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小説

動かなくてよかったもの

作者: ちりあくた
掲載日:2026/03/23

 一つ、高校時代の苦い思い出を話そう。


 私の実家は古い時計屋だった。よくある田舎町の商店街に軒を構え、ほどほどに地元客で賑わう場所だ。時計を売るというよりは修理が主な仕事である。当時の店主は七十を過ぎた祖父だったが、細かい歯車を扱う手は健在だった。彼は無口な人で、必要なことしか話さないけれど、時折こぼす言葉がやけに優しかった。


 そんなある日の夕方、私は友達の夏美と一緒に帰っていた。夏の夕陽が二人の背中を押すように照りつける。それでも私たちは帰りたくなくて、ゆったりとした歩幅で河川敷を歩いていた。


「……朱里ってさ」


 夏美は、川面へ目をやったまま言った。


「ずっとこの町にいるの?」


 唐突な問いだった。当時はまだ、進学先なんて遠い国の話のようだった。私の世界には、時計屋と通学路と学校しかなかったのだ。少しだけ考えてから、私は肩をすくめるしかなかった。


「どうだろ。出たい気持ちはあるけど……店もあるしね」

「そっか」


 彼女はそれ以上何も言わなかった。ただ、靴先で小石を蹴って、芝生の坂を転がっていくのを見送っていた。……そのときは何気ない会話だと思っていた。けれど今になってみれば、あのとき彼女はもう、この町を離れることを決めていたのかもしれない。


 夏の終わりは、いつも気づかないうちにやってくる。蝉の声が遠のき、夕方の風に涼しさが混じり出した頃、私はふと思い出した。


 ——夏美の誕生日。


 毎年、互いに小さなものを贈り合っていた。特別なことは何もしない。ただ、帰り道に寄った雑貨屋で見つけたものや、コンビニの新作のお菓子を贈るだけだ。それでも彼女は、いつも大げさに喜んでくれた。


 今年は何か違うことをしたかった。理由は上手く言葉にできない。ただ、あの河川敷での会話が、どこか胸に引っかかっていたからだと思う。


 そんなある日の放課後だった。

 忘れ物を取りに教室へ戻ると、夏美の席だけが夕陽に縁取られて、ぽつんと浮き上がって見えた。彼女は生徒会のテイレイカイギとやらで留守だった。机の上には一冊のノートと、それからもう一つ。


 ……古ぼけた腕時計が置かれていた。

 革のベルトはひび割れ、表面のガラスには細かな傷が無数に走っている。秒針は心臓を止めたように、中途半端な角度で固まっていた。


 私は吸い寄せられるようにして、その時計を手に取っていた。ずしりとした重みが腕に伝わってくる。軽く振ってみても、やはり針は微動だにしない。


 彼女がこんなものを持っていたなんて意外だった。いつもお洒落で、流行りの小物を器用に使いこなす夏美には、およそ似つかわしくない代物だった。


 そのとき、天啓のようにひらめきが走る。


「……そうだ」


 これを直してから誕生日に渡そう。動かない時計なんて、きっと彼女も困っているはずだ。私の家には、どんな壊れた時計も動かしてきた祖父がいる。


 ――勝手に持ってったらダメじゃない?


 一瞬だけ手が止まった。

 けれど私は首を振って、その躊躇いをかき消した。


 私と夏美の仲だもん、後で謝ればいい。驚かせる方がきっと喜んでくれる。自分にそう言い聞かせて、時計をポケットに滑り込ませた。胸の奥がわずかにざわついたが、気づかないふりをして、そのまま教室を後にした。


「おじいちゃん!」


 店に戻ってすぐ、作業台に向かっている祖父に時計を差し出した。彼は眼鏡をずらし、ルーペでじっと機械の奥を覗き込む。長い沈黙の後、祖父は顔を上げて私を見た。その瞳はいつになく厳かだった。


「……この時計を動かしたいのか」

「うん。友達のなんだ。誕生日に驚かせたくて」


 祖父は深く、皺の刻まれた眉間に力を込めた。


「……ただの故障じゃない、中身がほとんど錆びついとる。動かすためには、心臓部も含めてほとんどのパーツを交換しなきゃならん。そうなればこの時計は別物になっちまう。元の価値はほとんどなくなるんだぞ。いいのか?」


 祖父が何をそんなに渋っているのか、当時の私は理解できなかった。時計は動いてこそ価値がある。止まったままの機械なんて、ただの鉄の塊じゃないか。


「いいよ、動かないことには時計じゃないもん。きっと夏美も喜ぶよ」


 祖父は何も言わなかった。ただ、もう一度だけこちらを見てから、静かに作業に戻った。そのときの目の色をちゃんと覚えておけば良かった。あのときの私は、夏美の驚いた笑顔ばかりを想像していた。


 ――誕生日当日。私はラッピングした小さな箱を、下校途中の河川敷で彼女に手渡した。「開けてみて」と促す私の声は、期待で少し上ずっていた。


「え、なに?」

「誕生日。おめでと」


 夏美は不思議そうな顔で包みを解き、中から現れた時計を見て、息を呑んだ。静かな風の中、カチ、カチ、と秒針の規則正しい音が響く。……あとは沈黙だけだった。彼女の顔から血の気が引いていくのを、私は呆然と見守るしかなかった。


「直したの?」


 絞り出すような声だった。


「う、うん。勝手に持ってちゃってごめんね。おじいちゃんに頼んで、直したら喜んでくれると思って……ちゃんと動くようになったんだよ」


 夏美は時計を握りしめた。その指先が白くなるほど、強く。彼女の瞳には喜びなんて微塵もなかった。そこにあるのは、取り返しのつかないものを失ったような暗闇だった。


「なんで……こんなことしたの」


 彼女のかすれた声が、一瞬だけ風の中で響いた。


「え……?」

「これ、おじいちゃんの遺品なんだよ。壊れててもいいの。動かなくても……そのままがよかったのに」


 遠くの電車の音だけがしばらく鳴っていた。

 途端、頭の奥で祖父の声がよみがえった。


 ——別物。


 喉の奥に引っかかったまま、ようやく出てきたのは、ひどく頼りない一言だった。


「ごめん」


 その軽い言葉は、乾いた音を立てて空気に消えた。

 夏美は息を吐き、ゆっくりと首を振った。


「……いいよ。私のためだったんでしょ? ありがとね、朱里」


 彼女は微笑もうとした。けれど、それはひどく作り物めいた、歪な表情だった。


 あれから私たちは、予定通り高校を卒業した。彼女は東京の大学へ、私は地元の大学へ。どちらからともなく連絡は途絶え、私たちはそのまま疎遠になった。時計の話はあの以来、一度もしたことはない。……私から持ちかける権利なんてなかったし。


 やがて時が流れ、祖父が亡くなった。今では私がこの古びた時計店を継いでいる。大学の授業の合間、無理を言って祖父から教わった修理術は、今や私の生活を支える糧となっている。けれど、職人として一番大事なことは技術ではなく、あのときの祖父の瞳から教わっていた。


 私はお客さんから時計を受け取るとき、必ず一度、その重みを確かめるようにしている。その持ち主にとって、これが「時計である前に何なのか」。


 そう問いかけることが、終わりのない償いのように思えるのだ。

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