第一場 夏。 NEXT START!
結局その後は一年生たちも全員歌わされ、飛鳥などは乗せられて三曲ほど歌い、正午に集合だったにも拘らず解散した頃には夕方という有様だった。翌月曜日の部活にみんな疲れ切った顔で現れたとしても無理からぬ事だったかも知れない。そして部長姉妹と笑実はやっぱり元気だった。どうやら底無しの体力があるらしい。
「はーい、文化祭の台本印刷したから配るよー!」
七月公演の反省会が一通り終わると、もう次の話に入る。雪穂曰く「反省だけ肝に銘じて、悪い過去は引きずらない」んだそうだ。何て言うか、雪穂部長らしい。
台本を受け取った部員たちは、すぐさまそれを読み始める。ちょっとシーンとした部室。読みながらでいいから、と副部長の月香が今後の予定などを話し始めた。
実はこの日が夏休み前最後の部活。もうすぐ定期試験の一週間前なので、活動ができなくなるのだ。しかし当然、演劇部は夏休みも活動がある。合宿に行くだけではなく、その前に大体の事をやらなければ到底秋の文化祭に間に合う物ではない。文化祭は一年で一番大きな舞台なのだから、先輩も先生も力の入り方がまるで違う。その辺は、一年生とは言え演劇部が初めてでない栄や飛鳥にはよーく分かっていた。
合宿に行くのは八月の前半。それまでもその後も、学校がある時と同じペースで(しかし学期中と違って丸一日の)活動予定がびっちり詰まっていた。
「文化祭がどんなに大事かって言うのは、みんな当然分かってるでしょうね? 他の舞台は在校生と中学生くらいしか観に来ないけれど、今回は違う。保護者、受験生に卒業生、部外者だって観るかも知れない。わざわざ来て下さるお客さんに、半端なものをお観せする訳にはいきませんからね。」
月香は言葉も口調もいつになく丁寧で、だからこそ凄みがあった。こういう時は部長より怖い。
「ねえ、栄。」
先輩の話が途切れた隙に、台本の陰に隠れて、飛鳥がこっそり声をかけてきた。
「文化祭、やっぱり怖い?」
「……うん、そりゃあね。多分うちの家族全員来るだろうしな。」
そんな話は、ひそひそとあっちこっちで交わされているようだ。その時、栄と飛鳥の話に京花が割り込んできた。
「栄ちゃん、家族に観られるの怖いの? もしかしてキミもご両親が演技に詳しい人とか?」
「いえ、親じゃなくて姉がちょっと。……って、キミ‘も’って何ですか?」
聞き返すと、気付いてくれて嬉しいと言うようにニコニコして内緒話の姿勢をとった。普段からこういう芝居がかった事が好きな人だ。
「この部のOGに有名人が多いって話は知ってる? その人の娘がいたりするのよ。」
「へぇ。」
思わせぶりに言ったにしては、具体的なことは言おうとしない。今に分かるよ、と微笑んで、自分から入って来たくせにそれきりその話はやめてしまった。意外な事を知っていたりする京花だが、本当に情報通なのかただの知ったかぶりなのかよく分からない人だ。
でも……京花の言葉は正しいような気がする。栄はちらっと、相変わらず一人で窓際に座っている同級生に目をやった。いつも七月公演での由依役と同じポニーテールの少女、A組の戸塚美園。めげずにしょっちゅう話し掛けている梨絵などとは普通に喋るようになったが、未だに自分から喋ろうとはしない。特に飛鳥を避けて通っているようで、舞台以外ではあれ以来一度も目を合わせてすらいない。必然的に、飛鳥とだいたいセットで行動している栄も美園と言葉を交わす機会がないままだった。
そんな栄と飛鳥が聞いてしまった、美園と浦和鈴美の会話。
(分かってるもの、あんたが母さんの手先だって事くらい。)
(あら、妹の晴れ舞台を観に行っちゃいけないの?)
美園が鈴美の妹だというのが本当なら、美園は女優・戸田薊の娘ということになる。それに以前、栄だけがうっかり立ち聞きしてしまった雪穂部長との会話も……。
(先輩は、あたしの母をご存知なんですか?)
(まあね、同業者だから。)
同業者という言葉が、女優もしくは芸能人を指すのだとしたら……?
「ちょっとぉ、何考え込んでんの? 月香先輩の説明、ちゃんと聞いてたんでしょうね。」
ちょっと怒った顔の飛鳥が、視界に割り込んで来た。ち、近い。見慣れているとは言え、ここまで至近距離のどアップだとインパクトある。というよりこれ、七月公演の早苗と蓮のキスシーンより近いのでは? 礼子先輩相手だとあんな可愛らしい乙女な反応してみせたくせに、私だと10センチでも平気なのか、そうかそうか。
ツッコむ気も失せて、なんでもないとだけ答えて台本に目を戻す。その時、月香先輩の声が聞こえた。
「試験最終日後の活動はそんな感じだから、みんなテスト勉強もちゃんとやりなさいよ。」
……そんな感じって、何?
どうやらガッツリ聞き逃したらしい。うーん、うっかりしていた。そっと飛鳥の顔を窺ったら、勝ち誇ったような表情をされた。なんか、無性に悔しい。
「大丈夫、特に大事なこと聞き逃した訳じゃないから。今回はオーディションじゃなくて、希望出し合って話し合いなんだって。詳しいやり方なんかは当日説明するって。」
思いっきり皮肉っぽい口調で言われたけど、ま、教えてくれるだけありがたい。もっとも、飛鳥の言った通りそこまで重要な情報が含まれてはいなかった。話し合いったって、これじゃ何するのか全く分からない。
最後は雪穂先輩が締め括った。
「みんな、全力で前期末試験を乗り切るぞっ!」
「おー!」
そのノリに躊躇いなくついて行けたのは、二年生だけだった。
「よっしゃテスト終了! 栄っ、部活行くよ!」
定期試験の最終日、昼の十時過ぎ。飛鳥はD組の教室に飛び込むと、まだ英語の問題用紙を手にしている栄を引きずるようにして駆け出した。そして部室に一番乗り。一年生は二年生より一時間早くテストが終わるので、とりあえず待機の時間だった。
「弁当はまだ早いよね。先コレやろう。自己練習付き合ってくれる約束でしょ?」
栄に口を挟む間も与えず、荷物を置いて台本を広げる。そんな飛鳥を見てやれやれと肩をすくめながら、仕方なく栄も自分の台本を取り出した。
今回の物語は、前回のとはまたずいぶんジャンルが違うようだ。まず、時は戦国。しかし日本史で勉強したのとは違う、架空の世界だ。「笑実ちゃんワールド」なんて名付けたのは例によって雪穂。
登場するのは戦国時代の小国に暮らす若者たち。若殿や妹姫、彼らの配下の民、隣国の姫などが様々に関わり合い、物語を紡いでゆく。視点があちこち動き、主役も脇役もない。群像劇というやつだ。
城下に暮らす一人の青年、玄武のもとに身寄りも名もない少女が拾われて来るところから、この物語は始まる。彼の家には同じく親のない少女・木葉や幼い兄妹・秧鶏と秋沙(栄には二つとも読めなかった。秋沙はあきさだろうか)、まだ赤ん坊の青龍という男の子が既に一緒に暮らしていて、朱雀という名をもらった彼女も共に暮らす事になる。
それから七年、大きな戦もなく落ち着いていたこの国を揺るがす事件が起こる。隣国が攻め込んで来たというのだ。秧鶏が仕える若殿・楸(これも読めない)や、その妹姫で木葉が仕えている紫苑は何とか戦を避けようと奔走するも、状況は苦しくなる一方。敵国の姫・翡翠を戦へ駆り立てる心の底にあるものは、深い哀しみ。そんな翡翠姫を慕い彼女に従う少年・琥珀。彼の想いは……
戦が起ころうと、どんな時代だろうと、人の恋心は揺れ動く。一つ屋根の下で育った秧鶏と木葉は、いつの間にかお互いに強く惹かれ合うようになる。煮え切らない兄たちの恋路を心配する秋沙にも風馬という恋人ができ、朱雀はと言うと、育ててくれた兄であり恩人である玄武に恋している自分に気が付いた。彼女をひそかに応援する弟・青龍。実は彼には、彼自身も知らない出生の秘密があった。他にも彼ら登場人物たちが抱える秘密が、物語後半で次々に明らかになっていく。
フィクション時代小説と恋愛小説が同時進行という、一見むちゃくちゃな事になっているように見える。
栄が希望する役は、若殿に仕える青年・秧鶏。たくさんの血の繋がらない兄弟と唯一の本当の妹を必死で守ろうとする。主である楸殿を何より敬愛するが、あるとき自分に関する秘密を知ってしまう。きっとその重さに苦しんだ事もあっただろう。難しそうだが、これほど一つの役に惹かれた事は今までないかも知れないとさえ思っていた。
そして飛鳥がやりたがっているのは、あろう事かその想い人・木葉だった。栄に言わせれば、大人びた木葉の雰囲気は飛鳥に合わない。秋沙か朱雀のような少女の方が似合うと思うのだが。
「何よ、わたしが子供っぽいって事?」
以前ほんの少し仄めかしただけでめちゃくちゃ怒られた。それ以降、口に出さない事にしている。
他の部員たちが誰を希望しているかは知らない。今日の部活で「話し合う」という事だったが、詳しくは聞いていないのでどうなるのかよく分からない。
で、兎にも角にも二人で練習を開始しようと台本を開いたのだが……
「やっぱりやるとしたら二人とも出る所からかな。」
「うん。……ね、栄、」
「何?」
「これ、役名なんて読むの?」
「……。」
そう、これが一番の問題だった。木葉はともかく、二人とも秧鶏という漢字の読みが分からない。相手の名前を呼べなければ、このページの会話が始まらない。
「難しい名前付けるなあ……。」
「まあ笑実先輩は国語の神様だからね。」
そんな声が聞こえると同時にガラッと扉が開き、思わぬ人が入ってきた。
「うわっ!? 安芸ちゃん、どうして?」
突然現れた栄のクラスメイト・志茂安芸子に、飛鳥は思わず驚いて声を上げた。そういえば彼女は文芸部で、脚本を書いた岩淵笑実の後輩になるわけだ。安芸子は笑いながら答えた。
「うわって何よ、人をバケモノみたいに。私は笑実先輩に呼ばれたの、協力者って事でさ。ところで、どの名前が読めないって?」
「これ。」
栄が指差した名前を覗き込むと、安芸子はあっと声を上げて肩をすくめた。
「この名前付けたの、私だ。」
「え、そうなの?」
安芸子は頷くと、役一覧を指差しながら説明し始めた。
「これ、くいなって読むの。あと妹の秋沙ね。私が考えたのはこれだけよ。先輩に、何かアイディア出してって頼まれたんだ。どっちも鳥の名前なの。ちなみに楸と紫苑は花……ってか木の名前で、玄武、朱雀、青龍は四神ね。翡翠や琥珀は分かるでしょ?」
さすが。二人はただ感心したように聞いていた。飛鳥がぽつりと呟く。
「安芸ちゃん、国語得意だもんね。こういう知識ってどこから出てくるの?」
「やあね、これはただの雑学。授業には出てこないよ。」
まあ雑学は好きなんだよね、と安芸子は照れたように頭をかいて笑った。
「先輩には敵わないけどさ。ところで、えいちゃん、もしかして秧鶏役を希望してくれてるの? 嬉しいな、私が名付け親って事になるんだ。秧鶏には思い入れあるから、えいちゃんに演じてもらえるなら私は嬉しい。」
そこまで言われて、なぜか栄まで照れたような気持ちになる。飛鳥がいじけたように口を挟んだ。
「ねえねえねえ、木葉は? 木葉には思い入れってない?」
安芸子はまじまじと飛鳥の顔を見、さも意外そうに言った。
「木葉? あーちゃんが木葉?」
「何よお、安芸ちゃんまで。みんなしてヒドイじゃない。」
ぷうとふくれた飛鳥の顔を見て、安芸子は思いっきり笑いとばした。
「ごめんごめん。木葉も良いと思うけど、あーちゃん、秋沙やる気ない? イメージぴったりなのに。」
「結局わたしが子供っぽいって言いたいんじゃないのっ!」
安芸子と一緒になって笑った栄も、ついでに頭をはたかれた。すっかり拗ねてしまった飛鳥をなだめていると、一年生の残りの三人も部室に入ってきた。時計を見ると、まだ何もやってないのにだいぶ時間が経ってしまっている。その後も結局何もせず、一年生同士で適当にお喋りして時間を潰していた。11時を回り、そろそろ早めのお昼にしようかと誰からともなく言い出した時。
試験三時間目終了、つまり二年生のテストが終わった事を知らせるチャイムが鳴った。
そして、
「お待たせー! 会いたかったわ私の可愛い後輩諸君!」
信じられないくらい早く、白金雪穂部長が叫びながら部室に飛び込んできた。まだチャイムが鳴り終わって十分も経っていないのではなかろうか。大急ぎで走って来たらしく、ちょっと肩で息をしている。それから遅れること五分、副部長をはじめとする二年生が一団でやってきた。中に文芸部の笑実も交ざっている。
「雪、置いて行かないでくれない? まったく今朝からテンション高いんだから。」
月香が呆れたように言う。部長は満面の笑みですごい事を言った。
「これが終わったら部活だーって思うとテストどころじゃないもの。早く終わったら先に出てっていいシステムにしてくれたらいいのに。」
「そういう訳にいくかよ。ホームルームあるんだし。」
「突っ込み所が違うよ月ちゃん。まったく、頭良いと余裕でいいねえ。」
呆れてそんなことを言ったのは京花。疲れた様子だが、彼女を含む先輩達全員楽しそうだった。一年生達だってこれから始まる事に対するワクワクは抑えきれない。
「このメンバーで集まるのも久し振りだな。まずは何をする?」
荷物を置きながら言った礼子に、部長は時計を示しつつにっこりして答えた。
「とりあえず、腹が減っては戦は出来ませんね。」