夫は私を「おしとやかな人形」に仕立てたくせに、赤いドレスの奔放な女に夢中になった
夫婦の時間を、またひとつ義務のように終えたあと、久世玲司は私に背を向け、スマホを手に取った。仕事のメッセージを確認する指は、さっきまで私に触れていたとは思えないほど淡々と動いていた。
私はベッドの上でしばらく膝を抱えていた。それでも諦めきれず、そっと彼の肩に触れた。
「玲司、十分だけ話せない?」
返事はなかった。
「結婚して三年、あなたに言われたことはできるだけ直してきたよ。訛りも、礼儀も、笑い方も歩き方も。でも……二人きりのときまで、どうしてそんなに遠いの? キスさえしてくれないじゃない」
玲司は画面から目を上げなかった。
「紗和、明日の朝は役員会がある。今そういう話に付き合う余裕はない」
「十分も?」
「一分もない。出るならドアを閉めて」
それ以来、私はこの話を口にしなくなった。
数日後、三時間かけて煮込んだスープを持って書斎へ向かった。半開きのドアの向こうでは、新しく雇った住み込みの家政婦、相沢美羽が机の端に腰かけていた。
美羽が笑いながら玲司の手を避けると、玲司はその手首をつかみ、自分のほうへ引き寄せた。
「さっきまでの威勢はどうした?」
手から器が滑り、陶器は床に落ちて乾いた音を立てて砕けた。
玲司は私を一度見ただけで、乱れたシャツをゆっくり整えた。
「その程度で取り乱すのか。今まで何を習ってきたんだ」
視線が足元の破片へ落ちた。
「片づけて、出ていって」
いつから二人がこうなったのか、私は聞かなかった。泣きもしなかった。
ただその場にしゃがみ込み、割れた陶器を一片ずつ拾った。
1
「奥様、私がやります。手を切りますよ」
美羽は裸足のまま机から下り、絨毯の上を歩いて私のそばへしゃがんだ。破片を取ろうと伸ばしてきた手を避けるより先に、鋭い縁が私の人差し指をかすめた。
ぷつりと血がにじみ、指先を伝って床へ落ちた。
「奥様、血が!」
玲司は眉を寄せたが、見たのは私の指ではなかった。ポケットからハンカチを取り出し、美羽の手の甲に飛んだスープを拭った。
「触るな。怪我したらどうする」
それからようやく、私へ視線を向けた。
「久世家の妻なんだから、感情くらい自分で抑えられないのか」
私は、五年も愛してきた男の顔を見上げた。
整えたばかりの襟元には、まだ小さな皺が残っている。美羽は赤いペディキュアを塗った足を惜しげもなく晒し、何をするにも遠慮がなかった。
数年前の私に、よく似ていた。
二年前、私はスリッパのまま寝室から出て、少し足音を立てただけで、午後いっぱい歩き方をやり直させられたことがある。
久世家の嫁なら、人前では静かに、品よく振る舞うものだと玲司は言った。
今、美羽は裸足で彼の書斎へ入り、机にまで腰かけている。
それでも玲司は、一言も咎めなかった。
2
私は目を伏せ、血のついた破片をちりとりへ入れた。
美羽が玲司の袖をそっと引いた。
「玲司さん、奥様をそんなふうに言わないでください。私のせいですから。私がもっとちゃんとしていれば、こんなことにはならなかったのに」
玲司は冷たい目で私を見た。
「本当に分別があるなら、こんなタイミングで入ってこない」
手が一瞬止まった。それでも私は、床にこぼれたスープを拭き続けた。血が脂の浮いた汁に混ざり、妙に汚く見えた。
「もういい。来週は久世財団のチャリティーガラだ。明日、メゾンの担当者が衣装合わせに来る。外で恥をかかないように、必要なものは全部用意してるだろ」
――外で恥をかかないように。
そのために、私は録音を聞きながら地元の訛りを直した。高いヒールを履いて立ち姿や歩き方を繰り返し練習し、膝が痛んで眠れない夜もあった。
声を上げて笑わない。座るときは裾を整える。食事中は余計な音を立てない。人前では腕の動かし方にまで気を配る。
少しずつ直していけば、いつか彼らの目に「久世家にふさわしい妻」と映るのだと思っていた。
けれど、玲司が私から取り上げていったものを、美羽は何ひとつ隠していない。
そして彼は、そんな彼女を楽しそうに見ていた。
私は机に手をつき、ゆっくり立ち上がった。
「分かった」
3
玲司が美羽の手首を取った。
「行こう。新しいオーディオが届いたんだ」
「本当ですか?」
美羽は嬉しそうに彼の腕へ絡みついた。
しばらくすると、廊下の向こうからSNSで流行っているJ-POPが流れてきた。
二年前、玲司は私が集めていたポップスのレコードを「騒がしくて趣味が悪い」と言い、スタッフにすべて片づけさせた。
その中には、初めて二人で出かけた日に聞いた曲もあった。
今、高価なオーディオから流れているのは、同じように賑やかな音楽だった。
洗面所で指先の血を洗い流した。
鏡に映る私は、淡い色の部屋着を着て、髪をきっちりまとめている。静かすぎるその顔は、自分でも見慣れないものになっていた。
スマホを取り出し、佐伯先生へ電話をかけた。
「佐伯先生、離婚したいんです」
電話の向こうが、二秒ほど静かになった。
「お気持ちは、もう変わりませんか?」
「はい」
「分かりました。必要なものから整理しましょう」
「お願いします」
4
翌朝、玲司が席につくなり、美羽へ声をかけた。
「そんなところに立ってないで、座って食べればいい」
久世邸のダイニングは、必要以上に広い。
これまで玲司は、朝食の席でも静かに食べることにこだわっていた。私たちは長いテーブルの離れた位置に座ることすらあった。
久世家には久世家の食卓の形がある、と彼は言っていた。
けれど美羽は、その玲司のすぐ隣へ座った。
途中、美羽は自分の箸で骨を取った焼き魚をつまみ、そのまま玲司の器へ入れた。
「これ、柔らかくておいしいですよ」
玲司は何も言わず、それを食べた。
私は湯呑みに手を添えたまま、黙っていた。
以前、私が彼に味噌汁をよそおうとしたときは、「スタッフがいるんだから、お前が動く必要はない」と止められた。
美羽がやれば、同じことも問題にはならないらしい。
食事の途中、美羽が私のそばに置いてあった淡い青色の湯呑みを手に取った。
「奥様、この器、きれいですね」
祖母が若いころ、陶芸を習っていた時期に自分で焼いた青磁の湯呑みだった。高価なものではないが、祖母の手元から残った数少ない品だった。
「相沢さん、それは私物なの。返してもらえる?」
美羽の手が止まり、困ったように玲司を見た。
「古い湯呑みひとつだろ。紗和、そこまで目くじら立てなくてもいいんじゃないか」
以前なら、私のほうが狭量なのかもしれないと考えただろう。久世家の妻なら、もっとおおらかでいるべきなのかもしれない、と。
けれど今は、その必要を感じなかった。
「久世家のものなら、私はいらない。でも、これは私のものだから」
美羽から湯呑みを受け取り、丁寧に拭いてバッグへ入れた。
玲司の顔は見なかった。
5
朝食のあと、美羽はガラス張りの温室へ入っていった。
そこには、私が二年間育ててきた希少な日本春蘭がある。以前、玲司自身が「これは紗和以外、触らないように」とスタッフへ言っていた株だった。
間もなく、乾いた音がした。
温室へ駆けつけると、花芽のついた茎が何本か床に落ちている。
美羽は剪定ばさみを手に立ち尽くしていた。
私を見るなり、目を潤ませた。
「奥様、ごめんなさい。葉が少し乱れて見えたから、整えておこうと思っただけなんです。こんなことになるなんて……」
あとから入ってきた玲司は、まず彼女の手からはさみを取り上げた。
「そんなもの持つな。怪我したらどうする」
それから床の蘭を見た。
「だめになったなら、また探せばいい。二度と手に入らないものでもないだろ」
二人の距離の近さを見ているうちに、初めて玲司に久世家の本邸へ連れていかれた日のことを思い出した。
まだ恋人同士だったころだ。
私はフォーマルな席でのテーブルマナーに慣れておらず、食事中にナイフを皿へ当て、小さな音を立ててしまった。
席にいた親族の何人かが笑った。
そのとき玲司は、皆の前で私の手を握った。
「久世家の作法を、今日ここで全部覚える必要なんてない」
穏やかだったが、はっきりした口調だった。
あの日から、私は彼ならずっと味方でいてくれるのだと思うようになった。
6
その集まりの帰り、玲司はわざわざ遠回りをして、近くの夏祭りへ連れていってくれた。
私はりんご飴をかじりながら聞いた。
「私、いつまで経ってもあなたの家に認めてもらえないのかな」
「放っておけばいい」
「でも、この先――」
玲司は笑い、私の額へ軽く口づけた。
「紗和は変わらなくていい。俺が好きなのは、今の紗和なんだから」
私はその言葉を、長いあいだ信じていた。
温室へ意識を戻すと、美羽はまだそこに立っていた。
玲司が私の顔を見た。
「顔色悪いぞ。上で休め。ここは美羽に片づけさせる」
私は頷き、その場を離れた。
出口のところで、邸宅の家事を取り仕切っているスタッフから金色の招待状を渡された。
「玲司様、奥様。雅子様から、来週の久世財団のチャリティーガラについて、早めにご準備をとのことです」
玲司は招待状を受け取り、そのまま私へ寄越した。
「今年は客が多い。機嫌を悪くして余計なことをするなよ」
「分かった」
招待状をバッグへ入れた。
久世玲司の妻として、こういう場所へ出るのはこれが最後になる。
7
ガラの三日前、提携しているメゾンのスタッフが久世邸へ衣装合わせに来た。
久世雅子はソファに腰を下ろし、カタログをめくりながら私を厳しく眺めていた。
私が着ていたのは、首元まで覆われた黒いドレスだった。裾も足首近くまである。
「背中が開いているものはいりません。肩紐だけのものも外して。久世家の嫁が正式な場で肌を出しすぎれば、笑われるのはこちらですからね」
雅子はさらに私を一瞥した。
「高い服なら、誰にでも似合うわけではないけれど」
担当者がサイズを確認するあいだ、私は鏡の前で黙って立っていた。
玲司は近くで経済誌を読んでいる。
母親の言葉を止めもしなければ、反論もしなかった。
私の顔色が悪くなったころ、ようやく気のない口調で言った。
「母さんは、正式な場で困らないように言ってるだけだ。聞いておけばいい」
8
そのとき、衣装部屋の前で服を整理していた美羽が、赤いドレスを手に取った。
肩から背中にかけて大きく開いた、今季の目玉として持ち込まれた一着だった。
玲司が雑誌から目を上げる。
「美羽、それ着てみれば?」
美羽は驚いたように笑った。
「私がですか?」
「紗和と体格、そんなに変わらないだろ」
メゾンの担当者が一瞬戸惑ったものの、玲司が促したため、試着することになった。
しばらくして、美羽が裾を持ち上げながら出てきた。
「玲司さん、どうですか?」
彼女が目の前で一回転した。
玲司は雑誌を閉じ、赤い裾へ視線を止めた。ほんの一瞬、何かを思い出したように表情が揺れた。
「似合ってる。すごくいい」
四年前の誕生日を思い出した。
あの日、私も赤いワンピースを着ていた。
玲司は遊園地へ連れていってくれて、メリーゴーラウンドに乗る私を午後いっぱい撮っていた。
その写真は、長いこと彼のスマホの待ち受けだった。
結婚して三か月ほど経ったころ、雅子が「赤は派手すぎる。久世家の嫁らしくない」と言った。
玲司は、私の目の前で待ち受けを別の写真へ変えた。
9
美羽が頬を赤くしながら私を見た。
「奥様、これ、本当は奥様用ですよね。気になるなら、すぐ脱ぎます」
雅子は露骨に嫌そうな顔をした。
「家政婦がガラ用のドレスを試すなんて、普通ならあり得ませんよ」
けれど玲司は、美羽のところまで歩き、ずれた肩口を直した。
「試着くらいいいだろ。赤が似合う」
雅子が何か言いかけたが、玲司は取り合わなかった。
「ガラには美羽も俺の招待客として連れていく。最初の一曲は俺が相手する」
私は自分の黒いドレスを見下ろした。
ここ数年、久世財団のガラでは最初の一曲を決まって玲司と私が踊ってきた。
「確かに、相沢さんには似合ってるね」
それだけ答えた。
雅子の表情は険しかったが、玲司が決めたと分かると、それ以上は何も言わなかった。
玲司は数秒、私の顔を見ていた。
たぶんそのとき初めて、私が静かすぎることに気づいたのだろう。
10
ガラ当日、玲司は美羽を連れて先にホテルへ向かった。
私は一人で物置へ行き、奥のクローゼットを開けた。
そこには赤いキャミソールドレスが一着残っている。
祖母が遺した古い布を使い、自分で仕立て直したものだった。
一年前、玲司はそれを一目見ただけで言った。
「今のお前には派手すぎる」
それ以来、一度も袖を通していない。
黒いハイネックのドレスを脱ぎ、赤へ着替えた。きっちりまとめていた髪もほどいた。
鏡の中の私は、まだ少し青白い。
それでも、久しぶりに自分の顔に見えた。
引き出しから、記入済みの離婚届を取り出し、クラッチバッグへ入れた。
玲司が署名しなくても、佐伯先生はすでに次の手続きを進める準備をしてくれている。
だから、今夜あの紙がどうなろうと構わなかった。
11
チャリティーガラは、白凪市中心部の高級ホテルで開かれていた。
会場は明るく華やかで、扉が開いた瞬間、入口付近の話し声が少しずつ静まっていった。
赤いドレスの裾を揺らしながら、中へ入った。
玲司はシャンパンタワーの近くで数人の招待客と話していた。
隣には、赤いドレス姿の美羽がいる。
私を見た瞬間、玲司の表情が止まった。
視線が顔から肩へ、鎖骨へと落ちた。
一瞬の動揺は、すぐに苛立ちへ変わった。
「紗和、誰がそんな格好していいと言った」
早足で近づき、私の手首をつかんだ。
「戻って着替えろ」
以前なら、この声を聞いた時点でまず従い、それから自分が何を間違えたのか考えていただろう。
私は手首にかかった指を見た。
「離して」
玲司が固まった。
手を振りほどき、バッグから離婚届を取り出した。
「玲司」
目の前へ差し出す。
「ここに署名して」
12
周囲が一気に静かになった。
玲司は用紙を見下ろし、ゆっくり表情を険しくした。
数秒後、呆れたように笑った。
「俺の気を引きたくて、今度は離婚か?」
離婚届を奪い、その場で破いた。
「紗和、お前は久世家で何不自由なく暮らしすぎて、自分が昔どんな生活してたか忘れたのか。これを片づけて、着替えてこい。今日のことはなかったことにしてやる」
まだ、私が本当に離れるはずはないと思っているらしい。
床へ落ちた紙を見た。
「大丈夫。離婚届ならまた用意できるから」
玲司の笑みが消えた。
「署名したくないなら、離婚調停を申し立てる」
美羽が慌てて近づいてきた。
「奥様、今日はお客様もたくさんいらっしゃいますし、続きはお帰りになってから話しませんか? 今は落ち着いて――」
私の腕へ手を伸ばす。
けれど、指先が触れる前に、美羽の体が突然後ろへ傾いた。
「きゃっ!」
玲司が素早く抱き留めた。
同時に、もう片方の手で私を強く押した。
「何してる!」
細いヒールがぐらりと傾き、足首をひねった。そのまま膝から床へ落ち、長く傷めていた膝に鋭い痛みが走った。
すぐには立てなかった。
玲司は美羽をかばったまま、冷たい目で私を見た。
「お前、こんな真似までするようになったのか」
警備員を呼んだ。
「外へ。もう会場には入れないでくれ」
13
二人の警備員がそばまで来た。
差し出された腕を借り、ゆっくり立ち上がった。
招待客の何人かは目を逸らし、何人かは小声で話していた。
説明する気にはなれなかった。
痛む膝をかばいながら、一歩ずつ出口へ向かった。
今度だけは、玲司がどんな顔をしているか確かめたくなかった。
深夜の白凪中央駅は、人もまばらだった。
待合スペースに腰を下ろし、佐伯先生へ正式な依頼を送った。
送信した直後、スマホが震えた。
玲司からだった。
「明日の朝、戻って謝ること」
数秒眺め、そのまま削除した。
久世家から持たされていた携帯端末は電源を落とし、以前から用意していた自分名義の端末へ切り替えた。連絡先も整理し、久世家の人間からの着信はすべて拒否した。
水琴町方面行きの特急がまもなく発車すると、構内放送が流れた。
膝を押さえながら立ち上がり、キャリーケースを引いてホームへ向かった。
14
列車は夜の中を走っていた。
窓の外で、街の明かりが長い線になって流れていった。
佐伯先生から連絡が来た。
「書類の準備を始めました。久世さんが協議離婚に応じないのであれば、次は離婚調停の申立てを進めます」
「お願いします」
しばらくして、もう一通届いた。
「財産分与については、どうされますか?」
膝に広がった青あざを見下ろした。
「久世家からもらった宝石やドレス、ブランド品は持っていきません。ただ、私の婚前財産と、法律上分与の対象になるものは普通に請求してください」
玲司が「体面」のために与えたものはいらない。
けれど、自分に権利があるものまで手放して、潔さを証明する必要もない。
持ってきたのは、祖母の青磁の湯呑みと数着の古い服、刺繍道具、それから長く使ってきた木の宝石箱だけだった。
私が本当に持って出たかったのは、そのくらいだった。
15
チャリティーガラが終わったのは、日付が変わるころだった。
久世玲司が月城台の久世邸へ戻り、上着をスタッフへ渡した。
「紗和は?」
「奥様は、まだお戻りではありません」
時計を見た。
「まだ機嫌を悪くしてるのか。どこかに籠もって泣いてるんじゃないのか」
この二年、二人がぶつかれば先に折れるのはいつも紗和だった。
一人で泣いた翌朝にも、何事もなかったように玲司の好きな茶を用意し、朝食の席へ戻ってくる。
玲司は、それに慣れていた。
寝室の扉を開けた。
部屋には誰もいなかった。
ベッドは整えられ、紗和が好んで使っていた柑橘系の香りも薄れていた。
すぐにクローゼットを開けた。
高価なドレスも宝石も、そのまま残っている。
なくなっていたのは、古いTシャツやフラットシューズ、祖母の木箱。
そして、家の雰囲気に合わないと何度も言っていた、小さな刺繍台だった。
スマホを取り出し、紗和へ電話をかけた。
久世家から持たせていた番号は電源が切られていた。
LINEへ何通送っても、返事はなかった。
16
空っぽになった寝室で、玲司はしばらく立ち尽くしていた。
それでも最後には、胸の奥に生まれた不安を無理に押し込めた。
自分から折れさせるつもりなのだ。
そう考え、翌朝すぐに秘書へ電話をかけた。
「紗和が持ってる久世家名義の家族カードを全部止めろ。それから、普段付き合いのある人間に連絡して、どこにいるか聞け」
「すべてですか?」
「全部だ」
電話を切ったあと、玲司は空いたクローゼットを見た。
「いつまで意地を張るつもりだ」
一日経っても、紗和から連絡はなかった。
二日目も同じだった。
三日目の午前、秘書が社長室へ入ってきた。
「社長。家族カードには一度も利用履歴がありませんでした。それから、ホテルの車寄せにいたスタッフに確認したところ、奥様があの夜、白凪中央駅へ向かったことまでは分かっています。その先は確認できません」
玲司が眉を寄せた。
「知り合いは?」
「誰も行き先を知りません。それと、佐伯弁護士から正式な通知が来ています。奥様の友人や親族への連絡をやめるように、と」
秘書が書面を置いた。
玲司は長いあいだ、それを見ていた。
「それでも、連絡を取る方法を探せ」
秘書はすぐには返事をしなかった。
玲司も、いつものように「そのうち帰る」と言い切ることができなかった。
17
紗和がいなくなると、それまで意識したこともなかった小さなことが、次々と生活から消えていった。
朝、玲司がネクタイの引き出しを開けた。
スタッフが整えたはずなのに、並び方が妙に気に入らなかった。
紗和は毎晩、翌日のスーツに合わせてネクタイを選び、アイロンをかけ、色ごとに整えていた。
一本取り出し、鏡の前で何度か結び直した。
どうしても、いつもの形にならない。
付き合い始めたころ、初めて正式なパーティーへ紗和を連れていった日のことを思い出した。
彼女はネクタイの結び方など知らなかった。
背伸びをして玲司の首元へ手を回し、何度もやり直した末、歪んだ結び目を作った。
玲司はそれを見て笑い、額へキスをした。
「そのままでいい」
そのあと紗和は、一週間かけてウィンザーノットを覚えた。
会社へ着くと、今度は胃が痛み始めた。
無意識にデスクの一番下の引き出しを開ける。
中は空だった。
以前は、紗和が自分でブレンドした胃にやさしいハーブティーが小分けにして入っていた。
先月、玲司自身が「匂いが気になる」と言って処分させたものだ。
秘書が胃薬を持ってきた。
水で流し込んでも、頭に浮かぶのはキッチンで材料を量っていた紗和の後ろ姿だった。
18
夜、美羽が鶏肉と野菜のスープを持って書斎へ入ってきた。
「玲司さん、最近あまり食べてないって聞いたので、作ってみました。少し飲みませんか?」
笑顔は以前と変わらなかった。
玲司は一口飲んだだけで眉を寄せた。
「塩が強い。油も残ってる」
器を机へ戻すと、汁が少し跳ねて書類へ落ちた。
美羽の目がすぐに潤んだ。
「ごめんなさい。こういうの初めてで、玲司さんの好みが分からなくて。次は――」
「出てくれ」
美羽が瞬きをした。
「玲司さん?」
「一人にしてほしい」
以前なら、感情をそのまま顔に出す美羽を分かりやすくて可愛いと思っていた。
今は同じ表情を見ても、ただ疲れるだけだった。
19
書斎に静けさが戻ると、玲司は椅子へ深く身を預けた。
紗和も以前、よくスープを運んできた。
薄いと言えば翌日は少し味が変わり、脂っこいと言えば、次はきれいに取り除かれていた。
温度も、味も、最後にはいつも玲司の好みに合っていた。
その「ちょうどよさ」のために、何回作り直していたのか。
考えたこともなかった。
その夜、玲司は突然車を出し、霞町の旧市街へ向かった。
そこには以前、紗和の祖母が遺した古い家があったはずだった。
だが着いてみると、周囲は再開発の工事柵に囲まれていた。
近くでまだ営業していた店の主人が、住所を聞いて思い出した。
「水城さんの家? あそこなら半年前に売却してましたよ」
「半年前?」
「ええ。この辺りは再開発になるでしょう。水城さん、ずいぶん早く手続き済ませてました。建物ももう取り壊されてます」
玲司は夜風の中で黙り込んだ。
半年前。
そのころ紗和は、毎朝いつも通り朝食を用意し、久世家の集まりにも顔を出し、雅子の小言にも黙って耐えていた。
その一方で、自分の最後の古い家を処分していた。
ガラの日に離婚を言い出したのが、美羽への嫉妬だけではないことを、もう否定できなかった。
20
翌日、佐伯弁護士からの正式な書類が久世グループへ届いた。
離婚調停に関する書面と、財産の一覧が添えられていた。
久世家から贈られた宝石やドレス、利用していた車はすべて久世邸へ残すと記載されている。
一方で、婚前財産の確認と、婚姻期間中に形成された財産については、法に従って財産分与を求めていた。
書類の最後には、彼女の署名があった。
久世紗和。
玲司はその文字を見つめた。
「本気で離婚するつもりなのか」
手にしていたコピーを握り潰し、最後には破いた。
紙片が床へ散った。
そのころから、玲司は以前より明らかに苛立つようになった。
久世邸のスタッフも、必要以上に言葉を選んで話すようになった。
美羽は何度か以前のように甘える仕草を見せたが、玲司はそのたびに距離を取った。
21
ある午後、玲司は予定より早く久世邸へ戻った。
裏庭を通りかかったところで、美羽の電話の声が聞こえた。
「ほんと、あの人って扱いやすいの。あのガラの日だって、私は一度も触ってないよ。自分から後ろに倒れたら、玲司さん、すぐ奥様に怒ったんだから」
玲司の足が止まった。
木立の向こうで、美羽はまだ笑っていた。
「昔は奥様も赤い服が好きだったって? だから何? 今なんて久世家のルールで、すっかり大人しい人になっちゃってるじゃん」
少し間が空いた。
「もう離婚の話まで出てるんだよ? この先どうなるかなんて、分かるでしょ」
玲司はその場を離れ、ガラの主催者を通してホテルへ連絡し、当日の防犯映像を確認した。
映像をゆっくり再生した。
美羽の手は、紗和へ触れていなかった。
自分から後ろへ倒れている。
その直後、玲司に押された紗和が膝から床へ落ちた。
みるみる顔色が悪くなり、ずっと膝を押さえていた。
それでも画面の中の玲司は、美羽をかばうように立ったままだった。
紗和を一度も振り返っていない。
「玲司さん?」
いつの間にか、美羽が後ろに立っていた。
モニターを見るなり、顔が青ざめた。
「違うんです。説明させてください」
玲司は映像を止めた。
「荷物をまとめて出ていけ」
「玲司さん、待って。ごめんなさい。私、本当に玲司さんが好きだったから……奥様に取られるのが怖くて」
必死に袖へ手を伸ばした。
「だって玲司さん、前に言ってくれたじゃないですか。好きに笑って、好きに話してる私がいいって」
玲司は美羽を見た。
自由で、感情を隠さず、思ったことをすぐ口にする。
以前はそれが新鮮だった。
今は、ひどく目についた。
それでも、美羽がここまで境界線を越えてきたのは、彼女一人のせいではないと分かっていた。
自分が何度も許してきたからだ。
「今日中に出ていけ」
玲司は背を向け、それ以上話を聞かなかった。
22
美羽がいなくなったあと、玲司は一人で寝室へ入った。
紗和が何か置いていっていないか探しているうちに、クローゼットの一番下から茶封筒を見つけた。
中には診療費の領収書、検査結果、処方箋の控えが入っていた。
名前はすべて、
久世紗和。
膝関節炎。
関節水腫。
胃粘膜障害。
ストレス反応。
反復性口内炎。
一番古いものは、結婚して半年ほどのころだった。
その時期、紗和の歩き方が少しぎこちなかったことを、玲司も覚えていた。
一度だけ、理由を聞いた。
紗和は笑って答えた。
「最近、ヒールで立ち方や歩き方を練習しすぎたみたい。少し休めば平気」
そのとき玲司は、
「それくらい慣れないと、久世家の正式な席で困るだろ」
そう返した。
23
翌日、玲司はその書類を持って病院へ行った。
医師は資料を確認したものの、紗和が受けた診療の詳細を話そうとはしなかった。
「診療情報は患者さんの個人情報です。配偶者の方でも、ご本人の同意なしにはお伝えできません」
玲司は書類を握った。
「こんなに悪かったなんて、何も言わなかった」
医師が一度、玲司を見た。
「詳しいことは、ご本人に聞いてください。ただ、お持ちになった資料を見る限り、最近始まった症状ではなさそうですね」
玲司は何も言えなくなった。
結婚して最初の冬。
夜中に、紗和がそっと玲司を起こしたことがある。
「玲司、膝が痛くて眠れない」
翌日は久世家の大事な集まりだった。
眠かった玲司は背を向けたまま言った。
「明日、人に会うんだ。泣いて目を腫らすなよ」
それ以降、紗和は夜中に痛みを訴えたことがなかった。
24
久世邸へ戻った玲司は、そのまま書斎へ閉じこもった。
あの夜、割れた器もスープの跡もとっくに片づけられていた。絨毯さえ替わっていた。
それでも、床にしゃがんで破片を拾っていた紗和が目に浮かんだ。
指から血が出ていた。
自分も、それを見ていた。
なのに先に気にしたのは、美羽の手へ飛んだスープだった。
記憶は次々に戻ってきた。
五年前の水城紗和は、赤い服を好んだ。雨の日にはわざと水たまりを踏み、目立たない小さな店にも玲司を連れ込み、車の中では好きな音楽を大きな音で流した。
雅子が品がないと言えば、玲司は礼儀を覚えさせた。
服が派手だと言われれば、赤いドレスをやめさせた。
親族が訛りを笑えば、きれいな標準語を身につけるよう促した。
それが紗和を自分の世界で生きやすくすることだと思っていた。
赤いドレスを着て笑っていた美羽の姿が浮かぶ。
書斎で遠慮なく声を上げていた姿も。
なぜか、そのたびに昔の紗和が重なった。
赤い服をやめさせたのは、自分だった。
大きな声で笑うなと言ったのも。
訛りを直させたのも。
夜が更けても、玲司は書斎から出なかった。
25
水琴町へ来て、もうすぐ一か月になる。
ここは、祖母が幼いころに暮らしていた水辺の町だ。私は川沿いの小さな木造家屋を借りていて、朝に窓を開けると水音が聞こえた。
膝は雨の日になるとまだ痛んだ。
それでも治療と休養のおかげで、久世邸を出たころよりずっと楽になっていた。
その日の午後、私は窓辺で「春の宴」という刺繍作品を仕上げていた。
日の光が細い絹糸へ落ち、指を動かすたびに柔らかく反射した。
私は幼いころから祖母に日本刺繍を教わってきた。
十代のころには、小さな刺繍小物を作って生活費の足しにしたこともある。
久世家へ嫁いでから、玲司はこういう手仕事を「家の雰囲気に合わない」と言った。
刺繍台をリビングへ置くのを嫌がり、針箱も目につかないところへしまうよう言われた。
いつの間にか、私自身が針を持つことをやめていた。
26
水琴町へ来た最初の半月は、毎日のように川辺へ座り、橋の下を水が流れていくのを眺めていた。
ある日、家の前で古い刺繍布を繕っていると、橘川湊が足を止めた。
「刺繍、やってたんですか?」
「子どものころ、祖母に教わりました」
湊は町の伝統工芸美術館で働く学芸員で、古い工芸品の修復プロジェクトにも関わっていた。
翌日、傷みのひどい古い刺繍を一枚持ってきた。
「これ、見てもらえますか? 難しそうなら、無理だと言ってください」
私はしばらく布を見つめた。
「やってみたいです」
その日、久しぶりに本格的に針を持った。
切れた文様を、一針ずつつないでいった。
その後も湊は、ときどき修復が必要な作品を持ってくるようになった。
私の生活にも、少しずつ新しい時間の流れができていった。
「水城さん、『春の宴』の配色、決まりました?」
湊が温かいお茶を二つ持って工房へ入ってきた。
「はい。最初にいただいた下絵がよかったので」
「下絵は土台ですよ。仕上げたのは水城さんです」
彼は一枚の招待状を机へ置いた。
「来月、青澄市で伝統工芸展があります。主催者が作品の写真を見て、『春の宴』をメイン展示の一つにしたいそうです。行きますか?」
私は招待状を手に取った。
「私の作品を?」
「はい」
紙には、作家名が印刷されていた。
水城紗和。
「行きたいです」
「じゃあ、搬送の手配はこっちでやります」
湊が私の膝へ視線を落とした。
「長時間立ちっぱなしにならないように、解説の時間も主催者と相談しておきますね」
彼は、私の代わりに答えを決めなかった。
先に尋ねて、私が選ぶまで待ってくれる人だった。
27
初秋の青澄市には、少し湿った冷たい風が吹いていた。
伝統工芸展は、市中心部の美術館で開かれていた。
私は山吹色の着物を着て、祖母の木製の簪で髪を簡単にまとめた。
笑い方も、歩幅も、もう数えない。
「春の宴」の前に立ったとき、考えていたのは作品の話だけだった。
「この作品は、よく似た色を何段階も重ねています。遠くから見ると一面の花に見えますが、近づくと、花びらごとに糸の光り方が違うんです」
一人のコレクターが長いこと作品を眺めていた。
「水城さんの作品は、動きがありますね。花が生きているみたいです」
「ありがとうございます」
自然に笑えた。
スタッフとの確認を終えた湊が、温かいお茶を持ってきた。
「次の解説まで二十分あります。少し座りますか?」
「そうします。ありがとうございます」
受け取ったとき、入口のほうが少し騒がしくなった。
数日前から、主催者の公式サイトには出展作家と作品の紹介が掲載されていた。
私は入口へ目を向けた。
28
久世玲司が黒いスーツ姿で入ってきた。
かなり痩せていた。
目の下には疲れが残り、いつも乱れひとつなかった髪も少し崩れていた。
人混みを見回していた視線が、すぐに私を見つけた。
「紗和」
足早に近づき、目の前で止まった。
呼吸が少し乱れていた。
私は自分が思っていたより、ずっと落ち着いていた。
「久世さん。何か?」
玲司の顔色が変わった。
「ずっと探してた」
手を伸ばされ、半歩後ろへ下がった。
玲司の手が宙で止まった。
湊が横へ来た。
「スタッフを呼びましょうか?」
「大丈夫です。自分で話します」
湊は頷き、少し離れた場所へ下がった。
玲司が彼を一度見てから、声を落とした。
「帰ろう。ちゃんと話したい」
「久世さん。私の家は、もうあそこじゃない」
玲司の喉が動いた。
「美羽はもう久世家から出した。ガラの日の映像も見た。あいつが自分から倒れたんだ。俺は……お前を誤解した」
「それで?」
玲司が言葉を失った。
「相沢さんを追い出せば、私たちの問題までなくなると思ってる?」
「紗和」
「相沢さんがいなくても、私たちは同じところまで来てたよ」
私は玲司を見た。
「相沢さんのことがなければ、もう少し気づくのが遅かっただけだと思う」
それ以上は言わず、バックヤードへ向かった。
数秒遅れて、玲司もついてきた。
29
バックヤードは静かだった。
鏡の前の椅子へ座り、少し重くなった膝を揉んでいると、玲司が入口で足を止めた。
今度は、勝手に入ってこなかった。
「十分だけ、もらえるか」
時計を見た。
「いいよ」
玲司の表情が揺れた。
三年前の夜、同じ言葉を口にしたのは私だった。
あのとき彼は、一分もくれなかった。
玲司は数歩入ってきたが、私との間には距離を残した。
「紗和。悪かった」
少し間を置いた。
「お前にいろいろ変えさせたことも、母さんの言うことを当然みたいに受け入れてたことも。怪我してたのに、美羽を先にかばったことも」
私は黙って聞いた。
「検査結果も見た」
玲司は視線を落とした。
「戻ってきてくれるなら、治療もちゃんと考える。家のルールを押しつけることもしない」
そこで一度、言葉を切った。
「何を着るかも、刺繍を続けるかどうかも、お前が決めればいい」
ずいぶん遅い。
そう感じただけだった。
「玲司は、私が何をされたら苦しいか、知らなかったわけじゃないよ」
彼が顔を上げた。
「私がどれだけ嫌がっても、最後には離れないと思ってたんでしょう?」
「違う」
すぐに否定した。
「愛してた。今も……」
声が詰まった。
「美羽を見て、惹かれたところがあった。でもあとになって分かった。ああいうところ、昔のお前にも全部あった」
玲司の目が伏せられた。
「笑って、好きなことを言って、好きな服を着て……それを俺が一つずつ消した」
「そうだね」
私は静かに答えた。
「昔の私を好きだったんだと思う」
玲司がこちらを見た。
「でも途中から、あなたは自分のほうが私より、私に何が合うか分かってるつもりになった。どう話すか、何を着るか、どう生きるかまで」
息を吐いた。
「理由が愛でも、されたことは消えないよ」
玲司の目が赤くなった。
「変わる」
しばらく黙ったあと、絞り出すように続けた。
「すぐに許してくれとは言わない。今すぐ戻れとも言わない。もう一度だけ、見ていてくれないか。今度はちゃんと――」
私は首を振った。
「もう、あなたが変わるかどうかを見届ける必要はない」
玲司の言葉が止まった。
「治療も生活も、自分で何とかできる。何を着るか、どんな仕事をするか、何が好きかも、自分で決められる」
膝の上へ置いた手を見た。
「本当は、最初から誰かに許可してもらうようなことじゃなかったんだよ」
玲司の肩が、少し落ちた。
私はバッグを持って立ち上がった。
「離婚調停はもう始まってる。協力してくれるなら早く終わるし、応じなくても手続きは続ける」
玲司と目を合わせた。
「あなたが後悔したからって、私たちがやり直せるわけじゃない」
30
扉が軽くノックされた。
橘川湊が、薄手の羽織ものを持って立っていた。
「水城さん、外、冷えてきました。ここに置きますか?」
「持ってきてもらえますか?」
湊が中へ入り、私へ渡した。
「閉会の挨拶が三十分後ろにずれたそうです。もう少し休めますよ」
「ありがとうございます」
受け取りながら笑うと、玲司の視線がこちらへ向いた。
五年前、彼は私がこうして笑うのを好んでいた。
それなのに結婚してからは、正式な場では笑いすぎるなと何度も言った。
もう、彼の表情を確認する必要はない。
羽織ものを肩にかけ、湊とバックヤードを出た。
「大丈夫でした?」
「はい。言いたいことは全部言えました」
湊は詳しく聞こうとしなかった。
「じゃあ、行きましょう。会場で皆さん待ってますよ」
廊下の先には、明るい展示室の光が落ちていた。
私はその方向へ歩いた。
31
バックヤードの扉が静かに閉じた。
久世玲司は、一人その場に残った。
廊下の先で、スタッフが紗和へ駆け寄っていった。
「水城さん、閉会式まもなくです」
遠ざかっていく背中が立ち止まり、何か返事をする。
それから、スタッフと一緒に明るい展示室へ入っていった。
水城紗和。
五年前、出会ったときも彼女はその名前で生きていた。
好きな服があり、やりたいことがあり、好きな曲が流れれば大声で笑った。
刺繍の話を始めれば、止まらなくなることもあった。
そういう音が、いつからか久世邸では聞こえなくなった。
やがて展示室から大きな拍手が届いた。
玲司は近くの椅子へ腰を下ろし、しばらくその音を聞いていた。
32
司会者の声が、会場に響いた。
「それでは、『春の宴』を制作した日本刺繍作家、水城紗和さんにお話を伺います」
私は壇上へ上がった。
ライトが作品を照らした。
細い絹糸は、見る角度によって柔らかく光を返し、重なった花びらが春の風の中でほどけていくように見えた。
観客の中には作品を見上げる人もいれば、手元のパンフレットで作家名を確認する人もいた。
マイクを受け取っても、まだ拍手は完全には収まっていなかった。
会場に、自分の名前が響いた。
水城紗和。
昔は、ごく普通の名前だと思っていた。
それなのに、自分の作品の前でそう紹介されると、不思議なくらい心が軽くなった。
私は顔を上げ、客席を見渡した。
そして、「春の宴」の話を始めた。




