第2話 ワイルド・ピクシー
背後で響く、羽虫のような不快な羽音。
若菜の悲鳴に近い警告を聞き、俺は即座に振り返った。
三つの扉は、いつの間にか消えていた。
代わりに目の前にいたのは、
ひどく小さな……子供?
葉っぱと花びらを綴り合わせた服を纏っているが、性別は不明だ。
目は人間とは違い、昆虫のような複眼。
髪の間からは二本の短い触角が突き出ている。
手には、小枝を削って作られた「ヤリ」を握っていた。
伝承に登場する「ピクシー」に見えなくもないが、その佇まいに愛らしさは微塵もない。
そいつは俺を睨みつけ、
ヤリを構えて威嚇してきた。
俺は反射的にスマホをズボンのポケットに突っ込む。
これはガキのチャンバラごっこじゃない。
片手で応戦できるほど甘い状況ではないと、本能が告げていた。
ヤリの穂先は極限まで細く削られ、
肉に突き刺した後に引き抜きやすいよう、
鋸歯状の溝と血抜き穴まで刻まれている。
明らかに「殺意」を持って設計された武器だ。
「気をつけて!」
ポケットの中から、若菜の叫びが聞こえる。
ブォンッ!
羽音を残し、妖精が消えた。
瞬間移動じゃない。
ただ、肉眼で追えないほど速いだけだ。
高速で震える羽の残像が、
俺の網膜に細い光の線を引く。
俺は本能的に体を捻り、
手で目と喉をガードした。
あの細い槍なら、
急所さえ外せば一撃で死ぬことはない。
次の瞬間、肩に鋭い痛みが走った。
そいつは俺の横をすり抜け、
上着を切り裂いて浅い血痕を残していった。
傷口の上で、冷たい光を放つ白い文字がふわふわと浮かぶ。
Hp -1
火焰も、呪文もない。
俺が想像していた「ピクシー」とは違い、
魔法ではなく純粋な物理攻撃を仕掛けてきている。
「チッ……」
重心を低くし、踵を地面に据える。
相手の体長は手のひらほどもないが、
速度は常軌を逸している。
だが、どれほど速かろうと物理法則には逆らえないはずだ。
そいつは空中で円を描き、
二度目の突進に備える。
俺はそいつの飛行軌跡を睨みつけた。
直線ではない、
わずかに傾いた弧を描いている。
羽の振動数が、
旋回する直前の一瞬だけ変化する。
そこだ。
ブォォォン——!
再び突っ込んでくる。
俺は拳を振るわなかった。
この速度だ、殴っても当たるはずがない。
代わりに俺は上着を脱ぎ捨て、
予測した位置へと一気に振りかぶった。
空中で広がる布地。
バシッ!
軽い衝撃。
羽音が乱れた。
上着の中で、
不自然な膨らみがもがいている。
俺はすぐさまその上に飛びかかり、
布ごと地面に叩きつけ、
力任せに押さえ込んだ。
中から耳をつんざくような金切り声が聞こえる。
小さなヤリがデタラメに布を突き刺し、
俺の手の甲を掠めた。
Hp -1
Hp -1
Critical Hp -5
Hp -1
痛い。だが、絶対に離さない。
「捕まえた!」若菜の歓喜の声が響く。
膝で上着を押さえつけ、空いた手で布越しに中身を「グシャリ」と握り潰した。
一瞬で、振動が止まる。
不快な羽音も、綺麗さっぱり消え失せた。
俺はゆっくりと手を離した。
この戦いに、
高尚な魔法や力なんて必要なかった。
あったのは速度と判断、
そしてどちらが先にミスをするか、
それだけだ。
動かなくなった小さな輪郭を見つめ、
心臓が激しく脈打つのを感じる。
ピクシー……こんなもの、
現実の世界にいていいはずがない。
配信画面はすでに暴動状態だった。
『今の何だよ!? 何をしたんだ!?』
『クソッ! 次はカメラをちゃんと持ってろよ! ポケットの中じゃ何も見えねえだろ!』
『早く! 上着をどけろ! 中に何があるのか見せろ!』
俺はスマホを取り出し、ピントを合わせ、
唾を飲み込んでから上着をめくった。
そこには、
今俺が仕留めた「野生のピクシー」が転がっていた。
チャット欄が三秒間、静まり返る。
直後、スクショと拡散の嵐が巻き起こる。
「……死んでるよな?」
念のため、爪先で軽く突いてみた。
人型の生物を殺したという実感が、
わずかな罪悪感となって胸を掠める。
その時、知恵の書がゆらりと死体の上まで飛んできた。
そして、開いたページをハエ叩きのように、
死んだ妖精の上から「バチンッ!」と叩きつけた。
チャット欄が再び騒ぎ出す。
『うわっ! エグい!』
『虫じゃないんだぞ!?』
『血も涙もねえな!』
ジャリンッ、ジャリンッ!
スパチャの音が響く。
『頼む! スパチャするから、その本をどけないでくれ! グロいのは見たくない!』
若菜の金魚のフンであり、
いつも俺を小馬鹿にしている良太の声だ。
案外、情けない奴だな。
「良太、たったこれだけでビビってんの?」
若菜がここぞとばかりに追い打ちをかける。
ジャリンッ!
また別のスパチャだ。
『俺は1000円出す!
もっと近くでよく見せてくれ!』
『淳一! お前頭おかしいのかよ!』
良太が発狂している。
いつも冷静なアイツがこれほど重度の物好きだったとは、意外な発見だった。
ジャリンッ! ジャリンッ! ジャリンッ!
通知音が鳴り止まない。
チャット欄の連中は、この猟奇的な光景を早く見せろと俺を急かしてくる。
本に押し潰されたピクシー——。
世の中には、
これほどまでに歪んだ嗜好を持つ奴らが多いのかと、俺は変な感心をしていた。
だが、俺が本をどけるまでもなかった。
知恵の書が自らふわりと浮かび上がる。
『あぁ……なんだよ』
『チッ、期待外れだな』
チャット欄に落胆が広がる。
本の跡には、潰れた死体などなかった。
そこにあったのは、
一対の透明な羽と、淡い人型の影だけだ。
その影から、
淡いブルーの文字が浮かび上がる。
【ワイルド・ピクシーを撃破】
【Exp +15】
知恵の書が俺の前に飛んできて、
そのページを誇らしげに見せた。
そこには精緻なピクシーのイラストと、
データが記載されていた。
ワイルド・ピクシー Lv 1
HP 20 / MP 5
反応:9 / 筋力:2 / 霊感:5 / 運:4
ドロップ品:
N ???? 60%
R ピクシーの透明翼 20%
S ???? 15%
U ???? 4%
E ???? 1%
俺がデータを読み終え、
本が閉じられた瞬間。
視界に、あの見覚えのある選択肢が現れた。
『知恵の書の力により、
ワイルド・ピクシーを汝の——
化身、従者、それとも武装とするか?』
チャット欄は一気にヒートアップし、
視聴者数はついに一万人を突破した。
『次は「化身」だろ! さっきは従者だったしな』
『従者! 従者だ! 一匹連れて帰れ!』
『武装に決まってるだろ。武器がなきゃこの先やってけねえぞ』
『アンケートだ! 多数決で決めようぜ!』
『スパチャだスパチャ!
金を出した奴の意見が絶対だ!』
俺の意思などお構いなしに、
連中は勝手にスパチャで投票を始めた。
結局、今回も「従者」が圧勝した。
俺に異論はない。
金を出してくれる奴がいるなら、
従者にしてやろうじゃないか。
俺は宙に浮く文字に指先を伸ばした。
「……従者」
文字が輝き、
知恵の書が音を立ててページを捲る。
パラララッ——!
ページの間から淡いブルーの光が漏れ出し、迷宮の記憶を呼び覚ます。
地面に落ちていた人型の影が発光し、
細かな光の粒子が舞い上がった。
チャット欄が、一瞬で静まり返る。
次の瞬間——。
光の粒子が収束し、極めて冷静に、機械的に再構成されていく。
羽が線となり、線が骨組みを形作る。
骨組みに半透明の膜が張られ、
最後に色彩が流し込まれる。
まるで、
空中で行われる3Dプリントのようだ。
ジジッ……ジジッ……。
手のひらサイズの影が、
俺の前に降り立つ。
そいつはゆっくりと顔を上げた。
複眼は相変わらずだが、
そこにあった敵意は消え去っている。
触角がわずかに震え、
何かを受信しているかのようだ。
そいつは俺に向き直り、片膝をついた。
手には、相変わらずあの長槍が握られている。
脳内に、俺にしか見えない文字が浮かんだ。
【テイム完了】
【従者:ワイルド・ピクシー Lv 1】
チャット欄が爆発した。
『生き返った!?』
『マジかよ……』
『さっき本でブチ潰されてたよな!?』
『これ、マジモンの魔法じゃねえか!!』
若菜の声が、スマホから漏れ聞こえる。
「真澄……そいつ、あんたを見てる」
俺は視線を落とした。
その複眼に、俺の影が映っている。
やがて、そいつは極めて細い声で、最初の言葉を発した。
「……主」
その瞬間、
言いようのない重圧が俺を襲った。
俺はこいつの命を奪っただけでなく、
その形体すらも隷属させたのだ。
打倒した敵を分解、初期化、再定義し、
「俺のもの」にする。
小妖精は立ち上がり、羽を震わせた。
その羽音は、
もう警戒を強いるものではなかった。
そいつは俺の肩へと飛び乗り、
安定した姿勢で止まった。
視界の端に通知が出る——
【従者同期効果:反応 +1】
視聴者数は——14,892人。
まだ増え続けている。
俺はボソリと呟いた。
「……少なくとも、
これでスマホを持ってくれる奴ができたな」
肩の上の妖精はわずかに頭を下げ、
俺のスマホを両手で抱え込んだ。
カメラのレンズを、
しっかりと俺の顔に向ける。
戦いは終わった。
疲労はピークだ。
なんせ俺は一晩中働いた後、
一度も寝ていないのだから。
だが、現実は酷だ。
眠ることなんて許されない。
もし、この先も生きていたいなら——。
同期された「反応+1」の恩恵だろうか。
俺の耳は、近くで蠢く「別の羽音」を、
はっきりと捉えていた。
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この物語を気に入っていただけましたら、
ぜひたくさんおすすめしてください。
そして、少しでも励ましの言葉をいただけたら嬉しいです。
この物語を書き続ける価値があるのだと、
実感させてください。




