第10話 ピクシーの秘醸
再び目を開けた時、
視界が二重に重なっているようだった。
天井の亀裂、剥がれかけたペンキ、
そして壁に染み出したカビ。
部屋の中には、普段嗅ぐことのない清らかな香りが漂っていた——。
ここは、二年間住んでいる学生向けの一人暮らし用アパートだろうか?
頭の中には、
まだローズゴールドの翅、
数千匹のピクシーの絶叫、
連戦の末の虚脱感が残っている。
部屋が異常に片付いている……
どういうことだ?
幸はどこだ?
枕元のスマホが、
俺を休ませる気などないと言わんばかりに、
床の上で激しく震えている。
通知欄は完全にパンクしている。
大学の講義?
そんなもの、
とっくに記憶の彼方へ放り投げた。
バイト?
店長からの着信履歴は「22回」になっていた。
さらには、怒りから懇願へと変わっていく数通のメッセージ——。
「新田、お前、本当はあの配信に出てるんじゃないのか?」。
「……店長、
悪いが今回は、
自分で品出しするんだな♪」
そう思うと、
不思議と気分が晴れやかになった。
「真澄、起きた?
どこか具合悪いところはない?」
鈴を転がすような声に遮られた。
振り返ると、ベランダから取り込んだ大量の洗濯物を抱えた幸が部屋に入ってくるところだった。
彼女の指には、
まだ昨日の「幸運の指輪」がはまっている。
「悪いな、こんなことまでさせて」
少し決まりが悪かった。
「いいよ、ついでにやっただけだから。
あんたの部屋、
そんなに散らかってなかったし」
彼女は俺のベッドに腰掛け、
鼻歌を歌いながら服を畳み始めた。
メッセージアプリを開くと、
一番上に若菜からの連絡があった。
『真澄くん、起きたらすぐにこれを見て。
状況が大きすぎて、
私だけじゃ抑えきれなくなってる。』
そこにはクラウドシートのスクリーンショットと、オンライン銀行の入金通知が添えられていた。
『昨日の配信中から、戦利品の予約が殺到して裏側がパンクしたの。
特に【秘醸蜜】と【秘醸酒】。
跨国製薬グループや大学の研究所が、
言い値でいいから優先的に回してくれって、直接数百万の手数料を振り込んできてる。
一部はもう処理して、
お金はそっちに送っておいたわよ。』
震える手で口座残高を確認した。
あまりに長い「0」の羅列を数え終わった時、俺の呼吸は止まった。
一生バイトを続けても稼げないような数字だ。
俺は……これからの人生設計を、
根本からやり直すべきかもしれない。
「幸、お前の弟、
最近風邪気味だったよな?」
ポケットをまさぐると、
突如として一体のピクシー奴工が俺の手元に現れた。
彼は俺に、E級ドロップ——
『ピクシーの秘醸酒』を差し出した。
主である俺の思考を、
彼らは直接感知できるようだ。
そして生まれ持った『透明翼』により、
彼らはいつでもどこでも瞬間移動ができる。
RPGゲームの「容量無限のアイテムボックス」よりも、よっぽど便利じゃないか。
俺はピクシーの秘醸酒を、
幸の手に置いた。
「えっ! 嘘でしょ?
これ、すごく貴重なものじゃないの?」
彼女は目を丸くして瓶を見つめ、
小さな顔をしかめる。
「あ、ああ。
でも……ただの風邪だからな」
「……本当にいいの?
これ、
さっきオークションサイトで見たら、
数百万円の値がついてたよ」
「持っていけ。
昨日の夜、
俺を助けに飛び込んできたお前以上に、
これを受け取る資格がある奴なんていない」
俺は笑ってみせた。
「風邪に使うのがもったいないと思うなら、家で慢性病に悩んでるお年寄りにでも使ってくれ」
彼女の罪悪感が爆発する前に、
俺はさっきのピクシー奴工を見つめた。
「俺を連れて瞬間移動できるか?」
小さな奴工はこくりと頷いた。
幸も一緒に行けるか聞くと、
奴工は首を横に振った。
どうやら主だけの特権らしい。
俺は幸の頭をポンと叩いた。
「自分で帰れるな?
ちょっと遠出をしてくる」
「どこに? 私も一緒に行っていい?」
「まだその時じゃない……」
一昨日幸の告白を受けたばかりだ。
色々と進展が早すぎるのもよくない。
俺はピクシーの小さな手を握り、
目を閉じた。
脳裏に、あの泥だらけの山道、
古びているが清潔な平屋の光景を、
一片ずつ繋ぎ合わせていく。
空気が歪み始めた。
次の瞬間、
アパートの清らかな香りは消えていた。
再び目を開けた時、鼻腔は湿った土の香りと草木の匂いで満たされていた。
郷里の実家だ。
俺はピクシー奴工を下がらせ、
家の扉を開けた。
「ただいま」
「……真澄? あんた、どうして急に?」
キッチンからエプロン姿の母が出てきた。
驚愕の表情を浮かべている。
居間では、
父が顔をしかめて痛む膝をさすっていた。
長年の立ち仕事がたたった持病だ。
この二人は、
明らかに昨夜の配信を見ていない。
俺は今も東京で苦労して学んでいる息子のままだ。
「大学で高級な栄養剤をいくつか貰ったんだ。試しに飲んでみてくれ」
簡単な嘘を吐き、
二瓶の【秘醸酒】を取り出した。
父の苦悶の表情が瞬時に固まり、
やがて驚愕へと変わった。
「な、なんだこれ?
腰の重苦しさも消えた!」
興奮のあまり立ち上がり、
居間で二、三回飛び跳ねている。
母もまた、長年の疲れが一掃されたようで、
その瞳に輝きが戻っていた。
だが、
俺が一番気にしていたのはそこではない。
家の奥にある寝室へと向かった。
そこには、俺の祖母が座っていた。
深刻な認知症のせいで、
家族の顔すら分からなくなり、
ただ一日中窓の外をぼんやりと眺めているだけだった。
「ばあちゃん、俺だよ、真澄だ」
俺は【ピクシーの秘醸蜜】を取り出した。
迷宮ではMPを回復させる効果があったが、
これなら心智能力にも何らかの助けになるはずだと信じている。
俺は躊躇わず一匙を掬い、
祖母の口へと運んだ。
数秒後。
祖母の濁っていた瞳に、
ゆっくりと焦点が戻っていった。
彼女はゆっくりと首を回し、
俺の顔を見つめた。
その枯れ木のような手が震えながら持ち上がり、そっと俺の頬に触れた。
「……真澄かい。
あんた……なんだか少し痩せたかね?
東京のご飯は美味しくないのかい?」
地下城で数千の怪物を殺した時も泣かなかった。
銀行口座の数字を見た時も泣かなかった。
けれど、四年ぶりに聞くこの呼び声に、
俺はこの冒険のすべてが報われた気がした。
「うん、ばあちゃん。帰ってきたよ」
俺は祖母の手を握りしめ、
鼻の奥がツンとした。
居間では、父が痛みの消えた膝を母に自慢げに見せている。
もう少し、
この穏やかな時間に浸っていたかった。
だが、
ポケットの中の電話が再び震えだした。
何度も繰り返される「非通知」の着信。
ようやく鳴り止んだかと思えば、
今度は実家の固定電話が鳴り響いた。
「はい?」
母から怪訝な顔で受話器を受け取った。
『新田真澄さんですか!
ようやく繋がった!』
電話の向こうから、
疲弊しきった男の声が聞こえた。
下っ端公務員のようだ。
『警察庁特別対応チームの事務官です。
携帯が繋がらないので、
大学やバイト先、さらには若菜さんまで当たらせていただきました。
彼女も事態の深刻さを理解して、
ようやく教えてくれたんです!』
俺を探すために、身の回りの人間に嫌がらせのような真似を始めたらしい。
「用件を言え。
今、田舎にいてすぐには戻れないぞ」
『冗談を言っている場合じゃないんです!
東京駅……地下街付近で、
異常事態が発生しました』
「何があった? まさかまたピクシーか?」
『いえ、ピクシーではありません。
攻撃性の高い鳥類が大量に出現し、
通行人を無差別攻撃しています。
地下街の入口の一つで
「クラック」が発見されました。
あなたの配信に出ていた、
あの転送門のようなものです』
何かが起きている。
そしてこの様子では、
俺にしか対処できないのだろう。
俺はピクシー奴工を呼び出した。
「族母のところへ連れて行け」
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