第三場 入道雲。演劇の夏への入り口。
「そういえば秧鶏くん、あなた、殺陣の経験は?」
雪穂部長に何の脈絡もなく聞かれて、妹・秋沙役の飛鳥と喋っていた栄ははっと振り向いた。
「えーと、ないです。中学には出来る人、いなかったもんで。」
「琥珀……美園ちゃんも当然ないわよね。じゃ、ダンスか何かは?」
「ないです……。」
「私はあります。中学、ダンス部でした。」
美園はがばっと立ち上がって、力を込めて言った。とっても張り切ってる。
「そこまで力まなくてもいいから。じゃあ、早めに練習始めた方がいいわね。終業式の後、集まれる?」
「はい!」
二人とも力いっぱい頷いた。殺陣! 一度やってみたかったんだ。栄もこればかりはドキドキがおさえられない。目をキラッキラさせた後輩二人を見て雪穂はちょっと苦笑し、それから急に厳しい顔を作って言った。
「楽しんでばかりもいられないわよ。ビシビシしごくから、覚悟なさい。」
そう言われても、栄はやっぱり楽しみだった。けど。
「栄、どうした?」
「イヤちょっと視線が……」
こそっと小声で尋ねた飛鳥に、他の誰にも聞こえないように答える。さっきから視線を痛いくらい感じるのだ。もっとも、その視線の主も意味する所も、栄には分かっていたが。
「ああ、そういう事。」
飛鳥にも分かったらしい。からかうような調子で囁いた。
「本当にライバルね。」
「不本意ながら。」
栄は答えて、小さく溜息をついた。一方的にライバル視されてもなあ。最初からそんな気配はあったが、ここまであからさまではなかった気がする。最近特に……秧鶏役の争奪戦の後からかもしれない。
そんな美園、栄と飛鳥の様子に気付いてか気付かずにか、雪穂は話を締め括った。
「じゃあ二人と月香は明日の放課後、私の教室に集合ね。」
それに、飛鳥が好奇心いっぱいの顔で尋ねる。
「あの、見学に行ってもいいですか?」
「いいわよ。邪魔にならなければ。」
雪穂はどうでもよさそうに、いくぶん素っ気なく言う。あたしも行く、一緒に行こ! と盛り上がっている飛鳥や梨絵や沙矢子たちを放っといて、さっさとこの前にしていた話に戻った。
「とりあえずシーン1から作ってくよー。ほら玄武、朱雀、秧鶏に木葉! 集合!」
手をパンと叩く。その音と彼女の声はざわめいていた部室によく通り、部員達を一瞬で静かにさせた。
「そういえば、先輩、ずっと聞こうと思ってたんですけど。」
「何だい朱雀。」
つい慣れずにいつもの通り呼びかけてしまった一年生の梨絵に、礼子はさらっと役名で応じる。梨絵はちょっと気まずそうにもじもじしたが、気を取り直して台本の最初のページを指で示した。
「あの、ここ……。」
それは雨の中に倒れていた梨絵演じる朱雀を、玄武兄さん役の礼子が助ける場面。なんと、舞台中央から袖までという短い距離とは言え、玄武は朱雀を抱えて走らなければならないのだ。本当に体格差のある男性と少女ならいざ知らず、演じるのはたった一年違いの高校生女子である。いくら礼子先輩の背が高くても、こればかりは……
と思っていたが。
「え、これ? 大丈夫だよ。お前くらいなら楽勝楽勝。」
当の礼子は平然と言う。みんなあっけに取られた。
「で、でも、あたし結構重いですよ?」
戸惑って梨絵が言う。と、礼子はおもむろに立ち上がって、彼女の肩を掴んで引き寄せた。
「ちょっと失礼。よいしょっと。」
ひょいっ。
「きゃあ!」
本当に‘ひょいっ’という感じで、梨絵の肩と膝あたりをかかえて抱き上げた。思わず梨絵は悲鳴を上げる。いくら小柄な部類に入る梨絵でもそんな軽い筈はないのだが、礼子は顔色も変えていない。
「お、軽いじゃん。細いなあ。」
礼子は子供相手のように笑いかけて、そっと梨絵を床に下ろした。そんな彼女の腕を、月香先輩が後ろから遠慮なく鷲掴みした。礼子先輩も全く動じないで応じる。
「何だよ楸。あんまり触んな、太いんだから。」
「なんだか前よりたくましくなってないか?」
「お、分かる? このごろ鍛え直してるんだ。この役を希望してたしな。」
そう言うと、礼子はいきなり制服のサマーセーターの袖をまくった。服の上からでは分からなかったが、思っていた以上にたくましい二の腕があらわになる。もっとも、それほど太くはない。
「すごーい、礼ちゃんカッコイイ!」
京花が何故か目を輝かせて叫び、その腕をつんつんと突っつく。礼子はちょっぴり赤くなって袖を下ろした。
「おいコラ! いつまで脱線してんの? 続きやるわよ!」
雪穂先輩の怒鳴り声で一瞬で部室内の空気が張り詰めて真剣になった。喝が入ると後は早い。とんとん拍子に進んでいき、その日のうちにはベース部分が全部出来上がった。次回からはもう台本を持ったままだが立ち稽古に入る。その前に、殺陣だ。
翌日、終業式の直後。栄は当事者である自分以上に目を輝かせた飛鳥に引きずられるようにして雪穂たちの待つ二年生の教室へ向かった。集まる必要のない梨絵や沙矢子まで何故かついて来る。
「失礼します。あの、白金先輩……」
「おっ、来た来た。なんだ、結局全員揃っちまったのかよ。」
栄がそっと二年生の教室のドアを開け、その後から三人がぞろぞろ入っていくと、月香が呆れて言った。見ると、教室の中には美園と部長、副部長のほかに残りの二年生もみんないる。
「まったくよ。これならちゃんと部活動として部室使う許可取っとけば良かったわ。」
雪穂も言う。机をがちゃっと寄せて、教室の後ろ半分を空けてある。彼女が腰掛けている机の足元には、立派な木刀が四本(使うのは三本の筈だ)置いてあった。その一本を手に取りながら、部長は栄たちに微笑みかけた。
「じゃあ、始めましょうか。基本から。」
……笑顔なのに凄みがあるのは何でだろう。
月香、栄、美園の三人はそれぞれ木刀を手に取り、軽く両手で構える。思ったよりもずっしりして、振り応えがあった。まず‘基本の形’だけ、先輩たち二人の真似をしてやってみる。
「先に手本見せた方が早くないか?」
月香の言葉に雪穂は頷き、それならと長い髪を高い位置で一つにまとめた。
「そうね。じゃあ月、秧鶏やって。私が琥珀ね。それと京ちゃん、せっかくいるなら手伝って。」
「へいへい。何すりゃいいの?」
「紫苑の位置に座っててくれればいいわ。逃げないでね。」
出来るだけ本番に近く、という雪穂の指示で髪を下ろした京花は、一応台本を持って言われた通りの位置に座る。双子は短く打ち合わせをすると、いったんそれぞれに舞台スペースから離れた。
「絶対に動くなよ、かえって危ないからな。」
月香の声にまだ笑顔で軽く頷く京花。それを確認してから、雪穂が一歩踏み出して声を張り上げた。
「紫苑姫! お命頂戴する!」
びいんと教室の空気が震える。京花は演技でなくびくりと身を竦めた。
「なっ……!」
迫真の演技……と言うより本当に怖いのだろう、何事かと叫ぼうにも声にならないといった様子。雪穂(琥珀)はそれに本当に容赦なく木刀を振り下ろす。見ている全員がヒヤリとするぎりぎりのタイミングで、駆け込んできた月香が京花の頭上20センチで雪穂の木刀を弾き上げた。
「秧鶏!」
ほっとして叫んだ京花の声はなんだか泣きそうだった。二人はそのままカンカンッと数回打ち合わせ、相手を押さえて月香が叫ぶ。
「紫苑様! ご無事でございますか?」
台詞をちゃんと要所要所に挟みつつ、激しく木刀をぶつける二人。それは本当の命を賭けた戦いのようで、同時にピッタリ息を合わせて滑らかに舞っているようでもあった。不思議とリズムがあり、二人の呼吸が重なり、間違っても相手に当たってしまうような事はない。こんなの、今まで見たことない。
最後にちゃんと台本どおり、琥珀が苦戦して上手側の端に押されたところで「カット!」という月香の声が飛んだ。演技中の表情が嘘のように、雪穂がにやりと笑う。
「久しぶりに月とやったけど、前よりかえって良いわ。あー、やっぱ男役希望すれば良かったなあ。」
「莫迦、それじゃ誰が姫やるんだよ。京ちゃん、大丈夫?」
月香は妹に同じ顔でにやりと笑いを返して、座り込んだまま動けずにいる京花に手を差し伸べた。その手にすがるようにして立ち上がる彼女の足は少し震えていた。
「さすが、迫力。でも大丈夫よ、これくらい。」
強がっても泣き笑いのような顔で、声も少し震えている。月香は微笑んで、その肩を抱くようにして近くの椅子にエスコート。そして本番で殺陣をやる筈の当の二人は、ただ呆然として先輩達を眺めていた。本当に、私たちに出来るんだろうか?
「何もこの通りにやれとは言わないわよ。今のはアドリブ入ってたし。それに、これから練習するんじゃない。時間はあるわ。」
それからまずはゆっくりと基本の動きを教わる。舞台に上がるタイミングから振り方、立ち位置、止まった時のポーズ、そして二人の呼吸の合わせ方。栄も美園もとにかく必死で、部長が小休止を入れたときには精神的にもへろへろになっていた。
「出来ない……。」
思わずといった感じで弱音を吐いた美園の背中を、ばんっと荒っぽく叩いて礼子は笑った。
「まあまあ。素質あると思うよ、二人とも。少なくとも俺が初めてやったときよりずっと上手い。」
「礼ちゃん、言っちゃなんだけど下手だったもんねー。今や想像できないけど。」
雪穂が笑う。姉妹は一年生二人とは対照的に、汗もかかず涼しい顔をしていた。そこに最終下校のチャイムが聞こえて、先輩たちはなんだか残念そうな様子で帰り支度を始めた。雪穂が木刀を部庫に戻しに行こうとドアに手を伸ばした時、そのドアが外側から勢いよく開いた。
「きゃっ!」
「わっ、ごめん雪ちゃん!」
入ってきた女子生徒は衝突をかろうじて避け、とっさに雪穂が落としそうになった木刀を受け止める。
「悪い悪い……っと、そっか、演劇部が使うって言ってたっけね。」
その聞き覚えのある声に、栄はパッと顔を上げた。バスケ部のユニフォームを着た彼女もそれに気付いたらしい、栄を見てにやっと笑う。
「華奈先輩!」
「よぉ、栄。ご無沙汰じゃんか。」
170cm以上はあろうかという長身、美人ではないが人の良さそうなはじける笑顔。短いポニーテールが後頭部に揺れている。栄の小学生の頃のバスケクラブと中学校での先輩、十条華奈だった。地元も学校も通学経路も同じなのだからよく会いそうなものだが、お互い忙しいようで久しぶりの再会だった。確か4月の、最初の部活の日に会ったきりだったろうか(Prologue参照)。
「先輩、このクラスだったんですか。」
「そうだよ、ゆっきーと同じ。」
華奈も部活の後らしい。自分の机の上に置いた鞄をかき回しつつ汗を拭く。といってもシャツに大きなシミが出来るほど汗まみれなのですぐに着替えないと意味がない。運動部のことはよく分からないが、全体的に練習はとてもキツイと聞いたことがある。その上、夏の盛りのこの暑さだ。体育の授業だって汗だくになるのに、こうならない方がどうかしているとも言えた。
「ゆっきーは勘弁してくれないかしら。華奈、七月って観てくれたんだっけ?」
「もちろん観たさ、八重さん。文化祭も行くよ。招待試合と時間がかぶらなければね。」
華奈はいつも通り笑顔で答える。と、人の目も気にせず着替える(女子校だからね)彼女を見ていた礼子がぼそっと言った。
「十条、腹筋割れてる。」
「どこ見てんの相模。そりゃ運動部だもん、あんたには負けらんないさ。」
「ちっ、これでも鍛えてるんだけどなー。」
なんだか会話が変だ。その時またドアが開いて、顧問の川崎先生が顔を出した。
「もう最終下校時刻過ぎてますよ。」
「すぐに帰ります!」
雪穂部長が慌てたように返事をし、後輩たちを急かし始める。ふと窓の外を見ると、オレンジ色に染まりかけた大きな入道雲が見えた。ねっとりした夏の夕日の向こうに、文化祭はどんどん近付いてくる。