第五場 追風。支えてくれる人々と。
「お帰りなさい玄武兄さん! ……どうしたの?」
目を丸くして叫ぶ、秧鶏役の栄。目は、抱えられてきた見知らぬ女の子に釘付けだ。玄武は息を切らせながらその問いに答える。
「いや、何でもない……あとで話すよ。」
その一言だけで、秧鶏はだいたいを察する。「木葉のときと同じだ」という程度の感想を抱くだけのはずだ、と脚本の笑実が言っていた。玄武兄さんが木葉をこの家に連れてきたのはこの場面のほんの数年前、秧鶏はもう9歳だった設定だから。大人びた13歳の少年はあえて何か尋ねようとはせず、黙って肩をすくめた。
「あーあ、びっしょり。傘持ってったのにね。兄さん、風邪ひいちゃうよ。僕、拭くもの持ってくる。」
「悪いな。あ、木葉は?」
聞かれて、再び舞台袖へ引っ込もうとしていた栄は振り返る。少年の口調って、実は意外と難しい。
「まだ起きてる。ついでに呼ぶよ。」
「頼んだ。この子に何か着物貸してやってくれ。」
「うん。」
頷いて袖に引っ込み、木葉役の京花とアイ・コンタクト。栄は手拭いの山を、京花は朱雀のものと似た赤い着物(朱雀役の衣装は、梨絵が今の茶色い着物の下に既に着ている)を持って二人連れ立って舞台へ上がった。
「玄武兄さん、着物、これでいいかな。」
木葉の最初の台詞。面と向かってはとても言えないけど……京花先輩、素でいる時より役に入っている時の方が何倍も可愛い。本番と違ってメイクもしてない今は顔や何かが変わる訳じゃないんだから、ひとえに言動の問題である。
「ああ、ありがとう。」
「ううん、あたしがやるわ。女の子だし。」
「お、そうか。悪いな。」
木葉は秧鶏から一番大きな布を受け取って、それで朱雀の身体を包み込む。栄は心を決めて、その様子をぼけっと見ている礼子先輩……じゃなくて玄武兄さんの頭にばっと手拭いをかぶせて、思い切ってわしゃわしゃと拭き始めた。うー、これが一番勇気いるんだ、実は。我に返った玄武が自分でやり始めたので、ほっとしてその頭から手を離す。そして、その周りの床を拭いた。しばらく無言の時間が続き、先刻の半分くらいの音量になった雨音だけがずっと続いている。タイミングを見計らって、梨絵がやっと沈黙を破った。
「あ……ここは……?」
かすれたような小さな声。それにすぐさま木葉が答えるのを聞きながら、秧鶏も彼女に近寄っていく。
「よかった! 気が付いたのね。ここはあたし達の家よ、もう大丈夫。」
梨絵が身を起こす背を、京花が優しく支える。完全に起き上がるのを待ってから、木葉の台詞が続く。
「あなた、あそこにいる玄武兄さんに助けられたのよ。」
ぼんやりと木葉の視線の先を見る梨絵。栄もつられてそっちに視線を向ける。三人分の視線が集まって、玄武役の礼子は演技じゃなく照れたようにそっぽを向いた。
「人として、当然の事をしただけだ。助かって、よかった。」
ちょっとぶっきらぼうに言う玄武の耳が少し赤くて、なんか可愛い。京花も口元がゆるんでいる。梨絵もちょっと笑顔を見せた。彼女が小さくありがとうと呟いた声に京花はふっと木葉に戻って、梨絵の頭をイイコイイコと撫でつつ優しく尋ねる。
「ねえ、お名前聞いてもいい? あたし、木葉っていうの。」
と、梨絵は急に顔を曇らせてうつむいた。首を横に振り、小さな声で言う。
「ない。」
「えっ」
木葉の聞き返す声が若干裏返った。秧鶏も驚いてそちらに近寄り、玄武はそれを押しのけるようにして二人の傍らに膝をつく。
「ない? 父さんや母さん、いるんだろ?」
そう言いつつ俯く少女の顔を覗き込むので、梨絵がどぎまぎして赤くなるのが栄にも分かった。
「と……父さんは知らない。会った事ない。母さんは、あたしを置いていなくなったの。たしか、四年くらい前。」
先輩の顔があまりにも近いので、少しどもってしまったらしい。栄は顔には出さなかったが、ちょっと微笑ましく思った。この舞台の練習が始まってから知ったことだが、梨絵がこの高校に来た理由というのが文化祭で観た礼子先輩に一目惚れしたかららしいのだ。もっとも、本人を含む二年生たちにはまだ言ってない。けど同級生にも明かしたのを後悔しただろう。飛鳥にはもちろん、それと一緒になって元々これを知っていた沙矢子にもさんざん冷やかされてた。可哀想に。
おっといけない、次は秧鶏の台詞だ。栄は戸惑うように、言葉を絞り出すように尋ねる。
「君、いくつ?」
「今年で十になる。」
六つになるならずという幼い子供が、四年もの間を一人で生き抜く……現代日本に生きる栄には想像もつかない。この時代だってそうだろう、いや、もっと厳しいかもしれない。だからこそ、親のない秧鶏も妹の秋沙と、木葉と、まだ赤子の青龍と、玄武を親代わりのようにして身を寄せ合って暮らしているのだ。木葉は自分の肩を抱くようにして小さく身を震わせた。
「なんてこと……ねえ兄さん、この子に名前をあげましょう。何か素敵なの、考えてあげてよ。」
「そうだな。」
木葉の言葉に、少女は驚いたように目を見開いた。玄武は頷き、彼女の顔をじっと見る。
「朱雀、なんてどうだろう?」
玄武は彼女の目をじっと見、微笑みかける。朱雀という名が出た途端、木葉と秧鶏の二人ははっとしたように動きを止める。
「すざく……?」
「ああ。朱雀っていうのはな、鳥の姿をした南の神様の名前なんだ。俺の名前の玄武は北、朱雀と対の存在だ。……気に入ったか?」
「うん。」
嬉しそうに言って泣き出す、朱雀という名をもらった少女。木葉がその肩を包み込むように抱く。
「ほっとして、気が緩んだんだろ。木葉、お前らのとこで一緒に休ませてやれ。」
木葉は玄武の言葉に頷いて、朱雀の肩を抱いたまま下手へと下がっていく。それの後に続くようにゆっくり退場していく玄武を、秧鶏は呼び止めた。
「玄武兄さん!」
「んー?」
ぐーっと伸びをした形のまま、動きがぴたっと止まる。振り向かないその背に問い掛けた。
「兄さん、いいの? 朱雀って兄さんの……」
「いいんだ。」
玄武が強い調子で台詞を遮る。秧鶏に言うというより、自分に言い聞かせるように。
「あの子は、朱雀の幼い頃にそっくりだ……。」
秧鶏はそれ以上なにも言えず、最後に「お前ももう早く寝ろよ」とだけ言って舞台袖に姿を消す玄武の背を見送った。一人になった舞台が、ゆっくりと暗転する。
「おーし、イイ感じ!」
月香の満足げな声と同時に、二人分の拍手が聞こえた。
消えていた教室の電気が再び点き、栄は舞台スペース中央に立ったままドアの方を振り返る。拍手の主はすぐに分かった。前回の部活から来るようになったイラスト部の川口しのぶと手芸部の綾瀬愛那だ。二人して部室に入ってすぐの所に立っている。練習を始める前にはいなかった筈だから、始まってしまってから暗転の隙にでもこっそり入ってきたんだろう。月香が一回練習を中断させ、二人に来るように合図した。
「雪ちゃん、髪留めの図案とポスター原案、描いてきたわよ。」
「先輩、とりあえず一部は作ってきてみたんですけど。」
言いながら鞄を開ける二人。その言葉を聞いた雪穂部長の顔がぱあっと明るく輝く。
「すごい! さすが仕事が速いわ! しのぶも愛那ちゃんも、私の人選に間違いはなかった!」
よほど嬉しかったらしい。ちょっとオーバーなくらいに躍り上がって叫び、二人に抱きつこうとする。のを月香が引きとめて頭を軽く叩いた。妹が落ち着いたのを確認してから、彼女はまずしのぶが差し出したイラストを受け取る。もちろんすぐに全員がやってきて覗き込んだ。
「素敵! 私のイメージ以上ね。」
脚本の笑実も満足げににっこり笑う。しのぶはちょっと照れたように頭の後ろを掻いた。レポート用紙に描かれた、5センチ弱×10センチほどの同じ大きさ同じ輪郭の二つの図柄。まあ後方の客席からはこんな小さな絵など見えないだろうが、近くからなら見える可能性があり、写真で残るかもしれないと雪穂はこだわった。また、そのこだわりに全員が納得するくらいの重要なアイテムであったのも確かだ。
「悪いわね、忙しいのにこんな仕事頼んじゃって。」
「何言ってんの。雪ちゃんがこだわるって事は、そんだけ大事なんでしょ? 長い付き合いだもん、私なんかで役に立てるなら使ってよ。」
そんな事を言ってにっと歯を見せて笑う友人に、雪穂は今度こそ本当にぎゅっと抱きついた。月香はというと、そんな二人を完全に無視して愛那の取り出した物を手に取ってチェックし始める。
「早い上に丁寧だな。細かい所までしっかり作ってある。」
そしてにっこりと笑いかける。愛那は嬉しそうに顔をほころばせ、ありがとうございますと頭を深く下げた。部員全員もいつの間にか小道具の周りに集まっていた。栄も首を伸ばして覗き込んでみる。月香・笑実と愛那はさらに細かい話に入っていた。
「これは翡翠のだよな。他の布で出来ないか?」
「とりあえずある物で作ってみたので……。縮緬とかが良いとは思ったんですけど、持ってなくて。」
「買っていいよ、予算は出るから。縮緬の……そうだな、上品な緑色とかあれば。」
「わかりました、次までに買っておきます。大きさはコレでいいですか?」
「上等。中には綿か何か詰めた方がいいな。」
全部書くとキリがない。他のものについても一つ一つこの調子で話し込んでいる。
それにしても驚いたのは、演出の月香はともかく愛那の小道具に対するこだわりだった。大きさや形から使う布の柄、質、使い勝手に至るまで妥協したがらない。栄はさっきまで2人の話題に上っていた、掌サイズほどの巾着を手に取った。試作品と言っていたがきちんと紐まで通してあり、十分使える。手縫いのようだが丁寧に細かく縫われていた。家庭科があまり得意ではない栄には、ちょっと真似出来そうにない。
「あっ、そうだ。あとコレも頼まれていたの、持って来ました。」
作った小物に関する話がやっと一段落したらしい、愛那はふと思い出したようにぽんと手を叩いて、自分の鞄をかき回し始めた。布製の袋に入った、長さ30センチばかりの棒状のものを取り出す。
「それ、何?」
京花が興味津々で覗き込む。袋から出てきたのは、竹か何かで出来ている横笛だった。
「翡翠姫に使おうと思って、持って来てもらったの。えーと……何笛って言ったっけ。」
雪穂の言葉に、愛那はなんだか嬉しそうに笑顔で答える。
「篠笛です。私、祭囃子やってて、それで使うんですよ。」
「へー。綾瀬ちゃん、そういうのやってるんだあ。」
祭囃子という言葉に耳ざとく反応したのは、江戸っ子を自負する梨絵。目を輝かせて言う。
「ね、それ吹けるの? 聞かせてよ。」
「一応。まだ笛は持たせてもらえるようになったばかりだから、下手だけど。」
愛那はそう答えて両手でその笛を構え、そっと息を吹き込んだ。高く澄んだ音。二、三回慣らすように吹いてから、一つ大きく息を吸って曲を吹き始めた。指使いがまだ少しぎこちないけれど軽快な、梨絵じゃなくてもテンションの上がりそうな旋律。愛那が唇から笛を離すと、梨絵が思い切り嬉しそうに拍手した。他の部員達も感心して、半ば梨絵につられるように手を叩く。愛那は恥ずかしそうに顔を赤らめて俯いた。
「綾瀬ちゃんすごーい! でも、翡翠姫がこういう曲吹くの?」
ちょっと訝しげに尋ねた京花に、部長が笑って首を横に振った。
「まさか。まあ曲なんかはこれから考えるわ。愛那ちゃん、これ、借りられる?」
「はい、大丈夫です。」
愛那はそう言って吹き口をウェットティッシュで拭き、部長に手渡した。雪穂はそれをそのまま翡翠姫役の奈々に渡す。
「ポーズだけでもとってみてよ。」
奈々は頷くと、指の穴を塞いで軽く口元に当てた。そして二、三音吹いてみせたので、雪穂まで驚いた顔をした。
「奈々ちゃん、吹けたの?」
「ううん、和笛は初めて。フルートと同じようなものかと思ったけど、やっぱり違うね。」
「フ、フルート!?」
なんだか、奈々先輩って実はすごい人だったのかもしれない。栄たちは思わずにいられなかった。もっとも、こう思ったのは初めてではなかったが。そして、そんな奈々の言葉に何か閃いたらしい、笑実がパンと手を打った。
「奈々ちゃん、てことはフルート持ってるのね?」
「うん。使うの?」
「せっかくだもの。あ、でも吹かないよ。ラストシーンで使えるわ。」
ラストシーン。その一番大事な部分には、まだ台本がなかった。笑実先輩はみんなで創ると言っていたけど……どうなるんだろう? まだ大まかな内容も決まっていないらしい。メモされていたキーワードはただ二つ、『全員登場』と『場面は現代』だ。なるほど、本編の内容と呼応させるつもりなら、戦国時代で翡翠姫の持っていた横笛がフルートになるのは分かりやすい。
「ラストシーンといえば笑実、チェスセットってどうするの?」
雪穂が尋ねた。これも小道具として使うのだろう。
「チェスセットはどんなのでもいいよ、ある程度の大きさの駒なら。なんなら私ん家にあるの持って来るわ。けど、問題は……」
笑実は一度言葉を切り、月香をチラッとだけ見た。それで彼女には言わんとする事が伝わったらしい、軽く頷く。
「将棋盤、だろ。脚付きの。」
「そう。」
将棋盤は、絶対必要で物語の進行に関わる重要アイテムという訳ではないが、場面上ない訳にはいかないのだそうだ。それにしても今時、脚付きの将棋盤なんてどこにあるんだろう。というか誰が持ってるんだ。売っているのかどうかすら分からない。と思ったら。
「あ、あの、良かったら持って来ましょうか……?」
「えっ?」
おずおずと遠慮がちに声をかけてきたのは、ついさっきまで関係ない話で一人で盛り上がっている梨絵の相手をしていた小菅沙矢子。飛鳥なんかとは違って普段あまり制作側の話に口を挟んだり自分の意見を言ったりしない方なので、先輩方も驚いたらしい。雪穂様が本気できょとんとしてらっしゃる。
「あの、沙矢ちゃん……持って来るって、脚付き将棋盤を? そんなもん持ってるの?」
「はい。あ、別に私が持ってる訳じゃなくて、祖父が将棋とか囲碁とか好きで。とても大切にされてるんですけれど、私が言えばきっと貸して頂けると思うんです。汚したりなんて絶対しないし。」
「すごい……。どんな風流なお祖父様なの! お目にかかってみたいわ!」
珍しく笑実の絶叫が部室に響く。その様子を見ていた梨絵が呆れたように呟いた。
「沙矢たんて……ホントにお嬢様よねー。」
「やだなー、お嬢様なんかじゃないってば。家にも来たことあるのに、何言ってんだか。」
話になかなか出ないけど、この部って実はスゴイ人が多かったりしないか……? 奈々や沙矢子だけじゃない。お嬢様というか、お姫様とも言いたくなるような雰囲気が時々感じられる。もっとも、そういう意味で一番怪しいのは白金姉妹だ。いつか聞いてみたい。
「じゃ、そろそろ進めようか?」
いい加減イライラしてきたらしい月香が言い出すまで、小道具の話は終わらなかった。