動かなくてよかったもの
一つ、高校時代の苦い思い出を話そう。
私の実家は古い時計屋だった。よくある田舎町の商店街に軒を構え、ほどほどに地元客で賑わう場所だ。時計を売るというよりは修理が主な仕事である。当時の店主は七十を過ぎた祖父だったが、細かい歯車を扱う手は健在だった。彼は無口な人で、必要なことしか話さないけれど、時折こぼす言葉がやけに優しかった。
そんなある日の夕方、私は友達の夏美と一緒に帰っていた。夏の夕陽が二人の背中を押すように照りつける。それでも私たちは帰りたくなくて、ゆったりとした歩幅で河川敷を歩いていた。
「……朱里ってさ」
夏美は、川面へ目をやったまま言った。
「ずっとこの町にいるの?」
唐突な問いだった。当時はまだ、進学先なんて遠い国の話のようだった。私の世界には、時計屋と通学路と学校しかなかったのだ。少しだけ考えてから、私は肩をすくめるしかなかった。
「どうだろ。出たい気持ちはあるけど……店もあるしね」
「そっか」
彼女はそれ以上何も言わなかった。ただ、靴先で小石を蹴って、芝生の坂を転がっていくのを見送っていた。……そのときは何気ない会話だと思っていた。けれど今になってみれば、あのとき彼女はもう、この町を離れることを決めていたのかもしれない。
夏の終わりは、いつも気づかないうちにやってくる。蝉の声が遠のき、夕方の風に涼しさが混じり出した頃、私はふと思い出した。
——夏美の誕生日。
毎年、互いに小さなものを贈り合っていた。特別なことは何もしない。ただ、帰り道に寄った雑貨屋で見つけたものや、コンビニの新作のお菓子を贈るだけだ。それでも彼女は、いつも大げさに喜んでくれた。
今年は何か違うことをしたかった。理由は上手く言葉にできない。ただ、あの河川敷での会話が、どこか胸に引っかかっていたからだと思う。
そんなある日の放課後だった。
忘れ物を取りに教室へ戻ると、夏美の席だけが夕陽に縁取られて、ぽつんと浮き上がって見えた。彼女は生徒会のテイレイカイギとやらで留守だった。机の上には一冊のノートと、それからもう一つ。
……古ぼけた腕時計が置かれていた。
革のベルトはひび割れ、表面のガラスには細かな傷が無数に走っている。秒針は心臓を止めたように、中途半端な角度で固まっていた。
私は吸い寄せられるようにして、その時計を手に取っていた。ずしりとした重みが腕に伝わってくる。軽く振ってみても、やはり針は微動だにしない。
彼女がこんなものを持っていたなんて意外だった。いつもお洒落で、流行りの小物を器用に使いこなす夏美には、およそ似つかわしくない代物だった。
そのとき、天啓のようにひらめきが走る。
「……そうだ」
これを直してから誕生日に渡そう。動かない時計なんて、きっと彼女も困っているはずだ。私の家には、どんな壊れた時計も動かしてきた祖父がいる。
――勝手に持ってったらダメじゃない?
一瞬だけ手が止まった。
けれど私は首を振って、その躊躇いをかき消した。
私と夏美の仲だもん、後で謝ればいい。驚かせる方がきっと喜んでくれる。自分にそう言い聞かせて、時計をポケットに滑り込ませた。胸の奥がわずかにざわついたが、気づかないふりをして、そのまま教室を後にした。
「おじいちゃん!」
店に戻ってすぐ、作業台に向かっている祖父に時計を差し出した。彼は眼鏡をずらし、ルーペでじっと機械の奥を覗き込む。長い沈黙の後、祖父は顔を上げて私を見た。その瞳はいつになく厳かだった。
「……この時計を動かしたいのか」
「うん。友達のなんだ。誕生日に驚かせたくて」
祖父は深く、皺の刻まれた眉間に力を込めた。
「……ただの故障じゃない、中身がほとんど錆びついとる。動かすためには、心臓部も含めてほとんどのパーツを交換しなきゃならん。そうなればこの時計は別物になっちまう。元の価値はほとんどなくなるんだぞ。いいのか?」
祖父が何をそんなに渋っているのか、当時の私は理解できなかった。時計は動いてこそ価値がある。止まったままの機械なんて、ただの鉄の塊じゃないか。
「いいよ、動かないことには時計じゃないもん。きっと夏美も喜ぶよ」
祖父は何も言わなかった。ただ、もう一度だけこちらを見てから、静かに作業に戻った。そのときの目の色をちゃんと覚えておけば良かった。あのときの私は、夏美の驚いた笑顔ばかりを想像していた。
――誕生日当日。私はラッピングした小さな箱を、下校途中の河川敷で彼女に手渡した。「開けてみて」と促す私の声は、期待で少し上ずっていた。
「え、なに?」
「誕生日。おめでと」
夏美は不思議そうな顔で包みを解き、中から現れた時計を見て、息を呑んだ。静かな風の中、カチ、カチ、と秒針の規則正しい音が響く。……あとは沈黙だけだった。彼女の顔から血の気が引いていくのを、私は呆然と見守るしかなかった。
「直したの?」
絞り出すような声だった。
「う、うん。勝手に持ってちゃってごめんね。おじいちゃんに頼んで、直したら喜んでくれると思って……ちゃんと動くようになったんだよ」
夏美は時計を握りしめた。その指先が白くなるほど、強く。彼女の瞳には喜びなんて微塵もなかった。そこにあるのは、取り返しのつかないものを失ったような暗闇だった。
「なんで……こんなことしたの」
彼女のかすれた声が、一瞬だけ風の中で響いた。
「え……?」
「これ、おじいちゃんの遺品なんだよ。壊れててもいいの。動かなくても……そのままがよかったのに」
遠くの電車の音だけがしばらく鳴っていた。
途端、頭の奥で祖父の声がよみがえった。
——別物。
喉の奥に引っかかったまま、ようやく出てきたのは、ひどく頼りない一言だった。
「ごめん」
その軽い言葉は、乾いた音を立てて空気に消えた。
夏美は息を吐き、ゆっくりと首を振った。
「……いいよ。私のためだったんでしょ? ありがとね、朱里」
彼女は微笑もうとした。けれど、それはひどく作り物めいた、歪な表情だった。
あれから私たちは、予定通り高校を卒業した。彼女は東京の大学へ、私は地元の大学へ。どちらからともなく連絡は途絶え、私たちはそのまま疎遠になった。時計の話はあの以来、一度もしたことはない。……私から持ちかける権利なんてなかったし。
やがて時が流れ、祖父が亡くなった。今では私がこの古びた時計店を継いでいる。大学の授業の合間、無理を言って祖父から教わった修理術は、今や私の生活を支える糧となっている。けれど、職人として一番大事なことは技術ではなく、あのときの祖父の瞳から教わっていた。
私はお客さんから時計を受け取るとき、必ず一度、その重みを確かめるようにしている。その持ち主にとって、これが「時計である前に何なのか」。
そう問いかけることが、終わりのない償いのように思えるのだ。




