために、栄は上手側の袖の邪魔にならない隅にスタンバイする。
前の場面からの時間経過は、七年。秧鶏はなんと二十歳の役である。最初はどうしようかと思ったが、笑実に「そのままでやんなさい」と言われてから開き直った。もっとも役の年齢と実年齢が大体でも合ってるのは朱雀と風馬の同い年コンビ、それと琥珀くらいだ。
今舞台上にいるのは秋沙役の飛鳥、青龍役の沙矢子と、風馬役の七波の三人。ここはアドリブ部分だが、もともと得意な飛鳥だけでなく沙矢子も七波もだいぶ慣れてきたらしい、楽しそうにふざけ合っている。その向こう、栄と反対側の袖では、梨絵がこのシーンからの衣装の上に重ねて着ていた茶色い着物を音を立てないように脱いでいた。梨絵にとって、初めての衣装替え。まあ今回の舞台では、衣装替えは全員ある筈なのだけれど。
なんとか身支度を整えて髪も手早くまとめた朱雀が、盆を持って舞台に飛び出した。
「ほらほら、早くお膳の上のもの片付けて! もう夕餉にするからっ。」
そのセリフは、びっくりするくらい自然だった。まるで実生活で何度も何度も言い慣れているように。
三人の子供たちは、バタバタと周りを片付け始める。秋沙は食卓を拭く朱雀に声をかけた。
「朱雀ちゃん、お手伝いしようか?」
「うん、お願い。」
秋沙は朱雀から布巾を受け取って食卓を拭き、朱雀が一度袖に戻って取ってきた食器を一緒に並べ始めた。そんな二人の様子は本当に姉妹のようで、栄はつい微笑んだ。思い出すなあ、飛鳥がよく私の家に来ていた頃のこと。飛鳥の母はいわゆるキャリアウーマンで、飛鳥は幼稚園や小学校から帰った放課後の大部分を母親が専業主婦である栄の家で過ごしていたのだ。夕飯まで一緒だった事も、一度や二度じゃない。そこまで考えて、気付いた。秋沙と飛鳥はとても似ている。適役だ。それを言ったら、やはり自分は秧鶏役にぴったりなのかも知れない。
「おーい、そろそろ飯か?」
礼子先輩……いや、玄武兄さんが大股で舞台に入ってきた。この人も役がものすごく似合う。朱雀は楽しそうに笑顔で返す。
「はい、すぐ準備するわ!」
そして邪魔にならないように避けているだけの弟達を呼ぶ――筈だったのだが。
「ちょっとアキラ……じゃなかった、ごめんなさい。」
嘘だろ!? 梨絵の言い間違えに、呼ばれる筈だった沙矢子もそばにいた飛鳥も、先輩たちも遠慮なくずっこけた。
「……初めてだ、こんなNG。」
礼子が腹を抱えて笑う。そりゃそうだろう。うっかり実名呼んじゃったりなんかは時々あるけど、どういう呼び間違いだよ。普段とっても厳しい部長まで笑ってしまっている。梨絵は真っ赤だ。
「すみません。ごめんなさい。あーやだ恥ずかしい。」
「ちなみに梨絵ちゃん、アキラ君て誰?」
本番に合わせて袖で衣装替え中だった京花が、半端な格好のまま笑いながら聞いた。
「うちの弟です。こういうシチュエーション多いものだから、つい……」
「なるほどなー」
雰囲気は一気にぐだぐだに。このときも一番最初に立ち直ったのは、やっぱり月香だった。
「しょーがねーな。よし、このシーン最初から! もう間違えても止まんなよ、朱雀。」
「はいっ、すみませんでした!」
思いっきり深く頭を下げてから、盆を持って袖へとぱたぱた駆けて行く。と、月香が栄のいる方に歩いてきてそっと耳打ちした。
「刀、忘れてるぞ。」
栄はとっさに腰に手をやり……赤くなって窓際の隅に置いてあった刀を拾い上げた。危ない危ない。人のこと笑ってる場合じゃないや、気を付けなきゃ。
「GO!」
部長の合図とともに再開。この舞台も、まだまだこれからだ。
衣装を着けての練習になっても、なかなか全シーン通すことは出来ない。まだまだ失敗ややり直し、ダメ出しも多いからだ。そうでなくてもやりながら直すところや細部の変更は毎回ある。だから、脚本担当の笑実とその助手の安芸子は活動に必ず顔を出していた。役者だけでも11人。脚本や小道具のようなサポートもいると、それだけで部室がちょっと狭く感じるほどの大所帯になる。
八月に突入したばかりのその日、部室にいる人数がちょっとだけ少ない気がした。
(……あれ? 誰がいないんだ?)
目線で数えて確認してみる。うん、部員は全員いる。一人でもいなかったらすぐに分かるし。文芸部の二人も来てる。そこまで見て、やっと足りない人に気が付いた。
「雪穂先輩、今日はしのぶ先輩と綾瀬ちゃんは?」
昼休みに聞いてみた。来ていなかったのは、イラスト部部長でポスターのために呼ばれた川口しのぶと、一年生ながら小道具製作を任された手芸部員の綾瀬愛那だった。二人とも部員ではないけれど、笑実なんかと同じく舞台づくりの一員として夏休みの活動には毎回参加していたのだ。栄の問いに、雪穂の隣にいた月香が代わりに答えた。
「しのぶは野暮用でサボり。愛那ちゃんは今日から手芸部の合宿だってさ。」
手芸部の……そうだ、当然だけど愛那には手芸部の活動があるんだ。ほとんど演劇部員と同じように思えていたのに気付いて、そんな自分にちょっと驚いた。まあ、本当に部員みたいになってる文芸部の二人とかもいるけど。
でも、それよりも注目すべき単語がある。
「そっか、もう合宿の季節かあ。」
同じことを思ったらしい飛鳥が、栄の隣でぼそっと呟いた。合宿は行き先も日程も部ごとに違うが、だいたい八月の初めから中旬頃に固まっている。この時期が一番、学校の補習や新学期の初めに影響しないらしい。そういえば栄たち演劇部の合宿ももうすぐだ。
「ちなみに愛那ちゃんたち手芸部の合宿先はうちのと同じ所で、俺たちが乗って行ったバスで東京に帰る。その時に一度顔を合わせるから、彼女が合宿中に仕上げてくれた小道具類を受け取る手筈になってる。」
副部長が解説してくれた。って事は、手芸部も演劇部と同じく三泊四日か。手芸部が合宿先で何やるのかは知らないが、そちらの活動や文化祭のための作品もあるはずだ。そんな忙しい中、小道具まで……手が回るのだろうか? 栄がそんな事を考えてたら、笑実が言った。
「ところで月ちゃん、そっちは合宿で花火とか計画してる?」
「もちろん。」
「都合はそっちに合わせるから、ご相伴させてくれないかなー。私ら人数少ないからイマイチ盛り上がらなくてさ。もちろん、部員分の花火はこっちで用意するから。」
執行部員たちは上機嫌で頷いているが、一年生たちはきょとんとしている。それを見た雪穂は急に大声を上げた。
「あーっ、言うの忘れてた! 合宿は演劇部と文芸部で合同だってこと自体、すっかり……」
「おいぃ!」
忘れられていた文芸部の笑実部長がすごい勢いでツッコんだ。月香が呆れつつも補足説明を始める。どうにもこの人はこういう役回りが多い。
「毎年の事なんだけどな……。どこも部員数そんな多くないんで、合宿を合同にする部活って結構多いんだぜ。今年の参加者はうちが11人の文芸が7人。活動は別だけど遊ぶ時間は合同の予定だったよ、もともと。」
「という訳だからよろしくね! 一緒に楽しもう!」
笑実はすでにハイテンションになっている。そういえば、彼女と安芸子の二人って本当にちゃんと文芸部の活動してるんだろうか。ほとんど二つの部活動を掛け持ちしてるようなものだ。何て言うか、スゴイなあ。
ぼけっとしていたら、もうとっくに食事を終えていた月香に声をかけられた。
「栄、美園、弁当もう終わってるなら殺陣だけちょっとやっておこう。雪と京ちゃんも来て。」
「はーい。」
じっくり考え込んでる暇なんかなかった。今はこれが、私の最優先課題。
「ちょっと青龍! 風馬っ! あんた達も手伝いなさいよ! ほら、これ運んで。」
朱雀役の梨絵が弟達を追い立て、舞台中央に置かれた卓袱台の上に五人分の食器を並べていく。そんな騒ぎの中、ちょっと手を止めた飛鳥は、すでに食卓に陣取っている先輩に声をかけた。
「ねえ、玄武兄さん。にいさま、まだ帰って来ないの?」
秋沙の台詞。ちょっと心細げな声でと心がける。ここで言う‘にいさま’は、秋沙の実の兄である秧鶏のこと。彼は忙しいとよく勤め先である城に泊り込むので、秋沙を自分も育ったこの家に預けて三日やそこら帰って来ないことは珍しくない。それでも出来る限り妹と過ごす時間を作ってくれるし、秋沙にも兄の仕事の大切さはよく分かっている。けれど、不安なのだ。近頃は静かだとは言え、今は戦乱の世。いつ何が起こるか分からない。
「そうだな、また忙しいんだろ。」
玄武はそう答えて、不安そうな表情の秋沙の頭を優しく撫でた。励ますように笑いかける。
「どうした秋沙。心配すんなって。秧鶏とは、ちゃんと約束したんだろう? あいつは約束破ったりしないよ、ちゃんと帰って来るさ。な?」
頼もしい‘兄’の言葉を聞いて、安心したようにちょっとだけ笑顔を見せる。ちょうどその瞬間、引き戸の音がして、秋沙の待ちに待った声が聞こえた。
「こんばんはーっ、玄武兄さーん!」
「にいさまだ!」
飛鳥は目を輝かせて上手側の袖へ――舞台上の設定で言えば玄関の土間へ――駆け込んだ。そこでさっきの台詞を叫んだ秧鶏役の栄に、秋沙の想いをそのままに飛びついた。栄もぎゅっと抱き締めてくれた。本当に、栄が秧鶏にいさまの役でよかった。こんな風に自然に兄妹らしいスキンシップが出来るのは、本当に姉妹のように育った栄とだけだもの。後から迎えに出てきた玄武兄さんと並んで、秧鶏は舞台上へと歩き出す。その片腕に、嬉しそうな秋沙をくっつけたまま。
「今度は長く休めるのか?」
「ええ、多分。近頃、ここらは平穏ですから。」
玄武の問いに、穏やかに微笑んで返す秧鶏。飛鳥は不意に、その微笑みがいつもの栄と違うと思った。ごく自然に、落ち着いて大人っぽい。なんだか置いて行かれたような気がして妙に寂しくて、腕を握る手に無意識に力がこもる。栄は気付いているのかいないのか、そっと妹の頭を撫でた。
「そうだな、これがずっと続けばいいんだが。そうすれば、楸も…」
玄武兄さんはほとんど独り言のような調子で呟く。楸は秧鶏の主人、この国の若殿の名。ここは結末に繋がる大事な伏線。
「え? 兄さん、今なんて?」
「いや、何でもねえよ。」
不思議そうな顔で聞き返した秧鶏に、玄武は笑って首を横に振った。
「それより、飯食って行くだろ? おい朱雀。」
役名を呼ばれて、梨絵はひょいと立ち上がった。下手の袖へと去りつつ笑顔で答える。
「分かってるわ。秧鶏兄さんの分、すぐ用意しますから。」
「悪いね、朱雀ちゃん。」
秧鶏は朱雀の背中に声をかけて、改めて玄武にも頭を下げる。
「玄武兄さん、いつもすみません。」
「なーに言ってんだ。これに関しちゃ礼も詫びも無しだって前にも言ったろ。家族なんだから。」
玄武は豪快に笑って、秧鶏の頭をくしゃくしゃと撫でた。なんだか、本当の弟に接しているみたい。先輩の前回の役……蓮くんも、早苗としてはもちろん大好きだけど、わたし個人的にはこういう頼もしいお兄さんも素敵で好き。先輩は女性なんだから、こう言うのは失礼かもしれないけど。
アドリブで適当に笑い合いながら、六人は食卓を囲んだ。玄武を中央に、秋沙はもちろん秧鶏の隣。ふふっ、本当に家族みたいだなあ。茶碗などを手に取って食事するふりをしながら、次の青龍の台詞を待つ。程よいタイミングで沙矢子が口を開いた。
「そういえば玄武兄さん。木葉姉さん、最近帰ってこないよね。」
京花演じる木葉は、秧鶏より一つ年下の十九歳。けどこの家の女の子では最年長だったから、つい最近までみんなの面倒を見ていたんだ。その木葉姉さんがお城で住み込みで働くようになってからは、十六歳の朱雀がその役目を継いだ。秋沙もこの家にいる時はちゃんと手伝ってる。母を知らない青龍にとって、木葉姉さんは年の離れた姉というより母親のような存在だから、ちょっと寂しそう。もっとも、それは家族みんなに言えることだ。
「そうだなあ。きっと忙しいんだろう。姫のお気に入りの側仕えだそうじゃないか。」
玄武兄さんもちょっと寂しげに微笑んで言う。と、秧鶏がふと思い出したように言った。
「あ、木葉なら、近いうちにお休みを頂けるって言ってましたよ。」
「本当!? 久しぶりだあ!」
青龍が目を輝かせる。朱雀も嬉しそうに応じた。
「この前帰ってきたの、お正月だったもんね。」
確か場面設定では、このシーンは初夏くらい……だったかな? ということは、約半年。それだけ会えなかったら寂しい訳だ。同じく城に勤めているから会えないことも無い筈の秧鶏も、みんなが喜んでいる顔を見て嬉しそう。冗談半分のような口調で言う。
「なんでも『この春の新入りがやっと使い物になるようになった』って。まあ私も同じですけどね。」
……それにしても何だろうなこの台詞は。ファミレスのアルバイトか何かの話みたい。でもこういう現代にもありそうな台詞、ちょこちょこあるんだ。まあ笑実先輩の文章ってそういうとこが面白いんだけど。
ここで話題が変わって、青龍が好奇心いっぱいに目を輝かせて尋ねる。