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僕の名前はルカ、農奴の子です

これは、何も持たない少年の話です。

剣も、スキルも、身分も、未来も——何もない。

でも、守りたい人がいた。

それだけで、全てが始まった。

※この物語では主人公が特殊なスキルを使うたびに代償を支払います。俺TUEEEの爽快感と、それに見合った重さを両立することを意識して書いています。王道の熱さが好きな方に読んでいただけると嬉しいです。

夜明け前の空気は冷たい。

 薄い木の壁には隙間がある。板と板のあいだに詰めた藁が、冬のうちに少しずつ抜け落ちて、今は指が入るくらいの穴がいくつか開いたままだ。直す材料がない。直す時間もない。だから毎朝、夜明け前のいちばん寒い時間に目が覚める。

 腹が空くと目が覚める、というのもある。どっちが先かはわからない。たぶん両方だ。

 隣でマリィが丸まって寝ていた。

 僕の古いシャツをかけた上に、麻袋を二枚重ねて毛布代わりにしている。それでも寒そうで、夜中に何度か「さむい」と寝言を言っていた。起こさないようにそっと端を引っ張って、少し首元に寄せてやる。マリィはもぞりと動いて、そのまままた寝息を立てた。

 九歳の彼女は、半年前に親を疫病で亡くして以来、僕の小屋に転がり込んでいる。法律的には「無関係の農奴の子」だから、誰も何も言わない。追い出す理由もないし、そもそもこんな寒い夜に外に出せるような子じゃなかった。

 起こさないよう、ゆっくりと立ち上がる。

 土間に下りると、素足が冷たい。靴は昨日の雨でまだ湿っていた。それでも履く。濡れた靴と濡れていない足、どっちがましかというだけの話で、どっちにしても同じくらい冷たくなるんだけど。

 外に出ると、空がまだ暗い。東の端がほんのわずか白みかけていて、もうすぐ夜明けだとわかる。村のあちこちの小屋からも、ちらほらと人影が出てきはじめていた。農奴の一日は、夜明け前から始まる。誰かに言われなくても、体がそう覚えてしまっている。

 今日も変わらない一日が始まろうとしていた。

 ◇

 僕の名前はルカ。農奴だ。

 農奴というのは、土地に縛られた存在だ。

 フェルド王国では、農奴は「人間」ではなく「土地の付属物」と法律で定められている。土地が売れれば一緒に売られる。主人が変わればそれに従う。逃げたら死罪。家族がいようが、どこか行きたい場所があろうが、関係ない。僕たちは土地の一部だ。

 それが理不尽だとか、おかしいとか、そういうことを考えたことがないわけじゃない。ただ、考えたところで何も変わらないから、あまり考えないようにしてきた。

 この国には貴族がいて、騎士がいて、冒険者がいる。その下に農民や商人がいて、さらにその下に僕たちがいる。スキルは上位身分の証だと言われていた。貴族のご令嬢はレベルが三十を超えたところでスキルを授与される。騎士は叙任の儀式でスキルを刻まれる。冒険者はギルドに登録した瞬間からステータスが開示される仕組みだ。

 農奴にはステータスがない。

 正確には、「表示する必要がない存在だから」だとどこかの貴族が言ったらしい。その話を聞いた時、僕は何とも思わなかった。怒る気力がなかったわけじゃなくて、怒っても何も変わらないということを、もう体で知っていたんだと思う。

 それが十三年生きてきた、農奴の子の普通だった。

 ただ、たまに思うことはある。

 夜明け前の冷たい土間に立った時とか、濡れた靴を履いた時とか。ほんの少しだけ。どうして生まれる場所って、自分で選べないんだろう、って。

 でもそれも、朝の仕事が始まればすぐ忘れる。考えていられるほど、農奴の朝は暇じゃない。

 ◇

 その日の午前中のことだ。

 村の外れの畑で、ジジィが騎士に殴られた。

 ジジィというのは本名じゃなくて、村の誰もがそう呼んでいる老農奴のことだ。五十を少し過ぎていて、長年の農作業で腰が曲がっている。笑い皺が深くて、冗談を言うのが好きな人だ。村の子どもたちには人気があって、マリィも懐いていた。

 理由は、畑の境界線を三歩踏み越えたことだった。

 たった三歩。しかも隣の区画との線引きが曖昧なところで、誰がどう見ても故意じゃない。ジジィ自身も気づいていなかっただろうと思う。

 でも騎士は怒鳴り、ジジィは「申し訳ございません」と何度も頭を下げ、それでも騎士の怒りは収まらなかった。

 周りの農奴たちは目を逸らした。

 当然だ。そうするのが普通で、逆らったら次は自分が的になる。農奴が騎士に口答えすれば、理由なんて関係なく罰を受ける。それはみんな知っている。体で覚えている。

 僕だってわかってた。

 わかってたんだけど。

 騎士の手が上がった瞬間、何かが胸の中でぶつんと切れた。

「やめてください」

 気づいたら声が出ていた。

 自分でも驚いた。でも体はもう動いていて、気づいた時にはジジィの前に立っていた。周りの農奴たちの息を呑む気配がした。誰かが小さく「馬鹿、やめろ」と言ったのが聞こえた。

 騎士が振り向く。

 その目が、ゆっくりと僕を上から下まで眺めた。小柄で、痩せていて、武器も持っていない農奴の子ども。鼻で笑う前に、面倒くさそうな目になった。

 後のことはよく覚えていない。

 気づいたら泥の中に倒れていた。頬が熱い。口の中に鉄の味がする。遠くでマリィが泣いている声が聞こえた。なんで泣いてるんだろう、と少しぼんやり思った。

 騎士の馬蹄の音が、遠ざかっていった。

 ジジィがしゃがみ込んで、「ルカ……」と言った。いつも冗談ばかりの人の声が、今日は少し揺れていた。

 僕は半身を起こして、できるだけ普通の顔で笑ってみせた。頬の筋肉がうまく動かなかったけど、笑ったつもりだ。

「ありがとう、って言いにくいと思うから代わりに言っとく。おじさん、怪我なかった?」

 ジジィは何も言えなかった。唇を少し動かしかけて、止まった。その目が、なんか、痛そうだった。

 マリィが駆けてきて僕の隣に膝をついた。「痛くないの!? なんで笑ってるの!」と泣きながら言う。

「全然」と答えた。

 本当は頬がじんじんしていて、泥の味がひどくて、少し目が回っていた。でもそれを言っても何も変わらないから言わなかった。泣かれたって困るし、心配されても、心配した人が助けてあげられるわけじゃない。だったら「全然」でいい。

 ジジィが、そっと僕の背中に手を置いた。

 何も言わなかった。ただ、手だけ置いた。

 それだけで十分だと思った。

 ◇

 夕暮れ、村の外れの古い井戸のそばで、マリィと二人で腰かけていた。

 空が橙に染まりはじめていた。雲の端が少し赤くて、今日みたいなひどい一日の終わりにしては、ちょっとだけきれいだった。

「ルカ」

 マリィが、編んだ草を手先でくるくるしながら言った。僕の隣に、肩がぎりぎりくっつくくらいの距離で座っている。こいつはいつもこの距離で座る。離れると不安なのかもしれない。それとも単純に寒いのかもしれない。

「ん」

「怖くないの?」

「何が」

「さっきの騎士さん。また来たらどうするの。また出ていくんでしょ、ルカ」

 少し間が空いた。

「怖いよ」と、僕は言った。「殴られるのは痛いし、騎士は怖い。当然でしょ」

「じゃあなんで——」

「逃げたらさ」

 空を見ながら続けた。

「僕が逃げたら、次にジジィがどうなるかわかんない。マリィに何かあるかもしれない。そっちの方が嫌だよ、自分が殴られるより」

 マリィは黙っていた。しばらく草を編む手を止めて、それから小さく「変なの」と言った。

「そう?」

「変だよ。自分が痛い方がいいって、普通じゃない」

「普通かどうかは知らないけど」と言いながら、少し空を見た。「まあ、そういう話だよ」

 マリィがもぞりと寄ってきて、腕にほんの少しだけ体重をかけてきた。子犬みたいな寄り方だ。

「……ありがとう」

 ありがとうって言われるたびに、少し困る。

 別に勇気があるわけじゃない。強いわけでもない。ただ、目の前で誰かが痛い目にあうのを黙って見ていられないだけだ。それって、たぶん、弱さの一種なんだと思う。心が丈夫じゃないから、見ていられなくて飛び出してしまう。

 でもその夕暮れの空は、ちょっとだけきれいだった。

 マリィが隣にいて、風がぬるくて、ジジィが向こうの畑で腰をさすりながら帰っていく背中が見えた。

 今日みたいな日でも、夕暮れはある。それだけはよかったと思う。

 この静けさが、あと数時間で壊れるなんて、この時の僕には思いもしなかった。

 ◇

 変化が起きたのは、その夜のことだった。

 夕食といっても麦の薄い粥だ。具はほとんどない。それをマリィと半分こして、少し早めに横になった。明日も夜明け前から働く。寝ておかないと体がもたない。

 うとうとしかけた頃だった。

 外が騒がしくなった。

 最初は風かと思った。でもだんだん大きくなって、人の声だとわかった。走る音。叫ぶ声。女の人の悲鳴。

 それから、村の見張りをしているセルダじいさんの声が、小屋の戸を叩きながら響いた。

「盗賊だ!西の街道から盗賊が来るぞ!みんな逃げろ!」

 一瞬、体が固まった。

 次の瞬間には起き上がって、マリィの肩を揺すっていた。

「マリィ、起きて。起きて、今すぐ」

「……ん、ルカ?」

「走れる?」

「え、」

「走れる?」

 マリィの目が覚めた。こういう時、この子は余計なことを聞かない。「走れる」とだけ言って立ち上がった。

 小屋を飛び出すと、村がぐちゃぐちゃだった。

 子どもが泣いている。女性が走っている。男たちが怒鳴り合いながらどっちに逃げるか言い争っている。でも農奴に武器はない。村に常駐する騎士も今夜はいない。領主の館は三キロ先だ。三キロなんて、盗賊が馬に乗っていたら追いつかれる距離じゃない。

 松明の光が西の方に見えた。複数ある。遠くから笑い声が聞こえてきた。追われる側の恐怖の匂いを楽しんでいるような、低い、嫌な笑い声だった。

 マリィの手を握って走る。手が小さくて、冷たかった。

「離すな」

「離さない」

 村の裏の森に向かって走った。他の農奴たちも散り散りになりながら逃げている。暗い。足元が見えない。枝が顔に当たる。それでも走った。

 走りながら、僕の頭の中には一つのことしかなかった。

 ——マリィを逃がすこと。それだけでいい。それだけが、今の僕にできることだった。

 でも運命は、そう甘くなかった。

 マリィが石に躓いて、転んだ。

「マリィ!」

 振り返った瞬間、背後に松明の光が迫っているのが見えた。一本じゃない。複数の光が木々の間を揺れながら近づいてくる。

 逃げ道がない。

 左右は茂みが密で細い。前には倒れたマリィ。後ろには盗賊たち。

 時間にして、三秒もかからなかった。

 僕はマリィを抱き起こして、「後ろに下がって」と押しやり、両手を広げて前に立った。

 武器なんかない。スキルもない。身分も、後ろ盾も、何もない。十三歳の、小柄で痩せた農奴の子どもが、暗い森の中でただ立っているだけだ。

 でも、どかない。

「逃げろ、マリィ」

 震える声で言った。声が震えているのが、自分でわかった。膝も少し震えていた。それでも足はその場に根を張るみたいに動かなかった。

 マリィが「やだ!」と言って、服の端を掴んできた。振り払えなかった。振り払えなかったというより、振り払いたくなかった。

 松明が近づいてくる。

 木々の陰から大男が現れた。革の鎧に、錆びた剣。その後ろにも二人、三人いる。

 先頭の男がにやにや笑いながら、「ほう、農奴のガキが突っ立ってやがる」と言った。「いい度胸じゃねえか」

 笑い声が広がった。馬鹿にした笑いだ。当然だ。見た目も、装備も、立場も、何もかも格下の子どもが両手を広げて立っているだけなんだから。

 僕には何もない。

 でも、マリィの手が震えていた。

 小さな指が、服の端をぎゅっと握りしめていた。それだけで、足が動かなかった。

 男が剣を持ち上げた。

 僕は——

 その瞬間だった。

 視界の端に、光が生まれた。

 見たことのない光だった。見たことのない文字が、暗闇の中に浮かんでいた。

 農奴にはステータスがない。ずっとそう言われてきた。そう思わされてきた。十三年間、一度も見たことがなかった。

 なのに確かに、そこにあった。

〈エクストラスキル《リミットブレイク》を取得しました〉

〈警告:このスキルには取り返しのつかない代償があります〉

 警告。取り返しのつかない代償。

 その文字が、暗闇の中で赤く点滅していた。

 普通だったら、怖いと思うかもしれない。立ち止まって、どういう意味だと考えるかもしれない。

 でもその時の僕には、一ミリも関係なかった。

 マリィの指が、服の端を握る力が、少し強くなった気がした。

 それだけだった。それだけで十分だった。

 代償がなんであれ、今じゃなければ意味がない。

 何も考えずに、僕は叫んだ。

「《リミットブレイク》——!!」

                    (第2話へ続く)

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